閉曲線

 目が覚めてから、どれだけ時間が経っただろう。覚醒した後、すぐに再び目を閉じた。ほぼ反射的にそうなった。


 一瞬映った天井は白かった。石造りかな、とも思ったが木目らしき跡が目に入ったので木造のようだ。木造で真っ白な素材を使っているのは私の村では見た事も聞いた事もない。いよいよもって私がどこにいるのか分からなくなった。さっきの悪夢は既に終わり、現実が始まっていることには違いなかったが、うんざりする程の静寂が私の不安をより一層掻き立てた。


 すぐ側に人間がいることは分かっていた。パラパラと本をめくる、足を組み直す、椅子の背もたれに体重を預ける、本を閉じてまた別の本を取り出す。一つ一つの所作は様々な形をとって私の前に現れた。またあの真っ黒な悪魔が居座っているのか、金鵄があの時のように私をおぶってきたのか、どれも相応しい気がしたがあまり気の進まない話だった。


 キィと椅子が楽になったような音を立てた。近づいてくる足音は地面を這わせるように静かだった。私のすぐ左隣にはその人間が立っている。目を開けて顔を窺いたい衝動に駆られたが、止めた。まじまじと見つめる視線は恐ろしかった。だが、人間はすぐ身を翻していった。また椅子が苦しそうな音を立てて軋んだ。


 再び訪れた静寂が、あの狂った映像を掘り起こした。巨大な化物が家屋を押し潰し、集会場を溢れる人間ごと飲み下し、あっという間に更地にしてしまったこと。二タニタ笑う、おぞましいあの双子。全てが瞼の裏で生き物のように蠢く。全身に悪寒が走る。


 呪われているのよ


 その一言があの一時を象徴していた。


「起きてるんでしょ?そんな構えなくても良いって」


 不意にかけられた声は掠れていた。知らない声だった。


「まぁ何があったかは泉から聞いてるから。大変だったね」


 観念したように目を開けて上体を起こした私は、改めて部屋を見渡した。天井、側壁は例の白い木材で象られている。側壁は緩やかなカーブを描いており、鳥瞰で見る部屋の形は寝かせた笹舟のようだった。私の右隣には大きな窓が開いて、そこから覗くのは開け放たれた観音開きの巨大な門と通りを行き交う人の姿だった。昇りきった太陽と交換するような形でまばらな人影が交差していく。ゆったり歩くのは道を行く人で、先を急ぐ人は脇に植えられた樹を軸に繊維を走らせた。


「もう春だっての、早いなぁ」


 私のすぐ隣に椅子を運ぶ。カタンと置く際に頭髪が陽の光に反射して虹色に煌めいた。目の前で見るのは初めてかもしれない。絹の一族だ。目は薄い灰色で、耳は小さく、唇は薄く引き締まっていた。


「千宏って呼んでもいいかな?」

「はぁ」


 私の生返事に彼女はありがとう、と返した。


 彼女は自分を“扇”と名乗った。また、ここは葉狗田の医務室で、彼女はここに勤める医師であると、そう語った。


「私が聞いたのは千宏が蛇に呑み込まれてそのまま出てこなくなったこと。後を追った泉が倒れた君を見つけたこと。ココまで良いかな?」

「はい」

 、と答えた所であの蛇の記憶が生々しく蘇った。集落で破壊の限りを尽くすあの光景が。


「あの蛇はどうなりましたか」


 扇は一つ大きく息を吐く。


「見失ったみたいだよ」


 あの巨体で隠れるのは不可能では、とも思ったが、どうやら地中に潜ったらしい。追跡しようとしたのは当然だが、山のような泥の塊が堆積しており、あれだけの質量をどかすのはかなりの時間と労力を擁する、との事だった。


「千宏はどこまで知りたい?話せるところまで話すつもりでいたけど、千宏を見てるとあんまり似合わないような気がしてね」


 扇は小さく笑う。泉とさして歳は変わらないようだが、纏う雰囲気がどこか人を落ち着かせる。


 私は少しだけ考えた。


 扇が話そうとしていることは紛れもなく禁忌についてであり、それを知った私は否応なく付き纏われることになる。『呪い』に。受ける前とあとでは何が変わるのか判然としない。


 だが悪魔ないしは黒い猿と出会わなければ一生その危うさに気づかなかっただろう。あの悪魔は脇道の象徴だった。悪魔にとっては表通りかもしれないが私が真っ直ぐ歩ける道ではないと思い知った。


 そうですね、と言いかけたその時だった。


 時が止まった。


 扇の上げた口角はいつまでも戻らず、視線は私の目を覗いたまま固まった。


 胴は金属のように死んで動かない。それは私も同様だった。


 いつまで経っても次の瞬きはやって来ない。指先も背筋も曲がらない。


 力を入れようとしても平常の感覚で動かない。命令が頭で止まっていた。


 視界の端に映る景色も止まっていた。道を行く人は踏み出した足を空中で止めていた。風に揺れていた樹木も微動だにしない。


─良い?ここは『知りたいです。教えてください』でしょ?─


 頭の中に響く声はあの時の…双子のものだった。


─はい、もう一度─


 声が途切れると、またいつもの景色が戻ってきた。扇は私の返事を待っている。ゆっくりと瞬きをしながら。遠くから聞こえる喧騒も同じだった。通りを行く人はその足を止めない。


 何だったんだ、今のは。


 あの双子は私の夢に偶然出てきた何かに過ぎない。あの夢だって、突拍子もない条件がたまたま見せた映像だ。


 私はもう何も知りたくないし、関わりたくない。私が触れたものの恐ろしさは私が一番よく知っている。なのに、なんであんな声が聞こえたんだろう。


 今の私が求めるものはここには無い。もう何もいらない。


「私は─」


─もう気づいても良いんじゃない?─


 なかなか返事をしない私。訝しんだ扇の顔が、固まった。また全ての景色が止まった。身体は型に嵌められた土塊だった。


─言ったでしょう。あなたはもう終わってるのよ─


─また会ったな、千宏─


─私達はあなたに干渉する。あなたの考えることは手に取るように分かる。私達から逃げようとした時はいつでも、何回でも、時間を止める。ここから出ていく気がないのなら…私達とゆっくりと朽ちることになるわ─


─さすがにそれは勘弁─


─私もよ、だからあなたには早くここから出て欲しい。あの時の記憶、忘れてないでしょうね─


─正直ウチらも何が正しいとか間違ってるとか、分からん。だから千宏のことはイイ感じにしてやりたいし、下手に触り過ぎたくない─


─そうね、私達はあなたの扱いに迷っている。だから、迷ってる内に私達は打ち解けるべきだと思うわ。好きにはなれないと思うけど、嫌わないで。もっとお互いが納得できるような、妥協点がある筈だから─


─ウチらが譲れないのは一点、「私達について教えて欲しい」、これだけだ─




 時間が再び戻った。


「呪いって信じますか」


 私は扇に訪ね返した。

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