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 まだはっきりしない意識を呼び覚ますために、私は洗面所へ向かい顔を洗った。目の前の鏡を見ると、前髪・後ろ髪に乱れ跳ねる箇所があることに気づき、急いで備え付けられたドライヤーで整える。机の上に出しっぱなしにしていた筆記用具や地図などは、巫月が鞄へと片付けてくれた。私達は、他に忘れ物がないか確認し、外で待っていてくれている従兄妹おにいさんの車へと乗り込んだ。


 後部座席から見る生まれて初めてのマニュアル車の運転は、いつも父親の運転するオートマチック車のそれとは違い、幾分奇妙な感覚を覚えたが、それはすぐに気にならなくなっていた。


 走り始めてしばらくした頃「基兄。どこに向かってるの?」と、私の左側に座っている巫月が尋ねた。私も、同じことをいつ尋ねようかと考えていたところであった。なぜなら、出発する際に「どこどこへ行こう」とか、「どこへ行けばいい?」などというやり取りは一切行われなかったからだ。


バックミラーに映る従兄妹おにいさんの視線が、後部座席の私達をチラッと確認したのがわかった。


「まずは、沢口さんのお家に行きます。」


 と、予想外の返答がやってきて、私達二人が頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。


私の家に?どうして?


「一般的に、大型犬とされている犬種が迷子になった場合ですが、1日の行動距離は1km〜5kmなんだそうです。しかし、話を聞いている限り、かなりの老犬のようですから実際の行動範囲はもっと狭いと考えたほうがいいでしょう。日数も経っていることですから、体力も落ちていると考えられます。それらを考慮すると、ご自宅から5km前後をもう一度集中的に捜索範囲にしたほうがいいと思いまして。」


 鞄の中から地図を取り出し広げる。訪問した場所や、聞き込みを行った場所を地図の端に書かれた縮図を本に図ってみると、捜索範囲はゆうに10kmを超えている。


「縄張り意識もありますから、マーキングを超えた範囲にどこまで踏み出るか? というのもありますね。若いオスならどんどん出ていくでしょうが、同じように、老犬ですと、中々そうはいかないと思います。」


元気だった頃のテツの身体能力が脳裏に焼付けすぎていたのであろう。「テツならきっとこれくらい。」と、無我夢中で自転車で駈けずり回ったのが裏目にでてしまったのかと後悔の念がやってきた。


「沢口さん。『灯台下暗し』という言葉は知っていますよね?」


 あまりにも突然の質問に


「え? あ、え、は、はい…船の航行を助ける灯台の下は明かりが届かなくて、近いものほど暗くて見えない。ということから、身近なことほどわかりにくい。という意味ですよね?」


 と、私は戸惑いながら答えた。


「多くの方がそう思われているのですが、実は、という説があります。」


 赤信号で停車すると、従兄妹さんはシフトノブを中央ニュートラルの位置に移動させると、ダッシュボードの上に置かれたスマートフォンを手に取りなにやら操作しだした。横の歩行者信号が赤に変わる頃、どうやらお目当てのものが出てきたようで、スマートフォンを巫月に渡すと、シフトノブを左上ローギアに入れ、青信号と同時に車を発進させた。二人で画面を見てみると、そこにはの写真が映し出されていた。


「古い文献によると、その手提げ提灯の提灯部分を『灯台』と呼んでいるものがあります。このことわざがいつ頃にできたものか定かではありませんが、灯台下暗しのもととは、実は足元のことではなくて、手提げ提灯を吊るすための棒を握るのことを指しているのではないか?というものです。」


「何が言いたいの?」


 巫月が尋ねる。


「愛犬がいなくなってから、日常的な散歩コースは確認されましたか?」


「は、はい。いなくなった最初の日に……」


「ちなみに、散歩コースは幾つかパターンはありますか?」


「一つしかないです。テツの散歩は私一人で毎日行っていましたから。」


連続の質問に少し戸惑いながら私は答えた。


「犬と生活したことがないのでわからないのですが」と、一つ前置きした上で、「若い時と年老いてからでは、散歩のコースが変わると聞くのですが、そういったことはありましたか?」


