第十二夜

久方ぶりの男だ。


今日のように雨が漂い身体を覆う夜なんかには、あの羅刹が居ないはずなどないだろうと考えた。

ゲゲゲロ、ゲゲゲと、必死に存在証明を営む蛙たちに紛れ、あの男は傍観者を決め込むのだ。


彼は僕の姿を見とめると、良い夜ですねと声をくれた。ええ、良い夜ですね。なんせ、

「あなたにお会いできたのですから」

ん? 


「一杯目を、どうぞ。とても面白い名前の焼酎です。問わず語らず名も無き焼酎」

どこからどこまでが商品名なのか判然としかねた。すっきりと飲み易く、それなのに鼻腔を抜ける香りは重厚で、上気した五体にすんなりと染み渡った。

「曲は桑名晴子です」


男の口調は、会えて嬉しかったからと言うには含みが濃く見え隠れした。この男に見て取ったことのない感情で、そうか、彼に妖仙など有りはしなかったのだ。


しばらく僕たちに会話はなく、曲は、鈴木実貴子、大塚まさじと続いていった。酒は、爆弾ハナタレ。今日はまた趣向が違う。


音楽がdead can danceへ遷移して、これもまた色合いがと感じた頃、男はやっと開口した。

「探し物をしていましてね」

口調は重く、発声の瞬間まで言いあぐねていたかのように、始めの何音かは宙に霧散した。

「その、探し物の手がかりをひとつ紛失したのですが」

弦楽が地を這い、僕の心臓に手をかけた。

「ご存知でしょうか。白い布です。電話番号が書いてある」


女声が気味悪く崩れ、男が、次の曲は川井憲次ですと告げた。

無性に喉が渇き、手元の中身を一息に煽った。

男はグラスを奪い取った。少なくとも僕にはそう見えた。

「次の酒、笑って答えず」

いくら飲んでも潤わない。相当、美味しいはずなのに。僕の身体に、この一瞬間、受容器官は存在しなかった。


「いえ、そんなものは見たこともありませんよ」


「僕が来るときはいつも、あなたがいますし、あなたより先に帰りますしね。お気の毒ですが、ハンカチなんてすぐ風に吹かれてしまいますし」


「心中お察しします。早く見つかると良いですね。ところでその、それは、一体、どういった類のものなんです?」


「そうですか。残念です。落としたならこの場所かと思っていたのですが」

気づけば蛙はもういない。この場の空気にあてられたなら、どんな暢気な虫だって裸足で逃げ出す。

立ち上がろうとした僕を男は制した。ちょうど、次の一音が生まれる。

「World’s End Girlfriendsですね」


発汗が酷く、その後の記憶も残っていない。

シャワーを浴びねば寝れたものではないが、気づくと居間に倒れ込んでいた僕には、フローリングの感触は厳然たる象徴で、もう、動きたくなぞなかった。

何故、隠蔽する真似をした。何故、拾った。

矮小で瑣末な僕の、これが自己愛だ。

ああ、この夜を終わらせるのは、いつだって自分自身なのだろう。

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