第二十七夜

agraphは終わり、レイハラカミが始まる。

空になったグラスに電気ブランを落とす。

割れ落ちてしまいそうな三日月はまだ朽ちることなく張り詰めており、野犬の遠吠えか、深みのある残響が鼓膜を揺らした気がした。


新月の夜のあの後、同僚は僕を見とめると、一言、で? と、発した。僕はただ首肯した。それで充分だった。

連れられて来た先輩だけが、

「ちょっとどういうことか、ちゃんと説明してよね」

と、僕たちの背中を叩いた。


あの夜のあの場所から見上げる月も、この場所と変わらず、神のお戯れにより弧を描くだろう。

象徴はどの世界からも単一、平等で、それだから臆することなく並行世界へ飛び込める。

容易に変化し掴みどころのない、けれど知らず摂取することとなる我らが標も同じく、だからこそ、大切にできるし、価値がある。


同僚には、わざわざこの場所を通って来てもらった。

勝率は飽くまで自身が上げるもの。彼は喜んで協力してくれた。これでお兄さんの名誉も晴れよう。

公序良俗に反する行いはゆるし難いが、それはもはや僕も同じこと。男の話を全て信じるとして、あの状況で声を上げられなかった彼を、誰が責められよう。

同僚には翌日、ゆっくりと話した。まず先輩だ。


「先輩、聞きました。同僚と、いとこだったんですね」

彼女は笑って頷く。

「あ、ばれちゃったか。そうだよ」

「実は僕たち、今、戦ってきたんです。まだ言えないんですけど。その時には聞いてください」

「何それ。良いけど、気になるから、早くね」

「はい」

「で、話したいことあるからって、聞いた。それだけ?」


先輩の笑みは、美目はんたり、まさに小悪魔だった。同僚に言わせれば、人たらしで、おっぱいが小さいから付き合うとかは全く考えられないが、良い女という。

今となれば、親戚同士なのだから交際だなんて浮かぶわけもないのだろうと分かる。

人たらしで、今日の月のごとく美しい先輩が、瞳に色を湛えて、僕を待ってくれた。


「けじめとして、いとこである彼にも聞いてもらおうと思って。次の土曜日、二人で出かけましょう。その次の休みも、ぜひ一緒に」

「え、ちょっと、恥ずかしいよ」

「僕もです。けど、きちんと、言葉に出さなくては駄目なんです。先輩のことが気になって仕方ないんです。だから、僕のことを知ってください。振り向かせてみせます」


「その言い方、ずるいなあ」

少し赤らむ先輩と、お前小っ恥ずかしい奴だなあと、抱腹絶倒の同僚。

僕は財布から紐の燃え残りを取り出すと、同僚へ向け掲げてみせてから、火をつけ、焼いた。この長さなら、先輩はそれと気づかなかっただろう。

これで、僕を縛るものは、もう何もない。


寝付けず徘徊したあの夜から、思えば随分と変わったものだ。

部屋に、缶でなく、瓶のお酒が増えた。CDが増えた。苦手で、殻に閉じこもって様子を窺うばかりいた、人付き合いも、今では苦じゃない。

契機はあの男であり、この場所だ。


レイハラカミが終わり、Heliosが流れる。

今宵の電気ブランは一段とおいしい。


世界は厳然としてここにあり、それは人により、心中か他所か、色々と、まさに万物の数だけ設定があろう。

僕にとっては、この町であり、この場所であり、同僚や先輩であり、あの男だ。この場所に彼はいた。

僕を見てとってくれる存在が在るというだけで、無償の愛が約束された世界だ。終わらせないよう、努力しなければならない。


先輩からのメッセージを受信し、まさに羞花閉月、眉のごとき天体は雲に隠れた。

携帯電話の画面には、次の集合時間だけど…と見える。

「乾杯」

僕は最後の一口を舐めとると、クーラーボックスを提げた。

ここから先は僕が主たる世界だ。

風に騒めく木々の嬌声を背に、家路を急ぐ。

今夜、ここから。

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