二章 天帝の使い
「――――以上が、色数山荘事件の子細です。私は、貴方が黒幕だと思っています」
黒井ミオが、死んだ姉の恋人であった作家Aを訪ねたのは、色数山荘事件から一週間後のことだった。ミオにとって、事件の真相はオムファロスの密室、つまり「その〈死体のある密室〉は最初から完全な〈死体のある密室〉として意図的にその過程を省かれて創造された」という結論を以てして完結していたが、どうしても判らない謎があった。
死体の胸ポケットに入れてあった手記の執筆者であるAが、姉の恋人だった阿良木健太郎であることは、手記の文体から予想がついていた。確証が得られたのは事件の事情聴取で警察がその名前を上げたからである。被害者である辺見剛志の携帯電話のアドレス帳に登録された数十人の知人の連絡先の中に阿良木の名前があったのだ。
阿良木の部屋には、本棚とテーブル、足の高い椅子があるだけだった。本棚には推理小説とSF小説が並ぶ。どこか不気味な黒猫を飼っていると姉から聞いていたが、夕日影が差し込む窓際でこちらをジッと見ている黒猫がそうだろう。今にも喋りだしそうな猫だ。
「ラキムボン」
阿良木が名を呼ぶと、黒猫は夕陽の落とした影が実体を持ったかのようにぬるりと起き上がり、「わぁん」と鈍い声で短く鳴きながらこちらに近付いてきた。
「しかし、まさか君が僕への天帝の使いとはね」
膝に飛び乗った黒猫を撫でながら、阿良木は言った。
「天帝?」
黒井ミオはここに来てから一度も変わらないままの無表情でそう返した。黒猫が値踏みするようにこちらを見る。
「意味は解るだろう? あの手記はそういう意味だ」
「あの手記に書かれたことは全て事実ということですか」
「すぐに結論から話したがるのは君のお姉さんにそっくりだよ」
「姉はよく、貴方のそういう遠回しなところが玉に瑕と言っていました」
「僕はそれを言われるのが好きだった」
阿良木は哀しげに笑った。
「それで、どうなんですか?」
ミオは相変わらずの無表情だが、目の奥の探究心は激しく熱を持っていた。彼は真相を知っていると直感した。
「一つ嘘を書いた。哲学者、辺見剛志は失踪したのではない。死んだんだ。絶望の中彷徨った山奥でね」
「貴方が殺したんですか?」
「或いはね。自殺を邪魔しなかったのを殺したと解釈するなら」
「全部話してもらえると思っていいですか」
「あの子の忘れ形見だ、話すよ。差し詰め、天帝〈の使い〉に捧げる果物だ」
阿良木は「その前にコーヒーでも」と呟くと、十年前に社名変更でなくなったブランドのコーヒーメーカーで二杯のコーヒーを淹れた。ふと改めて見ると、阿良木は小柄な男だった。ミオの姉が非常に小柄な女性だったためか、そんな印象はなかったのだが、随分貧弱そうである。しかし、ミオにとってはどうしても警戒してしまう人物であった。姉と一緒にいた頃とは、根本的に纏う雰囲気が異なるのだ。
「何から話そうか、手記についてはいいかな? あの手記については、君は十分に考えたはずだ」
「ええ、理解はしましたが、仮説ではない事実を貴方の口から聞きたい」
「いいだろう、今から言うことは全て事実だ。天帝に誓おう。
まず、預言者の能力は本物だ。僕が自ら確かめた。
そしてこの世界は私達のような〈人〉に創られた世界だ。神に創られたと思われる世界の歴史や記憶をそのままコピーして、〈人〉が再現し創った内側の世界に住むのが僕達だ。
次に、哲学者は辺見剛志である。彼は後に君が色数山荘と呼ぶ山荘の密室で見つかる。彼は先に述べた人工世界という世界の理に絶望した。自殺する程にね。彼は山奥を彷徨い樹木にネクタイを括り首を吊った。私は彼を尾行してそれを見届けた。自殺しなかったら殺すつもりだったが、彼は自殺した。僕は彼の死体をどこにも移動させていない」
