おうぎは質問の意味を捉えかね、首を傾げる。灰色の瞳が不思議そうに私を覗いた。


「呪い大好きよ、私」


 廊下から、間延びした会話が通り過ぎる。


「普段からよくやるわね。本人の見えない所で…呪いの対象にバレないように。こっそりとね。たまにバレそうになったりするけど」


 えっ


「やったことあるんですか?」


「まぁね。泉の本に勝手に持ち出したりとか、泉の眼鏡隠したりとか、歩いてる泉の踵踏んだりとか…」


「可哀想なんでやめませんか?」


「呪われやすい体質なのよ、アイツ」


「なるほど」


「アイツとよく廊下ですれ違うんだけどさ、いっつも怪しい液体携えて走ってるんだよね。で、毎回顔からコケる。」


「はぁ」


「その液体はどこに行くと思う?」


「扇さんですか」


「アイツはこの学校で要注意人物だから。気をつけなさい。ストックした怪しい液体は数知れず、浴びせかけた例は数知れず、死者がいないのは恐らく偶然に過ぎないわ」


 よくクビにならないな、と不思議に思う。加えて校舎外ではサボっている始末だ。実は泉という人間は真性のクズなのではないか。そのパターンも否定できない。


「話が逸れたわね…それこそ怪しい液体準備して、ムカデザルの前脚ぃ…ノゾキダヌキの眼球ぅ…シミズの精液ぃ…とか、全部ごった煮にして呪術的な何かを生み出すような類に関しては、全く信用してないわね。面白そうではあるけど」


「本当にあるんでしょうか、そんなもの」


「あるかどうかは別として、必要は無いわね。そんな回りくどいことしてる暇があるなら首をはねて埋めてしまうのが良いわ」


「そうですね」


「『法』とか『規律』に縛られないと暮らしていけない生物がいるって、本で読んだことがあるわ。ある集団にその権利を集中させて、全てを任せるの。他の生き物はその中でしか動けないし、少しでも外れたことをすれば、罰せられる。」


 ─変わった生き物だ。それはそれで、良い暮らしなのだろうか。


「たぶん、私達のような少しだけ知恵のある生き物なんでしょうね。考えて考えて、出した答えがそれだった。本当に私達とは違う生き物なんだな、って思うわ。彼らはお互いを守る、平等な壁を築いた。誰もが納得できるような大きな壁。その壁に感謝する時もあれば、うざったいと思う時もある。でも一つの答えだったのよね」


 何故今まで疑問を持たなかったのだろう。「虐げられたら、直接、自ら手を下す」。私達のごく当たり前のルールだ。でもそれは、当たり前しか知らないが故のことだ。これは誰かが決めた酷く単純なルールに過ぎない。あまりにも単純で明快だ。その明快さが、恐ろしかった。


「彼らがやってた事が『呪い』と呼ぶに相応しいと私は思う。自ら手を下すことはせず、別の何かに祈りを捧げて事を成そうとする。それは、本質的に自分で解決する機会を奪っている。自分で解決すべき事ですら、『呪って』それでお終い。」


「どんな生き物なんでしょう、私は聞いたこともないですが」


「さぁ、忘れてしまったわ。でも、私達より面倒臭い生き物なのは確かね。群れで暮らすのが生きる為の条件で、とても非力ですぐ食べられてしまうような弱い生物よ。」


「この土地のどこかに彼らは居るんでしょうか?」


「いないわね、とっくに滅んでるでしょ。私達によって」


 前で組んだ私の手を、扇は見つめる。


「そもそもそんな生物が居たかどうかも怪しいわ。私の曖昧な記憶だから、あんまり当てにしないでよ。文明を築いていたなら、何か痕跡残してる筈だしね」


 ─もし本当にそんな生物がいたら、私は会いたいと思うだろうか。…会ってみたい。会って、私の世界と彼らの世界をつなぎ合わせる。そうしたら、私の世界のおかしな部分が見えてくる筈だから。私の世界がどうおかしいのか私は知らない。だから、私にはその義務がある。知る義務が。ひた隠すこの世界がおかしいのか、知ろうとする事自体おかしいのか。狂ってるのはどっちだ。


「扇さんならどうしますか?彼らに会えるとしたら」


 扉のすぐ向こうからはしゃぐ声がした。


「まず喧嘩になっちゃうと思うから、遠くから見てるぐらいが丁度いいわ。たまたますれ違ったら、少しだけ話してみるのも悪くないわね。お互い別の生活に戻って、すっかり忘れた頃にまた出会って言葉を交わす。それ位で充分。」


 扇はゆっくりと確かめるように立ち上がると、私のベッドをよけて窓際に立った。窓を固く閉ざしているのは大きな二つの蔦で、捻じれ絡み合っている。扇は手馴れた風に解き始めた。


「それでも、一緒に生きていることには変わりない筈よ。一緒にいることは難しくても、こうすればほら、簡単じゃない!」


 絡まった蔦を解いて、勢いよく窓を開け放った。僅かに音を立てながら入ってくる風に、扇の髪が様々な色に輝いて舞う。薄い色の瞳を覗かせ、弓なりになった小さな口元は、彼女に合った笑顔だった。入ってくる冷たい空気と、逃げていく温かい空気は交差して、別の感覚を生み出した。


「千宏も明日からここの生徒よ。変な奴ばっかりだけど、頑張ってね」


 顔の横でガッツポーズをした彼女は、可愛らしかったが、どこか円熟したものがあった。珠子お婆ちゃんをふと思い出して、辛くなってしまいそうだったが、今の私は別のもので満たされていた。通りを歩くのは騒がしい人達だった。


 この人になら、話を聞いて欲しい。


 そう思えたのは自然なことだった。ちょっとだけ顔がほころんだ。


「また来てもいいですか」


「もちろん!」


 扇の笑顔は、私の内に深く残る。失うものばかりだったから、この時間は私にとって宝物だった。


─もしも、このまま時間が


 そこまで思って、あることを思い出した。


 ああ。


 呪われてるんだった、私。


 去来するのは大きな不安と無力感。内に湧く寂寥。


 時は止まっても戻ってはくれない。


 ふと覗いた扇の顔。


 止まっていた。


 揺れる髪は枝のようになり、浮かぶ彩色は色だけを残して死んでいた。


 私の身体は既に動かない。


 思考だけが虚しい程によく働く。


─その調子なら分かってるわね─


 ミアの声は冷たい。

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