古今日本御伽話
黒猫チョビ
第1章 舌切りすずめ -1-
最愛のものを失った……
人には必ず一つは愛すべきものがあるはずである。それが、人や動物や物など、姿形は違えども、必ず一つはあるはずなのである。
私にとってそれは愛犬の「テツ」であった。テツはシベリアンハスキーで、小さな頃から一緒に暮らし、遊び、楽しみ悲しみ慰めあった家族でもあり、恋人のような存在であった。
しかし、それは突然にやってきた。
死別ではない、テツが私の前からいなくなってしまったのだ。保健所に電話をかけ、近所の人や、散歩で出会う人達にテツのことを聞いて回り、文字通り「足が棒になる」という言葉を初めて実感するくらい歩いて歩いて歩き探し続けた。
いつもの散歩コース。家族で出かける近所の大きな公園。SNSで迷い犬の情報はないか、似たような犬の声が聴こえたら、家を飛び出してその声のする方へかけていった。それこそ、寝る間を惜しんで探し回った。しかし、テツに関する情報は一切見つかることもなく、早いもので三日が経とうとしていた。
「あっ……」
学校に登校すると、一昨日前におこなった小テストの結果が掲示板に張り出されていた。それを見て、私は思わず声をあげてしまった。再試験受講者の箇所に私の名前「沢口 菜穂」があるからだ。
テツのことが気になってしまい、学業はおろか、日常生活を始めとしたすべてにおいて、上の空であることは自分でも薄々気づいていたのだが、とうとう現実が、それをまざまざと突きつけて来る日がきた。大学第一志望校への合格のためにも、これから頑張らなければいけない時期だということはわかっている。頭ではわかっているのだが……
私の焦る気持ちなど何処吹く風だろう。気がつけば今日の授業も全て終わっていた。私の前にあるのは、整理もされずに乱雑に板書を書き写したノートと、言われるがままにマーカーを引いた教科書達。下校を告げるチャイムが聴こえ、教室から生徒が次々に退室していく。ここ数日はずっとこのようなことが続いている。
『勉強しなくては、再テストに合格して、早くテツを探しにいけない。でも、勉強をしている時間があるなら、テツを探しに行きたい……』
学生という立場の抗うことのできない自身の生活にやるせなくなり、机に突っ伏す。これほど自分の無力を呪ったことが一度でもあっただろうか。
しばらくして「ハッ」っとし、教室の時計を見る。こんなことをしている場合ではない。予備校に行かなくてはいけない。私は急いで授業道具を鞄にしまうと足早に学校を後にし、急いで駅へと向かう。
他校の生徒なども使うこの駅は、多種多様の学生服の生徒で改札からホームまでごった返している。予備校は電車で二駅ほど行ったところにある。急行でもなんでも止まるその駅だから、ホームにやってきた電車ならどれに乗っても到着することができる。それなのに、私の前を一体何本の電車が通り過ぎただろうか。駅のホームにあるベンチに私は腰掛けてその電車達を無気力で眺めていた。
こんな心の状況で予備校に行ったところで、正直、そこでどんな素晴らしいことを教えられたところで、苦手な数学の画期的な解き方を学んだところで、箸にも棒にもかからない無益なものになることは目に見えている。
だったら、テツを探しにいけばいいのに。それができずに葛藤している自分も同時にそのベンチにはいた。
親のために良い子を演じなければいけない。でも、それをしないで駆け出していきたい自分もいる。正と負。陰と陽。正義と悪。ありとあらゆる対句が頭の中を駆け巡る。
「おやおや?こんな時間に珍しい人がいますぞ♪」
自分の世界に入り込んでしまっていたのに、聞き覚えのある声で我に返る。その声がした方を見てみると、小学校からの親友の姿があった。
「あれかな?菜穂様ともあろうお方が再テスト候補に選出されてしまったものだから、先生に呼び出しされて、こってりお説教でもされたのかなかな?」
屈託のないその笑顔が彼女の持ち味の一つと言ってもいいだろう。私の隣に、身丈の半分以上はあろうかという長さの細長い袋を抱きかかえて腰掛ける。
「大丈夫? 顔色悪いけど? 体調悪い?」
彼女から発せられる純真なオーラのせいで、今まで押し殺していた堤防が外され、すべての感情が心のうちから溢れ出していくのが自分でもわかった。
私は、公衆の面前であることを忘れ、彼女に抱きつくと、嗚咽を漏らしながらまるで子供のように泣きだした。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「すこしは落ち着いた?」
小中高からの友人に突然駅のホームで抱きつかれたかと思ったら、ショッピングセンターで親とはぐれた子供のように号泣しだした時は、ちょっと驚いてしまったが、彼女のことをそっと抱きしめ宥めていると、泣き声の端々から発せられる彼女の愛犬の名を聞いて私は状況をすぐに理解した。
