『帰省』 / 常 紫衣


 昨年の四月。逃げる様にして、家を出た。ようやく一人になれる、あの家から離れられる。そんな事ばかりが、頭の中を満たしていた。


 大学へは家から通えない距離でもなかったが、早起きが出来ないからとか、自立したいからとか、言い訳にも近い理由を並べ立てて一人暮らしを始めた。私は、家を離れる事に微塵も寂しさを感じず、いっそすがすがしい気さえしていた。母は別れ際まで、ちゃんとご飯食べなさいよ小さい部屋なんだからいつも綺麗にしておきなさい勉強も手を抜かずにバイトで社交性を身に着けなさい愛想良くしていないと友達もできないわよねえ本当に大丈夫なの、と心配していた。父は、そうか頑張ってと言うだけで、一切干渉して来なかった。弟は、あの家に一人取り残される事が嫌らしく、少し寂しそうにしていた。

 家には一応自分の部屋というものがあったが、あんな扉一枚隔てただけの部屋では、私の平穏は保たれていなかった。だからこそ一人暮らしは想像以上に快適だった。家で感じていた息苦しさも、近所の目や世間体を気にしすぎる親も、その他嫌だった事の全てから解放されて、やっと生きている心地がした。目覚まし代わりに両親の言い争う声が聞こえてくる朝はなくなり、自分の為に質素なご飯を作って食べて、解決しない憂鬱を抱える事なく眠りに就く。生まれて十九年目にして手に入れたこの暮らしは、世間的に見れば至って平凡でありふれていて、何の面白味もないという事は分かっている。しかし私にとっては、長年待ち望んだ平穏であり、もう手放せないのだった。



 八月に、帰省した。帰りたくないというのが正直なところではあったが、いつになったら帰ってくるのと母から再三電話があったので、帰る事にした。四か月ぶりに会う家族は、私が帰ってくるという事で妙に浮足立っていて、まるでよその家の人だった。やけににこにことして、私の機嫌を窺っている様にも感じられた。当の私は、家族からお客様の様に扱われている気がして、何とも言えない居心地の悪さを久々に味わっていた。


 晩御飯の時間になり、私は台所へ向かった。配膳の手伝いくらいは、「お客様」にも出来ると思ったのである。食器棚を開けて、父と母と弟の茶碗を取り出し、ふと気づいた。私の使っていた茶碗がない。そしてどうやら箸もコップもない。実家の記憶を引きずりたくなくて、ここで使っていたものは置いて出ただけなのに、僅か四か月の間に実家は私の居場所を完全に失くそうとしている模様だった。母に、私のお茶碗どこにあるのと尋ねると、なかったら他の食器を使ってと言われた。適当に見繕った食器にご飯をよそい、リビングへ向かう。リビングの四人掛けの机は、四のバランスを保つためには仕方がないかの様に、私の座席を設けていた。

 夕食後、私もう寝るねと声を掛けて旧自室へ向かおうと階段を上っていると、そうそう今は弟の部屋になっているから、と階下から母の声が聞こえた。



 一人暮らしを始めて、もうすぐ一年が経とうとしている。私は未だに八月の事が忘れられない。あんなに家が嫌いだったというのに、いざ居場所を失うと自分の存在すらも否定されている様に感じる。相変わらず母は心配性で、父は無関心で、弟は寂しがっている様だが、それもどこまで本当なのかと疑わずにはいられなくなってしまった。

 次に帰省した時は、一体何がなくなっているだろうか。いっその事、表札から私の名前が消えていれば良いのに、なんて投げやりになりながらも、残る三年間の平穏を噛み締めようと思うのだった。



〈了〉

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