第二十八夜

男はいない。いつ来てもいない。もう会うこともないだろう。


「乾杯」

住みなれたこの町を裏側から一望し、名月の下、同僚と杯をぶつけ合った。

高架橋の金蓋の下、梯子のかかる、迫り出した一部分。

「ここにあの人がなあ」と、しきりに呟く同僚を横に、僕は日本酒を流す。越乃景虎はするすると喉を下りる。


同僚はあの男の話をどのように咀嚼したのだろう。何があったかを知ったところで、お兄さんが戻ってくるわけではない。生死すら不明の状況で、よくゆるすと言えた。

度量でなく、ある種の諦観か。慕っていた家族がいなくなる苦しみについて、身勝手だが、考えたくもない。

同僚からも先輩からも、良い面ばかりが聞こえてくる。

不良には違いない。夜遊びをして、薬物乱用と思しき行為をしていたのだもの。

生きていて、どうか、同僚にだけは全てを話してあげてほしい。


曲が無いと、この場所は静かだ。

虫の音と、木々と、同僚の息遣い。

しかし包み込んでくれる。

男がここにいたのも分かる。居場所があるということは幸せなことなのだ。


「お前、先輩と付き合うのかよ」

「まだ分かりません。でも努力します」

「そうか。あそこの父ちゃん、こええぞ」

「覚悟しておきます」


「お前さ、どう思う?」

「どうとは?」

「あの人、あれで後悔が消えるわけじゃねえじゃん」

「たしかにそうでしょう」

「下手すりゃ、俺の出現で、忘れかけてたのにまた悩むことになってるかも」

「そうでしょう」

「兄貴とまた遊びてえよ。重すぎる罰とはいえ、話が本当なら自業自得。俺は、無事なのを祈ってる」

「月並みな言い方ですが、お兄さん、格好良いです」

「だろう」


同僚は残りを一息に煽ると立ち上がる。

「悪い。俺はこれで。ここに来れて良かったよ」

はい、おやすみなさい。


取り残されてしまうと、やはり静かだ。

自然の隙間に曲を挿し込む。ミハイル・グリンカ、夜想曲、別れ。

ピアノの独奏がたちまち主役の座を奪い取り、いま、場の全てがそれぞれの別れを偲ぶ。

愛別離苦。

僕には分からない。だが、男も同僚も、お願いだから、解放されていてくれ。


「あ、全部飲み干して行ったのか」

空の一升瓶を手に、僕は横たわる。

星たちの追憶の舞いがあり、この夜は更け、続いていく。

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