[BL] No Exit
ユキガミ シガ
Possession
1
「お前、死相が出ているな」
乾いた唇の内側で、何度かその不吉な単語を反芻した。けれど、全く腑には落ちない。
どろりと濁った瞳を、声のした方向に向ける。
そこには見知らぬ男が座っていた。地面に伏したままの視界には、パイプ椅子に掛けた男の足元しか見えない。その体勢から苦心して背を反らし、なぞり上げるように見上ようと試みる。黒い革のパンツ、麻のジャケットに、白いシャツ。
さらに視線を上げ、どうにか顔を確認した。意志の強そうな高く通った鼻筋、無理に口角を上げているらしい口元……少し皮肉を含んだ表情に見える。額は広め、後ろに撫で付けた髪は長く、一つに束ねられている。眼光は鋭い。
男は広げた両の掌の、指先だけをつけては離す、そんな動作を繰り返している。その様をぼんやり眺めながら、やはり、と結論付けた。
知らない男だ。
「一応、精神科には連れてったんですけど、こいつ、何も喋んなくて」
すぐ脇で声がする。視線を向けるのが億劫でそちらを見るのはやめた。この声は知っている。同じサークルの男だ。名前は――何とか村? 村がついた気がする。
そう言えばここはサークルで使っている部屋だ。雑多で汚い。使い古された事務デスクが二つ、同じく事務椅子が二つに、パイプ椅子が何脚か。その上に乱雑に積まれた雑誌や書籍、溢れんばかり、机上を埋め尽くすガラクタたち。誰かが持ち込んだ食器とか、お土産の変な造形物だとか、レプリカの土器だとか―。
それで。とにかく、この汚い部屋の隅に、いつから居るんだっけ?
「いつからこうだ?」
問いかけは脇の
「判んないっス。すみません。……三日前に俺があった時は既にこうで、その前に会ったのは確か、先週の金曜です」
目の前の男は、歳も少し上のようだし―村よりは目上の立場のようだ。男は―村に向いて小さく頷いたようだった。そして、向き直る。こちらを見ている。気配だけで、何故か判った。
「さあ、間に合うかな。微妙なところだ。大分その……なんだ。腐ったのと意識が溶け合ってるな」
前半は―村に向けて喋っているようだった、けれど、後半は違う。こちらに聞いてるのだろう。だが、相変わらず何を言っているのかさっぱり理解できない。腐ったの……? 何のことだろう。
「気持ちいいか? ……その様子だと、相当イイんだろうな。それで、何処で拾ったんだ」
問いかけの意味もさっぱり分からない。兎に角、何も腐ってなんていないし、確かに意識はドロドロに混濁している気がするが、それは今、疲れているからで――。
そんな思考を、口に出していたつもりはなかった。だが、その男はまるで心を読んだかのように返す。
「疲れてるんじゃなくて憑かれてるのに判らないのか、お前。……見た所、初めてじゃないな?」
一体なんの話をしているのだろうか。どうやら、言葉が通じない類いの人間のようだ。答えるべき言葉も見つからず、無言でいると、唐突に男は腰を上げ、つかつかと近寄ってきた。目前にしゃがみ込んだ彼は、唐突に胸ぐらを掴んでくる。ぐ、っと引き上げられ慌ててもがいた。怒りは湧かない。ただ、驚いて男を見る。何故なのかはよく分からない。男は額がつかんばかりに顔を寄せてきた。正面から覗き込まれるのが嫌で、目を逸らす。
「あの、ミカドさん……オレあんまり金なくて」
慌てたように―村が口を開く。なにか、金を払う事情があるのだろうか。よくは判らないが、残念ながら自分は絵に描いたような苦学生で、食費もギリギリな有様だ。仮にこの男がその筋のもので、―村の臓物の危機だったとしても、一円も貸してはやれない。残念ながら。
そんな、意味のないことを考えていたら、男はその体勢のまま、―村の方を向いて一言返した。
「コイツから貰う」
コイツ、と呼ばれたのが酷く癪に触った。大体、なぜ胸ぐらを掴まれて金を払う必要があるのだろう。もしやカツアゲなのか? これは話に聞くカツアゲというやつだったのだろうか。
