The Haunted Mansion

1

 どうしてこんなことになったんだろう。

 ぐるぐると回る洗濯機の中を眺めながら、ずっと考えている。

 このマンションに来て、一週間が経った。あの後、遼壱は彼を再び縛り、犯罪者よろしく腰縄をつけて犬の散歩のように家まで向かわせた。夜で助かったが、誰かに見られていたらと気が気ではない。どう思い返しても、傍からみたら何かのプレイだ。

 その後の事も思い返す度に頭痛が起きる。自分の黒歴史の方がまだ冷静に思い出せるくらいだ。彼は荷造りするまで外で待つと言った。そして、自分でそう言ったにも関わらず、十分と経たないうちに、激しくドアを蹴った。

「あまり待たせるな」

 どう控えめにみても借金の取り立てでしかなかったと思う。慌てて財布と貴重品、箪笥に入っていた少ない服、その他諸々をトートバックに詰め込んで、表に出たのが約二十分後。その間、彼は二回、ドアをガンガンと蹴った。どうも五分経過の合図に蹴っていたようだ。

 洗濯機は回る。ドラム式の洗濯機はこの家のもので、つまりは遼壱のものだ。単身にしては容量の大きいそれに自分の洗濯機を入れるのは、最初こそ抵抗を感じていたがすぐに慣れた。むしろ、慣れないのは…。

 ふと、を感じて振り返る。人の気配はない。またか、と向き直るが、嫌な汗がつ、と背を伝った。この家はよくこういうことがある。時折、何か酷く嫌な気配がした。

 遼壱は完全に夜型で、暫く姿を見ていない。彼の部屋は玄関から左手に進んだ一番奥で、立ち入らないように言われている。それは別にいいのだ。仮に普通の友達とルームシェアをしているとしても、相方の部屋を勝手に覗くのはマナー違反だろう。

 それよりもあの部屋だ。あの、重々しい黒い鉄扉の先。もう一つの、禁じられた部屋。あの、暗い……。

 瞬間、前方からけたたましいメロディが流れ始める。ビクッ、と。大きく肩を震わせてから、苛立ちで思わず脚が出そうになった。何のことはない。洗濯が終わった合図だ。大きく息を吐くと、洗濯機の扉を開いた。

 持ってきた籠に洗濯物を移しながら思いを巡らす。もしかして自分は、騙されているんじゃないだろうか。何度目か、そんな風に思った。

 そう思う第一の理由はこの部屋だ。とにかく広い。遼壱は事務所を兼ねているからだと言っていたが、”何でも屋”風情が住めるような部屋ではない。恐らく築年数は五年以内、オートロックの高層マンションの上階で、フロアには一部屋しかない。幾らするのかは知らないが、大抵の人間が一生手が出ないクラスの住居だった。

 室内はモデルルームのように清潔に保たれており、それでいて冷蔵庫には電気も通っていて、ビールとチーズくらいはある。生活感は殆どない部屋だが、所々に人が住んでいる痕跡があるのが逆に気持ち悪い。

 そして遼壱自身も、実在を危ぶむほど見かけない。だから。こんな状況なのに、以前よりずっと、快適に暮らしている。

 ――ただし、、だったが。

 洗濯物を移し終えると、廊下に出て真っ直ぐ奥に進む。すぐに長い廊下にぶつかった。そこを右に曲がり、意識的に俯いたまま、まっすぐ進んだ。進行方向の左手に宛がわれた部屋があり、ベランダもついている。たぶん以前は女性と同棲でもしていて、その女性が住んでいたのではないか。というのも、偶にうっすらと残り香のようなものを感じることがあったからだ。不快なわけではないが、偶に香る華やかな香りにどうにも居た堪らない気持ちになった。今まで一度も女性の部屋に入ったこともないのにいきなりそこに住むなんて、どうしてこんなことになったのかなんて、虚しくなるのだ。

 扉の前に立って、ドアを押し開く。そしてちらりと、右手方向にあたる廊下の突き当たりを見た。途端、ぶるり、と身体が震える。慌てて部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めた。

 自分に宛がわれた部屋の入り口の、すぐ先の突き当たりに、その黒い扉はある。

 それが、自分が騙されているのではないかと思う二つ目の理由だ。その扉は開けてはならないと言われている。この部屋に来て最初に言われたことだ。そして、その扉を見た瞬間、悲鳴をあげそうになった。

