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 結果が発表された。どうやら再試験無事合格することができたようだ。


 あの日、「今のままじゃ、大学受験の予備校に通ったところで集中できないし、私、どうすればいいのかな……」と、巫月に心の中を打ち明けたところ、「明後日からしばらく留守にするので、もしよかったら、二人で自由にこの家を使ってください。仮に、何かあったとしても、道路を挟んだ斜向かいは交番ですから」と、紅茶のおかわりを持ってきてくれた巫月の従兄妹おにいさんが提案してくれたのだ。


 その翌日から、私は学校の授業が終わると巫月と二人でこの家に来て、勉強するようになった。予習復習の勉強の質というか、そういったものは予備校のそれとは違って、正直言って効率的ではなかったかもしれない。しかし、と、いう、重圧から開放され、少しだけ私の心の中にゆとりが生まれたことは事実である。


 予備校をしばらく休む旨は、小学校からの付き合いのある巫月が母に代弁してくれた。初めは難色を示した母だったが、「私が勉強を見てもらってる、親戚のが、一時的に家庭教師になってくれるから心配しないで」と、言ったことで、状況は一気に打開された。その時は、大学教授という言葉は学業に於いて、強力な免罪符なのだろうかと思ったくらいだ。


 だから、授業でわからなかったことは、大学での仕事を終え、帰宅してきた従兄妹おにいさんに質問をした。歴史や英語、古文漢文、一般的に文系と呼ばれるものに関しては多彩な知識を持っていて、些細な事も複雑なことも丁寧に教えてくれた。正直言うと、巫月が羨ましいと思った。予備校の講師に、ここまで広範囲で、しかも、わかりやすく教えてくれる人は出会ったことがなかったからだ。

(専門外の分野は、きっぱりと、「それは学校で聞いてください」と言われたが……)


 そのおかげもあって、私達は、夜遅くまで従兄妹おにいさんが淹れてくれる美味しい紅茶を飲みながら、他愛もないことを沢山おしゃべりすることができた。一人で抱え込んでいたことも、両親がテツの捜索に消極的で、その怒りを吐き出すこともできた。


 巫月と巫月の従兄妹おにいさんには感謝しても仕切れない恩を作ってしまったが、私は、心の中に育ててしまっていた心配事の芽を一つ一つ摘んでいくことができた。


 テツがいなくなってから、早くも一週間が過ぎ去ろうとしている。今日は祝日ということもあり、巫月と一緒に、保健所や動物病院などへ再度情報収集に出かけていた。しかし、シベリアンハスキーという大型犬の迷い犬だというのに、目撃情報0。あいも変わらず雀の涙ほどの情報も手に入れる事ができなかった。


「本当にどこいっちゃったのかなぁ。大きい子だからなにかしらの目撃情報があってもいいと思うんだけどなぁ。」


 拠点として私達が使い始めた従兄妹おにいさんの家の途中で購入したアイスカフェオレを、音を立て、しかめっ面な表情で巫月は飲み干していく。


「もっと行動範囲を広げた方が良いのかな……」


 机の上へと自宅周辺一帯の地図を広げる。聞き込みをした日時や場所、捜索した箇所などを事細かに記してある。


「基兄が言ったように、これが本当に舌切り雀だったとしてだよ? お爺さんは一体どれだけの期間を探し回って見つけたんだろう。」


「そんなこと気にしたこともなかったよ……昔話の中じゃ、数行もしないうちに雀のお宿に行っちゃうんだもん」


「あぁ〜〜〜〜!! お犬のお宿ォォ〜〜〜!! どこにあるんだぁ〜〜〜い!!」


 そう言うと、巫月は机の上に突っ伏した。


「巫月の従兄妹おにいさんが見せてくれた、娘とお爺さんの二人が出てくる話。あれだと、二人とも旅支度をしてまで探しに行ってるんだよね。つまりは、それくらい時間がかかるってことなのかな? 私が学生じゃなかったらなぁ……すべてを放り出して探しにいくのに」


