一章 色数山荘事件


 一 車中にて


 昼下がりの山間を抜けたバスは、窓から悠然とした渓谷を見渡せる狭い道路を走っていた。夏休みの時節だが、この山奥を旅する者は少ない。この日の車内には四人の学生がいるだけであった。

「随分と山奥まで来たみたいだねぇ」

 仁科朱里にしなしゅりは窓に張り付いて景色を食い入るように見ていた。都内出身の彼女にとって、この大自然のパノラマは新鮮な光景のようだった。

「もうすぐ終点だよ、そしたらちょっと山登りだ。今からはしゃいでいると別荘に着くまでにへとへとになるよ」

 子どものようにはしゃぐ朱里を隣で微笑ましく思いながら、白井肇しらいはじめは言った。

「肇はもうその別荘に行ったんだよね?」

「うん、食材とお酒を運び入れるためにね」

 今回の旅は、肇や朱里が所属する閏高うるみだか大学ミステリ研究会で企画された「夏の山荘合宿」であった。ミス研に四人いる最終学年メンバーが、最後の想い出作りとして、肇の親戚が所有する別荘に泊まりに行くのである。今年の夏は肇の親戚が海外旅行で不在となり、別荘は夏中無人だった。この合宿はその間の管理の意味も含んでいる。

「別荘はどんなところ?」

「周りは森と山。嵐でも来たら一発で封鎖だね。ミス研の合宿には相応しい山荘だよ。元々はペンションとして使う予定があったらしくて、宿としての機能も備えてる」

「へぇ〜いいねいいね。本格ミステリだねえ。楽しみだなあ」

 誇張したわけでもなく本当にそんなところなので、朱里の期待にはきっと応えられるはずだ。おそらく他のメンバーにも。

 今回の旅の仲間は皆ミステリのファンであるが、どの分野のミステリを好むか、という「担当」がある。

 終始元気な仁科朱里の担当は「国内本格ミステリ」だ。彼女の好きな作家は横溝正史。愛嬌があり明るく元気な彼女は容姿も可憐で、ミス研男子からも人気がある。

 別荘を借りた白井肇は「海外ミステリ」担当だ。好きな作家はクリスティ。優しい性格にしっかり者、後輩の面倒見も良く、先日までミス研の会長でもあった。気品のある童顔が育ちの良さを思わせる。

「まったく、元気で羨ましいね」

 通路を挟んだ肇の隣席で、真っ青な顔色をしてそう言ったのが青柳玲あおやぎれいである。それに対して朱里が驚いた顔で返す。

「どうしたの! さっきまで涼しい顔で読書してたのに」

「田舎道を走るバスで本なんて読むから酔うんだよ」

 続けたのは肇、玲は「わかったわかった」と言いながらそれを手で制した。片手にはノベルスを持っている。

「これがなかなかのロジックでね。先が気になってつい、ね」

 彼が読んでいるのは最近ミス研内でも話題になっているロジックものだ。しかし、どうやらあまりのバス酔いで最後まで読むことは断念したらしい。栞がノベルスの四分の一程を残した部分に挟まれている。彼の好きな作家はクイーン、「ロジック」担当である。

「まあ俺の隣には全く酔う気配もなく本読んでるやつがいるけどな」

 玲は信じられないという表情をして目を遣る。

 肇は今回の旅の仲間最後の一人、黒井くろいミオに視線を向けた。彼女は玲の隣で読書をしていた。丁度読んでいたハードカバーを読了したようで、パタンと音を立ててそれを閉じる。表紙には『黒猫は悪魔の夢を見る』とあった。著者は「阿良木健太郎あらきけんたろう」聞いたことのない作家だ。

「ミオは全然酔ってないみたいだね」

「まあね。窓際だったからかな」

 ミオはそんなややピントのズレたことを言った。

「何を読んでたの?」

「知人の書いた小説」

「知り合いに作家がいるんだ?」

 少し驚いた。彼女は肇が知る限り知人が多い方ではない。

「姉の……恋人だった人で、何度か会ったことのある人なんだ」

 そう言うと、彼女は窓の外へ視線を向けた。綺麗な黒髪と端正な横顔が窓外の渓谷と映えて、絵画のようだった。

 彼女は奇書と呼ばれる一風変わったミステリの愛好家だ。好きな作家は中井英夫である。

「それも、奇書かい?」

 肇が尋ねると、ミオは少し考えて「捉えようによっては」と言った。

「前から聞こうと思ってたんだけれど、奇書の定義ってなんなんだい?」

「奇書に定義はないよ。普通は日本三大奇書のことをいうけれど、その後の系譜に関しては読者の数だけ定義がある」

「じゃあ、ミオにとっての定義は?」

「強いて言うならば、衒学趣味、酩酊感、アンチミステリの三点を含む作品、或いはこれらのどれかに並外れて特化しているもの、かな」

 ミオは定義論に関してはそこまで拘りを持っていないようだった。

「ねえ、そろそろじゃない?」

 ずっと窓の外を眺めていた朱里がそう声を上げた。

 目的の別荘がある山の麓に、四人を乗せたバスは到着した。



 二 色数山荘


 山荘は二階建ての小さな木造建築だった。そのコンパクトさに反して、客室を五部屋も備えている。合宿には申し分ない宿である。道中は荷物が多いと多少難儀な道のりではあるが、バスの停留所から一時間程の軽い登山で辿り着くことができた。

「では、中に入る前にこの山荘の名前を発表しよう!」

 肇は到着早々高らかにそう言い放った。

「なんだそりゃ、名前があったのか? 別荘に」

 そう言ったのはいつも冷静な玲だった。

「名前なんてないよ。でも折角の合宿だし、味気ないだろう? だから今回限定の名前を用意した」

 玲は呆れ顔だったが反対ではないらしい。

「いいじゃん、さすが肇、解ってるね!」

 と朱里。形式美を是とする本格好きらしい反応だった。朱里はそのまま続けた。

「それで? なんて命名したの?」

 肇はこれでもかと溜めて、その名を口にした。

「命名、『色数山荘』!」

「色数?」と朱里が首を傾げる。

「まあ、お前らしいな、肇」

 玲はすぐに名前の由来に気付いたようだ。肇がミオの様子を伺うと、彼女はくすりと笑った。

「朱里以外は気付いているみたいだけれど、説明しよう。色数とは色と数。僕達の名前のことだ。白井はシロ、黒井がクロ、朱里はアカ、青柳のアオで四色。更に数が、玲はレイ、肇がイチ、仁科がニ、ミオがサンだね。だからこの山荘は色数山荘というわけさ」

