『布団』 / 朝井田けひ
寒い寒い冬の夜。あの頃は自分の部屋に暖房器具など無かったので、私はよく小さく丸まって布団の中に潜り込んだ。それだけで十分だった。始めこそ冷たいが、数分潜り続ければ布団の中はすぐに温まった。誰にも邪魔されない、誰もいない自分だけの空間。それはまるで秘密基地のようでもあり、また母親の胎内のようでもあり、なんとも不思議な心地好さと安心感があった。
幼き頃の私は布団の中の心地好さを求め、昼夜を問わず潜り込んだ。わざわざ懐中電灯と漫画本を持ち込んで中で読んだりもした。一度母親に見つかり、目が悪くなるから止めなさいと言われた。しかし、その忠告が逆に私の心に火を点ける結果になる。心地好さにちょっとした背徳感が加わったことで私はますます頻繁に潜り込むようになった。いずれは規模を拡大し今以上に快適な布団の王国を作ろうなどという野望を抱いたこともあった。
*
部屋の薄っぺらい戸がノックされる音で目が覚めた。今は何時だ。枕元の携帯電話を手に取って時計を見た。再三母親の忠告を無視したせいもあってか、私の視力は0.01を下回り、今では何かを見るのに十センチ以内にまで近づけなくてはならない目になってしまった。
時刻は朝の八時半を過ぎたところであった。そろそろ大学に向かう準備をすべき頃合いであるが私は携帯電話を閉じて布団に潜り込んだ。寝ようとする時に布団に潜り込む癖は昔から変わっていない。
先程のノックは隣の部屋に住む遠藤さんであろうから気にしなくて大丈夫だ。彼は自分が出掛ける時に必ず私の部屋の戸を叩いてから出ていく。入居当初は律儀に反応していたが、出たところで挨拶か世間話しかしないため次第に無視するようになった。思い返せば、先月末以来まだ一度も返事をしていない気がする。
布団に潜り込んだものの眠くないので我が布団王国の話でもしよう。
幼き頃から心の奥底で絶やすことなく持ち続けてきた布団王国への憧れを私は大学生にして叶えていた。誰にも邪魔をされず、好きな時に寝て好きな時に起きることができる私だけの空間。この面積二平米ほどの柔らかい国土内において私は絶対的な権力をもつ王であり、唯一人の国民でもある。
絶対王政というと中世ヨーロッパの事例を省みて何か間違ったものだったと見なされがちである。しかし、我が布団王国においてはかつてプラトンが理想とした哲人政治が行われており、王のために民が理不尽な目に遭うこともなければ民のために王がその地位を脅かされることもなかった。
まるで人類の夢のような国であるが、布団王国にも欠点はある。何かというと、国土のどこにおいても作物の育たない不毛の土地であるということだ。それは布団王国の外にある排他的経済地域である春雨荘一〇二号室の六畳間においても同じである。梅雨時に押し入れの奥で名前も判然としない茸が育ったことがあったが、どうしても勇気が出なかったので収穫した後に捨ててしまった。第一あの程度の茸で国内の食料需要を賄えるわけもない。結局どうしても外国から輸入してくる必要があるし、さらに言えば輸入するために必要なお金を稼いでくる必要もある。
以上が現在布団王国が抱える問題であるが、王として有効な政策を打ち出すことはできないでいる。働いてきた民を労って国民の休日を乱発することで何とか不満はを溜めないようにしている。
*
突然ブルブルと携帯電話が震え始めた。私の数少ない友人である北野からだ。
「はい。何だ朝っぱらから」
『お前最近大学に来てないだろ。生存確認だけするように高浜先生に言われたんだよ』
高浜先生とは私と北野が所属する日本近世史ゼミの教授である。
「なんだそんなことか。ちゃんと生きてるから心配はいらん。体調も精神も正常だ」
『だったら来いよ』
「冬が寒すぎるのが悪い。布団王国の王は寒さに弱いんだ」
『王国とか何とか馬鹿なこと言ってないでちゃんと家を出ろ駄目人間』
友に向かって容赦なく駄目人間と言い放つこの北野の神経が私の友たる所以である。
「酷い言い草だな。俺が何の目的もなく引き籠ってると思ってるのか?」
『違うのかよ』
「違う。これは学術研究の一環だ。布団王国の王として鎖国政策を敷くことで、江戸幕府の重役たちの考えを理解しようと」
『酔ってんのかお前』
「本気だ」
『なお悪いわ。そう言えばお前、この前俺が家に行った時無視しやがったよな』
「ああ。あれは鎖国中だったからな。俺と接触を図りたければこうして携帯にかけてこい。この携帯は出島だから」
電話口で大きな溜め息が聞こえた。
『心配して損した。俺はてっきり高瀬と別れたと聞いたから心配してやってたのに』
突然予想外の名前が出てきたので思わず硬直してしまった。何故北野がそれを知っているのだろうか。
高瀬というのは私と北野の所属する某学術系サークルに所属する同回の女子で、つい最近まで私と恋仲にあった。
「高瀬は……関係ない」
これは事実だ。私が鎖国政策を敷いたのと破局は、時期がたまたま重なったことは認めるが両者に何の関係も無い。
「そもそも俺は生まれて来し方二十年間ずっと恋愛脳のチャラチャラした男を馬鹿にし続けてきたんだ。破局のショックなんかで引き籠るわけないだろ」
『そうか。まあ俺にはそんなことは全くもってどうでもいいが、ゼミにはちゃんと顔出しといたほうがいいぞ』
「鎖国に飽きたら行く」
『ん。じゃあな』
そう言って北野は電話を切った。通話が終了した後しばらく呆然としてしまったが、やがて正気を取り戻して携帯電話を閉じた。
