双頭の蛇

「貴方は既に知っているのではないですか?」


 猿は質問で返した。まるで私に何かを思い出させるように。


「もし何も知らないなら、まだ洛山は安泰という事でしょうか。これこそが彼らが望んだ世界です。彼らが築き上げた奇跡のような安寧にかまけて無為な日々を過ごしている。」


 猿は至極気だるげに泉の頭を拾い上げた。小脇に頭を抱えてこちらに寄る。


「ですが、今にそれも終わる。私が知りうることは全てではありませんが、それでも分かります。私達という存在が空虚なのは何故か、何も消費せず、日光を喰らって生き永らえるだけの生命体がここまで淘汰されなかったのは何故か。」


 途端、猿は泉の頭に手を突っ込んだ。


 安らかだった泉の顔がボコボコと歪んでいく。


 手を引き抜くと、泉の身体に接合した。首筋の繊維が忙しなく動いている。


「生物とは意志の力だ。が、私達にはまるでそれが感じられない。彼らは生物ではありません。」


 接着は一瞬で終わった。泉がその大きな瞳を開くまで少し時間がかかったが。


 辺りを見回して彼女は言う。


「あの~…すみません。どちら様でしょうか…」


 猿は飄々と答える。


「私はここいらの住人です。長旅で憔悴しきっていらっしゃったのか、道で地に伏していたところを認めた次第です。葉狗田へはこの川を下っていただければ間違いありません。まぁ、詳しくはお隣の助手様に伝えてありますので。それでは」


「えぇ!?ちょ、ちょっと待って下さい!」


「千宏さん、『宿題』のことお忘れなく」


 猿は宙高く飛び上がった。ひとっ飛びで川を飛び越え、森の中へと消えていった。


 泉はまさしく茫然自失だった。暫しの沈黙が流れた後に、また口を開いた。


「助手なんて取った覚えないんだけどなぁ…」


 蛇が現れたのはその時だった。



 人間の生活圏とも、虫喰いの領域とも言い難い曖昧な場所。異様な静寂が流れるこの土地に息を潜める影。


 地面に穿たれた洞穴は薄暗く、外気を遮断して冷気で満たされている。その穴に1匹の虫喰いと人間が居座る。


 虫喰いの長大な体躯に対してお世辞にも充分とは言えない広さだったが、ここが落ち着くから、と彼たっての希望でここを選んだ。


 薄緑の芯が見当たらない弱々しい体躯を揺らして外へ出ていこうとする。


「じゃっ…じゃあ僕はこれで」


「うん、今日もありがとう、カカ君。やっぱり君達も気付いてたんだね。」


「はい…僕個人としては全く乗り気じゃないんですけど…女王がそう言うんだから仕方ないし…皆もなんか乗り気だし…」


「まぁ、そこで出会っちゃったらアウトだね。僕も君を捻り潰さないといけなくなる」


 虫喰いは盛大に身をよじる。


「勘弁して下さいよぉ…金鵄さん…」


 人間は徐ろに目を閉じた。二人で話している時も度々こうなるから片方は眠っているのかと思ってしまう。


「冗談だよ。幸運にも君は良い図体してるから、僕からは近づかないよ。他の人間はそうはいかないだろうけど」


 ん儀ぃぃぃいいいいいいいい

と、心の中で虫喰いは叫んだ。


「それはそうとさ。今日はいらないの?君の報酬」


「…アァ…すっかり忘れてました…その為にここに来てるのに」


「はい、どうぞ」


 人間は右腕を前に突き出す。


 虫喰いはそれを勢いよく貪り始めた。強靭な顎はいとも容易く繊維を解きほぐし咀嚼する。虫喰いの目は虚ろにただ1点、その右腕だけに注がれた。


 ⿻


 私はここまでの爆音を聴いたことがない。右手の森から何かがこちらに迫ってくる。いくら葉を落としたからといって決して弱い筈はない。だが、その幹が軽快な破裂音と共に宙に跳ね上がる。ありえない。異常な量の土埃がその生物のスケールを物語っていた。


 この期に及んで泉は半狂乱に陥っていた。


「エェ!?何ですかッ!!チョットーーーッ!!」


 私は轟音にかき消されないように腹から声を出した。


「あれが探してた物じゃないんですか!?絶対あれですよね!?」


「イヤイヤ!!そもそも私がここに居ることすら謎なんですけどもッ!!さっきから何を言ってるんですかあなた方は!?」


 私の返答を待たずしてそれは現れた。


 遥か遠くの土埃の奥からうっすらと顔が覗いた。何だこれは。それは巨大な蛇だ。禍々しいその口がこちらに向けられている。この土地そのものを呑み込まんとしていた。恐ろしい、ただひたすらに恐ろしかった。既に裂けているのでは無いかと疑うほどの仰角を示し、あらゆるものがそのクラヤミに吸い込まれていく。


 非常にマズい、こんなの避けようがない。跳ね飛ばされるぐらいならまだ救いはあるが、このままでは恐らく私達を呑み込む。呑み込まれた先には何が待っているのか。誰にも分からない。命の保証はない。


 そして今隣には泉がいる。彼女も救い出すとなれば事は更に難しい。


 もう呑まれるしかない、そう思う他になかった。


 だが、八方塞がりだった状況に差し伸べられた手があった。


 突如として、純黒の繊維が私と泉、果てはサイトウの群れまで一気に巻き取り、引っ張り上げた。あまりに強い力で身体が引き千切れんばかりだった。一瞬で上空に辿り着き、蛇を見下ろす。繊維にはまるで熱が感じられず包み込まれる内に悪寒がした。


 空には純黒の生物が翼をはためかせこちらを覗いている。二つの翼は羽根を地面に降らせながらゆったりと風を扇ぐ。


 翼の生物は猿では無い。でも、同じ生物だ。人間の姿で私達を睥睨する。その表情にはどこか既視感があった。骨格は変わっても口だけで笑うのは同じだった。黒い髪に黒い皮膚、目は赤く不敵な笑みを浮かべる姿は、悪魔だ。


 間一髪で蛇は私の足元を通過した。舞い上げられた土埃が一層濃くなり視界が利かない。泉やサイトウの姿は見えず、冷たい繊維に抱かれ、一人取り残された。


 悪魔は突然、叫び始めた。


 これは我等の贄だ


 その瞬間、冷たい繊維は解かれ、私は宙に投げ出された。


「!?」


 空から叩き落とされた私は蛇の頭上に向かっていく。


 だが、蛇の頭は落下地点よりほんの少し先にあった。このまま落ちた所で喰われることはない。


 そう思っていた。


 突如、下に蛇の頭が見えているのにも関わらず、蛇の頭が口を開いて私に詰め寄った。


 私の視界には、蛇の頭が二つ。一つは地を這い、もう一つはたった今私を喰らおうとしている。


「結局」


 私は喰われた。曖昧な視界から一気に暗転、クラヤミに包まれる。分かるのは蛇の口腔に居るということだけ。粘膜がヌルヌルと生暖かい、空気は火でも焚いているように暑かった。


 事が終わって私は少し落ち着くことが出来た。


 ただの馬鹿でかい蛇では無かった。首が枝分かれし、それぞれに頭があり、そして生きている。


「双頭の蛇」

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