「あ~なるほど~気づかなかった!」

 朱里が無邪気な声を上げる。肇はこの子は本当に喜怒哀楽がはっきりしているな、とやはり微笑ましく思う。

「じゃあ、ちょっとした余興も終わったことだし、中で部屋の紹介でもしようか」

 肇は別荘の唯一の出入り口を、預かった鍵で解錠した。カチャリと小さく音がする。両開きの扉を全開にして、肇を先頭に四人全員が玄関からロビーに進んだ。

「では改めて、ようこそ色数山荘へ。まずここがロビーだ。客人同士が談話できるように広めになっている。右手には二階に続く階段がある。二階はみんなの客室が用意してあるから後で割り振ろう。右奥は給湯室、その隣にはトイレと浴室」

 ミス研の旅行の際はいつも肇が案内人であった。肇は手際よくロビーに備わった部屋や備品の説明をする。ロビーにはテーブルとソファーが配置されており、テーブルにはガラス製のチェス盤が置かれている。

「チェスがあるな。ガラス製か、いい趣味だ」

 一通り説明を聞くと、最初に玲がテーブルのチェス盤に興味を示した。ミス研ではよくチェス大会が行われるが、玲は一番の指し手だ。

「ミオ、後で相手してくれ」

「いいよ、お手柔らかに」

 今回のメンバーの中で玲とまともにチェスを指せるのはミオだけだろう。彼女もかなりの実力だった。

 一行はロビーの奥の部屋に移動した。

「ここは食堂。隣接している二つの部屋は厨房と貯蔵室。厨房の裏には搬入裏口があるんだけれど、今は鍵が故障して食器棚で塞いでる」

 食堂は窓が四つあり、木々の緑が絵画のように映えている。中央には長方形の大きなアンティーク調のテーブルが置かれている。

 朱里が嬉々とした表情で部屋を見渡して言う。

「夕飯は私が作るね。素敵な部屋とこの大きなテーブルに合った豪華な料理は無理かもしれないけれど」

 朱里は料理が得意で、ミス研の会合が行われる際は料理担当を引き受けてくれている。肇は彼女の料理が好きだった。

「ありがとう、楽しみにしてるよ。この辺りの地域で最近売り出している国産のワインを買ってあるから今夜は飲み明かそう」

 そう言って貯蔵室に目をやる。玲が「へぇ」と関心を示す。

「国産のワインか、珍しいな。まあ朱里には飲ませるなよ」

「なんでよー」と朱里。

「この間はお前が酔って暴走して、俺は延々と横溝全作レビューを聞かされた」

「もう、ごめんって謝ったじゃない、今回は大丈夫!」

「今回は江戸川乱歩全作レビューを聞くことになるのかね」

 玲は勘弁してくれといった表情だ。

「じゃあ、そろそろ客室に案内しようか」

 二階に上がるとまずは広く空間が取られている。大きな窓があり、ベランダに出られるように作られていた。広間から廊下が続き、廊下の左右に一部屋ずつ、奥に突き当たってT字になった通路に三部屋が並んでいる。


色数山荘略図↓

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「ベランダで月でも見たら気持ちが良さそうね」

 ミオが僅かに笑みを浮かべながら静かに言う。ベランダには小さな木製のテーブルと椅子がある。そこから見える景色は休息には最適だろう。

「部屋割りは決まっているのか?」

 玲は一際大きなトランクを持って息を上げている。準備を入念にし過ぎて旅行は毎回大荷物になってしまうと以前言っていたのを思い出す。

「どこも一緒だけれど、以前一度だけ空き巣に入られたという話を聞いたから、一室貴重品部屋を設けた。右奥の部屋にだけは外から掛けられる鍵が取付けてある。窓には警報装置もね。まあ今回臨時で用意したものだからその部屋だけなんだけれど、念の為にね。貴重品部屋の鍵は僕が持っているようにするから、いつでも呼べるようにその隣の部屋を僕が使わせてもらうよ」

 肇がジーンズのポケットから鈴の付いたキーホルダーを取り出した。リン、と思いの外大きな音がする。

「じゃあ俺は肇の隣にしよう、女性陣は隣室のない中央の二部屋を使うといい」

 玲は恭しく二つの部屋に手を向けた。ミオは「そうさせてもらうわ」と微笑み廊下の左側、玲の向かいの部屋の前に立った。

「じゃあ私は反対側、貴重品部屋の向かいね」

 朱里もT字の廊下を右に進む。

「さて部屋も決まったし、各自荷物を置いたら早速貴重品部屋に来てほしい。この後の予定も話しておきたいしね」

 肇の言葉に各々応じると、それぞれ荷物を持って自室に消えていった。この時、時刻は午後三時を過ぎた頃だった。



 三 貴重品部屋にて


「部屋自体は私達の部屋と一緒なんだね」

 最後に入室した朱里が早々に弾んだ声で言った。到着してもなお昂揚した気持ちが落ち着かない様子である。

「臨時の貴重品部屋だからね、全く同じと言ってもいい」

 客室はベッドと机、クローゼットがあるくらいの簡素な部屋だ。窓は一部屋に一つ、レイアウトはほぼ同じになっている。

 肇は全員が揃ったことを確認して「さて」と口を開いた

「まるで名探偵だね!」とすかさず朱里が口を挟んだ。

「名探偵、皆を集めてさてといい――か。もしこの部屋で殺人が起きたら、鍵を持っている肇がまず容疑者だな」

 朱里の言葉を受けて玲が笑う。この二人は意外といいコンビなのかもしれない。

「話を進めていいかな」

 肇は困り顔で言った。名探偵になったり犯人になったり忙しいものだ。

「悪い悪い、続けてくれ」

 まとめ役は大変だが、こんなやりとりも肇にとっては楽しかった。卒業しても、一緒にミステリについて語りたいと心から思う。

「では改めて、暑いから手短に」

 陽もまだ高く、気温は猛暑のレベルだった。

「まず、ここが貴重品部屋。客室は内側からの鍵はあるけれど、外側から施錠できる仕組みじゃないから念の為にね。窓は警報装置が動いている間は開けないように。警報がなっちゃうから。まあこの旅行中はこの部屋はほぼ使うことがないと思うから基本的に窓は開けないだろうけれど。貴重品に用事ができたときは僕に声を掛けてくれればさっき見せた鍵で解錠する。まあ大きな金庫だと思ってくれればいい」