 その扉は真っ黒に塗られた、重そうな鉄扉だった。どうしてマンションの一室に、こんな重厚な扉がつけられているかなんて全く想像がつかなかったし、想像したくもない。その扉には目の高さより少し上に十字架がついている。何故だか、上下逆さに。

 どうも禍々しくて、目に入るとすぐに寒気がして動悸が始まる。それに気付いて以来、身体が拒否反応を示して難儀している。絶対によくない部屋だ。その側に住めということは、中の何かに自分をどうにかさせる気なのではないかと勘ぐった。

 窓を開いて、平静を装いながら洗濯物を干す。心臓は早鐘を打っているが、本能的に悟られてはならないとそんな風に思って、あえて普段通りを心がけた。本当にあの部屋だけは怖ろしくて堪らない。何故だかは判らなかったが、扉を目にしただけで寒気がした。酷い時は立ちくらみがして、視界が歪む。そこには絶対に

 なのに、あの男はあの扉のすぐ隣の部屋を宛がった。兎に角そこに、底知れぬ悪意を感じるのだ。

 とはいえ、出ていく気にはなっていない。家賃は実質ただになってしまい、未だ何の手伝いもしていないのに今月分だと二十万ほど渡された。気持ち悪くてまだ手は付けていないが、借用書を書かされたわけでもない。当の暴力男は殆ど家にもいないわけで、これでは本当に、出ていく理由がない。

 ただ、怖いだけだ。遼壱も、あの黒い扉も、自分自身も。



 「っ!」

 ガバリと状態を起こして、肩で息をする。夜半過ぎ。部屋は薄暗い。魘されていたのかもしれないと遅れて気付く。全身、汗でぐっしょりと濡れていた。

 悪い夢を見ていた。目が覚めてみると、怯えていたのがバカらしく思えたが、童話の夢だった。青髭だ。幼いころ聞いた、青髭を彷彿とさせる夢だった。

 夢の中で、石造りの塔の内部に居た。果ての見えない螺旋階段を只管に下って行く。ぞっとするほど無音の世界にあって、自分の呼吸音がただただ五月蠅く感じられた。纏わりつくような湿った空気から逃れるように、下って、下って、辿りついたのはあの、黒い鉄扉。そして自らが手にした、大量の鍵の束。

 その一本を、手にしている。

(開けてはならない)

 身体は言うことを聞かない。

(開けてはならない)

 ガタガタと激しく震える腕はその鍵を、

(開けてはならない)

 鍵穴に――。

 そこで、目が覚めた。

 馬鹿らしい。寝なおそう。そう思って横になった瞬間、カタン、と音がした。部屋のすぐ側だった気がする。

 側……? 判っているのに自分を誤魔化そうとするのはなんて滑稽なのだろう。多分あの扉の方だ。全身の血がざ、と下がる感覚と共に一気に背筋が冷える。

 寝具の中、身を固くする。気のせいだと何度も思おうとした。眠ってしまえばいい。目を瞑り、意識を飛ばそうと努力する。けれど――。

 カタン。

 耳を塞ぐのが恐ろしい。塞いでしまって、聞こえていると気付かれるのが恐ろしい。家鳴りとは質の違う音だ。明らかに、何かが動いた音。

(いや、そうだ。何かが、倒れたとか……)

 物が自然に動くことは、百パーセント有り得ないわけではない。そう言い聞かせようとしたが…。

 ドンッ。

 思わず大きく、肩を震わせる。怯える様を笑われているような気がした。最早誤魔化しようもない、何かを叩くような、鈍い音だった。もしかして、遼壱だろうか。元来眠りが浅い方ではあったが、彼が部屋の前を通っていないとは言い切れない。彼があの部屋で何かをしているのだろうか。だとすれば、一体何を…。

 ドンッ。

 その音は、思考を停止させるには充分だった。布団を頭から被るか。寝たふりで通すか。けれど、もし、あの部屋から何かが出てきたら? 幸い、まだ扉が開いた気配はない。今のうちに、このマンションから出てしまった方が……。

 そんな風に思うと、もう一刻の猶予もない気がした。慌てて起き上がり、電気のスイッチに飛びつくが、点かない。幾度かカチカチと押しても、何も起きなかった。半ばパニックになりながらなんとか手探りで財布と鍵を掴むと、ドアを開ける。

 瞬間―――。

 バンッ!

 真横で音がした。吸い寄せられるように扉を見たら、もうダメだった。足が動かない。それどころか、指一本動かせない。

 バンッ!