疑問と、反感が胸の中で渦巻いている。けれど、それをどう処理していいか判らない。頭の中はどす黒い
―村は命乞いをするように両手を組み、祈りを捧げるようなポーズで言う。
「そいつ、なんか天涯孤独って聞いてて……。学費どころか食費もカツカツらしくて……。オレ、バイトしてなんとかするんでその――」
―村はどうしてこんなに必死なのだろう。名前も曖昧なくらい、縁遠い人間だった筈だ。状況が掴めないし掴む気もない。足掻く気力もない、鈍化した思考では、何一つ深く考えられない。吊られた襟首が痛い。思っていたら、男がにやりと笑うのが見えた。
「兼田。俺はコイツから貰うって言ったんだぞ」
刹那、ぞくり、背筋が泡立った。体が震えたのはどうやら男にも伝わったらしい。彼はあからさまにバカにした様子で鼻を鳴らした。
それでも、怒りと言えるほどの感情は湧かない。心も体もどろりと重たく、鈍い。兎に角、手を放してほしい。
手を……。
「して」
やっと声が出せた。でも、ひどく疲れる。
「あ?」
男は聞き返す。もう一度。もう一度だ。
「離して」
言った瞬間、部屋の隅から物凄い勢いで何かが飛んできた。男が目を剥いて体を低くするのが見える。スローモーションのように、ゆっくりと――。
少し遅れてパリン、と音が聞こえた。割れたのは陶器のカップで、女の子のものなのだろう、見たようなクマの絵柄のものだった。部屋の隅から独りでに飛んできたものと見え、恐らく空中で割れて、地面に落ちて更に粉々になったようだ。
その証拠に、男の頬にすっと赤い筋が入った。
何故だか楽しくて、笑いがこぼれる。あはは、あは、あはははは。愉快だ、愉快だ。こんなに愉快なのに、何もかもが絶望的に重たくて、じっとりと湿っていく。
気を失いそうだと、頭のどこかで思った瞬間――。
肋に拳がめり込む感触とともに、視界は暗転した。痛みは少し遅れて意識に上り、それもすぐに、判らなくなった。
◇
ゆらゆらゆらゆら、蝋燭の火が揺れている。いつからか、それを、ぼんやりと眺めていた。後ろ手に縛られた状態で暗い部屋の中央に転がされていて、殴られた腹と、なぜか顔も痛い。口の端が切れてる気がした。
ゆらゆら、揺らぐ炎を見ている。美しい、赤い火を。見ていると目が焼けて、緑がかった残像がいくつもいくつも現れた。目を閉じても緑の炎がゆらゆらと揺れる。
だんだん、楽しくなってくる。
楽しく――。
「見せてやるよ」
唐突に聞こえた声。誰のものだったか思い出すよりも先に、目前に差し出されたのは歪んだ鏡の切れ端だった。映るのは当然自分の筈――なのに。
「――っ!」
悲鳴を上げようにも、乾ききった喉が張り付いたように強張って、うまく声が出せない。ドロドロに崩れた顔が映っている。自分の顔の半分ほどが熟れた果実のようにドロリと溶けて。
吐き気を覚えるとともに、少しだけ意識がはっきりとする。それを見て取ったか、鏡はすっと引っ込んだ。
直後、代わりに何かを盛大に掛けられる。
「っ!! しょっぱ!」
いくらか口にも入った。思わず叫ぶと男は悪びれもせずに言う。
「塩だからな」
どうにか体を反転させて見ると、思った通り、先ほどの男が立っていた。手にはよく見る食塩のビニール袋。中身は空だ。今しがた全部ぶちまけたという事だろう。
「ああ、漸く剥がれて来たな。……坊主、どこで何したのか言ってみろよ」
「どこでって――」
言い終わる間もなく、胸ぐらを掴まれる。乱暴な男だ。また殴られるのじゃないかと身構えたが、男は顔を近づけながら、にやりと笑っただけだった。
「オレは気が短いんだ。嘘はつくなよ」
さあ、と促されて記憶を弄る。最近どこかに行ったか、という意味だろうか。判らない。黙っていると、男は言葉を足す。
「いつもと違うことをしただろう。何か」
と、なると。
「バイト」
頭痛がする。何とか一言答えた。
「どんな」
