『貴方は悪くない』 / 二島 空二

 落ちる木の葉は枯れ木の哀しみだ。秋の冷たい風を頬に感じながらそんなことを考えた。日が落ちかけた通りをゆっくりと歩く時間は、思考の歯車を意味もなく動かすにはうってつけだ。秋、冷たい風、木の葉、哀しみ。多くの言葉が数珠のように繋がり、くるくると回っている。

 私は隣を歩く要を見た。ヒールを履いた私より少し背の高い要を見上げるために、首を傾ける。その動きに気付いたのか、要が私を見て微笑む。

 「何」

 「なんでもない、ちょっと考え事」

 「美穂はいつも何か考えている感じがするね」

 要が表情はそのままで前に視線を戻しながら答えた。十センチ程切った私の髪に気付く様子は全くない。長い低空飛行だな、と私は呆れてしまった。

 「みんないつだって何か考えているわ」

 「少なくとも僕のそれとは違う気がする。僕の考えには中身がないよ」

 強い風が枯葉を運んで行った。二人でその枯葉を目で追った。枯葉が地面に擦れて、カラカラと音がしている。

 「なんだか物悲しいね」

 要がポツリと呟いた。二人で同じ液体に一緒に肩まで浸かっているような感じがする。要と過ごす時間の大半がそういう時間だった。互いが似たようなことを考えて、似たようなことを感じる。その時間自体は嫌いではなかったが、少しも疑問を抱けない自分に少々焦りを感じていた。花壇に植えられたケイトウの鮮やかさは、今の私の眼には馬鹿にされているようにしか映らない。



 気付いたら美術館に着いていた。平日はやはり人が少ないらしく、受付の女性以外に人は見当たらなかった。要はポケットからチケットを二枚取り出し、女性に手渡した。女性は慣れた様子で簡単な説明をしながら、順路の入り口まで私達を案内してくれた。

 特に芸術に興味があるわけではないが、興味がないおかげで芸術を外側から観察することができる。何かを深く感じるわけでもなく、技法に感嘆の声を上げるわけでもない。だけど、私の中には確実に何かが降り積もっている。その確かな蓄積を感じながらゆっくりと館内を歩く。全体的にクリーム色の館内に空調の音だけがぼんやりと響いている。なるべく足音を出さないように歩くが難しい。ヒールを打つ高い音が響く。いつもはほとんど身を乗り出すことなく遠目に作品を見るだけなのだが、ある一枚の絵の前で私は思わず眼を凝らしてしまった。

 その絵には醜い女が描かれていた。

 場所は独房らしい。硬そうなベッドと汚い洋式の便座だけが室内にあり、鉄格子がついた小さな窓からは三日月が独房をのぞいている。薄い光が女の背後の空間だけを照らしていて、女はそんな光を嫌うように部屋の隅にいる。薄い色で描かれている周囲に対してその女だけが荒々しく、何度も絵の具を塗り直したように描かれている。眼を大きく広げ涙を流し、口を引きつらせながらスプーンで何かを食べている。その表情からは後悔が見て取れる。

 「何で独房に入っていると思う?」

 隣にいる要が聞いてきた。その私語は、誰に咎められるわけでもないし周囲の話し声によって薄められることもない。

 「何か罪を犯したのかな……わからないわ」

 私は思った通りに答えた。独房に入っているのだから、何か罪を犯したのは確かだと思うが、それから先のことは私にはわからない。

 「そうなんだろうね。でも、何であんな……悔しそうな表情をしているんだろう」

 「自分の罪に対して後悔している、ということなんじゃないかしら。犯した罪ってずっと心に残ってしまうものだと思うの」

 要は顎をさすりながらその絵を静かな眼で観察した。綺麗で澄んだ眼だ。空を見上げる時、本を読む時、考え事をしている時、映画を観ている時。彼はしばしばそういう眼をしていた。

 彼はしばらくすると眼をこすりながら伸びをして、次の絵へとゆっくり歩みを進めていった。要の足音が響く。私は要の背中を見ながら、彼はさっき口にしたようなことを考えながら絵を眺めているのだろうな、と思った。

 もう一度絵に視線を戻す。絵自体に特に魅力を感じるわけではないが、その女性のことがどうも気になった。よく見ると、その女性はかなり若い。表情が歪んでいる為に年を取って見えるが、恐らく美穂と同じ位、二十代後半だろう。アジア系の顔つきで少し釣りあがった眼に、上唇に比べて厚い下唇……私は眉をひそめた。表情に邪魔されて気付かなかったが目鼻立ちが私に似ている。