「テッちゃん。まだ見つからないんだ……」
彼女は小さく頷いた。彼女の愛犬テツのことは私もよく知っている。私たちが中学生に上がったばかりの頃にやってきた、黒と白の毛色をしたオッドアイのハスキー犬だ。小さい頃はコロコロとして可愛かったが、次第に大きくなるにつれ、狼のような風体になっていった。近所の子供達は怖がって近づこうとしなかったが、なんてことはない。テツはとっても優しくて温和な性格で、私が遊びにいって撫でてやると、それはそれは嬉しそうな顔をして、いつまでも尻尾を振っていたことを昨日のように覚えている。
「テツがいなくなってから、テスト勉強どころじゃなくて、ベッドに入って眠ろうとしても犬の声や物音がすると帰ってきたんじゃないかって飛び起きて、外に飛び出して確認しにいくの、でも、違って、それで、私、それで……」
まだ感情の起伏が安定しないのであろう。テっちゃんの話をしだすと堰き止めていたものが全て取り払われたかのように号泣モードに突入する。
「わかった! わかったから泣かないで、ね? ね? きっと、大丈夫だから。テツは賢い子だから大丈夫だから! ね! 」
菜穂が泣き始める度に、私には親友にそんな言葉しかかけてやることができなかった。気の利いたことの一つも言ってやれず、ただ、オロオロとしている私のことなど知ってか知らぬか、唐突にやってきた人物がこう言った。
「いやいや。むしろ泣いた方がいい。泣くという行為は一種のストレス発散行為でもありますから、思いっきり泣いて一度全て出し切った方がいい。」
「
この人はいつもこうだ。私が小さい頃に泣いているときですら、オブラートに包むということはせず、理路整然と正論な言葉を投げつけていく。
そんな人だから、私がソファーから立ち上がり声を上げていることなど、気にもとめないのであろう。テーブルの上へ、持ってきたティーカップ3客とティーポットを置きソファーへと腰掛けると、
「その言葉。そっくりそのままあなたにお返ししますよ。
両の手で顔をおおい、下を向いて泣き崩れている菜穂に真顔で語り始めた。
「そこまでいうなら、警察じゃなくて救急車を呼ぶようなことを基兄にしてあげてもよろしくてよ♪」
私は、鞄と一緒に置かれていた細長い袋の中から竹刀を抜き出した。使い込み、手に馴染む柄を右手で握ると、手首のスナップを効かせ「ビュッ、ビュッ」と、軽く素振りの動作を見せる。
「そんなくだらない話は置いといて……」
「自分で振っておいて、自分で話の腰を折るなぁ〜〜〜!!」
私、『岡田 巫月』は県内で五本の指に入る実力の剣道女子である。もしマスコミがブームの火つけをするとするなら「
私と菜穂が、どうして基兄の家にいるのかというと、駅のホームで泣きじゃくる菜穂をなんとかしなければ。と、思った私は、とりあえず場所を移すことを考えた。しかし、駅を出て駅近くのファミレスに、こんな状況の彼女を連れて行くわけにもいかず、できれば学校関係者の目に触れず、且つ、静かで安全な場所はどこかないかと思考を巡らしていたところに、「テストの結果はどうでしたか?」と、基兄からスマートフォンにメッセージが届いたのだ。これ幸いと思い、「大ピンチだから、今すぐいつもの駅に迎えに来て!」と送ると、どうやら近くにいたらしく、10分も経たないうちに車でやってきたので、菜穂共々急いで車に乗り込み、現在に至る、というわけである。
私が激怒しているのを横目に、基兄は、壁に掛けられた振り子時計をジッと見つめている。時計の長針が丁度6の数宇に移動したとき、ティーポットを手に取ると、中に入れられた紅茶をティーカップへと注いでいく。ポットに閉じ込められていた、深紅の色をしたその液体が外気に触れ部屋中に香りが広がっていく。
「アールグレイは、リラックス効果のあるベルガモットの香りがつけられています。心が荒れているときは、ゆっくりこの香りを吸い込んで心を落ち着かせてあげるといいでしょう」
菜穂と私の前に、ティーカップが置かれた。湯気の立ち上る澄んだ深紅色の液体は、カップの縁で金色に色づいている。基兄は、自身のお気に入りのティーカップを右手に持ち、その香りを堪能してから一口、また一口とゆっくりと飲み進めていく。
「あ、美味しい……」
さっきまで目を腫らし、顔色に正気が全くなかった菜穂の表情が、少し明るくなったのがわかる。悔しいが、紅茶のマイスターだかの資格を持っている基兄の入れる紅茶が美味しいのは事実なので批判の余地がない。
「車の内でのやりとりと、先ほどまでの会話の端々のことで大体のことはわかりました。愛犬がいなくなったそうですね?思い当たる事はなにかありますか?」
