第10話 白百合と旅籠飯
・前回のあらすじ
目には見えないウーパールーパーに全身を這い回られる悍ましい経験にも耐えきった姫騎士もといウルウ。
彼女を待ち受けていたのは満腹中枢を破壊せんと襲い掛かる旅籠飯であった。
バーノバーノさんと別れてお風呂屋を出ましたけれど、湯冷めしない法術などというなんとも胡散臭い謳い文句の法術も効き目は確かなようで、夜も更けて少し肌寒い初夏の夜気の中を歩いても、ぽかぽかと温かく全く冷えません。便利です。
ウルウが急かすのでちょっと速足で旅籠に戻ると、早速夕ご飯の支度をしてくれました。
部屋のテーブルには敷き布が敷かれ、
一品一品出してもらうのも落ち着いて食事ができてよいのですけれど、そういうお上品な食べ方は家にいるときだけで十分です。せっかくの旅の宿なのですから、普段できないことをしなくては。
給仕が次々に温かな料理を運び入れてくれ、支度が整ったところで、あとはいいからと目配せすると、用聞きのベルだけ残していってくれました。私は給仕され慣れていますけれど、不思議なことにウルウは育ちはよさそうなのに人に何かされるのに慣れていなさそうなんですよね。商人の出なのか、いやでもある程度いいところの商人なら給仕くらいはなあ、と少し考えたりしますけれど、まあ、でも、野暮ですよね、うん。
さてさてさて。それはともあれご飯です。
久方ぶりにきちんとしたご飯ですから楽しみです。
ウルウが何でもないように手酌で酒を注ごうとするので、慌てて取り上げて注いであげます。
なんかもうウルウの一人仕草がこなれ過ぎてていっそ哀れなくらいです。
とっとっとっ、と酒杯に
「
「……とすとん」
私が勢いをつけて小さく叫べば、ウルウもはにかむように小さく続いてくれました。本当に、もう、本当にウルウはずるいです。
私はちびりちびりと味わうように楽しむウルウを尻目に、泡立つ
ウルウが興味深そうに酒杯を覗き込んでいるので、私は少し得意になって、このあたりで採れる
ウルウはなんだかんだ言ってそういったこまごまとしたことに興味を抱いてくれて、私のつたない説明にもいちいち耳を傾けてくれるのでした。
そういえば、以前ウルウがくれた不思議な果実は、どこか
もちろん
ウルウが実に綺麗な手つきで食器を扱うのは、なんだか納得は納得ですけれど、不思議は不思議ではあります。さほど慣れている感じではないのですけれど、危うげなく器用に食べていますし、若干礼儀に疎いところはあるようですけれど、少なくとも見苦しいようなことはない及第点ですし、うーん、謎です。
謎と言えばこの前菜のタレも謎です。
緑
まあ手に入らないことを嘆くより今美味しく食べられることを喜びましょうえへへ。
とても濃厚な味わいで、疲れた体とぺたんこのお腹にはとてもうれしい一品です。
さらっと上品に仕上げた
ウルウがちょっと顔をしかめたのは
小さな口でもそもそと食べづらそうにしています。
もしかしたら柔らかく白い
確かに
もしウルウが南の方の生まれであまり慣れていないというのなら、この硬さや独特の酸味に苦手を感じてしまうのも無理はありません。私はウルウが慣れない食事で辛い思いをしないようにとそっと手を伸ばして
ウルウの顔は素直じゃなさすぎると思います。
美味しいと悪くないと好きじゃないの間が微妙過ぎます。
まあよろしいです。ウルウがこうしてご飯をおいしく食べられているというのならばそれが一番です。
昨日の木賃宿で
人間、美味しいものを食べている時が一番の幸せというものです。
さあ!
そして!
いまこそ!
その幸せの絶頂、この旅籠の名物のお出ましです!
分厚いお皿にドンと鎮座ましましたるこちらのお肉。
実は、あの
境の森の中で遭遇したあの
勿論、あの
森の中で食べた時は採れたてで、新鮮ではありましたけれど熟成はしていませんでした。お肉は腐りかけが一番おいしい、とまで言うのはやりすぎかもしれませんけれど、程よく熟成させた頃が確かにおいしいのです。
この旅籠では、専属の狩人が獲った
他で使う路銀を精一杯節約してでもこの旅籠に泊まるつもりだったのですけれど、それというのもこの名物を食べたいが一心だったのです。
そして名物とまで
ウルウも驚いた顔をしていますが、これだけ分厚いお肉なのに、何ととても柔らかいのです。小刀がすっと通って皿にカチンと当たるほど、とてつもなく柔らかいのです。硬い臭い旨いで評判の
この柔らかさこそが
その秘訣は旅籠の料理人たちに口伝でのみ伝えられている秘密だとかで詳しいことはわからないのですけれど、表面を焼いて旨味を閉じ込めた後、匂い消しも兼ねた香辛料と何種類かの野菜、香草類とともにじっくりことこと、とろっとろに柔らかくなるまで特殊な鍋で煮込み、崩さないように再度表面を鉄板で焼いて、特製のタレをかけて提供してくれるという、とても手の込んだ一品です。
まあ、これでも私、
その私の舌をうならせたら大したもんで「うまかーッ!!」
失敬。思わず魂の叫びが。
ウルウも目を丸くして見てきますけれど、しかし仕方がありません。
何しろ、美味しい。そりゃ舌もうなるどころか叫び出します。
小刀がするりと入るほど柔らかいお肉を切り分けて口に含むと、繊維が口の中でほろほろとほどけていくほど柔らかいんです。そしてただほどけていくだけじゃないんです。ほどけながらとろっとろの肉汁がとろっとろとろっとろうへへへへ。幸せが口の中で溢れます。
