extra.駅

(extra.駅)1

 どうしてこんなことに。

 そう思うのは、これで何度目だろう。男は頭を抱え、髪を掻き毟る。

 古びた駅のホームの、クリーム掛かったスカイブルーの丸っこい椅子に一人、座ったまま。焦点の定まらない目を闇に向ける。

 そう、闇だ。薄っすらと山の輪郭、道の白い影が見える気がするだけで、線路を挟んだ向こう側は墨で塗り込めたようにまだらな闇だ。

 ぽつん、ぽつんと頼りない街灯が見える。但し、その光は街灯であるという自己主張以外の意味を持たない。自身の足元だけを照らしているような青白く頼りない光は、田んぼがあるかも知れない影や、あぜ道があるかも知れない影、川でも有りそうな影など、闇のコントラストづくりに貢献しているに過ぎない。

 背後も同じ様なありさまで、あたりで一メートル先が見える明るさを保っているのは、砥石のように無愛想なこの、コンクリート製のホームだけのようだった。

 凡そ五〇メートルあるかないかのホームの左手には改札があるだけで、自動販売機一つない。ぼんやりとホームの終端が見えるものの、明かりがないためやはり闇に解けるように消えていた。右手にはこのベンチと、奥の方にえらく古びたトイレらしき建物がある。木製の掘っ立て小屋然とした建物は建っているだけで酷く不気味だった。

 そしてその先もまた、端に向かうにつれ、闇に溶け込む。

 電車は来ない。単線の片側ホームらしく、双方向に向かう電車がある筈なのに、此処に座ってからかれこれ一時間、上りも下りも貨物車も来ない。それどころかひとっ子一人おらず、通る車もない。

 正直、途方に暮れていた。

 夏の夜風は生ぬるくて気色悪い。肌に張り付くシャツが煩わしく感じられた。涼やかと言っていいのだろう虫の音が焦燥感を煽る。

 どうしてこんなことに。

 何度目か、思う。

 些細な喧嘩が原因だった。彼女に会えるのは最後だったかも知れない。なのに、つい不機嫌な態度を取り、口論になり、衝動的に電車を降りてしまった。

 見知らぬ駅に両足をつくと、電車が過ぎ去るまで振り返ることはせず、ただ足元の薄汚れた白線に視線をやった。彼女はなにか言っただろうか。ドアの締まる音、鋭い呼子笛の音、ざわめきと、車輪の軋る音。それらに混じって聞こえたような気がしたが、それも気のせいかも知れない。

 すぐに後悔した。次の電車で追いかければ、或いは――。

 思うものの、幾ら待っても一向に電車は来ず、ホームの端から端まで数度往復して、疲れ果て、今は此処に座っている。

 それにしても、誰も居ない。駅舎にも時刻表らしきものはなく、改札の外の闇は何故だかドロリと不気味に感じられて、ざっと見回しただけで戻ってきた。改めて左右を見ると、左手の奥にぼんやりと駅名が書いてあるのだろう、看板が見えた。

 おかしいな、さっきは気付かなかったのに。思いつつも、ふるり、肩を震わせる。蒸し暑いのに、ぞわりと寒気が走った。

 汗が引いて、風邪でも引き始めているのだろうか。

 思いつつ、ふと尿意を感じてトイレの方へ向かう。目隠しの板一枚の裏に人ひとり通れる程度の通路が設えられ、右手に剥き出しの小便器、左手の雪隠戸には腰の高さに四角い木切れのような取っ手がついていた。手洗い場は小便器を囲む壁の側面にぽつりと取り付けられている。

 水が出るのか心配になりながら、とりあえず用を足す。薄汚い便器の足元にも粘つく闇が蟠っている。言いようのない恐怖が這い上がってくるような気がして、慌てて後始末をした。誰も居ないというのに何故だか平静を装って、努めてゆっくり、手洗い場に回り込む。

 愛想のない蛇口をひねると、幸いなことに水の出る気配があった。

 安堵したのも束の間、くすんだ陶器にどす黒い水が垂れ落ちる。どろり、どろりと糸を引くようなそれが余りにも気色悪くて、喉の奥から「ヒッ」と引き攣ったような音が漏れた。