 そんなことあっただろうか? と、しばらく考えた後、


「散歩の道順は変わっていませんが、足腰が弱くなってからは、距離が短くはなりま、あ!! それよりもずーっと前の散歩コースは、探しに行っていないかも!」

 

「では、まずそこからですね。」


うっかり大きな声を出してしまったことに、急に恥ずかしくなり、縮こまってしまった私を、バックミラー越しに見える従兄妹おにいさんは、ニッコリ笑っているように見える。


 あれだけ探し回ったのに、本当に、提灯とうだい元暗しだ。この諺をテツと私に当てはめるとするなら、提灯とうだい部分はテツだ。そして、二人を繋ぐリードが棒で、その元は私だ。テツがどこへ行きたかったのか、どこは嫌だったのか、どこに行きたいと思っていたのかは、私達を繋いでいたリードが教えてくれていたのに、私はテツという存在ばかり追いかけて、どこへ行こうとしていたのか考えもしていなかったのかもしれない。


 ある一つの場所が頭の中に浮かんだ。「おそらく、きっとあそこにいるはず……」リードをいつも握っている右手にギュッと力を込めた。


 ────────────────────────────────────────────


 基兄と菜穂との間で交わされていた質疑応答が終わると、車内はカーラジオの音以外、タイヤの路面を走行する際に発するロードノイズしか聞こえない時間が、しばらく続いたかと思えば、私達を乗せた車は菜穂の家へ到着した。


ハザードランプを焚き車を停車させた基兄が、「ここからは歩いて行きましょう。」と、提案してきた。


「だったら、両親は夜遅くならないと帰らないので、家の前の駐車場にいれてください。」


菜穂の実家の駐車場に車を停め、私達は車から降りた。車の中に忘れ物はないか確認し、ドアを閉める。助手席の丁度真後ろの席にいたため気づかなかった、基兄は結構大きめのショルダーバックを持ってきたようだ。


「こっちです。」


と、捜索を開始しようとした菜穂に向かって、「ちょっと待って。」と基兄が静止を掛けた。


「無事に見つかるように、よかったらを身につけていってください。」


 そう言うと、肩から下げたショルダーバッグの中から、黒と白の組紐が結び付けられた土鈴どれいを菜穂へと手渡した。


「以前、学会の資料集めのためにお伺いしたお婆さんに頂いたものです。民間伝承の一種なのですが、迷子や迷い犬、迷い猫などを探しに出る際、この鈴の音色を鳴らしながら行くと不思議と見つかるのだそうです。おまじないだと思って付けていってください」


 基兄が揺らし鳴らしたそれは、一般的な『チリン、チリン』という鈴の音ではなく、『コロコロ、コロコロ』と、柔らかでとても耳心地の良い音色を奏でていた。きっと、藁にもすがる思いなのであろう、何も特に言うこともなく、菜穂はその鈴を鞄へと取り付けた。


しっかりと結び終わり、落ちないことを確認すると私達は歩み始めた。


 今歩いているエリアは、田んぼや畑も沢山あるため、四季の訪れを視覚的にも嗅覚的に感じることができる箇所がいくつかある。畑の一角に植えられた梅は白い花を満開に咲かせ、少し遅れて咲くことの多い紅梅も七部咲きといったところであろうか。整備された川沿いには、枝に小さな蕾をぽつぽつと付け始めた、しだれ桜が何百メートルもの距離で等間隔に植えられている。毎年この通りは、満開になると出店がたくさん並び、夜は提灯の明かりで川面が照らされて、地域では知る人ぞ知るオススメのお花見ポイントとなっている。視線を少し足元に向けてみれば、畦の土を一面覆い尽くす緑の絨毯と、その間から時々顔を見せるオオイヌノフグリやセイヨウタンポポ、そして、春の味覚としても重宝される土筆が、何本も顔を覗かせ出ている。


「ここまでが、最近の散歩コースです。」


 視覚的に楽しみながら後を付いていた私の方に、くるりと菜穂が向きを変え、歩みを止めた。その回転運動に合わせ鞄に先程付けられた土鈴が、『コロコロコロ』と音色を奏でる。