 「美穂」

 当然声を掛けられて思わず肩が跳ねてしまった。女性の声だ。静かな館内の雰囲気と違い、声は明るくキラキラしていた。少し息を吸って振り返る。動揺が顔に出てしまったのだろう、相手は苦笑いを浮かべている。

 「忘れちゃったの」

 彼女は困ったように鼻の頭を掻いている。私は彼女の顔を見て思わず笑みを浮かべてしまった。

 「ごめんなさい、思い出せないの。昔から人の顔と名前を覚えるのがとても苦手なの。本当にごめんなさい」

 「意地悪なのね、忘れたなんて悲しいこと言わないで」

 藍は悪戯っぽく笑う。その笑い方が昔のままで、私は思わず苦笑してしまった。

 「本当に久しぶりね。大学を卒業して以来じゃないかしら」

 「人違いだったらどうしようかと思った…… そうね、五年ぶり位かしら」

 藍は相変わらず可愛らしかった。一緒にいた頃と同じで花が咲く様に笑うし、ハキハキと喋る。

 「どうしてここにいるの? 東京で就職したんじゃなかったかしら」

 「今年の春に異動になったの。今は市内で働いてて、家もその近く」

 市内からこの美術館があるこの町まで二十分ほどかかる。藍に美術鑑賞の趣味があるとは驚きだ。

 「今日は美術館の為にわざわざこっちに来たの?」

 「そんなわけないじゃない。美穂の家がこの辺りだったなって思い出したのよ。ひょっとしたらばったり会えるかなと思って」

 「転勤する時に連絡してくれればよかったじゃない。もっと早く会えたはずよ」

 呆れる私の言葉を躱して、藍は鼻を鳴らした。

 「そんなのつまらないわ。偶然の方が運命を感じるでしょ。おかげで半年もかかっちゃったけど」

 藍は飄々としている。

 「彼は? 旦那さん?」

 藍は離れた所にいる要を見て尋ねてきた。要は珍しく話が弾んでいる私を不思議そうに見て、藍の視線に気付きはにかんで会釈をした。

 「まさか。結婚なんてまだ考えられないわ。付き合って三年になるけど、そういう話もしたことがないし」

 「そうなんだ。かなりシャイな人みたいね。挨拶してもいい?」

 藍は私の返事を待たずに、再び絵に視線を戻してしまった要にさっさと歩み寄っていった。要はシャイというより話下手の聞き上手だから、藍とは気が合うかもしれない。私は藍の後を追おうとした。その時、急に絡みつくような視線を感じて体が強張った。さっきまで見ていた絵の中の女性だ。手元を見ている彼女から、一瞬だけ確かに視線を感じた。動揺でその場から動けなくなってしまい、私はその女性を見ることしかできなかった。




 私が通っていた大学は山の上にあり、冬になるとよく雪が積もった。藍との出会いはそんな冬の日のことだった。


 春休みに入ったキャンパスにほとんど人の姿は無い。私は大学の雰囲気が好きだったし、特にすることもなかったので靴から伝わる雪の感触を楽しんでいた。誰が作ったかわからない雪玉や雪だるまが道の隅の方にちらほらと見える。人が手を加えない方が綺麗なのに、と思わずため息をついた。均一に降り積もった雪を乱してまで作る価値がある物だとは、私にはどうしても思えなかった。雪だるまは、綺麗じゃない。降る雪は、綺麗だ。足跡は、綺麗じゃないな。一面の銀世界は私を潔癖にしてしまったらしい。前を歩いているカップルの女性がハンカチを落とした。これは少し美しいかもしれない。ちらりとカップルを見る。二人は体を寄せ合って互いを暖めあっている。後ろを歩く私と、落し物にも気付いていないだろう。ハンカチが徐々に私に近付いてくる。雪の白にその緑はよく映えていた。絵の具のように溶け出すことはなく、そのままの色でそこにあり続けている。私はぐっと視界を上げ、大股で歩き続ける。昔読んだ『ふきのとう』の詩を思い出していた。雪に埋もれて春を待つハンカチは、持ち主の手に帰れるのだろうか。私は寒がっているハンカチを想像して思わず頬を緩めた。その時、不意にコートの裾を引っ張られた。

 「あの、落としましたよ」

 見ると、緑色のハンカチを持った女性が立っていた。

 「ありがとう」

 私はよく考えもせずにそのハンカチを受け取ってしまった。

 「雪って良いですよね。落としたハンカチも。運命って感じがする」

 藍は太陽のように笑っていた。




 あのハンカチはあの後どうしたんだったか、思い出せない。ちょっとした勘違いが私たちの出会いだった。あの時、私がハンカチを拾っていたら、藍には出会っていなかっただろう。