 巫月がむっくりと起き上がりこう言う。


「菜穂とテっちゃんって兄妹みたいな関係だったもんね。」


 両親が共働きの鍵っ子の私にとって、私の帰りを出迎えてくれたのはテツだった。両親が帰ってくるまでの間、テツは唯一一緒に過ごすことのできる家族の一員であった。台風の日だろうと豪雪の日だろうと、そんな事関係なく両親は仕事に出掛けて行ったが、私はテツと一緒に家で過ごしていた。テツがいたから、安心だった。テツがいたから怖くなかった。テツが我が家にやってきてからは、両親よりもテツと一緒に生活している時間のほうが長いことは明白であった。本当のところは学校などに行かないで、かけがえのない大切な家族を探しに行きたいのだ。しかし、親の監視下にある、しがない学生でしかない私には、今、その選択肢を選ぶ事ができない。


「基兄も「学会があって忙しい」とか言ってっさ。メッセージを送っても、「はい」とか「そう」とかしか返してこないしさ。か弱い乙女が自転車で方々探しまわってるっていうのに、ほんと、薄情者め。」


「まぁまぁ」と、私は巫月を宥める。


「それにしても、ものすごい本の数だよね。新しいものも古いものもジャンル関係なくいっぱいあって、勉強していてわからないことがあっても、少し本棚を見て歩けば参考書的なものもあるし、家の中に図書館があるみたいだね。」


 私達が今いるリビングだと思われる場所には、テーブルが一脚あり、それを囲むようにして、二人掛けのソファーが2つと、一人掛けのソファーが1つ。それ以外で目に付くものといったら、部屋をぐるりと一周囲むように置かれた書棚である。その書棚すべてにビッシリと整理整頓された本本本……。ロフトもあり、冒険心から登ってみたが、そこにも書棚が並べられていた。収納されている本のジャンルは、有名な文学作品や、何が書かれているか読むこともままならない古書まで、新旧ありとあらゆるジャンルものが並べられていると。


「私も見せてもらった事ないんだけれども、地下には修復の必要な本とか、古文書的な貴重なものもあるんだってさ。オタクも、トコトン極めると専門家になるんだって良い例だよねぇ」


 両の手を頭の上へと、ぐーっと突き上げ、上体を伸ばす動作をしている彼女を横目に、前回見せてもらった「舌切り雀」と同じ本棚に収納されている、別の「舌切り雀」の本が目に止まった。取り出して、何気なくパラパラとめくっていくと、少し変わった挿絵があることに気づいた。


「ねぇねぇ、巫月。ちょっとこのページ見てくれない?」


 私はその挿絵のあるページを巫月に見せる。


「どれどれ? う〜んと、これは、お爺さんが何か飲んでるのかな? そばにいるのは、馬とおじさん?」


 私達では到底読むことのできない、見開きいっぱいに書かれた旧仮名文字の中央に、お爺さんが竹の筒のようなものを手に、その中に入ったものを飲むような動作をしている姿と、傘をかぶった男性とその傍らには馬の後ろ姿が描かれている。


「舌切り雀のお話の中で、お爺さんが何か飲むような描写ってあったっけ?」


「私が知ってる限りではないけど、長旅に出て、休憩してる途中に出会った旅人に雀のお宿の場所を聞いているところとか?」


「なるほど! それ、ありそうだね。」


 巫月の推測に納得した私は、その本を元あった場所へ戻した。その他に興味を惹かれそうなものはないかと、色々手に取り物色していると、巫月のスマートフォンが何かの通知を知らせる音を鳴らした。


「お? 基兄、今から新幹線でこっちに帰ってくるって。」


「そうなんだ。早く戻って来そうならそれまで留守番してる?」


「ちょっと聞いてみるね。」


 静かな室内に、スマートフォンの文字入力の音と、メッセージのやり取りをしている送受信音が響く。個人的には従兄妹おにいさんと少しお話をしたい。もしかしたら、私が見落としているようなことを、アドバイスしてくれるかもしれないと思ったからだ。何度目かのやり取りの後、どうやら今後の方向性が決まったようだ。


「一時間もかからないくらいで戻れるって。それと、テっちゃん探しも手伝ってくれるっていうから待ってることにしたよ。『可愛い女の子二人が、迷犬を探しに奔走してるから助けて♥』って送ったら、急に返事が来なくなったことは納得行かないけどさ」


 と、ちょっとお憤りの様子ではあるが、移動手段が徒歩か自転車しかない私達にとっては、行動範囲を広げるためにも、従兄妹おにいさんの助力はとてもありがたいことである。それに、日が暮れてくると、お巡りさん達の目も気になり始める。成人男性がいるということは、いわば、保護者的意味でも安心して行動することができる。