唐突に突きつけられた本題に、せっかく少し明るくなった菜穂の表情に再び影がかかった。
「特には思い当たる事がなくて……」
「それはおかしいですね? いくら言葉の通じない動物とはいえ、なにか行動を起こすときに原因と言うものがあるはずです。私の友人の飼う犬が脱走した時は、苦手なバイクの音が連続してやってきたためパニックに陥って、柵を飛び越え脱走してしまった。ということがあったそうです。」
その投げかけのあと無言がやってきた。室内には時計の振り子の音だけが響き、重苦しい雰囲気が立ち込める。
「もし……あるとするなら……」
「なんでしょうか?」
「お婆ちゃんが……」
「お婆ちゃん?」
予想していなかった人物の登場に私は少し驚いた。
「実はね、最近テツが粗相をするようになったの。」
「粗相?テッちゃんが?あんなに賢い子が?」
「うん……私も初めは信じられなかったんだけど、家に帰ると床にしてあったり、我慢できないからなのか、その場でしちゃったりとか、そんなことが何回か続いたの。それを、久しぶりに遊びに来たお婆ちゃんが見て「
「それで、お祖母様がその子を家の中から追い出した?」
基兄のその問いに、首を振って菜穂は答えた。
「そんなことはしていません。テツは家族の一員ですし、もう15歳になる老犬です。獣医さんに粗相の件を相談したら、「年齢的に、そろそろ介護が必要な歳だね」って言われました。だから、最近は家の中の暖かい日向の一角にスペースを作ってあげて、日中はそこで寝てばかりいました。それなのに、私が家から帰ってみると忽然といなくなっていたんです。」
「なるほどね」と、言って、ティーカップの中に残っていた紅茶の香りをひとしきり楽しみ、そrを飲み干した基兄は、続けてこう言った。
「舌切り雀ですね。」
「「え?」」
菜穂と私は同時に声を上げた。基兄はソファーから立ち上がると、部屋一面に置かれた整理整頓の行き届いた本棚へと向かった。ある本棚の前に立ち止まると、指で背表紙のタイトル達を追っているかと思ったら、1冊の本を取り出し、ページをめくりながらこちらへ戻りつつ話し始める。
「江戸時代の頃、赤本と呼ばれる
私たちは顔を見合わせると、同時に首を横に振る。
「挿絵の入った一種の娯楽雑誌のようなものです。現存する昔話の多くがこの頃の赤本に収録されています。舌切り雀もその中の一つです。」
ソファーに腰掛け直すと、ペラペラと本をめくり続けている。どうやらお目当のページが見つかったようで、私達の前に見開かれたその古い冊子が置かれた。私がその古い冊子を手に取り、菜穂と二人で覗き込む。
「現在お嬢さん方の知っている舌切り雀にはないものがそこに描かれているのがわかりますか?」
旧仮名遣いの、ミミズが
「お爺さんと、これ、もう一人……だれですか?」
菜穂が基兄に尋ねる。
「それは、お爺さんの娘です。」
「ほえ? お爺さんってお婆さんと二人暮らしじゃなかったっけ?」
私がその本を食い入るように見入ると(なにが書いてあるかは、まったくわからないが)、基兄はソファーから立ち上がり、また本棚へと向かっていくと、別の本を取り出し、先ほどと同じようにパラパラとめくりながら私達の元へと戻ってくる。
「それは、娘が雀を助け、婆に舌を切られた雀を翁と共に探しに行く。という、バージョンです。事、昔話というものは地域ごとに違いがありますし、口伝で伝えられていく間に、語り手が付け加えたり省いていったりします。ですから、多種多様な設定での舌切り雀が赤本の
今度は私達の前に、婆と雀のやり取りが描かれたページを開いた冊子が置かれた。私は、先のものを手に取りパラパラと前の方へとめくって行くと、確かにそこには、ハサミを持った婆と雀が描かれていた。
「もし、本当にテッちゃんが舌切り雀状態だとしたら、探しに行ったら会えるってことだよね……」
うっかり私が呟いたその言葉に、菜穂がピクリと反応した。「しまった! 」と思いつつ、彼女の顔を覗き込むと、
「テツ……絶対に見つけてあげるからね」
と、菜穂が小さく呟き、両の拳をギュッと力強く握ったことを私は見逃さなかった。
「今、私がお手伝いできることはある?」
と、微力ながら手助けをしたいという気持ちに菜穂が答えた。
「巫月! 私、再テスト一発合格したいから、ノートと教科書見せて!!」
それからは私と菜穂。そして、基兄という講師による即席塾が開校され、それは、菜穂のスマホに「いまどこにいますか?」という、彼女の両親からのメッセージが送られてくるまで続くのであった。
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