 「パワフルな人だね、藍さん」

 私は鏡から眼を放し、要のほうに体を向けた。昨日は美術館を出た後すぐに藍と別れ、要はそのまま私の家に泊まった。要の家は藍と同じく市内で、私の家は美術館から近い。要は知り合ったばかりの女性と帰路を共にできるタイプではないので、自然と私の家に来ることになった。確認するように私の眼を覗きこむ要は、まるで小動物のようだった。

 「そうね。結構気が合うんじゃない?」

 「美穂と合うなら僕とも合うよ」

 要はシャツのボタンを留めながら答えた。今日は昼から仕事があるので、要は十分ほどで家を出ないといけない。

 「私も途中まで一緒に行くわ。藍とランチの約束をしたの」

 私はベランダに出て大きく伸びをした。空は快晴で、陽の光がとても暖かい。私のアパートは狭いワンルームだがベランダが広く、高台にあるので空がとても綺麗に見える。澄んだ空気を大きく吸い込む。

 「再開したのは昨日なのに。仲良しだね」

 要も着替え終わってベランダに出てきた。気持ち良さそうに眼を細めている。

 「大学生の時、毎日一緒にいたからね。東京に行っちゃうって聞いて寂しかったわ。でも、どうせどこかで会えると思って連絡したことはなかった」

 「いい関係だね」

 要はなんだか嬉しそうにしている。そのまま二人でしばらく黙っていたが、要が急に私の顔を覗きこんできた。

 「どうしたの?」

 「いや、昨日美術館を出た後からちょっと変だったから。今日は大丈夫そうだね」

 私は絵の女性を思い出した。昨日ほどの強烈な不快感はないが、やはり気分はよくない。

 「昨日見た絵が気になってね。ちょっと考え込んじゃったの。変だった?」

 「いや、いつもに増して口数が少なかったから」

 「昨日藍に、要は旦那さんかって聞かれたよ」

 要はピクリと眉を動かした。私自身、何で今そんなことを言ったのかわからない。あの絵の話題を避けたかったのもあるが、あまりに唐突過ぎる。要はこっちを見ていないが驚いているのが雰囲気だけでもわかる。失敗だったかな、と私は少し後悔した。

 「そっか、傍目から見たら確かに夫婦に見えるかもね」

 要は腕組みをしてチラッと腕時計を見た。思った通りの反応だった。

 「まぁ、そうね」

 私は部屋に戻ってコートを着た。何を期待していたわけでもないが、ここに留まっていてはいけない気がした。

 「そろそろ出ないと間に合わないよ。窓、鍵閉めてね」

 私は玄関を出た。



 藍とはカフェで待ち合わせた。大通りから少し外れていて、落ち着いた雰囲気の店だった。BGMは『枯葉』、表記は『Autumn Leaves』だろうか。力強い女性ヴォーカルが歌っている。名前は何だっただろう…… 藍が来るまで少し時間があったので、コーヒーを一杯頼んで入り口に近い席に座る。要とはあの後あまり喋らなかった。言わなければよかったな。別に深い意味もないし現状に不満があるわけでもない。要と私は良い関係だと思う。要のことはもちろん好きだし、要からの好意を感じることもできる。価値観も似ていると思う。でも、何かが足りないのだろうか。要か、それとも私か。コーヒーに白が溶けていく。スプーンでかき混ぜると、綺麗な白茶色になった。混ざって溶け合って、一つになるのは簡単なことなのだろうか。