脂身なんかも驚くほど柔らかかくて、口の中でぷりっぷりぷるっぷるとした独特の食感で踊りながら、やがてフルフル溶けていくんです。大きく頬張ってぎゅむぎゅむっと噛み締めると、一瞬強い歯応えがあったっと思うと、ぶりゅんっとはじけて脂の強い味わいと、香辛料のぴりりとした辛味が来ます。
そして柔らかいばかりではないんです。
お肉をぎゅむっと噛み締めるとですね、繊維がほろほろと崩れていくんですけれど、その繊維一本一本は確かに力強いお肉のままなんです。それを奥歯でぎむぎむと噛み締めると、細い繊維の一本一本からまた滋味があふれてくるんです。
何しろお肉の味も濃厚なら肉汁の味も濃厚ですから、これだけの大きさだと食べ切る前に飽きが来ちゃうんじゃないかって少し不安になるんですけれど、そこで活躍してくれるのが、皿に添えられた二種の香辛料と一瓶の液体なんです。
まず一種類目の香辛料は、粗目に挽かれた灰色っぽい粒なんですけれど、これね、これ
二種類目の香辛料はもっとシンプルで、黄色くねっとりとした練り
私はたっぷりつけるのが好きですけれど、つけすぎたウルウは目を白黒させて
そして最後の一瓶ですけれど、これが一番シンプルで、一番身近で、そして一番効果がある、お酢です。それも
実は
このお酢をちょっとかけてやるとあら不思議。さっぱりとした味わいに再び食欲がわいてくるじゃあありませんか。
小食気味のウルウも、さすがにちょっと苦しそうではありますけれど見事完食して、脂でてかてかと光る唇をそっと拭っています。
「ブタノカクニっぽい」
よくわかりませんが大変ご満悦のようで私も幸せです。
美味しいお酒を頂いて、美味しいお肉を頂いて、そしてなんとこの後のお楽しみもあるのがお高い旅籠の素晴らしいところです。
私が呼び鈴を振って給仕を呼ぶと、さすがに手慣れたもの、察しておりますよと言わんばかりの顔で手早く食卓を片付け、そして食後のお茶と、お菓子を持ってきてくれました。
そう、お菓子!
きっちりお金を取る旅籠だけあって、きっちりとったお金分だけきっちり最後までもてなしてくれるのです!
街の宿でも食後のお菓子まで付くのは結構お高いところだけ。そこをしっかりともてなしてくれるこの旅籠は、実は旅してでも訪れたい宿として結構な人気だったりするのです。
さて、お茶は
そして気になるお菓子は、こちらも
皮をむいた
至高の存在に飾りなど要らぬと言わんばかりに、堂々と皿の上にただ一つ鎮座ましましたるこちらの《
不思議なことに一度干すことで甘さと旨味が増し、それをお酒に漬けることで、甘味だけでなく酒精の辛さとが合わさって大人の味わいになっています。
これらを絡めて、切り取った
ほう。
思わずため息が出るほどの幸せたっぷりの甘さです。
それも甘いばかりではありません。
また歯応えが独特で溜まりません。煮込んでいますから柔らかいは柔らかいのですけれど、崩れてしまうほどの柔らかさではなく、向こうが透けるんじゃないかというほどきれいな黄金色に均一に染まりながら、しゃくりしゃくりと確かに
そしてその合間合間に
今この瞬間、ここに
幸いと喜びに満ち溢れた、安らぎの世界がここに広がりました。
「リリオ」
「えへへぇ……」
「気持ち悪い」
「ぐへぇ」
釘を刺されてしまいました。
「リリオ」
「はい」
「お腹一杯だし、ちょっと私には甘すぎるからあげる」
「………」
「リリオ?」
「神はここにいまし……!」
「気持ち悪い」
「ぐへぇ」
用語解説
・
火の精の宿る橙色や赤色の結晶。暖炉や火山付近などで見つかる。
可燃物を与えると普通の火よりも長時間、または強く燃える。
希少な
・
・
赤い果皮に白い果実を持つ。酸味が強く、硬い。主に酒の原料にされるほか、加熱調理されたり、生食されたりする。森で採れるほか、北方では広く栽培もされている。
・
笹の葉状の幅広い葉を持つ野菜。やや苦味がある。生でサラダとして食べるほか、軽く加熱したりする。
・
分厚い果皮を持つ野菜。加熱すると柔らかくなり、甘味が強い。煮込むことが多いが、薄く切って焼いて食べることもある。料理のほか、甘味を利用して菓子の材料にもなる。
・
穀物の粉を水で練り、発酵させ、焼き上げたもの。つまりはパン。
・
いわゆる普通のパン。小麦の生育の悪い北方ではちょっとお高い。
・
ライ麦のような穀物をもとに作られたパン。黒っぽく、硬く、製粉も甘いが、栄養価はぼちぼち高い。
・
・《
ヴォースト直近の宿場町に店を構える
・
この世界にも胡椒や山椒、辛子といった香辛料が存在し、そしてそれなりに出回るくらいには廉価のようだ。
・
葡萄の取れる地域では葡萄酢が、米の取れる地域では米酢が盛んなように、林檎の栽培が盛んな北方では林檎酢が盛んなようだ。
・
いわゆるアップルティー。使う茶葉によって味わいが変わるが、《黄金の林檎亭》ではとろっと甘いデザートに合わせて渋めの茶葉を使っているようだ。
・
看板にも名を掲げる名物菓子。贅沢に林檎を丸々一つ使ったもので、こちらも門外不出のレシピ。貴族でもなかなか真似できないという。
・
黄金郷、理想郷、天国。
高品質の甘味が脳にもたらす幻覚。
・神はここにいまし
神は応えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます