-4- End

 あの不思議な体験から一ヶ月ほど月日が流れた。剣道の稽古を終え、夕食を済ませ、お風呂に入ろうと寝間着の用意をしていると、菜穂から、とても短くとても悲しいメッセージが来た。私は、そのことを基兄に同じようにメッセージで送ると、翌日、わざわざ時間を作って付き合ってくれると言ってくれた。


 肉親に対しても、まだ一度も行ったことがないことだったため、人生で初めてのことだらけの体験であったが、時間として30分程度でそれは終わった。


「それでは、これから先は責任をもってご火葬、ご供養させていただきます。」


 係の方に軽く会釈をして、私達は部屋を後にする。目元をパンダの隈取のように真っ赤に腫らし、今もなお、嗚咽が止まらない菜穂の背中を、菜穂のおばさんと私の二人で軽く支えながら会場を後にした。


「巫月。最後まで付き合ってくれてありがとうね」


 私は彼女をギュッと抱きしめた。


「私もテっちゃんにはいっぱい遊んでもらったからね。私も最後のお別れしないと、今度は怖い顔して化けてでてきちゃうよ」


 そう言って、菜穂の頭を撫でながら、背中を軽くポンポンと叩いて、胸の中で号泣している彼女を落ち着かせる。


 ── そう テっちゃんが 昨日 天国へと旅立ったのだ ──


 テっちゃんが粗相を頻繁にするようになったと、獣医さんに初めて相談した時は「犬猫にも人間と同じような痴呆症の症状がありますから。」と、言われていたそうなのだ。それを聞いてから、献身的にテっちゃんの介護をしていた菜穂だったのだが、先週くらいから突発的に痙攣を起こすようになったと聞かされていた。改めて獣医さんに相談しにいったのだが、「検査をするための全身麻酔に、老犬が耐えられる保証がない」とのことから、詳しいことはわからなかった。ただ、おそらく症状から見て、脳の一部に腫瘍ができており、このような症状が起きているのではないだろうか?という診断であった。


 どうやら、テっちゃんは自身でそのことに気づいていたらしい。自身で自身のことをコントロールできなくなり、自分にとって一番大切な菜穂に迷惑をかけたくないとその頃から考えるようになったらしい。


 そんな日が続いたある日に事件は起きた。そう、菜穂の家にお婆ちゃんがやってきた時だ。運悪くその際に粗相をしてしまったのだ。お婆ちゃんに折檻され、そんな不甲斐ない自分を庇ってくれた菜穂の姿を見て、これ以上彼女に、自分のことで辛い思いをさせられない。と、家出を決意をしたのだという。


 自身がもう長く生きられないことも、そのときわかっていたのだそうだ。ひっそり一匹だけで、誰にも迷惑をかけないで、自分の中で一番楽しかった思い出の場所でその命が消える日まで過ごそうと、あの公園のベンチの側にいたんだそうだ。


「痙攣してたときは、なにもしてやれなくて辛かったけど、それでも、最後までテツのことを看取れて本当に良かったとおもう。あの日、あそこでテツにもう一回出会えなかったら、ずーっと私はテツを見つけてあげられなかったことを悔やんで後悔して、苦しみ続けていたと思うんだ。だから、こうやってちゃんとお別れができてよかった。」


 菜穂とテっちゃんが一週間ぶりに再開できたあの日、自分がどれだけ探し回ったか、どれだけ心配しのか、どれだけ寂しくて悲しかったか、すべての心の中の思いを打ち明けたらしい。どんな姿になっても、どんな結末になったとしても、自分にとって大事な大切な家族なのだから、お願いだから戻ってきてほしい。私を一人にしないで。と、ずっと言い続けていたのだそうだ。


