労き

「ことに千宏さん、貴方は私が何者かご存知ですか?」


 猿は藪から棒に話を振った。泉に対しての剣幕とは一変してどこか穏やかだった。


 もちろん私は何も知らない。人語を話す生物にある程度の心当たりはあるが、このような様態の生物は記憶にない。もっとも、洛山一帯の生物を記憶している私が知らないということはイレギュラーな生物に相違ない。


「いえ、全く。」


「それは良かった。ここまで足を運んで手ぶらで帰るのは虚しいと思いませんか?一つ『宿題』を与えましょう。千宏さんには是非知って欲しいのです。私達のことについて」


 ─泉には分かっていた、猿が千宏に興味を持ち始めている─


 泉はすかさず口を開いた。

「待って下さい、それはあなた方にとって禁忌の筈では?後の始末はどうするつもりでしょう。それに千宏さんに危険が及びかねない。彼女は私の助手です。」


 彼女の面持ちは一層強ばった。先ほどから全て猿のペースに乗せられていることに嫌気がさしている。


 禁忌、その言葉が頭から離れない。世界のことなど数えるほどしか知らない私には素敵な言葉に聞こえた。


 赤々と光る口。

「そんな事私にはどうでもいい」

 何がおかしいのか、猿は一人でに笑い始めた。

「禁忌なんて、そんな大層な言葉使わないで下さいよ!たかが私の出生について語らせて貰うだけです」

 その笑いは徐々に大きくなる。

「いやぁ、楽しいなぁ。禁忌で縛ってしまえば人間はあっという間に静かになりますから」

 猿は喉の奥まで見せて笑い始めた。喉の奥まで真紅に染まっていた。

「楽ですよね!縛られたまま、黙りこくって生きるのは!想像力豊かですね!皆さん!そうでしょう、泉博士」


 何かがおかしい、そう思った。ふと泉の方を見ると、首が無かった。頭も無かった。無くなっていた。首から下は硬直し屹立している。小さな身体はピクリとも動かない。切れ目は後でキレイに均されたかのように真っ直ぐで、美しかった。


 頭は猿が持っていた。泉は静かに目を閉じている。まるで眠っているかのように安らかだった。猿はそれを後ろへ放り投げる。


「さて千宏さん。これから私が話すことは禁忌ではありません。何処にでもいる、何処にでもある普通の生き物の話です。」


 ◇


 信じて頂けなくても構いません。私は元々、人でした。貴方達と同じ、何処にでもいる人間でした。


どこで生まれてどう育ったのか記憶にはありません。ですが私がどういう人間だったかは朧げながら覚えています。


 私が覚えているのはただ一つ、あの双子との時間でした。そして思い出されるのはいつもあの湖畔です。さして大きな湖ではありませんでした。広大な洛山の土地と比べればほんの水溜まりのようなものです。


 とても美しい二人でした。背丈が異様に低かったのでどこか子どもっぽい雰囲気がありましたが、白髪を揺らして水際に隣り合う姿は幻を見ているようでした。


 私はこの二人と時間を共有していました。ここでは幾分大きな魚が住んでいたので私がそいつらを捕まえてみせると彼女たちも躍起になって探していました。


なんとか捕まえた所までは良かったのですが彼女たちの身体に余るサイズでその後どうしたら良いか分からず困り果てていました。


 今思えば彼女たちに依存していました。私には他に思い出せる記憶がありません。彼女たちの存在が全てでした。他に居場所なんて無かったような気がします。何せ記憶がないので。彼女たち以外の人間は存在しなかったのかもしれません。私にはどうでもいい事ですが。


 彼女のうち、一人が姿を消しました。忽然と、なんの前触れもなく、なんの報せもなく。私ともう一人の彼女はひどく悲しみました。


…いや、訂正します…今思えばそこまで悲しんではいなかったような気がします。私では無くもう一人のほうが。


 湖畔に現れる彼女は今までと全く同じでした。私に向かって大きく笑う時も、笑う時にかすかな声しか出さないところも、同じでした。


とは言っても退屈していたことには違いありません。湖底で寝そべる彼女の隣に私が居ることは冒瀆ではないかと考えるようになりました。


 ある日、彼女から別れを切り出されました。


「貴方と居ると疲れるのよ」


 私はこの時、こんな風に言ったようです。

「考え直してほしい、どうして、もう君しかいないんだ、見捨てないで、俺の何が悪いんだ、疲れたのはあんな事があったから、もう何も考える必要はない、お願いします、一人にしないで、俺を置いていかないで、こんなの酷すぎる、お願いします、助けてください」


 私は彼女をバラバラにしました。頭、腕、足、腿、胴二つ、ちょうど後ろに転がってるあの頭のように。


変わり果てた彼女は湖の魚に喰わせました。一つずつ、出来るだけ離して投げ入れました。彼女の頭がこんなに重かったとは思ってもみませんでした。手を滑らせ私の目の前に落ちました。顔は見せず、まるで自分の意思で泳ぎ離れていくかのように底へと潜っていきました。


 この時でしょうかね。私は別の生物になりました。比喩ではありません。身体の繊維が徐々にほどけて人の形では無くなりました。ちょうどそこにいる生物のような、曖昧な形で漂いました。


 元に戻ろうとかそういった気持ちは生まれませんでした。私は何も考えられませんでした。流れ流されそこらを漂っている時は夢を見ているようで心地よかった。


しかしそれは病でした。罹患して初めて知りました。私たちにも起こり得ることであると。


いたずき』と呼称されていました。


 幕引きです。私達は『合成繊維』と呼ばれる存在です。人でありながら、人ならざるものでもある。身体の繊維は思うがままに成型され猿、鷲、羊、もちろん虫喰いにも擬態可能です。私たちが他の人間と違うのは「可塑性」によるもので、成型した姿を記憶し、それ自体を原型とする点にあります。


 発色や感覚器官もトレースします。全ては私達のこの身体に備わっています。再現出来ないものなどありません。血の通った生物を真っ二つにしたところで私達であることは証明できないでしょう。


『合成繊維』とは人間のリサイクルです。何らかの手法を用いて別の生物へと置き換えました。詳しいことは分かりません。私達にとってもそれは『禁忌』ですから。


 一度壊れて糸くずとなった私達を彼らは有効活用したようです。良いように使われているとお思いでしょうが、私達は案外気に入っているんですよ。この姿。


 ◇


「彼らって誰ですか」

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