「この先はどのような道順で?」


スマートフォンのGPSロガーで、歩いた箇所を先程から確認記憶させている基兄が尋ねた。フィールドワークするときには必須なのだという。人間というものは、不思議な動物で、なぜか、すべて虱潰しに探したと思っていても、実際には立ち寄っていない箇所などが生まれるのだと。なんでも、利き足だとか、体の体位の得意不得意で、右ばかり曲がるとか、左ばかり注意を向ける。などという無意識下の癖があるのだと教えてくれた。


「以前は、河川敷沿いに歩いていくとちょっとした公園があるので、そこで少し休憩して、Uターンして帰ってきていました。」


「わかりました。では、いきましょう」


 コクリと、菜穂は小さく頷くと、また歩みを開始した。


 私は、菜穂を見つめる基兄の表情がいつもと違うことに気がついた。いつもは、フワフワ空中を漂う綿毛のような、まったくもって掴みどころのない表情をしているのに、今はそうではない。これから起きるに対し、基兄は戦闘態勢に入ったかのような、真剣な表情へと豹変している。以前、似たようなことがあったと私は思い出した。それは、地域の剣道イベントの手伝いをしに行ったときに見た、お爺さんのことだ。お茶とお菓子をつまんでいるときは、とっても人当たりの良さそうなお爺さんだなと思っていたのだが、指導の時間になり、一度ひとたび竹刀を手に取ると、眼光鋭い剣士の表情へと変貌していった。


 まさに、そのようなことが今起きているのだと直感的に理解した。長きに渡り、民話や伝承を追い求め、フィールドワークして培った、何かを感じ取る第六感がそのようなことをさせているのであろう。


 ── それじゃ、そのとは一体、なんなのだ? ──


 河川敷の広場に着いても歩みを止めない菜穂の後を私達は付いて行く。そこは、私もよく知っている河川敷である。ランニングやサイクリングなどで体力づくりをしている人や、ゲートボールを楽しむ老人達。学校帰りなのかランドセルを放り出して遊ぶ子供達に、仕事の時間調整なのか、はたまたサボりなのか、社用車で居眠りをする会社員の人達、いつもならそんな人達で賑わう河川敷だ。しかし、今日という日は何かがおかしい。


 人っ子一人、誰もいないのである。


 何度か、おかしいと思うことはあったのだ。いつもなら、この広場にたどり着くために横断する河川敷道は常に交通量が多いため、中々渡ることのできない難所の一つなのである。しかし、今日という日に限っては、一台も通ってくることがなかったのである。その時は、「ラッキー」くらいにしか思わなかったのだが、道路を渡り、河川敷広場に出る道を歩いていれば、まず最初にどこかの運動部のランニングの掛け声が聞こえてくるはずなのに、それもなかった。たまにはそういう珍しいことがあるのだな。と、この時も思っていたのだが、かれこれ10分以上歩いているというのに、誰ひとりとして出会わない。これを異常事態として何を異常事態だというのであろうか。


「えっ!? うそ!!」


 何かに驚き、先導者である菜穂が突如歩みを止めた。


「どうしたの?」


 私のその問いかけに、菜穂が指を指して見せる。その先には、何かに腰掛けている人物が見えた。続けて、菜穂は、震える声で続けて話し始める


「向こうに見える人……以前、散歩の時に挨拶したりお話してたお婆さんなんだけど……」


「なんだけど?」


「お母さんから……去年亡くなったって聞いた……」


 後ろを振り返り、私達の更に後を付いてきているはずの基兄がちゃんといるか確認する。よかった、先程の険しい表情はどこへ行ったかわからないけど、いつもとかわらない飄々とした表情で付いて来ているようで少し安堵した矢先、


「それでは、いつものようにお話してみましょうか」


 と、言って、血の気が全身から引き、青ざめている私達のことなどお構いなしに基兄はお婆さんの元へと向かって歩いて行く。取り残されたらこれ以上にどんなことが起きるかわからない。後戻りすることもできない私達は、二人しがみつくようにして付いていった。その後を付いて行く。


