最終話 ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ

中二病を盛大にまき散らして大人げなく一方的な殺戮を終えた閠。

どう考えても他に幾らでも方法があったよねという突込みは受け付けていない。





 目が覚めて、最初に思ったのはお腹が空いたなということでした。


 横たわったままぼんやりとしていると、木漏れ日がちかちかと目に入って、わずかに残っていた夢の残滓を少しずつ流し去っていきました。


 どうして寝ているのだろうと回らない頭で考えて、今朝食べた不思議な果実のこと、亡霊ファントーモのこと、森の景色などが順繰りに思い出されて行って、そして熊木菟ウルソストリゴのことを思い出した途端、私はがばりと起き上がりました。


 そうでした。私は確か、熊木菟ウルソストリゴの攻撃を受けたはずでした。


 見えない大槌、また或いは棘付きの鉄球、そしてまた或いは巨人の鉤爪で殴り抜かれたような衝撃が全身を襲い、体の中から致命的な音が聞こえたはずでした。しかし見下ろす体はいたって健康で、ぺたぺた触ってみても痛みを感じないどころか、骨が折れた様子もありません。飛龍革の鎧には私が吐き出したのであろう血がこびりついていましたけれど、私自身の肌には裂けたところの一つも見当たりません。


 口の中の血の味や、鎧に残る血の跡が、あれは夢などではなかったと確かに言っているにもかかわらず、私自身はまるで何事もなかったかのようにけろりとしているのですから、私が考えることを放棄してのそのそ起き上がったのは仕方のない話だと思います。もとより私はあまり頭の回転がよろしい方ではないのです。


 込み上げてくるものがあって、けほけほげほげほげーおえっほと咳き込むと、どろりとした赤黒い血の塊がびちゃりと落ちましたけれど、それは今しがた出血したというよりも、体の中にたまっていたものが吐き出されたという具合でした。


 また鼻がかさかさするので手鼻を切ると、乾燥して乾いた鼻血が飛び出ていきました。なんというか現実感に乏しいのでいまいち実感がわかないのですけれど、これってかなり大怪我してたのではないでしょうか、やっぱり。


 寝起きで普段以上に回らない頭を巡らせてみると、少し離れた木立に熊木菟ウルソストリゴの姿が見えて思わず身構えましたけれど、糸の切れた操り人形のように転がる巨体からは生命の気配がまるで感じられず、冷静になって周囲を窺えば、濃密な魔力によって殺されていた音は元に戻り、森のざわめきが聞こえていました。


 いったい何があったというのでしょうか。


 見上げてみれば、森の木々が深いためはっきりとはわかりませんが、お日様の位置からしてもそれほど時間がたったようには思えません。それこそ、つい転寝うたたねをしてしまってはっと目が覚めたら何もかも終わってしまっていたような、そんな具合でした。


 夢。


 そういえば夢の中で、亡霊ファントーモの姿を見たような気がしました。


 私ははっとして、慌ててあたりを見回しました。私は彼女を突き飛ばして助けようとしたのですけれど、あの後どうなったのでしょうか。


 幸い彼女の姿はすぐに見つかりました。

 少し離れた木陰に腰を下ろして、皮張りの本のようなものに目を落としていました。

 頭巾を下ろして長く豊かな黒髪を肩口に流し、時折顔にかかる髪を煩わしげにかきあげる姿は、ちらちらと光を落とす木漏れ日もあって、一幅の絵画か何かのように静かな調和を持っていました。


 その静かな調和に突進を仕掛けたところ、全力で回避されて木肌に顔面からご挨拶と相成りました。


「なんで避けるんですか!?」

「そりゃ避けるよ」


 頭突きで盛大に砕け散った木肌を頭を振るって払っていると、意外にも返事が返ってきました。

 見上げれば、呆れたように本を閉じ、外套の下にしまう亡霊ファントーモの姿が確かにありました。確かにそこに佇んでいました。


 なんだかそのことがしみじみと胸の中に染み入ってきて、木に体を預けるようにずるずると脱力し、気づけばほろほろと涙がこぼれては止まらなくなっていました。


「……悪かったよ」

「ち、違うんです」

「何が」

「よ、よか、よかったなあって」

「はあ?」

「あ、安心したら、気が、抜けちゃって」


 もしも気を失った後、亡霊ファントーモ熊木菟ウルソストリゴにやられてしまっていたら、たとえ今元気でも、きっとすごく後悔したことでしょう。彼女がこうして元気でいることに、たまらなくほっとしたのです。そういうことをつっかえつっかえ涙交じりに鼻水交じりに説明したところ、彼女は呆れたように困ったように顔をしかめて、それから手巾てふきを寄越してくれました。