 この水に触れるわけには行かない。慌てて蛇口を閉じる。それとほぼ同時に、バンッ、と平手で壁を叩くような音がした。

「……」

 全身が金縛りにあったように硬直している。目を見開いたまま、息を殺した。汗が頬を伝い落ちる。

 音はどうやら、個室の中からしたようだった。だが、このトイレに行くにはベンチの前を通らざるを得ない。そして自分はそのベンチに、最低でも三十分は腰掛けていた。

 動け、動け、と繰り返し念じながら、なんとか足が動くのを確認する。忍び足で後退りはじめると、眼の前の闇が、ゆらり、揺らいだ気がした。

 雪隠戸の取っ手がスライドしたのだと気付くのに数秒掛かる。気付いたのは、ぎぃぃぃぃと耳障りな音を立てて、戸が開き始めたからに他ならない。

 息を殺し、摺り足で後退る。

 何かが、出てきてしまう。怖い。走って逃げたいが、この駅以外に居場所がないことは先刻承知だ。慎重に、気付かれないように。

 ベンチまで行けば少しは明るい。……明るいが、それが何だというのだろう。寧ろ、見えてしまうのではないか。そこから這い出してくる忌まわしいものが。

 ぞわりぞわりと背が泡立つ。震えが止まらない。寒い。そんな筈はない。思うのに、密かに吐き出した息は白く舞う。

 堪えきれず、ゆっくりと踵を返すと、あとは一目散に改札を目指す。丁度ベンチの前を過ぎたところで不意に、当の改札に人影があるのに気付いた。

 どうやら、男のようだ。相手はこちらに気づいていないようで、うつむきがちに、ゆっくりと改札を通り抜ける。一瞬身構えたが、どう見てもひょろりとした若い生身の男で、耳元に小型の通信機を宛てて会話をしているようだった。

 背後のそれよりはマシな存在のように思える。声をかけるか悩んだが誰かと通信中の様子で、切れ切れに言葉の欠片が聞こえた。流石に憚る。

 気付けば、震えるような寒気は消えてなくなっていた。となれば、後ろにはもう、何も居ないのではないだろうか。堪えきれず振り返ると、背後には先ほどと変わらぬ闇が蟠っているだけだった。安堵に胸を撫で下ろす。

 開いた雪隠戸は風のせいだ、と思おうとしたが、どうしてもそれを確かめる気にはならなかった。

「大丈夫ですか?」

 取り乱しているのを悟られたのだろう、目の前の男が問いかけてくる。応じようと顔を上げると、二十代半ば位だろうか、多少くたびれた様子の彼は僅かに眉根を寄せ、こちらをじっと見ていた。何か言いたいが、息が切れて仕方がない。膝に手をついたまま俯く前で、彼は、手にした透明のボトルのキャップを開ける。

