第十一夜
やはり彼はいるのだろう。
仕事には慣れた。
お局からの嫌味な視線はめっきりと無くなり、最低限の会話だけではあるが、軽口を叩き合うくらいの仲にはなった。
先輩は髪型を変えた。指摘した際の笑みが綺麗だった。まるで観察していたみたいで気後れしたが、言えて良かった。
同僚は気づかなかったみたいで、「くそう、お前うまいことやったなあ」と悔しがっていた。
今日はあの場所へは行っていない。
なんの因果か同僚の部屋にいた。
二人でキリンラガーの缶を開け、乾き物を肴に語り合った。
主に愚痴だ。
この同僚、要領良くこなしているよう見えるが、そんな人物でも裏ではそうなのかと、短所を覗いたみたいで少し安心した。
女性の前では爽やかな好人物を演じているけれど、普段の会話では下ネタが多い。みな表裏があり、そんなことすら再確認せねばならない自身の脆弱さに、酒が不味くなりそうだ。
あの得体の知れぬ高等遊民はいるのだろうか。
活気に溢れる夜だ。窓の向こうから様々な気配が飛び込んでくる。ボーナスの入ったサラリーマンが夜遊びをしているのだろうし、これだけ街が明るいと野良猫もまた寝てなどいないだろう。
私には眩しすぎますからねえとでも嘯きながら、またあの場所へ繰り出すはずだ。
「最近お前、先輩と仲良いじゃん」
「それはみんなそうですよ」
「まあ、なあ。人たらしだよなあ、あの人」
「男たらしではなくてですね」
「良い女だよな」
同僚は日本酒に目が無いらしく、食卓の脇に瓶が並べられてあった。
「これおいしいぜ」
亀齢、萬亊酒盃中。面白い名だな。可笑しな名称のものが多い気がするし、杜氏の人柄が透けていて、飲む前からもう美味しい。
口に含む。
もちろん、飲んでも美味しいし、その方がより美味しい。
「美味そうに飲むねえ。お前、暗いから、こんなのが同期かよって嫌だったんだけどさ、飯食うときすっげえ良い笑顔なのね。その顔、もっと普段から出してけよな」
頑張りますと声に出したつもりで、首だけで頷いておいた。全きが酒盃に有りと言うなら、飲み干してしまうのが礼ってものだ。
次の、雨後の月BLACK MOONを開けたあたりで、やっと僕らのペースは落ち着いた。
家で飲むだなんていつもと変わりはないのに、他人がいてくれるだけで簡単に性質を変化させる。この僕が、あの男を動かせていると良いな。僕だってきちんと一個人。囚われもするが契機にもなる。
「山を散歩してたら仙人がいるわけです」
「は? 酔った?」
「その仙人はなぜか一人酒してるんですよ。で、出会うたびにお酒を分けてくれる。どうぞ一緒に飲みましょうと」
「天界の酒は美味いって聞くね。綺麗な姉ちゃんが注いでくれるんだっけ」
「まさに風味絶佳。けどその人は何故そんなことをしているのでしょう。酒だって無料で手に入るわけではないのに」
「なんだなんだ? 仙人なんだから、もはや無欲なんじゃねえの?」
「どういうラストに向かうと思います?」
「知らねえよ。映画か? 中国古典なんて、突然虎になったり龍になったり、目が合ったからって道端の子供拐って仙界連れてったり。本当に酔心地でも予想なんてできねえよ」
今日はこれでお被楽喜となった。
羽化登仙の心気に流されるがまま、酔眼朦朧、あの場所へ顔を出した。
男はいない。
割れた空の向こうから掠れた黒色が窺っている。こんな月は久方ぶりだ。これがあってあの男が何故いない。
部屋の扉へ手をかけようとして、なんとなく後ろを振り返った。
朔。新しい周期だ。
巨人も鳥もない。先刻までの賑わいは破れて消えた。
さすがに怖くなった。
これは一昔前の自分。
こんなに冷めた見方をしていたのか。もう戻りたくない。
野良猫すらも眠りにつく夜。
今夜、これまで。
付けたラジオからはKristin Asbjørnsenの曲が流れて、僕はベッドに飛び込んだ。
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