 私は流れる涙を拭って目元を抑え、涙が収まってきたのでちーんと鼻をかみ、ようやく落ち着いてきました。手巾を返そうとするととても嫌そうな顔で「いらない。あげる」と言われてしまいました。肌触りもいいしとても良い品のようですけれど、いいのでしょうか。断固として固辞されたので仕方なく下服の隠しに押し込みます。


 さて。

 落ち着いたので再度腰のあたりを狙って組み付こうとしたのですけれど、やはりひらりとかわされました。


「なんで避けるんですか!?」

「今しがた自然破壊した威力でタックルなんぞされてたまるか」

「納得の理由!」


 うっかり実家のノリでじゃれついてしまいましたけれど、考えてみれば私は力に関しては結構恩恵が強いようなので、手加減なしに体当たりしては危なかったかもしれません。


 仕方がないので抱き着くのは諦めるとして、距離を取られた分ゆっくりと歩み寄って見上げてみます。亡霊ファントーモも危険がなければそのくらいは許してくれるようで、じっと見降ろしてきます。


「あの、助けて、貰ったんですよね。良くは覚えていないんですけれど」

「…………まあ、そうなるかな」


 何故だか目をそらされながらそんな風に言われました。


 どうやったのかはわかりませんけれど、熊木菟ウルソストリゴを倒したのも彼女でしょうし、致命傷を負っていた私をきれいさっぱり治してくれたのも、きっと彼女なのでしょう。


 私はどうしてなのかと尋ねました。


「どうしてって?」

「あなたにとって私は、森の中でたまたま出会った見ず知らずの旅人です。それなのに、どうして熊木菟ウルソストリゴのような危険な魔獣に立ち向かったり、きっと貴重な霊薬などで癒してくれたのですか?」


 亡霊ファントーモは困ったようにしばらく考えて、それから答える代わりに、私に問いかけました。


「じゃあ君は、どうして私を助けてくれたの?」

「え?」

「危ない、って。君は私を押しのけて助けてくれた。そうしなければ、避けれたんじゃないの」


 それは、そうでした。私一人なら、熊木菟ウルソストリゴの初撃は避けられたことでしょう。その後の立ち回り次第ですけれど、逃げ切ることも、できなくはなかったとは思います。


 でもあの時は咄嗟のことですし、結局、私が何もしなくても、きっと亡霊ファントーモは平気だったことでしょう。さっきの調子で熊木菟ウルソストリゴの攻撃なんてひょいひょいとかわしてしまったことでしょう。


 そのように言うと、彼女は静かに首を振りました。


「私にとっては確かに大した相手じゃなかった。でも君にとってはそうじゃあなかった。君こそ、見ず知らずの私の為に、それもずっと後を付け回す怪しい相手の為に、命を懸けた。しようとしたことは同じかもしれないけど、かけた労力リソースは段違いだ」


 どうして、と静かに見下ろす亡霊ファントーモに、私は少し考えました。考えましたけれど、うまく言葉にまとまりませんでした。本当にあの時は、体が勝手に動いたとしか言えないのです。

 咄嗟。そう、本当に咄嗟のことでした。私がもう少し弁がたつのでしたらきっとうまく説明できたのでしょうけれど、しかし私にはつっかえつっかえ拙い言葉を編む他ありませんでした。


「ええと、なんていうか、嫌だったんです」

「嫌?」

「あなたがあんなに身軽だとは知らなかったですし、それに、知っていたとしても、きっと同じことをしたと思います。あなたはどう思っていたかわかりませんけれど、私は、あなたのこと、少しの間だけですけれど、旅の仲間だと思っていました」

「旅の、仲間? 私が? 君の?」

「ええ、ええ、そうです。最初は妙な影がずっとついてくるものですから、なんだか不気味だなあ、不思議なあって思ってました。でも、私も寂しかったですし、一緒にいてくれるんだって思ったら、少し心強くなって、亡霊ファントーモでもいいから、このまま一緒に来てくれないかなって、そう思い始めてて」


 それで、それで、と追い付かない言葉を手元でぐしゃぐしゃまとめて、私は何とか続けていきます。


「それで、嫌だったんです。熊木菟ウルソストリゴが腕を振りかぶって、何か来るなってわかりました。それで、もし亡霊ファントーモが怪我したら嫌だなって、そう思ったら、体が勝手に動いてたんです。理由なんかわからないですけど、でも、とにかく嫌だったんです。だから」