 お婆さんの元へと着いた。腰掛けていたものは、どうやら手押し車を座席の形に変形させたもののようである。太陽に照らされ、光り輝く河川の水面を眺めながら、お婆さんは日向ぼっこをしているようで、恐る恐る菜穂が声をかける。


「こ、こ、こんにちわぁ……お久しぶりです……」


「あら、こんにちわ。しばらく見ないうちに大きくなったねぇ」


 無言とか、この世のものとは思えない声だとか、首がポロッと取れて中からウジが湧いてくるだとか、ありとあらゆるホラーものの定番で起きそうなことを想像していたが、予想に反し、お婆さんはニッコリと微笑んで会話を返してきてくれた。それならそれで、不気味な存在であるお婆さんにオロオロとする菜穂を、基兄は無言で見守り続けている。


「えっとね、お婆ちゃん。私がいつもここに来るとき連れてた犬が迷子になっちゃったんだけど……どこかでみなかったかなぁ?ちょっとしたことでも知ってたら教えてほしいんだけど」


 未知のものと対峙した恐怖で、膝も口から発せられる言葉も震えている菜穂の顔を、ニコニコとお婆さんは見つめると、


「あぁー、あの子のことならちょっと前に見たよ」


「ほ! 本当ですか!? 教えてください!! どこにいますか!? ずっとずーっと探してるんです!!」


予期していない回答に、お婆さんの細い腕を取り興奮気味に話しかける菜穂。そんな菜穂のことに動することもなくお婆さんはニコニコしていると「よっこらしょっと」と言って手押し車から立ち上がると、今まで自分が座っていた座席部分を開け、何やら中から黄色い液体が半分ほど入った350mlほどの大きさのペットボトルを取り出した。


「ここに、さっき婆がした尿が入っておってな、お嬢さんがこれを全部飲むことができるというなら、あの子の居場所を教えてやってもいいぞ。」


 一瞬、聞き間違いかと思ったが、確かにはっきりと「婆がした尿」と言っていた。私の中の思考回路が一瞬でフリーズした。「え? どうして? どういうこと?」おそらく菜穂もそうなのであろう。実際は数秒しか経っていないはずなのに、何時間もの間忘却の彼方にいたかのような感覚から我に返ると、


「そ! そんなふざけたこと」と、私が言いかけたところで、基兄に後ろから口元を手で塞がれた。


私は、その塞がれた手を振り払うために、指に噛み付いてやろうかと思ったが、静かにしているようにという意味なのだろう、耳元で「しぃー」っと囁やかれた。そんなこと言われたって、親友がいきなりオシッコを飲んだら教えてやるなんて、おかしな交換条件を提示されて黙っていられないわけがない。なんとかこの腕を振りほどいてやろうと藻掻いてみるものの、悲しいかな、頻繁にフィールドワークを行い、体を鍛えている成人男性の前では、私の力では全く歯が立たなかった。


必死に「うぅーうぅー」ともがいていると、突然脳裏にある言葉が浮かんできた。


 ── ご親友はが必要だから、そのつもりでいるように ──


 合点が行き過ぎ、先程まで藻掻くために入れていた全身の力が抜けていく。もしかして、基兄がメッセージで送ってきた相当な覚悟というのは、このことだったのか? もしかして、この人は、こうなることが初めからわかっていたってことなのか?


「どうした? あの子のことを探しているのだろ? 助けたくないのかい?」


 彫刻のように固まってしまった菜穂。いま、彼女の心の中で、色々なことが目まぐるしく葛藤していることは手に取るようにわかる。私だってそんなこと言われた当事者であったら、心の中でプライドや反抗心など、色々なものが葛藤しあい、心がオーバーロードしてしまうに決まっている。でも、答えは一つしかないのである。答えは一つしかないのに、その答えを選択することに何かが邪魔をして選択することができない。