「随分慎重な防犯ね」

 ミオは感心したように言う。確かにやや過剰なセキュリティだった。

「まあね。実はこういうミステリにおあつらえ向きの部屋を用意したかったんだ。僕らのミス研は卒業までに創作ミステリを書くのが決まりだろ? ここを舞台にしてひとつ実名小説でも書いてみようと思ってね」

「へぇ~~すごいすごい、楽しみだなぁ」

 朱里が子供のようにはしゃぐのを見て、ハードルを上げてしまったかなと少々後悔をする肇だったが、楽しみなのは書き手の肇も同じだった。

「読めたぞ、お前が鍵を持ったまま密室のこの部屋で死体として発見される。そういう展開だな?」

 玲は得意げに言いながら肇を指差した。この舞台で創作をするなら展開は確かにそんなところだろうか。

「今度は被害者ってわけか、まあ楽しみにしててよ」

 一通り貴重品部屋の説明を終えると、各自持ってきていた貴重品の入った小さなカバンや小物入れをベッドの横に並べていった。貴重品と言っても殆ど財布や貴金属の類なので部屋ごと封印するのはやや大仰に思える。ちぐはぐさが少し滑稽だった。

「この後は何か予定でもあるのか?」

「そうだね、宿泊料でも頂こうかな」

「宿泊料?」

「この別荘は親戚からの借り物だからね、一つ条件があるんだ。来たときと帰るときに簡単に掃除をしていくこと」

「なるほど。まあ当然だな、既に綺麗な気もするけどな」

 玲は元々そのつもりだったようだ。他の二人も頷く。

「協力ありがとう。じゃあこの後は掃除ということで。僕は一階のロビーを。玲は二階の客室以外のスペースを頼むよ。朱里は料理をしてくれるとのことだから掃除は免除で。ミオは食堂をお願いできる?」

「ええ、よろこんで」と頷くミオ。

「じゃあ私は夕食の下ごしらえでもしてるね。掃除は任せたよ」

 朱里が「ようし」と気合を入れている。夜になってバテないか心配になる肇だった。

「掃除が終わったら各自自由時間にしよう」

 掃除用具を一階のロビーに集め、四人はそれぞれの持ち場に解散した。



 四 死体現る


 玲とミオはロビーでチェスを指していた。

 白の玲はポーンをd4と進めた。それに対しミオは同列のポーンをd5に進める。次第にメジャーピースによる戦いに進展すると、ミオはナイトで玲のクイーンとナイトにフォークするも、玲は逆にそのクイーンで敵陣に切り込む。キングを守るルークを攻めると、ミオは一瞬動きを止めビショップで玲の猛攻を足止めした。終盤に差し掛かり、次第に玲の勝利が盤面に浮上しつつあった。玲は最後の詰に取り掛かった。

「どうやら勝負は見えたようだな」

「……ええ、投了するわ」

 熾烈な打合いはミオの投了によって終わった。

 時刻は午後六時を過ぎていた。窓の外はまだ暗くなってはいなかったが、夕刻に差し掛かっているのが判る朱みを含む陽差しに変わっていた。

 掃除が終わった後、玲は一階のロビーに降りてバスの車内で読了し損なったノベルスの続きを読んでいた。朱里はそのまま料理を始め、しばらくすると自室で休憩すると言って二階に上がっていった。ミオは食堂の掃除の後、朱里の下準備を手伝い、彼女が自室に戻るタイミングで玲とチェスを始めた。肇は早い段階でロビーの掃除を終えて、そのままロビーのソファーで小説を執筆すると言って原稿用紙に向かっていたのだが、いつの間にか寝てしまったようで今はテーブルに突っ伏している。

 玲が肇を起こそうとすると、上階の方から階段を降りる足音がした。

「あら、まだチェスやってたの?」

 朱里は「ちょっと早いけれど、そろそろ夕飯にしよう」と続けながらロビーに降りてきた。

「おい肇、起きろ、夕飯だぞ」

 よく眠っているらしく、肇はなかなか起きなかった。肇が突っ伏している下には書きかけの原稿用紙が広げられていた。『色数山荘事件』とある。既に十五枚程書き上げているようだった。