 、と理由も根拠もなく言い切れば、亡霊ファントーモは少しの間顔をしかめて、それからゆっくりとため息を吐きました。


「君が馬鹿なのはわかった」

「ひどい!?」

「私が君を助けたのは、庇われておきながら何も返さないのでは筋が通らないから。君がこのまま死んでしまっては森を出る道がわからないから。君がいると食べられるものがわかるから。勝手がわからない状態で水先案内人がいるのは助かるから」


 私と違って、亡霊ファントーモは淡々と端的に理由を指折り数えて、それから極めて不本意そうにため息を吐いて、頭巾を被り直しました。


「それからふざけるなって思ったからさ」

「え?

「嫌だっていうのに理由なんかいらないんだろう?」


 最後にそのように付け足して、亡霊ファントーモは頭巾の下に顔を隠してしまいました。私は彼女のことをまだ全然知らないままでしたけれど、それでもこの瞬間、わかることがありました。それは彼女が存外に含羞の人で、自分の発言にはにかんでいるということでした。


 このわかりにくい仕草になんとも言えない愛らしさを感じていると、亡霊ファントーモは私を追い立てるようにして言いました。


「ほら、早く進め。森を出る前に日が暮れてしまう」


 そうでした。私は慌てて荷物をしっかり背負い直して歩き始めましたけれど、しかし、足取りはどうにも重いものです。


 疲れは不思議とありません。痛みも全くありません。けれど、そうだ、もう森を出てしまうのかと思うと、進むのが途端に億劫おっくうになってくるのでした。それというのも、亡霊ファントーモが森を出ることを目的としていることがわかったからでした。わかってしまったからでした。


 いままでも漠然と森を出るまでの付き合いだとは思っていました。しかしそれが確定してしまうと、私ははっきり決まってしまったお別れの時が無性に嫌になったのでした。もとより情に厚いことを長所でも短所でもあるとして言われてきた私です。その悪いところがはっきりと出てきて、ぐずぐずと足をとどめるのです。


 亡霊ファントーモは何とも思わないのでしょうか。

 そりゃあまあ、旅の連れなんて私の方で勝手に思っていることです。でも一緒に旅をして、一緒のご飯を食べて、私は気を失っていたとはいえ一緒の危険を潜り抜けたのです。もう少し何か思うところはないのでしょうか。


 そのような気持ちですねたように振り向くと、亡霊ファントーモはがりがりと乱雑に頭をかいて、それから私に合わせるように少し身をかがめて、言いました。


「私はね。人間が嫌いなんだ」


 お前が嫌いだと言われたような気持ちで、私は胸が痛むのを感じました。


「人間が嫌いで、人間と話すのも嫌いで、人間と関わるのが嫌いで、嫌いで、大嫌いで、大大嫌いで、大大大嫌いだ」


 さくりさくりと、言葉の刃が私の胸をうがちます。


「だから、私は自分自身も嫌いだ。嫌いで嫌いでたまらない。自分が人間であることを思い出させるからなおさら人間が嫌いでたまらない」


 俯きそうになる私の頭に、でも、とその声は不思議と柔らかく降ってきました。


「人間が紡ぐ物語が、時にひどく美しいことも知っている。悍ましいばかりの悲劇の中に、それでもなお輝くものがあることを、残念なことに私は知ってしまっている」


 酷く不本意そうにため息を吐いて、それから彼女の手がそっと私の頭に載せられました。


「君がであるならば、君がであるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない」


 不意打ち、でした。


 きっと彼女にそんなつもりなどなかったのでしょう。


 けれど。

 それでも。

 だけれども。


 呆れたように困ったように、諭すように宥めるように、そっと柔らかく降ってきたその微笑みは、私の胸を確かに射貫いたのでした。


「きっと! きっとします! なります!」


 現金な反応ではありましたけれど、しかし確かに私はやる気を取り戻し、そしてじゃあさっさと進めと蹴り飛ばされたのでした。


 このようにして、亡霊と白百合の旅は確かにここに始まったのでした。







用語解説


・恩恵

 生き物が自然に持ち合わせる魔力によって身体能力などに補正がかかること。達人と呼ばれる者たちはこの補正が極めて大きく、見た目通りとは言えない能力を持つことが少なくない。


・霊薬

 癒しの魔法を込めた薬品や、特殊な素材・製法で精錬された回復薬の類の総称。高価。


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