「そうかね、そうかね。お嬢さんの覚悟というのは、その程度のものだったのかね。残念だねぇ。可哀想だね。あの子も、こんな飼い主に飼われていたなんてね。」


 下を向き、立ちすくむ菜穂の元へお婆さんは歩み寄ると、俯いていた菜穂の顔を覗き込むようにして下から見あげた。


「ヒッ!!」私は思わず声を上げ、その場でしゃがみこんでしまった。


覗き込んでいるお婆さんの顔が、先程までのニコニコとした表情ではなくなっていたのだ。眉間にシワを寄せ、目は眼球が飛び出さんといわんばかりに見開かれており、しかも、口からは、先程までなかった牙のようなもの生えているようにみえる。その形相は鬼か悪魔か、はたまたか……。とにかく、この世のものではない何か得体の知れない、とても恐ろしい何かだということだけは、本能で理解することができた。


しばらくその化物は菜穂のことを睨みつけていると、「わかった。そういうことだね。ざんねんだねぇ」と、菜穂の頬をそっと手で撫でると、彼女の元から離れ、再び手押し車の座席部分を開け、持っていたペットボトルをしまい始めた。


「のみ……飲みます……テツのためなら……それで、テツに会えるなら」


 その言葉を聞いたお婆さんは動きを止めた。振り返ったその顔は、先程の化物のような表情からまたニコニコとした表情にもどっていた。


「そうかい。そうかい。それじゃ、ぐうぅ〜っと飲み干すんじゃよ。」


 そういうと、しまいかけたペットボトルを、お婆さんはもう一度菜穂の前へと差し出した。菜穂がそれを受け取ると、カタカタと小刻みに震える手で閉じられたキャップを開栓し、飲み口を開ける。ペットボトルを握る震えた左手を押さえ込むかのように、右手も添え、両の手でペットボトル握りしめる。荒い呼吸を何度かした後、どうやら覚悟を決めたようで、「ふうぅぅ〜」と一つ大きく息を吐くと、飲み口を唇に密着させたかと思うと、それを一気に体の中へと流し込んでいく。


しっかり握っていたはずのペットボトルが、再び震え始めた両の手により小刻みに震え始める。それが振動となり、触れていた唇の先にある歯に当たり「ガチガチ」という音を奏で始めた。おそらく体は拒絶しているのだろう。うめき声にも似たえずく声が漏れ出てくるのも聞こえる。体は吐き出しそうとしているのだが、リミッターの外された理性によって強制的に体内へと流し込んでいく。体と理性が葛藤している証拠に、口元からも、目頭からも液体が流れ落ち、共に頬を伝って首筋へと流れ落ちていく。


「え゛はっ! げほっ! ごほっ!! うぅぐ!」


 全部飲みきった。咳き込んだ反動で、飲み込んだ尿を体外へ排出しようと嘔吐反応を示すが、両手で口を塞ぎそれを阻止する。涙を流しながら、食道を通過し、喉元まで上がってきたものを強制的にもう一度胃の中へと押し戻す。まるで、反芻はんすうを繰り返す牛を見ているかのようだ。嘔吐手前と飲み込みの動作を繰り返しながら、膝から地面へと崩れ落ちていく。


その姿を、ニコニコと見守っていたお婆さんが、口をひらく。


「よぅ全部飲みきったのぉ。良い飼い主に出会えてあの子は幸せ者じゃ。それじゃ約束じゃの。あの子は、お嬢ちゃんと一緒にいつも休憩しておったベンチのそばでちゃーんと元気にしとるで、早く会いにいってやるといい。」


 それだけいうと、お婆さんは手押し車を押し、私達の前から立ち去っていく。小さくなるお婆さんのその姿を見届けると、先程の恐怖で震えが止まらない足を奮い立たせ、菜穂の元へ駆け寄った。


「だ、大丈夫!? もうお婆さんいないから吐き出してもいいんだからね! 自販機近くにあるなら、私、ジュースとか買ってくるから」


 右手で口元を抑えながら菜穂は、「だいじょうぶ……」と消え入るような声で答えた。彼女もまた、私と同じようにヨロヨロと立ち上がると、


「平気……だよ……だって、テツのためならなんでもするって決めてたんだもん。オシッコを飲むだけで、テツの居場所と元気だってわかったんだもん。従兄妹おにいさんは、こうなることがわかっていたんですね。だから、だって、先に念を押してくれたんですよね」


