季節を巡るお話

青葉 千歳

1

「本が好きなの?」


 開口一番、彼女はそう言った。


 それは間違いなく僕に向けられた問いだったけれど、残念ながら僕はそのことに気が付かなかった。何せ目の前にいるのは見知らぬ女性だったから。初対面の人に話しかけられるなど、悲しいことに、僕の人生においては想定外の出来事だった。だけど辺りを見回して、閑散とした図書室の中には僕と彼女しかいないことに気付いたところで、ようやくそれが、僕に対する問いであることを理解した。


 こんな時間までこんなところにいる彼女は、きっと本が好きなのだろう。だから、同じようにこんな時間まで残っている僕を見て、仲間を見つけた気持ちになったのかもしれない。


「いや、全然」


 しかし、僕は本が好きだからという理由でこんなところにいるわけではなかった。故に、その期待を裏切る回答をしなくてはならないのは、非常に心苦しかった。こんなことなら、嘘でも「好きだよ」と答えておけばよかったかと少し後悔したが、嘘を吐かないことを信条にしているため、残念ながらその後悔が先に立つことはなかった。


「あら、そう」


 と。しかし、僕が思っていた以上に彼女は感動しなかった。残念に思うこともなく、寂しいと思うこともなく。無機質な返事を返すだけだった。


 僕はその返事が面白いと思ったのか、それとも単に会話の礼儀だと思ったのか、同じ質問を彼女に返した。


「君は好きなの?」


「どうかしら」


 首を傾げて、そう言った。まるで与り知らぬ質問をされたとでも言いたげな表情だった。彼女のことを聞いたはずなのに何故か、彼女ではない別の誰かのことを聞いてしまったかのような、そんな錯覚を感じた。そんなはずはないのに、何故か何の脈絡もない質問をしてしまったと、謝りたくなった。


「好きなの?野球」


 しかし、脈絡のない質問をしたのは寧ろ彼女の方だった。図書室にいる人に本が好きなのかと問うのは正しいように思えるが、野球が好きかと問うのはあまりにずれた感性だ。図書室に来る様な文系の人間にとってみれば野球など、正反対の意味を持つ言葉だろう。


 奇っ怪な目で彼女を見ると、彼女は視線を落とした。的外れな質問をして恥ずかしくなったのかと思いきや、落とした視線はある一点を見つめていた。それは僕の手の中にある本で、そこで僕はようやく質問の意図を理解する。


「あぁいや、別に。単に棚にある本を端から順に読んでいるだけだよ」


「そう」


 と。またも彼女はつまらない返事を返した。いや、つまらないと言うと僕の答えも相当つまらないものではあるが、聞いてきたのが彼女の方であることを考えれば、僕は彼女の反応に文句を言ってもいいだろう。


 だがしかし、その返事は興味がないというよりも、既に答えを知っているかのような物言いだった。まるで僕が何と答えるか、最初から分かっていたかのような。


 なら何故そんな質問をしたのだと疑問を投げかけたいところだったが、そんなことを聞いても仕方がないだろう。僕がそう感じ取っただけという、単なる気のせいだろうから。


 再び「君は好きなの?」と聞こうかと思ったが、なんとなく返ってくる答えが予想できたので、僕は社交辞令を放棄した。どうやら彼女とはあまり会話が成立しなさそうだと、そう思った僕は彼女から目を切って本の続きを読み始めた。


 しばらくの間、文字を目で追っていると、途端に人の気配が消えた。と言っても僕は人の気配を敏感に感じ取れるほど器用ではないので、最初は気のせいだと思った。しかしその気のせいに揺られてさっきまで彼女がいたところを見ると、既に彼女はいなくなっていた。


 改めて、手に持っている本の表紙を見る。そこには青空を背景に「心ここから」と書かれていた。


 ・・・今になって、ようやく不思議に思った。何故彼女はこの表紙を見て、野球の話と分かったのだろう。

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