 しばらくすると、三度、巫月のスマートフォンから通知音が流れた。


「既読スルーしやがってあいつめぇ!えぇ〜っと……ん?『ご親友はが必要なので、そのつもりでいるように。」って、どういう意味?これ?」


「どういうことだろう?お母さん達は仕事が忙しくて手伝ってくれないから、一人で探さなきゃいけないとわかったときから、それなりの覚悟を持ってるつもりではいるのだけれども」


 もし保健所に連れて行かれてしまっていた場合、リミットはおよそ10日。それを超えると、殺処分されてしまうところが多いとインターネットで知った。交通事故で痛ましい結果に遭遇するかもしれない。もしかしたら、虐められ怪我をした姿で見つかるかもしれない。など、自分の中で考えられる、ありとあらゆるバッドエンディングに出会うことは覚悟しているつもりである。従兄妹おにいさんの言う相当の覚悟とは、そういうことを言っているのだろうか?


 ────────────────────────────────


 ガタガタッ


 どこからか聞こえてきた物音で、私はハッと目を覚ました。体を起こした視線の先には、ソファーの上で丸くなって眠っている菜穂しんゆうの姿があった。基兄の帰りを待っている時間の間に、どうやら二人共眠りこけてしまっていたようだ。まだはっきりしない視界をクリアにするために目を擦っていると、


「おや、起こしてしまいましたか。 可愛い女の子二人が帰りを待っていてくれるはずが、ソファーの上で眠れる森の美少女達になっていたので、いささか驚きましたが」


 声の主は基兄であった。おそらく、帰宅してからいくらか時間が経っていると思われる。シャワーを浴びたであろう濡れ髪に、ワイシャツの裾をジーンズから出し、薄手のワインレッドのカーディガンを羽織っている着こなしは、この人の休暇のときの定番の服装である。先程から何をゴソゴソとやっているのか観察してみると、学会に出かけたときに持っていったスーツケースの中から、本を取り出し書棚にしまっているようだ。


「帰ってきたんだったら、もっと早く起こしてくれればよかったのに! 」


 最近、父親にも見せたことのない(もしかしたら、こっそり覗いてるかもしれないが)寝顔を、こともあろうに基兄に見られたことに、少し逆ギレのような言いぐさを発した。


「迷い犬探しのお手伝いでお疲れだったのではないですか? これだけおしゃべりしていても、ピクリともされないところをみると、ご親友は相当お疲れのようですね。休めるときに休んでおく。これはとても大事なことですよ? まぁ、一言、巫月さんに苦言を言うとするならですね、せめて、玄関の戸締まりくらいしてから夢の中に旅立ってほしかったですね。」


 「ぐぬぬぬ……」悲しいかな反論の余地が一切ない。昨日も今日も菜穂と一緒に情報収集に奔走していた為、疲れが溜まっていたことは否めない。菜穂に至っては、おそらくこの一週間、熟睡しているとは到底考えられない。緊張の糸がいつ切れてもおかしくない状況が続いていたことは火を見るより明らかだ。菜穂のほうへ目を向けると、基兄がかけてくれたのであろう毛布の中、安堵した表情を浮かべ、まるで子供のように眠っている。


階段を登る音が聞こえたため、再び基兄の方へと目を向けると、ロフトの上の書棚の本をしまい終わったようで、階段で降りてくるところだった。


「さて、これからどういたしましょう。このままご親友の寝顔を眺めておられてもいいですし、起こして迷い犬を探しに行ってもよし。」


 滅多に見ることのできない親友の寝顔を堪能したい気持ちはあるが、兎にも角にも今は彼女の愛犬を探すことが最優先事項であるから、私は彼女を揺り起こした。


「うぅ〜ん……あ、巫月おはよう……ごめん……寝ちゃったみたいで……」


「大丈夫だよ。菜穂疲れはとれた?基兄が帰ってきたから、テッちゃん一緒に探しに行こうって。」


 まだはっきりしていない意識の中、菜穂が基兄のことを見つけた。あたふたと乱れた前髪と服装を直すと「よろしくお願いします。」と頭を下げる。


その姿が微笑ましかったのであろう「ふふっ」と微笑んだあと、「30分後に出発しましょう。」と基兄は言って、ソファーに腰掛けると、学会で頂いてきたのであろう、冊子を読み始めた。


私は机の上に散らかった文房具や食べかけのものを片付け始め、菜穂は、寝癖の付いた髪を直すため洗面台へと向かった。

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