 足元のおぼつかない菜穂の体を支えていると、基兄が私達の元へ歩み寄ってきた。


「舌切り雀の源流に近い話では、道中に出会った人から尿尿と、言われる描写があります。今は残酷だとか、グロテスクだ。などと言われ消されてしまっている箇所です。しかし、自身にとって大切なものを教えてもらうには、それ相応の代価を払わなければいけないので、これは、そういう戒めなのです。本来、舌切り雀の話の中で、後世に語り継いでいかなければいけない一番大事な部分なのです。」


 日中、基兄の帰りを待っている間に、菜穂が見つけた本に描かれていた、お爺さんが竹筒で何かを飲んでいた挿絵。あの場面は、お爺さんが道中出会った人に雀のことを教えてもらう為に、尿を飲んでいたところだったのである。もしあのとき、ミミズが這いつくばったようなあの文字を読むことができたら、こうなることは予測できていたのかもしれない。しかし、答えを知ったところで避けて通れるわけではない。むしろ、答えを知らなかったことが功を奏した可能性だって考えられる。


「それじゃ、あのお婆さんは一体なにものなの? 菜穂の言ってることが正しかったら、あのお婆さんはもうこの世にいないってことだけど」


その質問には、「うーん」と腕を組みしばらく考えた後、基兄はこう言った。


「おそらく、沢口さんの覚悟を確認しに来たの一種でしょう。どうやらここは、いつもの私達の世界ではないようですね。現世とあの世の境界線に近い場所。昔話ではしばしば神隠しや、天狗の仕業などという表現が出てきますが、そういった人達が迷い込んで来てしまう世界だと考えられます」


「ちゃんと……帰れるよね私達……」


 心配する私に向かって、基兄はニッコリと笑みを浮かべると、


「きっと、大丈夫でしょう。こんな世界にやってきてしまったのも、沢口さんが愛犬を思う願いに、その土鈴が応えてくれたからだとおもいますよ。」


 そう言われ、菜穂の鞄につけられていた土鈴に目をやると、不思議なことに、それは、自身を薄紫色に光らせ、揺らしてもいないのに小さく『コロコロコロコロ』と鳴り続けている。そうだったのか。この土鈴は、あの世とこの世の境界線の扉を開くための鍵の存在をしていたのか。


「ありがとう巫月、もう大丈夫だよ。お婆さんが教えてくれた場所はもうすぐそこだから。早く行こう」


 まだ足元のおぼつかない菜穂に、私は寄り添うようして歩き始めた。それから、10分位歩いただろうか、前方に、大きな木とその下にブランコとシーソーがあるだけの、ちょっとした公園のような場所が見えてきた。更に目を凝らしてみて見ると、ベンチの直ぐ側に、黒と白の色をした一つの塊があることに気づいた。


「テーーーーツゥゥーーーー!!」


 菜穂はその塊に向かって叫ぶと、転びそうになりながら駆け出していった。その声が届いたのか、ピクリと反応した塊はむくりと起き上がり、こちらの存在を確認するために振り返った。どうやら、その声の主に気づいたようで、同じように駆け出して行った。段々と距離が縮まり、菜穂がそれを思いっきり抱きしめたのが見えた。よかった。テっちゃんに会えたのだ。


「しばらく一人と一匹だけにしておきましょう。」


 地面に埋め込まれた半分だけ顔を覗かせた、青い塗装が剥げ始めているタイヤの上に基兄は腰掛けると、自身の鞄の中から水筒を取り出して、中に入った(おそらく紅茶であろう)飲み物をキャップ兼コップに注ぎ飲み始める。私もすぐ隣りにある別の色のタイヤの上に腰掛けると、用意周到なのか、折りたたみ式のシリコンコップを鞄の中から取り出し組み立てると、私にも水筒の飲み物を注いで手渡してくれた。