 カランカランと扉が開いて、藍が入ってきた。赤ニットにチェックのパンツ。秋らしい落ち着いた色合いだ。

 「お待たせ。昨日ぶりね」

 藍は席に着くと直ぐにメニューを広げた。

 「ここ、オムライスがとってもおいしいの。美穂もそれにしない?」

 「うん」

 私が軽く頷くと、藍は満足げに微笑んだ。ウェイターにオムライスを二つ注文して、テーブルの上のコーヒーを不思議そうに覗きこむ。

 「紅茶派じゃなかったっけ。コーヒーを飲んでいるところ、初めて見たわ」

 「そうだったかしら」

 確かに昔はコーヒーなんて飲んでいなかった。恐らく要に出会ってからだろう。カップに視線を落として両手でそれを包み込む。

 「要さんの影響?」

 言い当てられて妙な気分になって、思わず視線を上げた。藍は得意げに笑っている。久しぶりに会ったこのかわいい友人は、私のことを誰よりも理解している気がする。

 「影響って言うほど、大それたものじゃないわ。要がよく飲むのよ」

 「そういうのを影響って言うの。二人の出会いは?」

 言い返す言葉全てが藍の脇をすり抜けていく。これが彼女の才能なのかもしれない。飄々と風のようでいて、燦々と太陽のように笑う。

 「別に面白い話じゃないわよ。店員と客、それからお店の外でも会うようになって今の関係になった。それだけよ」

 ブーゲンビリアとかライラックとか、淡い色の花を好んで買っていた。週に二回程度やってきて、ゆっくりすることなく花を買って行く。それが要だった。

 「運命的ね。花屋の店員と客、最高だわ」

 満足げな藍に私は呆れてしまった。

 「こんな話有り触れてるわ。たまたま眼に入って、好意が愛情に変わったと思い込む。よくある話よ」

 藍は頬杖をついてゆっくりと身を乗り出してきた。

 「本気でそう思ってるの?」

 小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。私は眼を逸らしてしまった。BGMが『Take Five』に切り替わる。ピアノ・メインの弾むような曲調。

 「花屋に週何回も通うなんて、なかなか無いよ。綺麗な店員さんに一目惚れしたくらいしか考えられないわ。あんなにシャイな人なんだから、相当勇気がいるはずよね。随分可愛らしいじゃない」

 藍は得意げだ。

 「三年も一緒にいて、ずっと始めの関係から変わらないのよ。疑いたくもなるわ」

 「美穂は全然わかってない。世の中そういう関係を望んでる人達がどれだけいると思ってるの。そんなの悩むようなことじゃないのよ。幸せね」

 私は自分が急に子供になったように思えて恥ずかしくなった。要が買った花の意味を思い出し、少し胸が落ち着く。

 「藍にこんなことで説教されると思って無かったわ。顔に出てたかしら?」

 「大体わかるわよ。焦る気持ちもモヤモヤするのも。でも、そんなの通過点よ。ただ今じゃないってそれだけ」

 藍は話に決着をつけるように一つ手をたたいて見せた。

 「それより、私の話も聞いてよね。会ってからずっと美穂の話ばっかりでつまらない」

 私は藍に心の中で小さくお礼を言った。解決にはなっていないかもしれないが、私の心は落ち着きを取り戻していた。焦る必要は無い、ゆっくりと時間が過ぎるのを待っていよう。




 クリスマスから年末年始、イベントが近付くと人々は自然に浮き足立つし忙しくもなる。私は世間が慌しくなっていくのを感じた。通りを歩く人達の様子をぼんやりと眺める。こんな時に下を向いて歩きたくなる気持もわかるけど、空を見上げれば綺麗な星空が見えますよ、とか気取ったことを言ってみる。今日は私の誕生日だから、要が店に来ることがわかっていた。連絡をしてきたわけでは無いが、三年間ずっと続いている習慣のようなものだ。二十一時を過ぎて、客足が途絶えた。