阿良木は一気に語り終えると、コーヒーを啜った。
ミオはそれを傍目に「わかりました」と言い、徐に目を閉じた。彼女は常人以上の優れた頭脳を持っているが、事が超常的であるために、この事件に関しては何が解らないのかすら見失いそうであった。
「何故辺見剛志は山奥で自殺したのに、山荘に突如現れたのですか」
「君の推理通り、それは密室が死体のある状態で最初から創られたからだ。つまり辺見剛志は世界と同時に密室内にかつて生きていた人間の死体のように創られた」
「そこまでは私も解っています。ではその意図はなんだったのでしょう。前提としてこの世界は〈人〉による造物。つまりオムファロスの密室を構築できたのはその〈人〉以外にありません。では彼らがそれを創った理由はなんだったのか、それが解りません」
「それも君の推理通りだよ。黒幕がいたのさ。密室を創らせたのは僕だ」
阿良木はラキムボンを撫でながら笑った。ミオは重ねて尋ねる。
「〈人〉に創らせた、のですか」
「僕はね、ミオちゃん、一つ賭けてみることにしたんだよ。目の前で超常的な能力を見せられ、更には世界が創られたものだと知った、そこに絶望する哲学者がいる。この関節の外れた世界ならできるんじゃないかと思ったんだ」
阿良木は穏やかにコーヒーを啜った。その様子があまりに日常に溶け込んでいて、語っている言葉と相容れない。
「まさか貴方は――――」
「死んだ人間にもう一度会う、それが僕の最終的な目的だ」
「貴方は――――阿良木さん、それは狂気です。貴方はそうまでしてまた姉と――――」
ミオはこの一連の事件に巻き込まれてから初めて苦しさを感じていた。全て、姉の死から始まっていたのだ。
「僕は〈人〉が神に成り代わって何をしようとしているのか、どうやったら世界を創るなんてことができたのか、我々を観察しているのか放置しているのか、そもそもなんのために自分達の世界のコピーを創ったのか、それらの問について何も知りようがない。だが預言者が、世界の外側の真実に言及する存在が、彼らの関心を惹かないなんてことがあり得るだろうか。〈人〉はいずれその異常に注目する。それに導かれた僕もまた〈人〉の目に触れる可能性を持っている。僕は交渉がしたかった。死んだ人間とまた会うために何をすればいいか? どうしたら会わせてもらえるか。彼らがどこまで世界に干渉できるのかは判らない。だが一つ判るのは世界を創ることはできるということだ。だから、もし僕と交渉するつもりがあるならば、死んだ辺見剛志が生きている世界を再構築して見せてくれ、僕はそう祈った。勿論、それが成されたと判るよう記憶を保持したままでね」
「それが、辺見を死なせた動機ですか」
「そうだね」
阿良木は尚も淡々と言う。それが当然とでも言うようだった。
「何故、姉の生きている世界を願わなかったのですか? 何故辺見を蘇生する段階を踏む必要が?」
「それではただの神頼みだ。そんなこと飽きる程にしたさ。神ではないんだよこの世界の天帝はね。人なんだ、僕らと同じ人という言葉を預言者は使ったんだ。人はメリット無しに動かない。だからまずは彼らに認知され舞台に立つ必要があった。結果は上々だ。辺見は死んだままだが、超常的な力が介入したことが明らかな場所――密室で発見された。これは僕の予定外の出来事だ、そしてそれを見つけたのが君だった。君がここに来たことは、偶然ではない。僕は天帝から認知されている、それが判った。僕は交渉の舞台に立ったんだよ」
ミオは全身から力が抜けるのを感じた。阿良木は自分の論理に希望を見出している。だがそれは狂気の論理だ。ひとつひとつのピースが辛うじて繋がり、なんとか形を保っている砂上の楼閣。