 明らかに人間が平手で叩いているような音だ。

 バン、バンバンッ!

 激しく乱れ打つように音は数と勢いを増していく。目前で逆さ十字架から煙が立ちはじめた。動けない。パニックになっているのに、一声すらあげられない。扉は振動で揺れる。そして、

 バン、バン、バン、バンバンババババババ―――。

 凄まじい勢いで、鉄扉が叩かれ始めた。何十本という手で繰り返し叩いているような、被さり、乱れた音が、深夜の廊下に響き渡る。

 どうあがいても体は動かない。扉の方を向いたまま、指一本動かせない。音も止まない。気が狂いそうな破壊的な音の渦の中、ぐにゃり、と歪み始める十字架。

 それを、声も出せずに見つめる。

「っっ――ッ!」

 叫びたいのにできない。硬直した体がず、ずず、と。何かに引っ張られる様に動いていく。両足は揃えたまま、床を滑るように。

 ず、ずず、ずずずずず―――。

「!!!!」

 パニックだった。眦から涙が滲むが、どうしようもない。どんどん扉が近づいてくる。どんどん、どんどん…。

「開けるなって、言ったよな」

 耳元に低い囁きが届いたのは、その瞬間だった。肩口に温かい手の感触。そのまま、ぐ、と引き寄せられる。刹那、酷くあっけなく束縛が解けた。

「りょ……」

 名を呼ぼうにも、歯の根が合わない。

「いいか、坊主。ここを開けたら」

 囁きながら、遼壱はゆっくりと身をかわすようにして前に出ると、一人、扉の前に立った。

「――――――おまえは死ぬ」

 そして唐突に足の裏で扉をガンッ、と蹴り返す。瞬間、音が止んだ。遼壱は歪に曲がった十字架を拳で叩いて雑に伸すと、ぐるり、と回転させた。

 もしかして。

 あの十字架は何かの力でずっと逆さになっていたのだろうか。

 不意にそんな風に思った。



「そういやあ、おまえの名前聞いてなかったな」

 リビングに入るなり、遼壱は唐突にそう話しかけてきた。思わず憮然とする。確かに名乗った覚えはないが、いくらなんでも遅すぎないだろうか。

若宮わかみや。若宮 麻槻あさき

 名乗らないわけにもいかず、答えると、遼壱は何故か少し考え込む様な顔をした。けれどそんなことはいい。言わなければならない。

「あの部屋には居られない」

 麻槻は静かに切り出す。まだ動悸が治まっていない。耐えがたい恐怖のぬるりとした感触が、すぐ傍にある気がした。

「……まぁ、荒療治だとは思ったがな」

 ぽつり、遼壱は言う。どういう意味だ?眉根を顰めて問いかけると、彼は小さく溜息をついた。

「お前は、。その中途半端な状態が一番危ない」

 開く? 何がだろう。この男は一体何を言っているのだ。疑問が顔に出ていたのだろう。遼壱は補足する。

「普通の人間はな、あっちの世界を感知できないように感覚を閉じてるんだ。大抵の人間はそこをこじ開けようとしても無理だ。センスがない。耳抜きができないやつと一緒で見えないもんは見えない。だが中には、直ぐに開いてしまう奴がいる」

 遼壱は一度言葉を切って、じっと麻槻を見た。

「お前みたいにな。お前はなのに迂闊に死に近づいた。今は半開きの状態だ」

「……半開き?」

 呟くと、遼壱はいつになく真面目な顔で頷く。そして続けた。

「そうなったら、閉じるのは難しい。記憶を消せるんなら別だが、もう一層、開けちまった方が危険を避けられる」

「な―――」

「あいつら、見えるやつが大好きなんだよ。自分が死んでるからな。同じように死ぬとこが見たくて堪らないんだ。だから、ぴったり憑いてくる」

 ぞっとした。ぶるり、と身体を震わせるが、遼壱は笑わなかった。

「だから逆に五感を研ぎ澄ますんだ。居るところには近づかない。憑いたらすぐに落とす。それしかない」

「そんなの――」

 死んだ方がましなんじゃないか、というセリフを、何故だか無理やり飲み込んだ。それを言ってしまったら、殴られそうな気がしたから。

「お前を守ってやる。代わりに、俺の目になれ。……お前みたいなやつはんだ」

 そう締め括った遼壱は、いつかと同じく、悪魔のように笑った。

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