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「うだるような暑さの『うだる』って『茹だる』が変形した言葉らしいの」


 至極どうでもいいことを、彼女は言い出した。だからどうしたと、そんな言葉が喉まで出かかった。本を読んでいる人にいきなり雑学を披露するのは如何なものだろうか。普通の人なら読書時間を邪魔されたと、邪険に思うはずだ。最も、僕は好きで読んでいるわけじゃないから、そんなことを思ったりはしないが。


 単純に、鬱陶しいとは思う。


 それとも彼女は単純に、世間話がしたいのだろうか。確かに今日は三十度を超える猛暑日ではあるが、しかしそれにしては酷く遠回しだ。それなら素直に天気の話をすればいいだろうに。それとも図書室の空調に対する皮肉だろうか。そんなもの僕に言ったって仕方がないというよりも、しょうもないだろうに。


 無駄に整ったこの部屋の空調は、涼しいというよりも寒いに近い。ちょうどこの本のタイトルの「寒気と冷気の午前二時」のように。「うだるような暑さ」の窓の外とはまるで別世界だ。まるで本と現実のように。最も、当然今は午前二時ではないのだけれど。


「ミステリー、好きなの?」


 まるでお約束とでもいわんばかりに、彼女はそう聞いた。既に彼女と会うのはこれで四度目なのだが、初めて会ったときから今日に至るまで、必ず読んでいる本について聞いてくる。棚にある本を適当に読んでいるだけだと言ったはずなのだが、一体これはどうしたものだろう。ジャンルの好みを聞いているのだとしても不可解だ。僕は本が好きではないと、最初にはっきり言っているのだから。


 ・・・いや、はっきりとは言っていなかったかもしれないけど。


 何となく真面目に答えるのが癪になってきて、僕は質問に質問を返した。向こうが同じことを聞くのならこっちも同じことを聞いてやろうという、子供じみた挑発のつもりだった。


「君は好きなの?」


「どうかしら」


 ・・・どうも自分のことを話すつもりはないようで、彼女もまた、同じことを言った。ここまで会話が似たり寄ったりすると不思議な既視感に襲われるが、手に持っている本の犯人が分からないことを考えると、どうやらこれは初めての出来事らしい。


「『寒気』は訓読みなのに『冷気』は音読みだなんて、なんだかとってももどかしいわね」


 タイトルなんて大して気にしない僕としては、そんなことを言われても同意しかねるところなのだが、改めて表紙を見てみるとなるほど、彼女の言っていることも理解できる。


 タイトルには振り仮名が振っておらず、確かに「さむけ」とも「かんき」とも読める。実際これを見ただけではどちらがあっているのか分からないが、彼女の口振りからするとどうやら前者らしい。何故彼女がそれを知っているのかは知らないけれど。


「まあ、冷気に訓読みがないんだから、仕方ないんじゃないか?」


「それなら『寒気』も音読みにすればいいじゃない」


 至極真っ当な意見だった。というかまさしくその通りだ。


「本のタイトルだから、何か意味があるんだろう。気にするようなところじゃないさ」


「そうかしら。ならせめて分かりやすく振り仮名を振っておいてほしいと思わない?」


「それは、そうかもしれないけど」


 何故かは知らないが、彼女はこの音読みか訓読みかということに随分と拘っているらしい。普段から饒舌な彼女ではあるが、どうも今日はそれがいつも以上のように感じる。


「少なくとも、不親切だとは思わない?」


「何か文句があるなら僕じゃなくて、この本の作者に言ってくれ」


「文句なんてないわ。ただ、不思議だなって」


「そう、僕は別にそこまで不思議には思わないよ。不親切だとも思わない」


 言い切って、無理矢理に会話を終わらせる。話をする姿勢を崩し、再び本を開いた。そして今度は逆に、話しかけるなという感じの姿勢をとる。


「・・・そう」


 その雰囲気を感じ取ったのか、それとも単にもう話すことはなくなったのか、彼女はそれ以上何も言わなかった。そしてまた気付いた時には、彼女はいなくなっていた。


 一方的な会話ではあったが、彼女とこれだけ話が続くというのは珍しかった。珍しいというか、多分初めてだった。と言うのも、いつもは何を聞いても知らぬ存ぜぬと同じ返答ばかりするので、毎回どうしようもない既視感に悩まされていたのだ。今日はその既視感を感じなかったかといえば嘘になるが、それでもいつもよりかはマシだった。彼女がどうしてこの本をミステリーだと分かったのかという疑問には、拭いきれない既視感を感じはしたが。


 単純に考えれば、彼女がその本を一度読んだことがあるというだけだろう。毎回どうして本のジャンルや内容を言い当てることができるのか不思議には思ったが、よくよく考えてみれば至極簡単なことだった。一体彼女がこの図書室の本をどれだけ網羅しているかは知らないが、少なくとも人目に付きやすいところに置いてある本はほとんど読んでいるのだろう。まさかこの部屋にある全ての本に目を通しているわけではないと思うが、もしかしたらそれもあり得る話かもしれない。


 だかしかし、違った。彼女はこの部屋の本の全てを読んでいるわけではなかった。どころか、僕が今手にしている本すら、彼女は読んでいなかった。


 そのことに気が付いたのは本を読んでいる最中のことだった。物語の終盤で「寒気」という言葉が何度も使われていたのだ。犯行のトリックにも「寒気と冷気」というものが鍵になっていて、読み終わった後でタイトルを見れば「なるほど、こういうことだったのか」と納得できるつくりになっていた。私小説などではよくある「読み終わった後で意味が分かる」タイプのタイトルだった。


 もし彼女がこの本を読んでいたのなら、タイトルの意味を知っていたはずで、だからあんな質問をするのはありえない。まだ内容を読んでいない僕がタイトルの意味をどう考えているのか聞きたくなったという線もなくはないが・・・いや、ないと考えていいだろう。あそこまで妙なほどムキになるのはどう考えても、実際の意味を知らないからだろう。


 うんうん、と頷き、まるで謎を一つ解き明かしたかのような充足感を感じたが、よくよく考えると何も解決されていなかった。結局、「彼女はどうして本を読んでいないのにジャンルや内容を言い当てることができたのだろう」という、ミステリー小説の犯人よりも気になる謎が、再び浮かび上がってしまったのだから。

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