*
北野の電話からしばらく時間は経ったが、依然として何もやる気が起きないのでただぼんやりと天井を眺めた。北野が高瀬の名前を出したせいで彼女のことがずっと私の脳内を支配していた。
彼女は静かな人だった。感情を表に出すのが苦手らしく、褒められても上手く喜べないためによく他人を見下していると誤解されがちなのだと言っていた。私も比較的静かな部類であったが、私の場合は単に人と馴れ合うのが好きでないために一人で石のようにむっつりと黙りこくっていただけである。そんな私から彼女が何を感じ取ったのかは今となってもわからないが、結果として我々は仲良くなって付き合う運びとなった。
付き合ってみてわかったことだが、私と彼女は思っていた以上に共通項が無かった。趣味は合わない、会話は弾まない、そもそも口数が少ない、という二人であったので、付き合ってる間に交わした会話は普通のカップルの半分にも満たないのではないかと思う。
ただ一つ、共通して好きなものがあった。布団だ。
さらに言えば、彼女も幼いころ布団の中に潜り込むのが好きで、よく布団に潜り込んでは本を読んでいたと言っていた。幼いころの布団の思い出を語る時だけは会話が弾んだのを覚えている。
ある日、二人で一つの布団に入り、特に何をするでもなく取りとめの無い会話をしていた時のことだ。私は彼女に布団王国について語ったことがあった。彼女は呆れながらも楽しそうに聞いていたと思う。
「いつもそんなことばかり考えてるの?」
彼女は言った。
「そうとも」
私は天井の方を見ながら答えた。
数秒の沈黙の後、彼女は私に背を向けるように寝返りをうってそのまま黙ってしまった。
理由は無いが、何故かこのまま彼女は私のもとを離れていくような予感がした。
その予感があったからか、その約二ヵ月後に彼女から別れを切り出された時、私はやけにあっさりそれを受け入れることができた。
その時の私はもう彼女のことを好きではなかったのかもしれない。
*
いつの間に眠っていたのかわからないが、私の部屋の鍵が開けられた音で目が覚めた。
恐る恐る布団から顔を出すと、玄関には彼女が立っていた。
「佐奈! なんで」
「急にごめんね。なんだか会いたくなって」
あまりに意外な来客に私はどういった反応をすればいいかわからなくなった。とりあえず入って座るように促すと、彼女は小さく頷いて私の布団の傍に正座した。
気まずい沈黙が流れる中、私が掛ける言葉を思索していると、彼女が床に視線を落としたままポツリと呟いた。
「やりなおしたい」
「え?」
「私たちまた付き合えないかな」
予想外の発言がいきなり飛び出したので言葉を失った。何か言おうと口を開けるが肝心の言葉が何も出てこない。
私の言葉を待たずに彼女はゆっくりと語りだした。
「私、松田君と別れてからよく布団の話を思い出すようになったの。思い出に残るような会話がそれしかなかったからだけど、やっぱり大人になってもあれだけ布団について語り合えたっていうのはすごく新鮮で、改めて思うと馬鹿馬鹿しいんだけどすごく面白かった。それに私が昔から思っていた布団への想いみたいなのを言葉にしてくれてなんだかすっきりした。最近は布団に入ると必ず松田君の語った布団の話が頭に浮かんでくるの。それで、私はやっぱり布団が好きだし、一緒の布団に入りながら松田君の布団の話を聞くのが好きだったんだって気付いたんだ」
そう言い終えると彼女は視線を私の顔に向けた。自分の気持ちの整理が追いついていなかった私は、目が合うと思わず視線を布団に落としてしまった。
「そんなこと……思ってたんだ」
「うん。ごめんね勝手なこと言って」
「別にいいよ」
二人の間に気まずい沈黙が流れた。散々逡巡した挙句、結局私が口にした言葉は「布団、入る?」だった。
彼女は小さく頷き、遠慮気味に私の布団に入り込んできた。
「二人だとやっぱり狭いね」
そう言って少し照れくさそうに笑った彼女の顔を見て、改めて愛おしいと思った。やはり私は誰よりも布団が好きであるし、私と同じくらい布団を愛する彼女がいる布団が好きなのだと気付いた。
「上手いことは言えないけど……俺も、また、付き合いたい」
私はおもむろに彼女を抱き寄せ、少し潤んでいるように見えるその目をじっと見つめた。
「佐奈」
名前を呼ばれると彼女は笑顔になって目を閉じた。私も目を閉じ、そっと彼女の唇に自らの唇を重ねた。
妙に埃っぽい唇だと思って目を開けると、そこには丸めた布団にキスをする大間抜けがいた。彼女の姿は無い。当然だ。彼女が置いて出て行った合鍵は少しも動かされることなく私の机に置きっ放しになっているのだから。
「阿呆らし」
あまりの情けなさに笑いと涙が同時に出た。
この世に生れ落ちて二十年、恋愛映画を毛嫌いし、恋愛小説に唾を吐き、恋愛脳に染まりきった女々しい男共を徹底的に見下してきたこの私が、ふたを開けてみれば誰よりも女々しかったというオチだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
今日はもう眠ろう。彼女がいなくても布団は温まる。彼女がいなくても生きてゆける。そう自らに言い聞かせて布団に潜り込んだ。
彼女がいなくても布団は温まる。だが、彼女のいない布団を私は愛せるだろうか。
〈了〉
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