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「あら、この子?」

 向かいのマンションの半地下に、バーらしき店があるのは知っていた。けれど、店主が女装した男性だとは思っていなかった。どうやら遼壱は馴染みらしい。

 あの黒い扉から引きはがしてくれた遼壱は、そのまま麻槻を連れ出した。そして、真っ直ぐに向かった先がこの店だったわけだ。

 時刻は深夜三時になろうかというところで、ほかに客はない。

「なにか出してやってくれ。…お前、歳いくつだ?」

「二十歳」

「スコッチで」

 顎で麻槻を指しながら、遼壱は煙草を出す。店主はすかさずライターを差し出した。

「亜由美が怒ってたわよ」

「いたな、そんな女」

「偶には顔出して頂戴よ…あの子拗ねちゃって」

 話は全く見えない。席で縮こまっていると、金の指輪をした少しごつめの手が琥珀の液体の入ったグラスを出してくれる。

「一口だけ飲め。落ち着く」

 麻槻は恐る恐るグラスに口をつける。ふわりと広がる特有の香りと、アルコールの刺激。そして、

「!」

 喉を通る瞬間、焼けるような感じがした。

「あらやだ、ごめんなさい、水割りが良かったかしら」

「いいんだよ、気付きつけなんだから」

 遼壱はこともなげにいいながら、煙草を一口吸い付ける。そういえば、部屋に煙草の匂いはなかったな、とふと思い出した。室内ではあまり吸わないのかもしれない。

 そんな取り留めのないことを思っていたら、

「おまえを手放す気はない」

 遼壱は唐突にそう切り出した。麻槻の方は見もしないで、正面を向いたまま。そしてその横顔には何の表情もない。その言葉の意味をどう取るべきか、麻槻は判じかねる。遼壱は何の補足もくれずに続けた。

「あの部屋が怖いなら、俺の部屋か、居間のソファしかないぞ」

「……ソファで」

 即座に返すと、遼壱は柄にもなく笑い始める。クク、と、肩を震わせて。

「お前、あの部屋から一番遠いのがどの部屋かわかってるか?」

 言われて、麻槻は頭で間取りを展開する。入って直ぐの廊下の左右に浴室とトイレ、突き当たりに居間で、その手前にある廊下を右に進んだ一番奥があの黒い扉なら、左の一番奥は遼壱の寝室だ。途中確かもう二部屋あるが、遼壱側の区画の事はよく分からなかった。

「お化けよりあんたが怖いんだけど」

 そう返すと、遼壱は声を上げて笑い始める。店主は目を丸くした。

「こんなに笑うのね、遼壱さんって」

 麻槻はそう振られても遼壱自身をよく知らない。

「俺はこの人の事、何もしらないんで」

 本当なら見ず知らずの他人だと言いたいところだ。

「でも貴方、遼壱さんのいい人なんでしょ?」

 訝しげに問われて、即座に否定しようとしたが、遼壱に首根っこを掴まれた。

「まだ調教中なんだよ」

「まぁ!」

 ヤラシイわね、なんて反応に麻槻は怒りを抑えるのに必死になった。自分にそんなつもりはない。そう言いたかったが、叶わない。やはり、この男から逃げるのが一番賢いやり方だったんじゃないだろうか。そんなことが過るが、大学は割れているし住居も知られている。遼壱はこの通りで、逃げられるわけはない。結局結論は変わらない。逃げられないなら、怪我をしない方がマシ、だ。

 グラスを持ち上げる。一気飲みなんてできないが、自棄酒とばかりもう一口含むと、また喉が焼けたようになった。

 そんな時。不意に入り口の扉が押し開かれた。吸い寄せられるように視線がそちらに向かう。そこには若い男が一人立っていた。痩身で中背。長めの白いシャツの上にモスグリーンのパーカーを着ている。髪は少し長めで、毛足に癖が強い。彼はちょっと憮然とした様子で立ち止まった後、遼壱に向かって目で合図したようだった。

「来たか」

 遼壱は立ち上がって何かを放り投げる。ガチャ、と金属が鳴るような音がした。相手の男がうまくキャッチする様を想像したが、それは男の胸元あたりにあたって落ちた。受ける素振りすら見られなかった。

「慧は?」

 気にした様子もなく、また謝るでもなく、遼壱は問いかける。男は足元に落ちた何かを拾い上げながら無言で上を指差した。

「そうか。頼んだ」

 そこで、麻槻は疑問に思う。踵を返した男が持っているそれ――遼壱が投げ付けたのは、二人の部屋の鍵のような気がした。

 鍵を渡して何かを頼む、ということは、部屋に入るとしか思えない。

「あの人は部屋に?」

 幸い、財布は持っている。部屋を見られて困ることもないのだが、何となく気になって聞くと、遼壱は浅く頷いた。

「ああ」

「何し……に、か聞いていいですか」

 思わず素で問いかけそうになって慌てた。また殴られたくはない。遼壱は横目でちらり、とこちらを見てから煙草を押しつぶした。

「なんだろうなぁ、まぁ敢えて言うなら、か」

 店主は黙って遼壱のグラスを引く。遼壱は低く「レミー」と声を掛ける。奥の棚から黒いラベルのボトルが取り出された。続いて冷蔵庫から見慣れたラベルの缶が出てくる。コーラだ。

