生と死の間で腹を揉む女
私はコイツを「トロ」と名付けた。動きがトロい、とろ火のような火勢、魚が好きそう、特にトロが。そういうことでコイツはトロである。
トロは神様であるらしかった。金鵄によれば。だが私にはとても信じられなかった。何事も見た目で判断するのは良くないと皆往々にして口にするがコイツに限っては私は心底舐め腐っていた。
身体が燃えているとはいえ、それは毛並みがよく靡いてるだけと言えばそれまでだし、炎が持っている刺々しい感覚は全く見られなかった。寧ろ見ているこちらが癒されているような気分ですらある。
前足後ろ足共に極端に短く情欲をかき立てられる。何を食って育ったのだろう、全体的に丸っこいフォルムは今すぐにでもプニプニしたくなる形だ。
「…」
触りたい。
あぁ、触りたい。
私はこうなるとダメなのだ。その場で触らせて貰えないと夜に悶々として寝付けなくなる。あれは上玉だ。アイツの腹には私を快楽の坩堝に突き落とす、とてつもない物質が含まれているに違いない。私は自分の呼吸が荒くなっているのを感じた。
モフらせろ。
自分の指が二十倍速のイソギンチャクのようにうねり立っている。ここまでの情欲は初めてだった。そして私は触ることを決意した。
しばらくトロの三歩後ろをついて歩いてみた。分かったことは、トロは炎だからといって何を燃やすことも無い、ということだ。
トロが雑草を踏みつけたところでそれが燃え始める訳でもなければ、草むらをかき分けて抜けたところで火達磨になる訳でもない。少し前にモンシロチョウが頭に止まっていたが、少し羽休めをしたのちに、また何処かへ飛び去っていった。
植物も、動物も、トロは燃やすことが無かった。
私は恐る恐るトロの隣りを歩いてみた。大分歩くことに慣れてきたらしく、いやに得意気に巨大な尻を振って歩いている。家鴨の火事見舞い。デカい、デカすぎる。
近くで見れば見るほど、なかなか尊大な体格をしていた。いや、それは余りにも可愛そうな言い草であろうか。もう少し直接的に言ってあげたほうが良さそうだ。トロはデブだ。紛うことなきデブだ。コイツはデブ。
私は最終フェイズ一つ手前に移行することを決定した。トロの感情を揺さぶってみることだ。今までの刺激はいずれもトロの本性を引き出すには至っていない。あのぜい肉の中では多少の事では動じない胆力があって当然だ。
-_-
そしてこの顔である。一体何を喜びに生きているのか分からないような、まるで全てを知っている者の顔だ。
行けっ、猫じゃらし
私自身で作った猫じゃらしを彼奴の鼻元に召喚する。その猫じゃらしはフワフワの部分を普通より大きめに設定し、丸々と太ったネズミを象っていた。
私は本気だ。あらゆる意匠に全てを注いでいる。村で培ったこのしなやかなじゃらしをお見舞いしてやった。地を這わせながら、たまに跳ねさせる。地を這わせながら、たまに跳ねさせる。
「ブニィィッ」
食いついた!トロは短い前足をさっさっと前にかき出している。胴の大きさにはどうやっても不釣り合いな前足は可哀想なほどに短かった。
しかし、トロは意外なほど俊敏だった。私が左右にじゃらしを振ってもしっかり身体は動いている。これが猫のポテンシャルなのだろうか。
「ブィアオ!!」
思いきりじゃらしを振り上げた。トロはその身をよじりながら飛び上がった。その時、腹の肉が踊っていた。
重力に逆らおうとする気迫に腹の肉が応えたのだ。上下にだるんだるんと揺れている。その肉体とは似ても似つかない、力強い動きの一つ一つは勇ましい程だった。輝いていたのだ、トロとその肉体は。
「ブッ、ブッ、ブッ」
トロは息を切らしていた。トロの身体から漲るエナジーは、その充実感を物語っていた。そして、多少のストレスではトロは全く影響を受けないということが分かった。
いよいよ最終フェイズだ。この為にトロをじゃらしてバテバテにさせたのである。トロは都合よく仰向けになった。
すさまじい太鼓腹だ。膨らんでは萎み、膨らんでは萎む。私の指は、いや、二十倍速イソギンチャクは既に情欲を抑えきれなかった。
◇ ◇ ◇
トロのお腹を触り続けて、どれだけの時間が経っただろう。ファーストタッチの衝撃から、それ以降の記憶がない。身体に電撃が走ったことは覚えている。声にならない叫び声をあげていたことも覚えている。それ以降の記憶はない。
完全に身体と心を支配されていた。このモフモフの肢体に。
「ナーーン」
トロですらこの有様だった。どうやら私とトロは身体の相性が非常に良いらしい。この私の指は自分で言うのも何だが天下一品であるという自負がある。周りの糸人に引かれそうだったから、人前ではついぞ披露したことは無かったが。
しかし、トロの肉体もなかなかもって素晴らしい。色々な生物をモフモフモフモフしてきた歴戦の猛将ですら意識を失ってしまったのだから。誇るべきである。
この腹はモフモフを超え、「モチモチ」に達している。このモチモチに私は意識の混濁を誘われた。私がトロを撫でているのに対して、私もトロに撫でられているのだ。
私がトロをモチモチしているように、トロも私をモチモチしているのだ。そう、トロの腹は「モチモチ」に達しているのだ。