 「あと、三十分位かな」

 私は店先に出した花を少しずつ片付ける。夜空を見上げると星が綺麗だ。駅の明かりに邪魔されて少し薄れてはいるが、オリオン座が高い位置にくっきりと見える。



 「まだ、開いてますか」

 微かな煙草の香りと共に、男が店に入ってきた。スーツに厚手のコート、顔の下半分はマフラーに隠れている。

 「ええ。どんな花をお探しですか」

 男はポケットから文庫本を取り出し、数ページ捲る。

 「キキョウの花は置いていますか?」

 「キキョウは……ごめんなさい、季節じゃないから、今はありません」

 「そうですか。ではスターチスはどうでしょうか」

 私は男の脇を手で指した。

 「そちらに」

 男はしげしげと花を眺めた。少しだけ要に似ているが、歳は四十代半ばだろうか、しっかりとした貫禄が備わっていた。

 「これで花束を作って頂けませんか」

 私は適当な量を手に取り、直ぐに準備を始めた。男はさっきの文庫本を開いて読み出した。私が椅子を勧めると小さく会釈をした。


 「キキョウの花、季節じゃないんですね」

 男は文庫本が一段落ついたと見え、文庫本をパタンと閉じて私に話しかけてきた。花束は既に出来上がっていたが、男の不思議な雰囲気につられその問いに応じた。

 「キキョウは夏か秋の花ですから。お好きなんですか?」

 「いえ、これに出てきたもので。どんな花なのかな、と」

 男は少し文庫本を掲げて見せ、すぐにポケットにしまった。

 「キキョウは紫色の綺麗な花ですよ。開くと星のような形になります」

 「花言葉は、永遠の愛」

 男がポツリと呟く。ゆっくり目を閉じて、手を広げたり閉じたりしている。

 「贈り物ですか?」

 「ええ、妻に」

 男は照れたように笑った。

 「僕は仕事人間だったから、贈り物はほとんどしたことがなかったんですよ。妻と一緒にいる時間は長かったんですけどね……」

 男は私の視線に気付き、付け足す。

 「絵描きをやっています。妻にはよくモデルになってもらっていました」

 私は美術館にあった絵の女性を思い出した。数日後にもう一度見に行ったが、あの絵はもう飾られていなかった。

 「奥さんは幸せ者ですね」

 私は手元のスターチスを見た。男は困ったように笑い首を傾げた。

 「そうだったのでしょうか。妻は僕には勿体ないくらい美しい人でした。そして、誰よりも知的で思慮深かった」

 男はどこか遠くを見ている。

 「妻を書いた絵を見せるとね、『あなたは私のことをよくわかってる』って言って笑うんですよ。実際は絵を通してしか彼女を見ていなかっただけなんですがね。僕が妻を本質的に理解したのは本当に最近です」

 私も男も、しばらく黙っていた。何か男に言うべきことがある気がするが上手く言葉が出てこなかった。男が何かを待つように私を見ている。私は何度も口を開き、何も言わないまま口を閉じてしまう。男は優しく微笑み、ゆっくりと椅子から腰を上げた。

 「長居をしすぎました」

 男は代金を払うと、花束を持って出口に向かって歩き出した。その背中に向かって私は黙ったまま頭を下げた。

 「あなたは妻によく似ています」

 私は驚いて顔を上げたが、男は振り向くことなく店を後にした。



 要が藍を連れて店に来たのは二十一時半を少し過ぎた頃だった。思わぬ藍の登場に驚いた私に気付いたのか、要は苦笑いを浮かべた。

 「この間、職場の近くでたまたま会ってね。美穂の誕生日のことを言ったら、どうしても一緒に行きたいって言うから……」

 「心配しなくても、これだけ渡したらすぐ帰るよ」

 藍はリボンのついた小さな包みを私に手渡した。藍は無邪気に笑っている。その様子に、私は肩の力を抜いてしまう。

 「開けてもいい?」

 「だめだめ、恥ずかしいから帰ってから開けてよ」

 藍は頬を染めて手を振っている。友人にプレゼントをあげることに、恥ずかしさがあるのだろうか。そのハテナが顔に出ていたのだろう、藍は少しむくれて見せた。

 「要さんは私の気持ち、わかってくれるよね?」

 「僕も美穂と同じで恥ずかしいとかそういうのはよくわからないかな」

 要は申し訳なさそうに鼻の頭を掻いている。藍は大きくため息をついて要の肩をゆする。

 「要さんは女心がわかってないな……」

 要は困ったように、それでいて嬉しそうに笑っている。要の肩に不自然なくらい自然に置かれた藍の手に、引っかかりを感じたのは恐らく私だけだろう。要は女心がわからないのだから。

 「やっぱり熟年カップルは勝てないね」

 藍はそう言って呆れた様子でマフラーを巻き直し、帰る素振りを見せた。柔らかそうな髪から柑橘系の香りが広がる。

 「ゆっくりしていかないの?」

 要は私より早く藍を引き止めた。要が藍にかけた言葉は私が言おうとしたものと同じだったが、含む意味は大きく違う気がする。

 「明日早いし、直接プレゼントを渡せただけで満足だから。また時間がある時にゆっくり食事でもしましょう」

 藍は支度を終えると軽く手を振った。

 「誕生日おめでとう。これからもよろしくね」

 そう言うと、ヒールの音を高らかに鳴らし、駅に向かって歩き出した。遠目にも藍のハイヒールは赤く映えていた。藍の姿が駅の中に消えると、私は店の看板OPENからCIOSEに変えた。店内で花を見ている要のもとに戻る前に仕事用の黒いスニーカーの汚れを拭う。それは白く薄まるだけで完全に取り切ることはできなかった。


 「藍とはよく会うの?」

 私は入り口のブラインドを閉めながらなるべく自然に要に問いかけた。

 「うん、週に三回くらい会うと思う。仕事場が結構近いから、出勤する時とか、昼休みとか」

 要は私の配慮に気付く様子はなく、じっくりと花を観察している。私はエプロンを脱いでカウンターに置いた。エプロンには花の香りではなく、土の匂いが染み付いている。要は閉店作業が一段落ついたのを察し、持っていた紙袋から細長い箱を取り出した。

 「これ、僕から。誕生日おめでとう」

 箱を開けると、美しいフラワーモチーフのネックレスが入っていた。箱をカウンターに置き、ネックレスを顔の高さまで持ち上げる。店内の明かりに照らされ、美しく輝いている。手の平に載せてその重みを確かめる。