「そうだね。さて、基兄。私は個人的に色々聞きたいことがあるんですけどよろしいですか?」


 口元にコップを付けキョトンとした顔で「ほう」と一言呟くと、続けて「なんでしょうか?」と基兄は尋ね返してきた。


「どうしてテっちゃんが、と知っていたのでしょうか?」


 しばしの沈黙。真剣な眼差しで私は基兄を見つめる。そんな私を、とても不思議なものを見るような眼差しで見つめてくる。


「知りませんよ。そんなもの。偶然ですよ。偶然。」


 と、肩をすくめて言う。おもわず、私は立ち上がり声を荒げる。


「はぁ!? 偶然!? 偶然でこんなところまできちゃったってこと!?意味わかんない!!」


「落ち着いて、落ち着いて」と、基兄は手でジェスチャーをする。


「こういう結果になったのは、すべてが偶然の産物です。僕がお膳立てしたのは土鈴のおまじないを手渡してあげたところまでです。古来、日本の神話や民話などでは頻繁に出てくるに、たまたま偶然、奇跡的にたどり着いただけですよ。感謝するなら、あの土鈴をくれたお婆さんにするべきですよ。沢口さんの気持ちに土鈴が共鳴してくれたのでしょう。よく言いますよね? 『事実は小説よりも奇なり』ってね。」


 この状況化で、そんな軽い気持ちでいられるのが謎すぎる……本当にこの人はどうかしている……


「そ、それじゃぁもう一つ聞くけど、途中で、ものすごく険しい顔してたけど、あれはなに?」


またまたキョトンした顔をする。しばらくまた「う〜ん」と、少考すると、


「険しい……険しい……あぁ〜、沢口さんに土鈴を渡した後のことですね。あれはですね、昔話を探しに山里深い田舎に行ったりしますと、猿やイノシシに遭遇することがあるのです。何度かそんなことがあったものですから、それらに襲われないように辺りを目で凝らして見る癖がありまして、おそらく、ちょっとした変化も見逃さないようにと心に決めたところがそう見えたのでしょう。」


 手と膝を地面につけ私はがっくりと項垂れ崩れ落ちていく。本当にこの人は、この状況下に恐怖も感じていないようだし、それを楽しむようでもない。一体この人は何者だのだろうか。


 落胆している私の元へ、菜穂と彼女に寄り添うようにしてテっちゃんがやってくるのが見える。


「おまたせ♪テツと二人でゆっくり話し合った結果、お家に帰ってきてくれることになりました。」


十年近い付き合いのある私でも、こんなに嬉しそうな菜穂の顔をみたことがない。しかし、その目は充血し、泣き腫らしたような後が見える。それよりも、私が気になることが一つある。


「話し合い?」


その問いかけに、菜穂がテっちゃんの方をチラリと見ると、


「巫月ちゃんにも随分心配をかけてしまったようで、本当に申し訳なかったね。」


 私は「ひゃぁ!?」と驚き飛び跳ねた。目の前にいる、シベリアンハスキーのテっちゃんが人間の言葉を喋ったのだ。


「なにを驚いているのですか? 昔話の中では動物達も人間と同じように話をしているじゃないですか。ここは、普通の世界ではないのだから、犬がしゃべってもおかしくないでしょ?」


 確かにそうなのだけれども、この超常現象化でも、やはり至極当然、さも当たり前のことかの振る舞う基兄が、やはり私は理解ができない。


「そ、そ、そ、そ、そ、そうなんだろうけどもぉぉぉぉぉ!!」


 驚き慌てふためく私に「はははっ」と笑い声をかけると、テっちゃんは基兄の前に行くと、そこでお座りをし、見上げて言った。


「菜穂ちゃんに話は伺いました。あなたが私の居る場所まで連れてきてくれたそうですね。」


 軽く首を横に二度三度振ると、テっちゃんと同じ目線になるよう腰を落として言った。


「とんでもありません。私は、単なるしがない昔話研究家でしかありません。ここに来られたのは、あなたのことを本当に探し出したいと、心の底から熱望された彼女の気持ちがあったからです。私はほんの少し、そのきっかけをお作りしただけですよ。」


 といって、基兄は右手を差し出した。それに答えるようにテっちゃんは右前足みぎてを差し出すと、二人は握手をするかのように二度三度手を振るのであった。


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