「こいつも同じのにしてやってくれ」

 言いながら遼壱は麻槻のグラスを引き寄せる。店主は頷いて、二つ目のグラスを用意した。



 凡そ一時間後、部屋に戻ると僧侶が居た。

 流石に面食らって立ち止まると、後ろから来た遼壱に小突かれた。押し出される様に居間に入ると、ソファにかけていた僧侶が立ち上がる。僧侶と言っても袈裟を着ているだけで、剃髪はしていない。寧ろ長髪で、大体遼壱と同じ様な髪型だった。

 その恰好が所謂コスプレなのか破戒僧なのかは判じかねる。傍らには先ほどの若い男が居た。

 もしかしたら、先ほどの"慧"、というのがこの僧侶なのだろうか。

「そこに座れ」

 遼壱は手前のソファの左手を指す。素直に掛けると、彼は隣に座った。来訪者二人と向き合って座りながら、ふと、目の前のローテーブルに目を落とす。いつもはそこは何もない。が、今はひしめくように様々なものが置かれていた。

 端から、二十センチ四方程度の古びた木箱、和洋様々な人形が数体、よく分からない拳大位の石、汚れた本、扇子に縫いぐるみ、白い布の塊のようなものから、プラモデルまで。ガラクタの山、といった印象だ。

 ――まさか本当に、廃品回収なのだろうか。深夜三時に? 大体これらの査定に一時間もかかるだろうか。

 向かいに座る二人を見る。すると、先ほどバーに来た僧形でない男の方がどうも、白くぼやけて見えるのに気付いた。何となく薄靄がかかっている……否。

(発光……してる?)

 最初は煙のようなものが出ているのかと思ったが、違う。輪郭がぼやけて見えるのを訝しく思い、目を細めたが変わらなかった。

「あれ、もしかして見えてる?」

 唐突に僧形の男が言った。ナリの割に口調は酷く軽い。やっぱりコスプレなのかもしれない。どうやら発言は麻槻に向けたもののようだが、意味が解らない。

 第一、何も見えてなんかいない。

 黙っていると、僧形の男は連れ合いを指差した。

「これが仏様のように光って見えないか?」

 連れ合いの男は僧形の男の手を叩き落とす。仲が良いからそうしたのか、悪いからなのかはよく分からない。

「白い靄みたいな…」

 仏様かどうかは分からないが見えたままを返すと僧形の男はにかっと笑う。

「そうそう。それそれ。すごいじゃん。オレ見るのだけで一年かかったわ」

「お前が特別鈍いんだ」

 連れ合いの男は手厳しく言い捨てる。初めて口をきいた彼はどうも先ほど入り口に立っていた時と雰囲気が違う。白い靄のせいかもしれないし違うかもしれない。何とも近づきがたい空気というか、人間離れした雰囲気というか…。

 言葉にはできない。ただ、直感的におそれを感じる。

「で。全部廃棄でいいのか?」

 切り出したのは遼壱だった。僧形の男は軽く肩を竦めてから答える。

「そうね。大方いい気がするけどね」

「いや。それは持って帰る」

 遮るように言ったのは件の連れ合いの男だ。指差すのは量販店に並んでいるような少女向けの人形だった。大手おもちゃメーカーが出しているようなありふれた品で、特に価値があるようには見えない。

 そうは見えなかったがこの男、ちょっとヤバい向きの人なのか。そう思ってまじまじと見たら、僧形の男が大袈裟に噴き出した。

「兄ちゃん、不審者を見る目になってるぜ」

 不審者、と言われた連れ合いの男は憮然としている。麻槻は頭を下げた。

「スミマセン」

「いやいや、ミカドが先に説明せんのがいけんのよな」

 僧形の男はニカッと笑う。遼壱は今更ながら、彼を指して紹介した。

「この生臭坊主が慧。隣の……あれだ、光って見えるのが――満波みつは

「宜しくな」

 慧はまた笑う。どうも人懐っこい性格のように見える。小さく頷いて応じる。満波の方はこちらの方に構わず、件の人形に手を伸ばしている。

「ところでお前、怖くないのか?」

 唐突に遼壱が問いかけてくる。意味が解らず見ると、遼壱はニヤニヤ笑いながら机のガラクタを指差した。

「これが、あの扉の中身だよ」

 え、と思いながら視線を戻すのと、満波から逃れるように人形が動いたのは同時だった。思わず目を見開く。速くて良く見えなかったが、満波の手が触れる直前、人形は他のものを押しのけてずるり、とテーブルを滑った。仕込まれた磁石が反発したかのような動きで麻槻の方に。

 手品。そう思いたかった。机から変な気配はしなかったし。そう思ったけれど、恐らく違う。きっと――。

 人形の首が唐突にぎぎぎぎ、と回り始める。何の冗談だ。面々を見回す。満波は怒ったような顔で腰を上げると、人形を掴もうと更に手を伸ばす。瞬間、首は一気に回りきるとゴトン、と落ちて断面を麻槻の方に向ける。

 そこに、。ぬるりと暗い、黒々とした、タールのような。

「!」

 それは勢いよく麻槻の顔めがけて爆ぜる。咄嗟に後ろに倒れ込みながら目を閉じると同時に、意識は暗転する。追い出される様に、突き飛ばされる様に。コントロールを失った麻槻は、暗闇に落ちた。

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