 そして、唐突に

「すみません」

 言いながら、あろうことか中の水を、ドボドボとこちらにかけてきた。

 茫然自失の体で頭の天辺から滴り落ちてくる水を眺める。

 何故、とか、どうして、とか、思いつくはずもない。ただ、腹は立たなかった。一瞬寒気を感じていたとは言え、やはり夏に走れば暑いわけで、心地よさすら感じる。

 それが、自分でも不思議だった。

 まさか熱中症の心配したわけでもあるまい。顔を上げると、彼は一言、

「近くの山に湧いた……所謂、名水です」

 などとズレた補足をくれる。そういうことじゃないだろう、と呆れたような視線をやると、彼は黙ってじっ、とこちらを見ていた。

 何もかも見透かされるような、深い闇色の瞳はどこか恐ろしい。けれどそれは先程感じたような、嫌悪を含んだ感覚ではない。どちらと言えば、畏れに近い。

 その感覚の理由がよく判らない。取り繕うように問いかけた。

「あの……次の電車はいつ来るんでしょうか」

 妙な間があった。男は黙ってじっとこちらを見ている。思わずたじろぐような、重たい視線だった。

 男は唐突に目を逸らすと、ふう、と深い息を吐いた。

 そしていま一度、こちらに視線をくれる。

「来ませんよ」

 返答は酷くあっさりしていた。

「来ない……?まいったな、あれは終電だったのか。どうしよう」

 髪を掻き毟る自身の前で、彼は静かに二の句を継ぐ。

「いいえ。此処にはずっと、電車は来ていないし、これからも来ないです。線路の先、確かめましたか?」

「……暗くて」

「なるほど。俺は昼間に確認しました。線路はどちらも少し先で途切れてます。ひと目で電車なんか通らないってわかりますよ」

 そんな筈はない。だって……

「わ……わたしは、電車を降りたんです。ほんの一時間前に。彼女と喧嘩して、衝動的に……」

「彼女の名前は?」

「みやこさんです」

 男はじっとこちらを見ている。どうしてか、天敵にでも睨まれているように緊張して、生唾を飲み込んだ。

 彼はおもむろに手に持っていたボトルに目をやった。

「……お水、足りませんでしたね」

「いえ、足りてます」

 どうもこの男は妙だ。もしかして、正気ではないのだろうか。ここは、怒らせないように……。

「俺は、一昨日貴方に会ってます。覚えてますか?」

 意外な言葉だった。同時に、やはりこの人はまともではない、と思う。

「いえ。……その、そんな筈はないです。人違いじゃないですか」

「間違いないですよ。貴方は一昨日も此処にいましたから」

 彼が平然と吐いたセリフはあまりにも馬鹿げていた。呆れて笑いそうになる前で、彼は僅かに首を傾げる。

「一昨日の貴方に名前を聞きました。貴方は山田優作だと名乗った」

「え」

 何故、名前を知っているのだ。確かに、自分の名前は山田優作だ。驚きのあまり言葉を失う男の前で、彼は言葉を継ぐ。

「なので、調べてきました。山田優作さんは、ここを」

 言いながら、その指がつい、と線路をまたいだ先の暗闇を指す。

「真っすぐ行った先の廃屋で、昭和五十二年に亡くなっています」

 冷たい汗が、背中を伝い落ちる。何を言っているんだ、この男は。それでは自分が、死んでいるかのようではないか。

「よくある名前ですから、お間違えでは……?」

「いいえ。……そうだな、鞄。貴方の持ってる鞄の中に、身分証はないですか」

 問われてそういえば鞄を持っていたと思い出した。たすき掛けにしていたバックの中を弄ると、定期券らしきケースが見えた。

 引っ張り出してみるが、目が霞んでよく見えない。否……なんだ、これは。文字を読もうとすると、視界に砂嵐のようなものがかかって文字を隠してしまう。

 異常だ。助けを求めるように男を見ると、彼はそっと定期券を受け取った。

「ああ、よかった。これなら名前が返せる。――――飯田真さん」

 呼ばれた途端、唐突に、視界のノイズが消え去った。カード状の板にはイイダマコトと書き込まれている。

 その文字列を目にした瞬間――。

 視界が暗転し、意識を失った。



 意識を取り戻すと、ベッドの上だった。

 真っ白い天井と、淡いピンクのカーテンを眺めながら、ここはどこだろうとぼんやりと思う。恐らく、病院なのは間違いない。

 微かに、ノックの音が聞こえた。

 答えられずに、視線だけ向けると、唐突にドアがスライドしてあの男が現れた。息が止まる程驚く。

 あれは夢だった筈だ。目を見開き、ぽかんと口を開けたまま、硬直する前で、彼はぎこちない会釈をくれた。

「はじめまして。若宮といいます。この間はどうも」

 なんともチグハグな言葉だ。はじめまして、なのに、この前もクソもない。だが、妙にしっくり来る。

「あれは……夢かと――」

「夢ですよ」

 若宮はきっぱりといいながら、勝手にベッド脇のパイプ椅子を引いた。

「座ります」

「……どうぞ」

 若宮は小さく頷いてから椅子にかけた。

「貴方は二年半失踪していました。俺は――身内の生臭坊主と不良神主に兎に角、徳を積めって無茶振りされてるんですが――それで、ほうぼう首を突っ込んでいるので、貴方のお母さんにも接触して、行方を探していました」

「……」

「既に連絡してあるので、今日の夕方にはお迎えに来られる筈です。宜しくお伝えください」

 事務的に話す若宮の話を、どこか上の空で聞いていた。

 二年半? 二年半も自分は何をしていたのだろう。記憶を辿っても、つい数日前、図書館に行った記憶しかない。

 思いつつ、若宮を見る。そこで気がついた。若宮は半袖のシャツを着ている。外からは蝉の声も微かに聞こえていた。

 だが、図書館を出た時は、丁度、雪がちらつき始めたところだった筈だ。

 すっぽりと記憶が落ちていると思い至って、愕然とした。

 しん、と室内は静まり返る。廊下から聞こえる話し声が、妙に温かく感じられた。

「あの駅は、実在するんですか……」

 絞り出すように問い掛けると若宮は僅かに躊躇う素振りを見せつつ、小さく頷く。

「あそこは五十年以上前に廃線になった路線の駅です。集落自体も無人になって長い」

 淡々とした口ぶりが余計に怖くて、ぞわりと鳥肌が立つ。

 若宮はそれを見越したのか、言葉を足した。

「でも、貴方が居た場所はあの駅の裏側。夢の世界です。実際の駅とは少し異なっている」

「そう……なんですか……? 」

 若宮は小さく頷いた。

「ええ。でも探さないでください。また引き込まれないとは限らないから」

 言いながら、彼は立ち上がり、ポケットを弄るような仕草をした。

「これ、お返しします」

 差し出されたのは、パスケースだった。取り立てて汚れているわけではない。けれどなんだか、酷く古びて見えた。

 IC定期券の表面にカタカナでイイダマコトとある。手元に目を落としている内に、若宮はさっさと立ち去ろうとしていた。慌てて声をかける。

「あの……っ」

 立ち止まった彼はゆっくりと振り返った。訝しげにこちらに向けられた瞳は、夢で見たのと同じく、何もかも見透かすような不思議な光を帯びている。

「ありがとうございました。あの、もしあれが何だったのかご存知なら……」

「稀にですが」

 若宮は遮るように、そう前置いた。

「築後何十年も経っているような建物、長らく同一の名前や意味で縛られた場所。そういった"場"が、時空の歪みのようなものを作り出してしまうことがあります」

「……はい」

 若宮は続きを語ろうとして、口を噤み、面倒くさそうに頭を掻いた。そして、一言だけ付け加えた。

「駅の幽霊……ってとこですね」




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[BL] No Exit ユキガミ シガ @GODISNOWHERE

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