「ったく、いい加減に起きろ」

 玲が肇の肩を揺すると、肇の体はぐらりと均衡を失い椅子ごと床に倒れてしまった。

「お、おい!」

「嘘っ!」

 玲と朱里が続けて声を上げる。玲がすぐに肇の横に駆け寄ると――。

「なんてね」と、肇の目が開いた。

「まずはこんな感じで一人目の犠牲者が出る予定なんだけれど、どうだろう?」

 ケロッとした血色の良い顔で肇はニヤリと笑った。玲と朱里は唖然とした様子で口を半開きにしていた。

「よ、よかったぁ」と朱里が涙目で崩れ落ちた。

「わわっ、ごめん! まさかこんなのに騙されるなんて思わなくてさ!」

「ばか」

 朱里は安堵の表情で肇の頭をポカンと殴った。少々驚かせ過ぎててしまったかもしれない、と肇は少し反省した。

「お前なぁ」

 玲も呆れた様子だが安堵の表情をしていた。ただの悪ふざけであったが、彼がすぐに駆け寄ってくれたのは肇としては嬉しかった。冷静な彼だが、意外に人情深いところもある。

「ミオは驚いた?」

 肇は、微笑を浮かべながら三人を見守るミオが今の一幕をどう見たのか気になった。

「さり気なく受身を取ったのが見えたから、今回は観客に徹しさせてもらったわ」

「さすが。隙がないなぁ」

 肇は少し残念そうに苦笑する。ミオのミス研入会以来、こういった場面で驚く彼女を見たことがない。

「それに、ミステリではこういった一幕の後に、本当に事件が起きてしまうものよ。こんなフラグの立った場所で夕食なんて食べられない。私は自室に戻らせてもらうわ」

「そんな文脈でそのネタ言う人初めて見たよ」

 ミオの意外なジョークに思わずみんなで笑ってしまった。

「さてさて、じゃあ夕飯にしようか」


 *


 朱里の作った夕飯は想像以上に豪華なものだった。食事があらかた終わると、ワインを片手にミステリ談義が始まる。いつものミス研の流れであった。


「後期クイーン問題はメルの手法と相容れず」「D坂では日本家屋の密室の可能性を」「アクロイドを殺した犯人には実は他説があって」「安吾は乱歩の『悪霊』の打ち切りが許せなくて」「モルグ街はフェアではないが、ホームズスタイルの確立には」「ヴァン・ダインが自国ではほぼ絶滅している状況で日本では重版しているのは」


 *


 夜が静かに山々を影の中に飲み込んだ。時刻は午後八時三十分、真夏にも拘らず気温は下がっていた。食堂では窓を開けて丁度いいくらいであり、風が気持ちのよい晩だった。

「そうだ、私、貴重品のカバンの中にスマホ入れちゃってたみたいで、取ってきていいかな?」

 ミステリ談義の途中、半ば胡乱とした目で朱里が言った。

「スマホはここじゃ圏外だし、役に立たないよ」

 肇は比較的明瞭な意識があった。まだまだ酔ってはいない。やはり一番酔いが早いのは朱里のようだった。

「そうじゃないのよー。ほら、肇が創作の話してたでしょ。私も卒業創作の作品書き始めてて、原稿がスマホにあるの。肇見てたら創作意欲が湧いてきてさ。時間もあることだし明日から書き進めようかなって」

 朱里は思いの外はっきりとした口調で説明した。

「なるほどね、いいよ。酔い潰れる前に取りに行こう。一緒に行くよ」

 足元の覚束ない朱里と一緒に食堂を出て、ロビーを通り階段を上がる。肇はポケットから鍵を取り出した。鈴の音が鳴る。金属製の風鈴の音によく似ていた。

 貴重品部屋の前で鍵穴に鍵を差し込む。シリンダーが回転して、カチャリと音を立てた。

 ドアを開くと、肇は暗闇の中に何か違和感を覚えた。

「なんだ、アレ」

 部屋の中央に何かが横たわっていた。朱里が怪訝な表情で照明のスイッチに手をやる。嫌な予感がした。

「――朱里、よせ」

「え?」

 照明のスイッチがオンになる。瞬きをするようにライトが明滅して、やがて部屋は明るく照らされた。そして横たわる異物が姿を現す。

 それは仰向けに倒れた男の死体だった。明らかに生気の抜けた歪んだ苦悶の表情をしている。

「きゃあああああああ!」

 朱里の悲鳴が静寂を破った。下階からバタバタと足音が響く。

「どうした!」玲が叫んだ。そして部屋の中を覗き込み絶句する。

 肇はうまく回らない頭で何をすべきか考える。救急車、警察、いやそれよりもまず朱里とミオを――ミオ? そうだミオは――――。

 肇は玲の後ろで佇むミオを見た。

 彼女は目を細め、言った。

「密室ね」



 五 警察は呼ばない


「とにかく警察を呼ぼう、スマホは圏外だがロビーに固定電話はある、全員部屋の外に……」

 肇は努めて冷静に呼びかけた。パニックになることは避けなければならない。しかし、肇の言葉は呆気なく遮られた。

「いいえ、警察には通報しないことを勧めるわ」

 ミオの声だった。肇にはミオが何を言っているのか理解できなかった。

「通報しない? 警察を呼ばないと言っているのか?」

「ええ、少なくとも今は」

「何を言っているんだ、人が死んでいるんだよ」

「そうね、人が死んでいるということ以外はまだ何も判っていない」

 ミオは無表情のまま言う。肇はミオが何を考えているのか何も解らなかった。死体を見つけて、警察を呼ばない理由がどこにあるのか。

「俺も同意だ」

 玲は額に手を当ててミオに同意した。顔が真っ青に変色している。彼の声は微かに震えていた。ミオと違い、動揺が見られる。

「君まで何を言っている、どういうことだ? 何故通報しないなんて選択肢が出てくるんだい?」

 段々と苛立ちが込み上げてくる。朱里は泣きながら肇の傍らにぺたんと座り込んでしまっていた。最も正常な反応をしているのが彼女だった。

 ミオは言う。

「死体の頸部を見て。それは何か紐状のもので締め上げた痕跡ではないかしら」

 確かに死体の頸部には何かで締めたような筋が残っている。続けて玲が口を開いた。

「仮に自殺だとする。では自殺に使った道具はどこにある。どこでどうやって首を吊ってこの男は死んだ?」

「それは……」

 肇には二人の質問に答える術がなかった。何故なら、死体の上にはフックのような紐を吊るための取っ掛かりが一切なく、そして頸の痕跡に合う道具の存在が一切確認できなかったからだ。

「待ってくれ、二人は何が言いたい、まさか――」

 部屋が静まり返る。朱里がか細い声を上げた。

「私達の中に、殺人犯がいるの?」

 朱里の問いかけに、玲は目を逸らした。ミオは相変わらず無機質な目を死体に向けている。

「そんな馬鹿な、僕達は掃除の前にみんなでこの部屋に集まった。その時点ではどこにも死体はなかったんだ。その後はみんな掃除をしていて、扉の鍵は掛けられたまま、キーは僕が持っていたんだぞ」

「いや肇、そんなことは関係がないんだよ」

 玲は疲弊した様子で続ける。

「警察にとって、この状況は俺達が犯人なんだ。そうだろう? アリバイを証明できる人間は俺達自身だ。俺達がこの男を殺したという可能性が一番高い。警察の視点ではそれは禁じ得ない推論だ」

