ファースト・フレンズ9

 燦々と輝く朝日に照らされ、街が煌めきを放つ。駆け巡る風は人々の肌を優しく撫でていき、身体に溜まった暑さを持ち去っていく。そして行き交う人々は皆活気に溢れ、清潔感のある表情を浮かべている。

 つまるところ、爽やかな朝だった。

「ひぃぃぃぃぃぃぃ……」

 爽やかな朝なのに、花中は真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら、葉桜の並ぶ街道を俯き姿でとぼとぼと歩いていた。当然前は見えない。ふらふらよたよた。段差で蹴躓きそうになったり、人とぶつかりそうになったり、赤信号に見落としそうになったり……

「花中さん。ちゃんと前を見て歩いたほうが良いと思いますよ」

「は、ぅぅぅぅ……」

 ついには横からびしりと忠告をされてしまい、花中は指の隙間から外を窺う。

 隙間から見えるのは、隣を歩く親友――――自分とお揃いの格好である帆風高校の夏服、半袖のブラウスと紺色のスカートを着ているフィアだ。フィアは呆れたような眼差しで花中を見ており、その視線が、花中の羞恥を一層掻き立てる。

「う、うううううう……だって……」

「だってもへったくれもありません。昨日水素爆発からギリギリ助かったと思ったら洞窟が崩落を始め慌てて脱出したら今度は密林地帯も真っ青な大自然が目の前に広がり遭難の危機が待っていてそれも北極星を目印に北へと直進しどうにかこうにか切り抜けたのですよ? なのに顔を両手で覆い隠して前が見えずうっかり事故死なんてしたら呆れてものも言えなくなるのですが」

「はぅ!?」

 フィアの正論に、花中は悲鳴混じりの声を上げる事しか出来ない。最初は否定するように顔を横に振り、それからゆっくり、恐る恐る、花中は両手を顔から退けた。

 ハッキリと見える人間の世界。平凡な一軒家が立ち並び、行き交う人々の殆どがスーツや制服を身に纏っている、ごく有り触れた日本の朝の景色。

 そう、世界は昨日までと何も変わっていない。

 なら道行く人々の視線がチラチラと自分に向けられている理由は、今日の自分自身にあるとしか花中には思えなかった。

「うううううう……み、みんな、わたしの方を見てる……恥ずかしい……」

 泣き声混じりの声で呻いても状況は変わらない。

 制服を隅から隅までチェックするが、シャツがはみ出ていたり、スカートがずり落ちていたりはしていない。髪も、触った限り寝癖はついていないように思える。口周りに朝ご飯の欠片が付いているのかもと思いハンカチで何度も拭いたが、向けられる視線の数は微塵も減らない。

 原因を探っても空振りばかり。分からないと怖くなってくる。

「なんで、こんなに……みんな、わたしを見るのぉ……!?」

 あまりにも怖くなったのでついには言葉として漏らしてしまい、

「それはやはり花中さんが可愛いからでしょう」

「そそそそそそんなのあり得ないよっ!?」

 疑問にあっさりと答えるフィアに、花中は怯えきった声で反論した。

「だってわたし、目付き悪いし、ちんちくりんだし……か、か、可愛いなんて、あり得ない……」

「何を仰いますやら。そりゃあ確かに初めて出会った時の花中さんの目付きは獰猛でしたよ? あの山に暮らす生き物であそこまで殺気を放てるのはヒグマぐらいでしょう」

「うぅ……って、ヒグマぁ!? ヒグマって北海道の動物だよ!? 此処関東圏だよ!? なんであの山にヒグマがいるの!? というかあの時のクマ、ヒグマだったの!?」

「多分ヒグマです。なんで知っているのかは私にもよく分かりませんが」

 その話は置いといて、と言いたいのか、フィアは両手で何かを置くような動作をする。置かれてしまったので、花中はそれ以上何も言えなくなった。

「話を戻して……初対面の花中さんは確かに恐ろしい表情をしていました。しかし私と話しているうちにあなたの表情は柔らかくなっていったのです。それはもう日中の砂漠に置かれたチョコレートのように見る見ると。今ではすっかり改善されていますよ」