低く囁かれて、少し考えた。説明が難しい、と思ったが、すぐに考えを変える。
「特殊清掃」
これで通じることもある。そして、男は通じる部類の人間だったようだ。要は死体があった部屋の後始末をした。結構な時給だった。
「すぐ辞めろ」
男は即座に返してくる。
「は?」
思わず素で聞き返すと平手でぶたれた。とはいえ男の力だ。数日腫れる勢いの衝撃が来て苦痛に顔を顰める。相変わらず胸ぐらを掴んでぶら下げられたままではあったが、睨みつけると、男は薄気味悪く笑った。
「大分、正気に戻ったじゃねぇか」
言われてみれば、少しだけ思考がクリアになっている気がする。
「あんた誰?」
問いかける。これもさっきまではできなかったことだ。男は唐突に手を放した。縛られている状態では受け身もとれず、したたか腰を打つ。苦悶の声を漏らしつつ見ると、男は壁を背に座って懐から煙草を出していた。
「吸うか?」
問われて、首を横に振る。男は笑って頷いて、慣れた手つきでたばこのケースをトントン、と叩いた。飛び出してきた一本を口に含むと、手で覆う様にして火をつける。美味そうに煙を吐いた後、ちらり、とこちらを見た。
「俺は
「あんたミカドさんじゃなかったか? ……そもそも何者なんだ?」
聞きたかったのは名前ではない。そんな意味も含めて問いかけながら、何とか身を捩るようにして体を起き上がらせると、男はぷかり、と煙を吐き出して言った。
「苗字をもじったあだ名だよ。何者か……か。要は俺の生業が聞きたいって意味か?」
頷いて見せると、男はゆっくり立ち上がり、背後に回る。ここまで幾度も殴られている訳で、自然に体が強ばった。しかし、それ以上暴力を振るわれることはなく、代わりに肘のあたりを掴んできた。そのまま引き上げるようにして立たされる。擦れた足が酷く痛んだ。男はそのまま背後に居て、気配から察するに、どうやら拘束を解いてくれているようだ。そうしている間も忌々しい塩がざらざら落ちて足下を白く埋めた。
はらり、と縄が床を打つ音が耳に届く。それと共に、耳元に低い声が忍び込んできた。
「俺は、何でも屋だよ」
ぞわり、と肌が粟立つ。だが、腹の底に湧いた本能的な恐怖を押し隠すようにして、絞り出す様に問いかける。
「何でも屋?」
なんだその胡散臭い肩書は。
縄目の跡が残る手首を擦りながら力なく膝をつくと、そのまま胡坐をかいて、遼壱をまじまじと見上げる。背は高そうだ。独特の雰囲気に、長髪。会社勤めはしていなさそうだ。切れ長の瞳は鋭く、鼻筋は通っている。大きめで、酷薄そうな薄い唇……冷たい印象だが、いい男の部類、つまりモテそうな感じだけどそれよりも。何故だろう、なんだかヤバい気配がする。どこかアウトサイダーの香りがした。要はチンピラか何かのような、そんな空気を感じる。
あまり関わり合いになりたくない。そんな風に思っているのを知ってか知らずか、彼はぼやく様に呟いた。
「まあ、今は八割同じ仕事をしてるがな」
「……?」
実入りのいい仕事でもあるのだろうか。思っていると、彼は不穏なことを言い始める。
「お前みたいなのを研究してる機関があってな」
お前みたいなの、とは……どういう意味だろうか。ぽかん、と口を開けて見つめた先、遼壱は意味ありげに笑っている。
「勘の悪いやつだ。その様子じゃぁお前、自分に何が起こったか判っていないんだろう?」
一体、何のことだ。思いつつ、少し冷静になってみる。何故ここに居るか。この男は何をしたのか。どうして、ここにいるのか。
自分は貧乏大学生だ。身よりも金もない以外は特筆すべき特技もなく、品行方正とは言わないが、目立たないように生きている。今のところ警察の世話になったことはない。今日だって普通に学校に――そこまで考えて、気付く。
そういえば、今朝は何を食べた? いつ起きて、何限から学校に行った? 今日もバイトが入っていなかったか? 思わず、眉間に指をあてて目を固く瞑る。何も思い出せない。では最後の記憶は?