 肇は唖然とした。確かにそうであった。ミオも玲も現在の状況を冷静に分析していた。しかし、肇はそれでも警察に通報しない理由になるとは思えなかった。

「やはり、通報するべきだ。隠してどうする? それではまるで犯人だ、警察に黙っていても状況は変わらない、寧ろ疑わしくなるだけだろう?」

「そうね。しかしこのままでは私達の誰かが、或いは全員が犯人にされてしまうかもしれない」

「でも、そうだとしても一体僕達に何ができるんだい? 自殺でもないし、部屋には鍵がかかっていた、他殺でもない、一体どこからこの死体は現れたんだ……? 警察に話すしかないじゃないか」

「私達で真相を突き止めましょう。そうね、私達は明日の朝、遺体を発見する。そういう設定でどうかしら」

 ミオは平然と言う。まるでそれが当たり前であると考えているような口調だった。

「設定って…………本気なのか?」

「もし夜明けまでに解決しなかったら、警察に通報するしかないでしょうね。いつまでも遺体をこのまま置いておくわけにはいかない」

 ミオの言葉はメフィストフェレスの囁きのようだった。

 かくして、犯人にならないための隠蔽という転倒した秘密の夜が幕を上げることとなった。



 六 現場検証


 部屋の温度は高かった。昼間の暑さに加え、人口密度が高いのも原因と思われる。そして、只ならぬ瘴気もまた。

「それで、真相を突き止めるって言ってもどうやって?」

 肇は言った。眩暈がしていた。どうやら世界は死体の出現と共に、すっかり歪みきってしまったようだ。

「解決しなければならないのは、死体が現れた経緯と、密室を破る方法ね。従って、死体の精査、及びこの部屋の細部に至る検証が必要」

 ミオは涼しい顔でそう言うと、男の死体を慎重に調べ始めた。慣れた手つきだったが、まさか本当に慣れているわけでもないだろう。

「この暑さを考えても、死亡したのはそう何日も前ということはないでしょう。それに、死後硬直の具合を見るに、せいぜい数時間前に死んだようにも思える。ただ、プロの判断がなければなんとも言えないね。死因はおそらく頸部圧迫による窒息。宙に吊り上げて頸部が圧迫され、吉川線がないことから瞬間的に意識を失ったと見るべきかな」

 ミオの口数が妙に増える。

「自殺……なのかい?」

「仮に自殺として、さっき玲が言っていた問題は解消しない。後で検証しましょう」

 玲も自殺か他殺かの問題は棚上げして、部屋の様子を観察している。どうにも死体を自ら調べる気力はなさそうである。

「部屋の状況は、どう見ても密室だな。窓にはクレセント錠がしっかりと掛かっている。その上防犯装置は作動しているようだ。この窓を使って外から侵入することはできないね。クローゼットは死体を隠せる程のスペースがない。無論犯人が潜んでいたとも考えにくい」

「そうね。死斑も、空中に吊られていた可能性を大きく示唆しているわ。体を無理やり折り畳んだ様子はない」

 ミオは玲の言葉を補足する。

「肇、お前鍵を持っていただろ。疑うわけじゃないが、まずはお前のアリバイを確定する必要があるな」

 玲は肇を見た。肇としては気分が良くないが、彼が本気で疑ってはいないことは解る。何故なら、他でもなく玲がアリバイの証人だからだ。

「死体が現れたのが、午後三時の貴重品部屋集合から、午後九時現在までの六時間のどこかとして、まず掃除中は一階のロビーにいた、貴重品部屋は二階の奥だから玲に気付かれずに移動はできないね。その後はロビーで執筆していて、いつの間にか寝ていた。玲とミオは傍でチェスをしていたからそれを証明できる。その後はみんな食堂だ。僕に死体を移動させる、或いは殺人を犯す機会はなかった」

「その通りだ。俺が共犯でない限りね」

 玲は半笑いの表情で不穏なことを言う。

「それで、肇がさっきこの部屋を開けた時、鍵は掛かっていたんだな?」

「ああ、間違いないよ」

 解錠の感覚はしっかりと思い出せた。キーホルダーの音も。

「それは私が保証するよ、確かに肇はあの時鍵を開けた」

 朱里が肇の言を補助する。これで肇の潔白と、密室の存在がとりあえずのところ確定したこととなる。



 七 手記


「そもそも、誰なんだこいつは」

 ようやく落ち着いてきたらしい玲は、不快そうな声色で呟き、改めて死体を見る。明らかに死体と判る歪んだ表情―――歳は四十代か五十代だろうか――、頸部にくっきりと残る痕、ダークスーツの上下に白のワイシャツ、ネクタイと靴はなかった。外見から判る情報は少ない。

「どこかで見たことがあるような……」

「持ち物を見てみましょう」

 ミオは相変わらず臆することなく死体に触れる。ポケットを順に探っていくと、スーツの内ポケットから携帯電話と財布が見つかった。

「携帯電話は駄目みたいね、バッテリー切れか故障。財布には現金と免許証があった。名前は辺見剛志というらしい、誰か聞き覚えがあるかしら」

「ごうし、だな」

 玲はこの男について何か思い出したようだった。

「読みは『へんみごうし』だ。そのおっさん、哲学者だよ。どこかの大学の教授だ。テレビに出てた。なんでこんなところに……」

 確かに哲学の教授が何故死ぬことになったのか。たとえ彼じゃなくてもこの死体は不可能な出現をしたわけではあるが。

「見て」

 ミオはいつの間にか数枚のルーズリーフを持っていた。

「遺書かい?」と肇は後ろから覗き込む。

「ワイシャツのポケットに押し込まれていた。手記のようね」

 ミオはそのまま手記を読み上げた。内容は「どんな問にでも答えることができる預言者に質問をした、数人の学者と作家の記録」のようだった。筆者は「作家A」と最後に記されている。内容は俄には信じがたいものであるが、筆者は手記の中で自らもその場に居たような描写をしていた。