「おわりましたか?」


 私のことを見つけたようで、喫煙スペースの隅に置かれたベンチに腰掛け、タブレットPCで何か作業をしている基兄が声をかけてきた。


「うん。終わったよ。」


 それを聞くと、基兄はタブレットPCのスタンドを閉じ、半分に折り畳むと立ち上がった。私は、菜穂とおばさんに向かって軽く会釈をすると、一緒に基兄の車へ向かった。


「どうしてお別れの式にでなかったの? 一緒について行く。っていうか、てっきりそうなのだとばかりおもってたのに」


私が車の助手席に乗り込んでいる間、後部座席に置かれた鞄の中へ持っていたタブレットPCをしまいながら、


「僕にとって、意味のないことだからですよ。」


と、言って、後部座席のドアを閉め、運転席へと着席する。


「冷たいなぁ……」


「持論ですけどもね、葬儀というものは、遺族が、故人は、と、最終確認をし、気持ちの整理をつけるために必要な行為なのだと考えています。だから、目の前で、今まで生であったものが死という形に変化した事を脳が理解し、心がそれを受け入れたのであれば、本来、あのような仰々しいセレモニーは必要ないのです。家族としての絆が強くなってしまった昨今では、そういった、気持ちの区切りをつけるために、必要視されるようになったのでしょうね。」


「そっか……ペット葬なんて昔は一般的じゃなかったもんね。」


基兄の意見に何処か納得してしまう。幼稚園の夏祭りで掬った金魚を数年飼育していたことがあった。ある朝水槽を覗き込むと、1匹の金魚がプカリと水面に浮いているのを見つけ、直感的に「あ、死んじゃったんだ」と、私は死を理解したことを思い出したからだ。


「絆の強かったものどうしであればあるほど、日常の中に突然現れる『死』という非現実を受け入れるには、それ相応のきっかけが必要ですからね。沢口さんにとっては、愛犬に花を手向け、般若心経など成仏できるよう読経をあげ、末期の水を与えてあげる。という行為が、死というものを自身が受け入れるには必要なのです。」


その金魚に愛着がなかったわけではない。でも、菜穂とテっちゃんほどの強い絆があったわけではない。だからあの時の私は、死別というものを簡単に受け入れることができたのであろう。


 そこまで話をすると途端に会話が続かなくなった。重苦しい空気を変えたくて、私は、基兄の専門分野に付いて質問することにした。


「舌切り雀の雀は、お爺さんと再開した後、源流ではどうなっているの?」


ドリンクホルダーに入った、無糖紅茶のペットボトルの蓋を開け、一口二口喉を潤すように飲んだ基兄が話し始める。


「出会った場面はいくらか違いがありますね。雀が一人川沿いの小屋で機織はたお》りをしていたり、雀の家族が切られた舌を治癒するための薬を買いに出かけたところで、ばったり翁と出会ったり、今語りづかれているような雀の宿に案内されたりするなどです。その先は、ほぼ一緒です。雀に出会った翁は小さい葛籠つづらをお土産にもらい宝を得る。よこしまな婆は、大きな葛籠を持ち帰り、妖かしだの土産だったため、その場で死んでしまう。という、終わり方ですね。」


「テっちゃんが、本当に舌切り雀だったとしたら、菜穂はどんな宝物を貰ったんだろうね」


私の疑問に、基兄が即答する。


「沢口さんにとっての宝物は、あの愛犬自身ですから。一緒に帰ることができ、こうして見送れたことが宝物でしょうね」


それを聞いて、私もテっちゃんの死というものをやっと受け入れたのかもしれない。どうしようもなく、とめどなく涙が溢れてくる。持っていたハンカチで、目頭を抑え、なんとか涙を止めた。


「そうだよね……菜穂にとって、テっちゃん自身が何よりもかけがえのない宝だよね。一度失った宝が戻ってきたんだもんね」


 車は、菜穂とテっちゃんの散歩コースに近づいてきた。私は、窓を開けた。あのとき咲いていた白梅や紅梅はすっかり散ってしまったが、まだ蕾だったしだれ桜が代わりに咲き乱れていた。


『テツが亡くなる数日前にね、どうしても散歩に行くんだ!っていうから、最後の散歩に行ったんだ。約束してたのって。そのことテツちゃんと覚えてくれてたの。二人だけの最後のお花見。本当に楽しかった。それが、テツが私にくれた最後の思い出なんだ。』


 昨日、電話の向こう側で涙声に語る菜穂の言葉を思い出した。すると、一陣の風が吹き荒れると、車の中に一欠片の桜の花びらが舞い込んできた。私は、それを手のひらに載せる。「もしかして、これは、私へのプレゼントなのかな? 」と、心の中で問いかけたら、テっちゃんの一声が聴こえたような気がして、私はそれをそっと握りしめた。


 これからも、この満開の桜が咲くような世界から、菜穂のことを、時々私のことも見守っていてねテっちゃん。


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