「!」
脳裏に浮かんだどす黒いしみに思わず口元を覆う。新しく始めたバイトの記憶はある。小汚いアパートの二階。ひどい悪臭。布団にはどす黒いしみ。しみが――。
「何か思い出したか?」
「しみが――」
しみが、起き上がった。
それ以降の記憶はない。防護服を着て、防護マスクをした自分はぼんやりと立ってそれを見ていた。そんな事は有り得ないのに、何も思わなかった。それ以降の記憶はぷっつりとない。その次は、サークルの使っている小部屋でこの男に殴られた記憶だ。
「今日は何曜日?」
問いかける。
「木曜だ」
なんてことだ。バイトはすっぽかしたのだろうか。真っ青になって頭を抱えるが、遼壱は面白がっているのだろう、小さく笑った気配がした。
「何が何だか」
それは殆ど独り言だったが、遼壱が応じる。
「お前は取り憑かれてたんだよ」
「そんなわけが」
ない、と言おうとした。けれど、彼の顔を見たら何も言えなくなってしまった。
「まあいい。お前は死ぬとこだった。俺は助けた。俺は見ての通り善人じゃない。何が言いたいかわかるか?」
その声は低く、よく響いた。やっぱりそうなるか。少し間は開いたが、結局頭を下げる。
「……金は、どうにかします」
結局のところ、そう答えるしかない。あんな記憶、植えつける事なんてできるわけはないし、ということはこの男に助けられたのは事実だ。兼田にも礼を言わなければならない。
(苗字に村なんか全然つかないし……)
名前くらい覚えておかなければ罰が当たる。
「お前、本当に鈍いな」
耳に飛び込んできたそんなセリフに思わず顔を上げると、目前に遼壱の顔があった。え、と思ったが直後
「!」
噛み付くか。悩む間もなく、彼は離れていく。呆けたように見上げていると、彼はからかう様な嫌な笑みを浮かべた。
「なんだ、はじめてか」
肯定も否定もしたくない。自分は地味で、目立たない容姿をしている。どちらかというと忘れられがちな存在だった。もちろん女の子に特別に声を掛けられることもなかったし、だからと言ってそれが特別な事でないと判っている。
普通に、もてないだけだ。
「まぁ、弾除けにはちょうどいい。お前は俺の助手をするんだ。これから。俺がいいと言うまでずっとな」
「な――」
無期限の無償奉仕。そうとしか取れない。しかも、どうやら彼はそっちもイケる趣味のようだ。もしかして貞操の危機ももれなくついて回るのだろうか。否、そういう店に売られるという線もあるかもしれない。慌てて身を起こし、真っ青になって見上げるが、遼壱は勝手に話を続ける。
「大学は行ってもいい。金も困らない程度には出してやる。だが、俺の仕事を断る権利はない。わかるな?」
嫌だ、という言葉を口に出すより先、喉元に手がかかる。簡単にへし折ることが出来るぞ、とでも言いたげに、彼はそこに片手をかけたままにっこりと笑いかけた。
「お前の命、いくらだ?」
―――兼田には藁人形を贈るべきだ。ごくり、と喉をならしながらそう思い直す。なんでこんな男を呼んでくれたのだろう。これならまだ胡散臭い宗教施設に投げ込まれた方がまだ諦めもついた。
「俺の部屋に来い。お前は俺の恋人ということにしておこう。刺されないように気をつけろよ」
「なんで
なんとか、それだけ絞り出すように問うと、遼壱の指に力が篭る。息苦しくて顔を顰めると、遼壱は静かに顔を寄せて、ゆっくりと言い放った。
「お前が、気に入ったんだよ」
そんなわけがない。思うが、反論したところではぐらかされるだけだろう。諦めたように俯き、深い息を吐くと、彼は満足げな顔で首にかけていた手を解くと、ひらりと返して差し出してきた。
その手を掴む道しか、どうやら残されていないようだ。
悪魔に魅入られてしまったかもしれない、というのが、その時の気持ちだった。
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