「…………作家A」

 肇にはミオが一瞬だけ酷く動揺したように見えた。

「作家Aに心当たりが?」

「いえ、イニシャルだけでは何も。ただ……」

「ただ?」

「この手記の内容が事実なら、この事件は」

 ミオの言葉が途切れる。ミオは瞳を閉じて苦しげに眉間に皺を寄せていた。長い静寂は、誰にも破られることはなかった。玲も朱里も、今は手記の内容について考えているのだ。

 ミオはゆっくりと目を開ける。

「ねえ肇、アダムにへそはあったのかな」

 ミオは天井を見つめた。何かを睨むように。

 肇は、何故かその光景を宗教画のようだと思った。



 八 死について


 午後十一時、現場検証が終わり、各人別行動の流れとなった。誰もが考える時間と休息を必要としていた。

 仁科朱里はベランダで風に当たっていた。突如現れた死体、そして自分は第一発見者。自殺ならば使用した紐状の遺留品がなく、他殺ならば密室が侵入を拒む。更にこのままでは自分達が犯人にされてしまうおそれもある。彼女は酷く憔悴していた。

「朱里?」

 後ろから影が差した。振り返ると、ミオが両手にグラスを持ってベランダに降りていた。

「何も飲んでないでしょう」

「ありがとう」

 ミオからグラスを受取り、喉を潤す。少し落ち着いた気がした。

「あの人、なんで死んじゃったんだろうね」

 朱里には解らなかった。自ら命を絶つという想像も、誰かが誰かを殺すということも。死という暗く冷たいイメージが、爆発しそうなくらいに胸の奥から迫り上がってくる。自然と涙が溢れてきた。

「泣いてるの?」

「だって、何があったかは知らないけれど、死んじゃったらもう全部終わりじゃない、なんでそんなことになるの。死んだり殺したりなんて、なんでそんなことができるの……」

 朱里の声は震えていた。

「ねえ朱里、一つ聞いてほしい話がある」

 ミオは空を見上げた。月に語りかけるように。

「私の姉は白血病で亡くなったの。二年前にね。死んだら全部終わり、私も姉が死んだ時そう思った。何をしても何を想っても、もし姉が生きていたら、そう考えてしまう。でも絶対にその『もし』はあり得ない。生きられなかった姉のことを想うと、自殺なんて許せない。殺人なんて許せない。でも、死は受け入れなくちゃいけない」

「死を受け入れる?」

「私はこのまま貴女が『死の問題』に捕らわれて前に進めなくなるのが嫌だ。全てが終わった時、私達の心にはそれぞれ問題が残る。貴女の場合は『死の問題』ね、朱里は優しいから」

 朱里には、ミオの言っていることの殆どが解らなかった。ただ、彼女が既に事件の全体像を捉えていることだけは判る。

「ミオは、お姉さんの死を受け入れたの?」

「私は……受け入れた。死も含めて、姉の人生だから。私達の『もし』は、本当のその人と言えるのかな。前進するために立ち止まってもいい、でも過去を連れてきてはいけない。それは似て非なるその人だから」

「難しいね……。難しいよ」

「でも、今回の事件は私が背負うよ。死は受け入れる。あの教授の死ももう覆らないのだから。でも、そうさせた何かが裏にあるのならばそれは私が必ず――」



 九 スワンプマンの思考実験


 日付が変わっても、ミオはベランダで月と星を眺めていた。朱里が先に自室に戻り一人になると、世界の不条理に想いを馳せた。世界について、人について、死について。そして今回の事件について。

 ふと、足音がした。ミオが振り返ると、少々疲れた様子の肇が片手を上げた。

「さっきの話、まるでスワンプマンだね」

 肇は会うなりそう口にした。

「朱里との会話、聞いてたのね」

「ごめん、立ち聞きするつもりじゃなかったんだけれど」

「まあいいけれど。それで、どの辺がスワンプマンなの」

「残された人や関わった人の『もし』に登場する死んだはずの人達は、本当にその人なのか、ってところさ」

 ミオはなるほど、と頷いた。

 スワンプマンとは同一性を問う思考実験に登場する存在だ。ある男が沼の傍で雷に打たれ死ぬ。その時、別の雷がその沼に落ちた。この落雷は沼の泥と化学反応を起こし、死んだ男と全く同じ原子構造の存在を生成してしまう。この落雷によって生まれた沼男スワンプマンは死んだ男と全く同じ容姿、記憶を持ついわば完全なるコピーである。では、スワンプマンは死んだ男と同一人物である、と言えるのか。

「ミオは、受け入れたと言ったよね。もしかして受け入れられなかった人もいるんじゃないかな。スワンプマンの思考実験に正解がないように、『もし』に縋って過去を追う選択をした人が」

 肇はどちらだろう、とミオは思った。彼は受け入れる人だろうか、拒絶し続ける人だろうか。

「姉の恋人だった人は、私とは違ったよ。スワンプマンは死者と同一であると彼は言うと思う。たとえ化学反応で泥から生まれたとしても、もう一度会えるなら。彼は私よりも絶望したから。絶望し続けているから」

 肇は「そっか……」と悲しげに相槌を打った。彼は、こんなことを聞きに来たのだろうか。

「君の心に残る問題はスワンプマンの問……なのかな?」

 肇は不安そうにこちらを見た。ミオはそれを見て肇がここに来た理由が解った気がした。きっとミオが朱里と話しにここに来たのと、同じ理由なのだ。

「ミオ、君の中では全てが繋がっているんだろう?」

「ええ」

「見届けるよ、僕が最後まで」

 肇はそう言って笑った。ミオの中で、一つ大きな決心が着いた。

「……ありがとう。終わらせましょう。一時間後に、皆をロビーに」



 十 黒井ミオによる密室講義


 コーヒーの香りが漂うロビーには、肇と玲と朱里の三人が集まっていた。そこに二階から最後の一人が降りてくる。

「君も飲むかい」

 ミオは「ええ」と短く返事をする。肇は給湯室からカップを持って来た。時刻は午前二時。

「推理を聞こうか」

 玲は腕組をしながらミオを見つめる。ミオは小さく頷く。

「では、これより色数山荘事件における密室講義と、それによる真相の呈示を始める」

 黒井ミオは語り始めた。

「今回の事件はまず本質的に密室を崩さねば不可能であるといえる。鍵によって施錠された現場、そしてその鍵は肇が所持し、彼にはアリバイがある。しかし根本的な問題としてまず吟味すべきは被害者である辺見は自殺なのか他殺なのか、だわ。