 「綺麗ね。ありがとう、本当に嬉しいわ」

 要は嬉しそうに笑って手を出してきた。その手にネックレスを渡す。要は引き輪を外し、私の首に手を回す。私の視線は行先を失くし、要の首やその後ろに逃げている。

 「似合ってるよ」

 要はネックレスを付け終わると、右手だけ私の首に残し私を優しく見下ろした。右手の冷たさが火照った私の首には心地よかった。

 「ありがとう」

 私はそのまま目を閉じて要に寄り掛かるように身体を預けた。私は要の腰に腕を回し、要は私を包むように抱擁している。ブルーのセーターから嗅ぎ慣れた要の匂いがして、私はその胸に耳を当てる。心臓は一定のリズムで音を鳴らしている。私は目を閉じてしばらく幸福に包まれていた。

 「今日は泊まっていく?」

 私は顔を上げ、要の顔を覗き込む。

 「今日は泊まれないんだ、ごめんね」

 要は本当に申し訳なさそうに、私の額に自分の額を合わせてきた。私は思わず溜息をついてしまう。

 「去年は泊まっていったのに…… やっぱり忙しいの?」

 「うん、本当にごめん」

 要が肩を落とすのが体を通して伝わってきた。私は近くまで下りてきた要の唇にそっと唇を重ね、しばらく互いの柔らかさを確かめ合った。唇を離すと要のリップクリームの甘い味が残っている。今度は要がゆっくりと私に重なってきた。互いの唾液で湿った唇をゆっくりと滑らせると、要は少し肩を震わせて私の首に顔を埋める。首に吐息がかかり、私の腕に力がはいる。要は私の背中をポンポンと軽く叩く。私は腕を解いて深呼吸をした。要は照れ笑いをして帰り支度を始めた。

 「泊まれなくて本当にごめんね」

 私もカウンターを軽く整理した。店を出るには少し時間がかかりそうだった。

 「大丈夫よ。気にしないで」

 「今度埋め合わせはするよ」

 要は裏口に向かいながら手を合わせた。私はぎこちなく笑いながら手を振った。要もそれに応じ、振り返って裏口に向かう。私は何気なくカウンターにあるネックレスの箱を手に取り、チラリと見た。そして、ブランド名を見て驚く。

 「このブランドって……」

 要はドアを開けた状態で振り向き、私の言葉の続きを待っている。私はその不思議そうな顔を見て何も言えなくなってしまった。

 「どうしたの?」

 要は首を傾げている。外の冷気が店内に流れ込んでくる。私は身震いをして言葉を続けた。

 「おやすみ」

 要は目を大きく開き、それから笑った。

 「おやすみ」

 要が外に出てドアが閉じると、風の音や走る車の音が消える。私は椅子に深く腰を下ろした。




 藍からのプレゼントは鮮やかな緑色のハンカチだった。そのハンカチから良い意味も悪い意味も考えてしまう自分に心底腹が立った。私は窓を開けてベランダに出た。頬を刺す冷たい風は、秋のそれとは比べ物にならないくらい鋭い。深夜だというのに星空以上の光を町が放っている。私は要からもらったネックレスを手に取る。このネックレスのブランドは、藍が好きなブランドだ。学生時代、よく自慢されたのを覚えている。ネックレスから手を離し、空を見上げる。私はこのブランドの話を要にしたことはもちろんない。要はどちらかと言うとこういう物には無頓着だし、このブランドもマイナーだ。ネックレスを首から外しポケットにしまう。月が私を優しく照らしている。誰にでも平等に降り注ぐ太陽と違い、月は輝く町の光の中で見上げた者だけを優しく照らしていた。

 「風邪をひきますよ」

 見ると、ベランダの直ぐ下の道路に男が立っている。今日、スターチスを買った絵描きの男だ。もう花束は持っていない。

 「今はここにいたい気分なんです」

 私は手すりに体を預け、身を乗り出した。道路の男と二階のベランダにいる私の間には三メートルほどの距離がある。聞きづらいと言うほどではないが、なるべく大きな声は出したくない。

