第十三夜

彼はいる。確信があった。


遠く僕らに混ざりたそうな月があり、まだ見えぬ異性に焦がれ暴走し喚く、童貞のごとく虫がちらほら音に聞こえ、あの男が出ぬはずあろうか。


彼はきっと、布を拾ったのは僕と気づいている。

そんなに大事なのなら落とすなよと思う。もっと早くに言ってくれとも。

けれど僕は何故、偽った。

あの妖異幻界の目に触れる時、卑しい僕は、たまらない程に情けなさを覚えて、もう既に似たようなものだが、ボロ布を摘まみ上げたあの夜を、黒い鼓動で呪い冒そうとするだろう。


すみません。

たったの一言。

歯擦音で始まり鼻音に終わる。

すみません。心当たりがあります。僕が持っているやも知れません。けど捨てたかも。探します。言いそびれてすみません。すみません。すみません。すみません。

意気地無しめ。


こんな時にはアルコールに限るが、コンビニの缶酎ハイでは違う気がした。

彼の出す水はまさに神仙の泉。あれに触れるともう他にどうして良いのか分からない。

彼を介せば、ロウプライスの缶カクテルだって美酒に変わろう。

けれど今日は一人だ。自業によりて。


なんだか家にも帰りたくない。

この時間まで珍しく、まだスーツだ。デパートに寄り書店を廻り、ここからなら月に見つかることもないからと、若者の間を縫って歩いた。

裏路地に逸れる。カフェテリア、雑貨屋、カレー屋、ラーメン屋。一本逸れるだけで違う。歩き慣れたと思ったこの街も、勝手に退屈と決めつけていただけで、誰かにとっては、僕の感じるあの場所と同じなのかも知れない。


一軒の古めかしい建屋が目についた。

建材には詳しくないが、煤けた土壁に瓦という、この界隈には似つかわしくない建物で、だが扉だけはライトに照らされ輝いており、妙に気持ちが惹き込まれる。

OPENの札が下がる。店舗には違いないだろうが、会員制の飲食店か。


「あれえ、こんなところでどうしたの?」

聞き覚えのある声に振り向いて見やると、先輩だった。

いつもの姿でない、甘いサマーニットに吸い込まれた。黒のパンツにピンクニット。そうだよな。もう、一度帰宅して着替えている頃合いだよな。


「ここ、なんのお店なんでしょう」

「ここ? カフェバーだよ。ちょうど私ここに飲みに来たんだよ」

「あ、そうだったんですね。けど、お酒あまり飲めなかったんじゃ」

「飲めないのと嫌いなのは違うよ。ねえ、入ろ」


一杯目は、飲んだことがあったという理由でデュベルにした。先輩の前で潰れたくはなかったし、冒険もしたくなかった。先輩はストロベリーダイキリ。頬を染めて口をつける姿は、見た目も相まって、幼い子供がかき氷に目を輝かせている場面と重なった。


店内はシックで落ち着いており、また意外に床面積がある。聞けば、古民家を改装して店舗にするというのが、一時の流行だったらしい。

曲は、ジャケットが立てかけてある。Miles Davisと読める。


「よく来られるんですか」

「たまぁにね。ここのピザおいしくて」

「こういうお店で食事だなんて、お洒落ですね」

「そう?」

「そうですよ。僕はあまり店で飲むことがないんで」

あまりと頭につけたのは、せめてもの見栄だ。

「いつも涼しい顔して飲んでるのに」

「強いみたいです。けど詳しくなくて」


そういえば女性と二人で食事をするのは久しぶりだ。大学の時に学部の先輩とデートしたきりだ。

夜景スポットやなんかを必死に調べて、背伸びして個室の店を予約した。けど雨だったし、相手は彼氏がいるらしかった。

卒業してこちら、思えば会社に拘束される時間の方が長い。

あの頃は良かっただなんて、現在を卑下するつもりはないけれど、それでも、もう少し、楽しく生きていられないものか。


新しいジャケットが置かれる。Antonio Carlos Jobim。

ああ、この場にあって、先輩は映える。

僕は二杯目を頼んだ。パトロンのシルバー。これも、飲んだことがあったから。


「ずっとCD見てるね」

「違います。緊張してるんですよ」

「あ、良かった。私だけかと思ってた」

「音楽て、聴かれますか」

「もちろん。結構聴くよ」

「どんなのです?」

「何でもかな。けど従兄弟の影響でね、静かなの好きかも」

「こんな感じですか」

「そう。ジャズっぽいの好き。それ以外だと、アイドルも好きかも」


どういうの聴くのと逆に問い返され、僕は、最近やっと色々聴くようになったんですと答えた。

先輩がお薦めの曲を教えてくれる中で、Nujabesは名前に聞き覚えがあった。


「私、従兄弟のお兄ちゃんに昔もらったCD無くしちゃってさ。もらってずっと、なんか大人になったみたいで、何回も何回も聴いたんだあ。思い出だったんだけどな」

先輩はチャールストンバックを頼んだ。僕も同じものにした。

爽やかな甘みが先輩のピンクトップスと合わさり酔いを巡らせた。

ジャケットが変わる。Thelonious Monk。先輩の思い出はFlying Lotusというらしい。


麗しい時は早く過ぎ去って行くもので、今夜はこれでお別れとなった。

何を喋ったかも断片的にしか覚えていない。浮ついた夜だった。

けれど心は決まった。

無くしたものが出て来ないのは非常に辛い。すみません。たった一言謝るだけだ。もちろん襤褸のことだ。捨てた記憶は無い。部屋のどこかにある。


帰り際、先輩はこちらを振り向き大きく手を振った。

羨ましそうな目線の月は、まだ僕たちを見下ろしていた。

「良い女だよな」

同僚の言葉を思い出す。

全くだ。

月はまだ見ている。

今日は徹夜になる。今日はここから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る