 被害者が自殺である場合、死因が頸部圧迫である以上、発見時に自殺に用いた紐状の道具が不可欠。これが現場にないことから単なる自殺であることは否定される。これを可能にする方法は、大きく分けて二つ。自殺後、誰かが道具を持ち去った。この場合、密室を破る必要がある。次に自殺の現場が別の場所であり誰かによって死体が部屋に運ばれた。この場合も密室が邪魔をする。

 被害者が他殺である場合、この場合も実は同様である。死体の出現が密室構築以降であることから、被害者が密室を破るか、犯人が密室を破る、或いはその両方が不可欠となる。

 以上の事から、密室を破る方法、及びそれが可能であった人物について検証する」

 ミオはそこまで一気に語ると、コーヒーを一口啜った。朱里と玲はミオの語りに圧倒されていた。そして肇は、その光景を美しいと思った。

「ここで前提として確定しておくことがある。先の論理により、辺見は単独で今回の状況を構築することはあり得ない。道具が無かった以上、生死を問わず辺見自身、そして別の誰か、この二名の部屋への侵入が不可欠である。そしてその辺見自身が先に密室を破ることができない。理由は以下の二点。鍵を肇が持っている。鍵がかかる前に部屋に隠れるための場所がない。

 従って密室におけるトリックの内、以下のものは排除される。室外からの殺人、これは辺見自身が室内に居る前提のため不適。それを室内でのものと見せかける手法も同様。外部からの自殺強要、道具がないため不適。偶然による密室、室内の仕掛け、殺人に見せかけた自殺、これらも同様に不適。

 更に全員が面識のない被害者であることは明確。仮に隠れた関連性があったとしてもそれを公にしていない。これにより既に死んでいる被害者を生きているように錯覚させるトリックも不適。

 加えて、死体発見時に犯人がいた場合も逃走経路に私と玲が居たため不可、実は死体を発見した際に被害者は死んでいなかったというトリックも複数の目撃者により不可。鍵の複製、細工は辺見が行えたとは考えにくく犯人が行った場合は死体の移動が必要だが誰にも見られずに成せた人物がいない」

 海外ミステリの愛読者である肇は気付いていた。ミオが語ったものはカーによる密室講義に追加を施したもの。しかし、ここまでのミオの分類では、この事件は不可能犯罪、不可能自殺ということとなる。

「今度は、タイミングの点から検証する。

 犯行時に犯人が室内に居なかった場合。室外からの殺人が既に不適のため、室外で殺害し室内に運び入れた場合だが、この場合誰にも見つからずに屋外から運び入れることは不可能。窓等からの経路も現実的ではない。では山荘内に予め隠していた場合はどうか。この場合も隠し場所があったとは考えにくい。鍵を所有する肇が掃除というリスクある行動をわざわざ提案している点でもその傍証となる。次に犯行時に犯人が室内に居た場合。この場合は被害者も室内に居たことになるため前述の論証により不適。

 合わせて以下の可能性も不適となる。施錠前の犯行の場合、死体を隠す場所、移動させる手段がない。施錠された部屋での犯行の場合、凶器がない、被害者が入室できない。施錠された部屋に侵入しての犯行の場合、鍵がない、被害者が入室できない」

 ミオは淡々と状況の不可能性を挙げていく。朱里は放心し、玲は明らかにミオの密室講義に対して不快そうな表情をした。

「次に、動機の面からも考証する。密室を構築する動機は以下に当たる。

 自殺に見せかけたかった場合。これは前述の通り道具のないことから不適。発見を遅らせたい場合、外から解錠できる鍵があるため、またそもそも山中の方が適しているため不適。特定の人物を疑わせたい場合、鍵を持つ肇を筆頭に各人のアリバイを作らせないための行動が見られないため不適。偶然の場合前述の通り不適。犯人による主義、嗜好の場合、判定不可」

 最早、誰もが違和感に気付いていた。ミオの論理が導こうとしている結論は――――。

「最後に、犯行推定時刻における各人の犯行可能性について。

 白井肇の場合、掃除中は玲に気付かれずに貴重品部屋に戻れない。その後は単独行動していないため不適。青柳玲の場合、掃除中は肇が鍵を持っているために貴重品部屋に入れず、その後は単独行動していない。仁科朱里の場合、料理中は私に気づかれずに移動できず、その後の休憩中は肇が鍵を持っていて貴重品部屋に入室できない。以降、単独行動していない。黒井ミオの場合、掃除中肇に気付かれずに二階に上がれない。その後は玲とチェスをしていた。以後単独行動なし。

 そして辺見剛志の場合、生きたまま山荘に侵入しても隠れる場所はない。掃除以降は肇が鍵を持っているため入室できない。前述の否定により殺害者がいないために殺されることができない。自殺もできない。

 最後に外部犯の場合、辺見剛志の場合と同じく不可となる」

 ミオは、コーヒーを一口啜り、長い語りをこう締めくくった。

「以上のことから、辺見剛志は現実的手法での自殺及び他殺は不可、従って、犯人はいない」



 十一 原初の密室


 パリン、とカップの割れる音がした。

「ふざけるな」

 玲だった。言葉は低く響き、握りしめた拳もまたやり場のない感情を必死に抑え込むかのように震えていた。

「私は真面目にこの結論に至ったのよ」

 ミオは何事もなかったように冷めた目を玲に向ける。

 彼女の出した結論、それは犯人不在。それだけではない。そもそも犯行自体が不能だというのだ。

「ミオ、じゃあなんで辺見剛志は死んだの? 何故死体はあの部屋に現れたの?」

 朱里も動揺していた。ミオの出した答は、ミステリでも現実でも、本来許されはしない。

「現実的な手法で自殺も他殺も不可なら、非現実的な事が起きたということでしょう。そう、例えば私の密室分類において該当しない方法が採られたとしたら?」

 肇は少し考える。ミオの分類に当たらない方法――――。

「僕には君のようなことはできない。でも君の密室分類や推理が極めて慎重で綿密であったことは僕にも解る。該当しない方法なんてあるのかい? あるなら何故『犯行が不可能』なんて結論になる?」