 「何かあったようですね」

 男はポケットから煙草の箱を取り出した。こちらをちらりと見ながら箱を振った。私が頷くと男は満足げに箱の底を叩き、煙草を出した。

 「何かあったって、どうしてそう思うんですか」

 私は男の綺麗な横顔を見ながら問いかける。男は電柱に背中を付け、小気味のよい音を立てて煙草に火を点ける。

 「あなたは妻に似ていますから」

 男は吐き出した煙を眼で追った。

 「花束は」

 「妻にあげましたよ。昔はこの辺りに住んでいたんです」

 「奥さんはどんな方だったんですか?」

 「あなた自身が一番よくわかるはずです。置かれた状況も考え方も」

 「そうですか」

 私も煙を眼で追いながら言った。煙は私には感じられないくらい弱い風の動きを感じているのだろう、ふわりと広がりながら空に昇っていった。ふと気付くと、男がこちらを見ていた。顔は横を向けたままだが、その眼はしっかりと私を見据えている。

 「どうするべきか、どうしようかなんて考えても意味がありません」

 男はそう言うと視線を前に戻しゆっくりと眼を閉じた。私が黙ったままでいると、男は大きく頷き笑った。

 「いつか、あなたをモデルに絵を描いてみたいですね」

 男はポケットから灰皿を取り出し、煙草の火を消した。

 「あの……」

 「それはあなた自身の問題です。僕に全てがわかるわけじゃないですし、僕は今でも妻が正しかったと思っています。言えるのはそれまでです」

 私は男に問いかけようと口を開いたが、男はその言葉をやんわりと遮る。男に少しの苛立ちを覚えながらも、私は口を閉ざすことしかできなかった。

 「僕はそろそろ行きますね」

 男は煙草に火を点け、静かに歩き出す。吐き出す煙は月の光を拡散し、細やかに美しく輝いている。男は曲がり角を曲がる時、私をちらりと見た。車のヘッドライトが男の眼を照らす。私は思わず男から眼を逸らした。窓ガラスに私が薄く映っている。私はどうするべきか、私はこれからどうしようか。そんなことを考えながら、部屋に戻った。




 白い靄のようなものが視界全体を覆っている。掻き分けることも、その場所から動くこともできない。次第に靄は晴れて、二人の人影が姿を現す。一人は要、もう一人の姿ははっきりと見えない。二人は私に何か訴えようとしているが、私には何を言っているのかわからない。耳が塞がれたように何も聞こえない。靄が完全に晴れ、光がどんどん強くなる。耐え切れずに私が眼を閉じる直前も、彼らが私に何かを訴えているのが見えた。


 眼を覚ますと体が火照っているのを感じた。少し熱があるかもしれない。最近同じような夢をよく見る。携帯電話を開くと、要から返信がきていた。

 『ごめん、今日は先約がある』

 誕生日から一ヶ月以上経ち、新年を迎えた。あれから要とはゆっくり会えていない。仕事が忙しいのはわかっているが、埋め合わせをしてくれると言ったのは嘘だったのだろうか。苛立ちを抑えて私は風呂に向かった。藍の顔がちらりと浮かんだが、今日は一人で出かけることにした。市内まで行って、気になっていた本を買って、気が向けばスカートも買おう。体調が悪いのはわかっていたが、一日部屋の中にいるのはどうしても耐えられなかった。



 町は新年の浮かれた雰囲気が綺麗に吹き去って、いつも通りの落ち着きを取り戻していた。冷たくなった手を擦り合わせる。温かいコーヒーが飲みたくなって、喫茶店を目指して歩き出した。結局本だけを買って、後は冷やかすだけになってしまった。思えば一人でする散歩のような買い物は久しぶりだった。買った物は少ないが楽しい時間だ。体は少し重いが、反対に心は軽くなっていく。私は思い立って、眼に入った花屋に立ち寄ることにした。その花屋は小さくて置いている花の種類は少ないが、綺麗に手入れをされていた。私はフクジュソウを一本取り、店主に渡した。店主の老人は慣れた手付きでそれを包む。一連の動作の中で自分との違いを見つけるのは、とても楽しい。

 「ありがとう」

 フクジュソウを受け取り、お礼を言うと老人は軽く微笑んだ。目元に小さな皺ができる少年のような笑顔だった。

 「雪が降りだしたから、気を付けて」

 老人は出口を指差して言った。

 「雪は嫌いじゃないから、大丈夫です」

 私は最後に会釈をして、その花屋を後にした。


 喫茶店の看板が見えてきた。後少し、と背筋を伸ばす。頭は少々痛んできたが、暖かい店内がそれを癒してくれると思った。『今日のオススメ・オムライス』と書かれた看板を見ながら入口のドアノブに手をかけた。

