第二十九夜

男はいないが、風情ある夜気がある。


ようやくと職場の環境も安定し、詮索好きだったお局は相変わらず不安定だけれど、それでも以前が戻ってきた。

前の上司と久方ぶりに顔を合わした。二言三言がまた癇に障ったが、変わらぬことが今は嬉しい。


髭男の店はまだ再開しない。

どうせ紐や切手に関することだろう。今となっては言えた義理でないが、ルールを守らぬこと程格好悪いこともない。

同じくお局の彼氏も捕まったのだと女性社員の話を小耳に挟んだ。執行猶予中だったらしいから今度こそ実刑だとか、お局さん見る目ないよねえだとか、真偽の程は分からない。だがたしかに、貼り付けてあったプリクラは剥がされている。

フィクションでなくすぐ身近に氾濫することを知ってしまった僕には、無責任な井戸端会議に参加する気はない。

何かが少し違うだけで、僕たちは容易にあちら側へ転落する。


山から小動物の気配が降りて来て、呼応するように星の明滅が増した。

風情があって、酔わなければ失礼というもの。

酒はイエーガーマイスター。曲はFlying Lotus。

もう慣れたものだ。グラスにワンショット分を注ぎ、お湯で割る。

最近アブサンでは濃すぎるように感じる。

「破綻の見える人間こそこのお酒にはまる」という男の言葉によるならば、僕はこちら側へ来れたのだ。


誰に見咎められるでもない、完全な自由があった。

身を委ねてしまえばそれは快楽だろう。男はいつもこのような心気だったのかもしれない。

今となっては嫉妬より哀れみの方が強い。

閉じこもってばかりの場所なら、世界を阻害するものでしかない。

甘美と醜怪とは表裏一体。溺れるは毒だ。

この場所は分水嶺。見やるだけで。転けては命取りとなる。


月は入り、星たちも飛び込み、夜は殊更に更ける。駆けて行く時の中にあって、ああ、これを飲み切ったら、僕はただ独り、床に就く。


曲は止まった。一転、静寂。まだ帰りたくはない。けれど狂おしい気にあてられ、思い寝に眠るだろう。

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