 ミオは天を仰いだ。

「そこにまず死体があった」

「え?」

「自殺や他殺なんて、関係なかったのかもしれない。まずそこに死体があったんだよ、肇。アダムにへそがあったように」

 肇は思い出していた。死体を見つけた後、ミオは言っていた。

 ――――ねえ肇、アダムにへそはあったのかな。

「オムファロス仮説、と呼ばれる仮説がある。十九世紀、神学において一つの問題が議論を呼んだ。アダムは神に創られた最初の人間でありながら『へそ』を持って生まれた。もし本当にへそがあったのであれば、へその緒があったこととなり、アダムは人の母親から生まれたことになる。逆にへそがなければ人間は不完全な姿で創られたことになってしまう。同様の問題は多岐に渡った。爪や髪のような成長するもの、血液のように栄養の摂取により生成される常に入れ替わるもの、樹木の年輪、地層。つまり『創造の瞬間よりも過去を示してしまう存在』の矛盾よ。そこで自然学者ヘンリー・ゴスはこの問題を解決するために、このように仮説を立てた。『神はこれらをわざと古びた状態、のだ』と」

 ミオが何を言っているのか、その場の誰もが理解していなかった。言葉の上の意味ならば、彼女の言葉の意味は解る。しかし、それはつまりこの事件においてなんだというのか。

「自殺でも他殺でもどちらでもいい、そこに死体があった。それが真相なのかもしれない。アダムのへそのようにとしたら――――この事件は密室を破らずして完成する」

 シン、と静寂が広がった。ミオの言葉は今までの推理や考証を全て打ち砕く衝撃的なものだった。

「神が犯人だとでも言うのか! 神が死体を密室の中に創ったとでも?」

 玲は耐えられなくなり吠えるように叫んだ。ミオは冷徹に返す。

「もしも、辺見剛志の死が作家Aの手記と関連するならば、それは神ではなく人かもしれない。でも、神か人かなんて重要ではないのかもしれない。創られたのは死体だけではないのかも。この世界ごと創られたとしても、私達にそれを否定できる根拠はない」

「やめろ、現実を見ろよミオ、お前の言っていることは妄想だ。死体を創った? それも世界ごとかもしれない? 俺達は今までずっとミステリについて語ってきた、酔った朱里のレビューを聞かされた、バスで山奥まで来た、お前とチェスもした、肇の死んだふりに驚いた、そうだろ? 全部現実だ、経験だ、記憶だ、そうだろう?」

「その記憶ごと、過去があったかのように私達や世界は創られた、それを否定し切ることは原理的に不可能なのよ。たとえ世界が五分前に誕生したと言われてもそれを否定する論理は存在しない。不可能を証明した犯行と、不可能を証明できないこの説の、どちらが真理に近いのかしら」

 ミオの言葉は論理の上では正論だ。彼女の仮説は肯定する根拠を持たないが否定する根拠もまたない。その一方で、この事件の推理は尽く否定されている。真理に近いものを問われた時、それは常識的な正しさと乖離する。

 玲は、悔しかった。彼の信じる世界が、彼を裏切ったように感じた。感覚の否定が論理の否定と結びつかないことが、只々悔しかった。

「くそ……」

 玲の疲弊した声を最後に、その夜はもう誰も言葉を発することはなかった。



 十二 夜明け


 ロビーに一人残ったミオは、死んだ姉のことを考えていた。目の前にはチェス盤がある。玲に敗戦した時のままのチェス盤は実に美しくキングにチェックが掛けられていた。ミオは何故だか、向かいに姉が座っているような錯覚を覚えた。

「結果が気に入らないか?」

 不意に後ろから玲に声を掛けられた。あの密室講義の後、真っ先に部屋に戻った玲だったが、眠れるわけでもなく戻ってきたようだった。

「私の完敗よ」

 本心だった。チェスの腕では随分の差がある。

「俺は、チェスと同じだと思っている。ミステリも、今回の事件も」

「結果が気に入らない?」

「ああ。俺は認めない。あんな真相を俺は絶対に認めない」

 玲は力強い口調で断言した。ミオは、玲の表情が晴れやかであることに気付いた。

「俺はいつか、この事件の別の相応しい真相を見つけ出す。改新譜でチェックを掛けてみせる」

「私も心からそれを願うわ。貴方ならできる」

「本心か、それ」

 玲は苦笑してミオを睨みつける。ミオは目を丸くした。

「ええ、だって貴方の信奉するクイーンは重要な示唆を与えてくれているじゃない。探偵の語る真相が、本当に真実かどうかは判らない」

 そう言って、ミオはチェス盤の黒のクイーンを倒した。

 背負った心の重荷が少しだけ軽くなったような気がした。


 *


「警察に電話したよ」

 肇はベランダに出てきた朱里に言った。朱里は疲れた表情で少し笑った。肇もつられて笑う。

「そっか」

「眠れない?」

「うん、肇も?」

「僕は警察が来るまで起きているよ」

「そう、じゃあ私も」

 不思議な気分だった。何故こんなことになったのだろう、警察が来たらなんて説明しよう、そんな不安は些細なものに思えた。

「……ねえ、肇の心には、何が残った?」

 ミオの言っていた、全てが終わった時に心に残るそれぞれの問題。立ち聞きしていたことは朱里にもバレていたようだ。肇は少し考える。

「責任、かな」

「責任?」

「僕は何もできなかった。君のように知らない人の死を悲しんだり、ミオのように推理したり、玲のように本気で現実に向き合ったり、ね。だから僕は君達がこれからどうなるのか、何を成していくのか、見守るよ」

「肇らしいね」

 二人で空を見上げた。夜が終わろうとしていた。


 *


 空は黒から青に、そして朱色に染められ、白んでいく。数達はそれぞれの胸に何かを残しながら生きていく。長い夜の終わりと共に色数山荘は名もなき山荘へと戻った。


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