 その時、視界の隅、窓際の席に要がいるのが見えた。私はドアノブから手を離し、ゆっくりと入口から離れた。向かいに座っているのは、藍だった。二人で笑いながら話している。傍目から見ると仲の良さそうなカップルに見えるだろう。私に気付く様子は全く無い。私は一度携帯電話を取り出したが、何もすることが無くてそのままポケットにしまった。自分がひどく動揺しているのがわかる。要が力を抜いて置いた手の直ぐ近くに、藍が手を置いている。本当に少し動かしただけで当たってしまうほど近くだ。私は何か、見てはいけないものを見てしまったような気がして駅に向かって歩き出した。吐いた溜息が白く色付いている。仲の良い友人と喫茶店で話しているだけ、ただそれだけと思ってしまうのは容易いことかもしれない。しかし、その言葉を強く否定してしまう自分がいる。ほらね、とかそういう言葉が頭の中に響いている。私は何度も何度も喫茶店に戻ろうと足を止めたが、一度も振り返ることはできなかった。要が私の誘いを断って藍といることが、私を大きく揺さぶっていた。熱のせいかショックのせいか、段々と頭が熱くなっていくのを感じる。早く帰らなければ。私は足を急がせた。




 家に着いた頃には、頭だけではなく身体中が熱を放っていた。コートの下に着ていたセーターまで汗で濡れている。インナーと下着を残して全て脱いでも、まだ汗が止まらない。水道水をコップに溜めて一気に飲み干した。次に顔を洗おうと思い、両手で水を受け止めて顔に近づける。その時、指の隙間から少しずつ溢れる水を見て手を止めた。一度両手を解いて水を全て落とした。何だかそうしなくてはいけない気がして、今度は注意深くゆっくりと両手で水を受け止めた。固く指を閉じてはいるが、それでも水は溢れていく。暫くその様子を見てから、私はその水を顔にかけた。濡れた手を首に当てながらベッドに身を投げる。二人を見た瞬間だけが浮かんでは消えていた。藍と要は、お互いが目の前の相手だけをただ真っ直ぐに想っていた。あの時、あの空間の二人の間に私は存在していなかった。目の前にある窓ガラスとは関係なく、そこには確かな隔たりがあった。天井を見上げる。二人は今どうしているのだろうか、私をどうするつもりなのだろうか。視界がどんどん霞んでいき、私は静かに眠りに落ちた。


 


 「美穂」

 要の声がして私は驚いて眼を開けた。蛍光灯の眩しい光を背に、ベッドの横に要が膝を付いて私の顔を心配そうに覗きこんでいる。

 「大丈夫? すごい汗だし、体も熱い」

 「ただの熱よ。どうして家にいるの?」

 要は私の額に手を伸ばし、汗で額に張り付いた髪を除けた。

 「予定が早めに終わったから、少しだけでも会いたいなと思って。とりあえず薬局に行ってくる」

 要はそれだけ言うと急いで玄関に向かい、靴を履きだした。

 「呼んでも全然起きないし、苦しそうだし。お粥作ってあるから、食べてね。机の上、まだ冷めてないと思う」

 珍しく焦った様子の要に、私は少しだけ嬉しくなった。

 「ありがとう。食べたら要が帰ってくるまで寝るから、電気は消してくれない?」

 要は私の言葉を受け止め優しく微笑むと、電気を消してから家を出た。

廊下を走る要の足音が遠ざかっていく。私はしばらく要が出て行ったドアを見つめていた。


 体を起こすと、机の上の器とスプーンに手を伸ばした。ベッドの外に足を出し、要が作ってくれたお粥に視線を落とす。

 「まだ、大丈夫なのかな」

 要が想っているのは現在の藍だ。要はそのことに少しも気付いていない。長く続けば続くほど、積み上がったものは倒れやすくなるし、変化の幅もはるかに大きい。私に何が出来たというのだろうか。私は首を振った。要の感情は純粋で直向きだ。しかし、藍の心が突然に、そして素早く動いてしまうことを要は知らない。私はスプーンでお粥を口に入れる。

 「まだ、大丈夫」

  私は藍の無邪気な笑顔を思い出した。藍と話がしたいと思った。自分にそんな勇気がないことはわかってはいたが、それでも話さなければいけないと思った。自分に何かが出来るとは思っていないし、私だけの想いで邪魔すべきではないということも、私にはわかっているのだ。しかし、永遠という言葉を無意識の内に持ってしまっている要の手を離してしまうのは、私には到底できないことだった。それ程に、私は要を愛してしまっていた。


 月明かりが部屋を斜めに横切っている。私は暗い部屋の隅に座ったまま、その光を見ることも出来ず視線を落とした。後悔と言い訳の言葉をあれこれと弄びながら、私は今を耐えることしか出来なかった。



〈了〉

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凜風文藝会会誌『凜風文學 第一号』 凜風文藝会 @rinpu-bungeikai

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