モチモチ…モチモチ…
モチモチ…モチモチ…
◇ ◇ ◇
まだ意識が混濁している。あまりにも「モチモチ」に長く触れ過ぎてしまったようだ。気づいた時には周りには糸人だらけで、何が起こっているのか頭が追い付かなかった。
金鵄は丁寧に事の顛末を話してくれた。
まずトロについて。トロ、またそれに類する全身を炎で覆われた生物は最奥地、虫食いの巣の近くでたびたび目撃されているらしい。だが、糸人の生活区域内で発見されたのは今回が初めてだそうだ。
旅団の前衛部隊を壊滅させたのはこの生物だと知らされた。
トロは駆けつけた旅団員によって捕縛され、隔離された。つまり、私がモチモチしている所を引き剥がし、トロに睡眠薬を打ち込んだ。トロは比較的小さい生物だったから、睡眠薬は有効であったらしい。
トロはあっさりと眠りに落ちてしまった。この睡眠薬は非常に強力であるから、隔離施設まで目が覚めることは無いそうだ。
眠りに落ちたトロは更に、「巾着ガエル」に格納された。泥団子を百人前で作ったらこうなるか、といった具合の容貌で、主に危険生物の隔離に使用されている。
巾着ガエルの口腔粘膜は毒、酸、アルカリ、その他有害物質を寄せ付けない。靱性に対しても優れる。
炎に対しても耐性を持つが、この類の生物の炎は異質であるから必ずしも有効とは限らない。暫定的に選ばれた形であった。
これからトロは「竜の沼」に送られる。仮にトロが暴走しても直ちに無力化、乃至はその脅威の被害を抑える為に適切なのはここをおいて他に無い、というのが旅団の見解だった。
「まぁ何よりも、学校に被害が及ばなくて良かったよ。こんなめでたい日にふらっとやって来られるのはもう勘弁して欲しいな。」
金鵄は疎ましそうにボヤいた。
「後片付け大変そう」
「確かに。…まぁそういうことにはなるかな。ところで君はあの生き物に対して大層ぞっこんだったみたいだけど。僕の言いつけはこの際良いんだけどさ。君も無事だったし。あの時の君はなんと言うか…今とは別人みたいだった。」
金鵄はHAHAHAと笑っている。取ってつけたような笑い声が終わるとしんと森が静まり返った。彼は目を逸らしてうなじを掻いている。
「要するに私が形容のしようもない変態だったってことよね」
「そうとは言ってないけどさ…」
彼の一瞬見せた「言い得て妙ですね」の反応を私は見逃さなかった。
「あんまり人に見られたくなかったんだけど、見せてしまったものは仕方ないわ。でも、私からとりわけ何か言うつもりもないので、この場はお開きにしましょう。」
「僕は君を見るたびにその事について悶々とする羽目になる、という訳ですか」
「それについては私も同じよ。あなたが悶々とする二十倍私は悶々としなくてはいけないのだから。」
「それは大変だ!」
彼はウネウネとする繊維を私に向けている。全身から放たれているそれはひっつき虫のような小賢しさと、爬虫類形の敏捷で動きの読めないキモさがあった。
その先端を私は静かに見ていた。あくまでも静々と、理性を保って。その上で、その場に則した対応を取ることにした。頭の先端で巨大な針を形成し、
「秘匿するもしないもあなたの勝手だけど、その後の処理も加味しておいてよね」
私は思いきり彼の頭に突き刺した。
深々と突き刺さった針が、彼の雲のような頭に気持ちよさそうに埋められている。軽く私に向かって頭を下げている金鵄は、
「絶対に言いません。」
そう誓った。身体だけでなく、表情までもが忠犬のように凛としていた。端正な顔立ちが一層美しく見えた。顔の輪郭は整然とし、各部位は一片の批判も出てこないほどに、吟味して配されていた。
黙っていれば人望のほうから宜しくお願いしますとやって来そうなものだが、彼の悲しい性はそれすら許さないようだった。余りにも能動的で彼の気位の高さが走って逃げていくのを見て取った。それを意図して行っていると認識しているからこその彼だった。
同時に相手が悟ることも分かっていた。あくまで鳥瞰的に、決して感応することが無いように憂慮していた。全てを理解して行っていることに私は純粋な憎たらしさを覚えた。
「オワァァァァァァァァ」
突如として上から何かが迫ってくるのが見えた。叫んでるのは…人だった。雲と私たちの中間ぐらいのかなりの高さから落ちている。
「受け止めてぇぇぇぇぇぇぇ」
金鵄は私にお辞儀をしたまま、左手を横に突き出した。と同時に大量の繊維が現れる。
「今日は忙しいなぁ…ほんとに」
私のジョウロのような放出には及びもつかない、大河のような繊維が放出された。空気を含んだ羊毛で曖昧な輪郭を生み出す。それは瞬く間に形を変えて鳥の巣を模した形となった。
「オッフッ
おおっ!?何じゃこりゃぁ!!」
鳥の巣の中央、見事に着陸した。跳ね上がることも無く、しっとりと地面に吸収され舞い戻った。そして彼女はこう言ってのけた。
「いやはや、失敬失敬」
小麦色の肌に独特のシャリ感。麻の糸人である彼女は生物博士。名は泉。安寧にかまける私を激動の渦中に引きずり込む狂気のマッドサイエンティストだ。
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