「貴方の目的は解りました、謎だった部分も解った気がします。手記の中で世界が創られたのは質問会の途中であるのに何故色数山荘でもう一度世界は創り直されたのかという疑問、これは貴方の要請に応じたから。現場に遺留品が無かったのは何故かという疑問、これは自殺の道具がネクタイだったからでしょう。身につけているものは再構築されましたがネクタイは自殺時に脱衣したためされなかった。そして再構築は造物主によるものであるのに、それを予見するような手記を何故貴方が残せたか。この謎も貴方が首謀者ならおかしくない。貴方は再構築前の記憶を記録した手記を再構築後に残す意味でそれを用意した」
多くの謎が、俄に収斂した。しかし、彼女の心には言い様のない霧が立ち込めていた。このままで終わらせるわけにはいかない。
「ここまでの推理は貴方の求めた推理でしょう。しかしここからは貴方の恋人の妹として、言わせて下さい」
「――――ああ、いいだろう」
一瞬の間だけ、彼は逡巡した。
「辺見が死体として再構築された理由、それについて貴方は解答を提示していない。それは都合の悪い解釈が引き出されるのを恐れてではないですか? 死者は蘇らない。私が天帝の使者ならば、それを言うために選ばれたのではないですか? それに、そもそも本当に世界は再構築されたのでしょうか?」
阿良木の表情がはっきりと曇った。ミオの指摘に明らかな嫌悪感を見せている。
「何が言いたい?」
「預言者という絶対的に理から外れたルールを根拠に、貴方は一度目の再構築を認識し得た。しかし二度目はどうでしょうか。二度目の現象が、『死体のある密室』ごと世界が再構築された現象である根拠はありません。預言者の言質がないからです。私は可と不可をイーヴンにする論理は紡ぎ得ても、能動的根拠は示すことができません。オムファロス仮説は根拠を示すことが原理的に不可能だからです。おそらく、貴方はこの綻びに最初から気付いていたのではないですか。手記を用意したのは、辺見が死体のまま現れてしまった場合、つまり世界再構築の可能性に誤謬の可能性が生じてしまった場合、その現象へ対しての推理を『第二の再構築』の肯定に誘導するためでもあった。もし私が現場にいなくても貴方は私を巻き込んだのでしょう? 妹の私がそこまで推理することを見込んで、恋人に最も近い私による自己への肯定の推理を導くために」
ミオによる推理は根拠のあるものではない。しかしこれは阿良木にとっては、名探偵による犯人の指摘に等しいものだった。阿良木は脱力したように笑う。
「君に面影を見てしまった僕の負け、かな。君がもっと普通の子なら、僕は自分のロジックの穴を見逃せただろうに」
「貴方は夢の中にいたいだけです。不意に関節の外れてしまったこの世界の、都合のいい夢の中に。死者を生者として再構築し得る偽りのロジックの夢幻の中に」
ミオの言葉の銃弾は霧の中で阿良木の狂気の楔を撃ち抜くことができただろうか。阿良木は無機質な表情でフッと笑った。
「かもしれないな。確かに、僕は君に認めてもらいたかったのかもしれない。僕が絶望の中で前に進むための論理を。生きる理由を。でもね、君がそれを否定しても、それでも僕はやるよ。そのためにならなんでもする。例えば、それが天帝の喉元にナイフを突きつける行為だとしても」
そう言って阿良木は天を仰いだ。一瞬、黒猫が笑ったように見えた。
「――次に会うときは、私は貴方を糾弾する役目を受けているかもしれません」
「それができるとしたら、きっと君だけだ」
窓から朱色の光が一際強く差し込んだ。凪いだ沈黙の一瞬の後、ラキムボンがひとつ欠伸をして阿良木の膝から床に降りた。
「わぁん」
黒猫が鳴く、幕引きの合図のように――――――
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