「……? よく分からないけど……そうなの?」

「そうなのです。でなければクラスメートの……たち……たち……タチオカさんでしたっけ? 彼女があなたの事を可愛いと言う訳がありません」

「えと、タチオカさんじゃなくて……立花さん……」

「そんな事はどうでもよろしい」

「えぇー……」

 わたし以外の人の扱いがぞんざい過ぎる……と思いながら、花中は否定と疑問混じりの声を漏らした。

 今まで出会う人々の大半には逃げられ、逃げなかった人々には「命だけはお助けを」と言われ続けてきた花中には、自分が可愛いと言われても信じられない。お世辞ではなく命乞いだと考えた方が納得出来るぐらいだ。

 勿論、フィアにそんな意図はないと花中はいるが……フィアは友達である。先の一件でとても仲良くなった事も加味すれば、色眼鏡で見られている事は疑いようがない。大体フィアは初めて会った時から、やたら自分を好いていた気がする……花中が言えた事ではないが。

「フィアちゃんの言う事じゃ、信用出来ないなぁ」

「おやおや酷い言い様ですねぇ」

「だってフィアちゃん、わたしの事、贔屓、し過ぎだもん」

「そりゃあ恩人ですからね」

「……恩人?」

 恩義を感じる事はあっても、恩義を感じてもらえるような事に覚えがない花中は首を傾げる。するとフィアは一瞬目を逸らし、頬を指で掻き、

「独りぼっちだった私と友達になってくれました。だから恩人です」

 照れくさそうに笑いながら、答えた。

「独りぼっち……フィアちゃんが?」

「だって周りにいるのは魚と小エビと溺れる虫だけだったんですよ? そんなの独りぼっちも同然じゃないですか。まぁ花中さんがミリオンから聞いたという話が本当なら花中さんと出会うまで私には知性がなかった事になるので寂しいなんて感じた事はないのでしょうけど少なくとも花中さんと出会ったあの時私は多分寂しがっていたと思います」

「……………」

「ですから私にとって花中さんは大切な人なのです。ちょっとぐらい贔屓しても仕方ありません」

 私は悪くないと言わんばかりに語るフィアに、花中はしばし呆然とした眼差しを送る。その視線が気に障ったのかフィアは眉を顰め、花中がくすりと笑ったら、ますます怪訝そうな表情になった。

「ちょっとなんで笑うのですか?」

「あ、ごめんね……わたしと同じだって、思ったら、つい」

「同じと言いますと?」

「恥ずかしいから、秘密……でも、だったらやっぱり、フィアちゃんの言う事は、信じられないよ」

 キョトンとするフィアの背後に素早く回り込み、花中は周りの視線から身を隠す。

 相変わらず集まる視線は多数。フィアの意見は尤もらしく聞こえるが、色眼鏡どころか尊敬の眼差しでは到底真実を見通せない。可愛いと言ってくれるのは素直に嬉しいが、客観性に欠いた意見を素直に受け入れられるほど、花中は自分に自信を持っていないのだ。

 流石にフィアより距離を置いた、第三者からも同じ事を言われたなら話は別だが……

「……あれ?」

 そんな事を考えていたところ、不意にある人物が花中の目に止まった。

 花中より高くフィアより小さな背丈、短めに切り揃えられた栗色の髪、華奢な花中と比べれば幾分立派に見える肩幅、花中達と同じ服装……その人物は十メートルほど前を歩いていたので大まかな特徴しか捉えられなかったが、見覚えがある後ろ姿をした女子高生だった。

 ――――もしかして、立花さん?

 しばらくその女子生徒を眺めていた花中の頭を過ぎったのは、もう一人の友人の名。確かに後ろ姿は、駆け足で傍まで近付き、顔を覗き込んでみたくなる程度にはよく似ている。

 しかし花中はどうにも実行する気が起きない。

 理由は、目の前の女子生徒から『元気』が感じられなかったからだ。クラスメートとして過ごした二ヶ月間の記憶では、晴海は何時も明るい、元気が形になったかのような人だった。少なくとも今目の前に居る人物のように、肩を下げ、覚束ない足取りでのろのろと歩き、すれ違った人を怪訝な顔にするような姿は一度も見た事がない。

 多分、後ろ姿がよく似ているだけの別人なのだろう。

「あれ? あの人はタチオカさんじゃありませんか?」

 なんでフィアちゃんって、何時もわたしが思った事と逆の事を言うのかな?

 花中がそう思っても、小走りで晴海もどきの下へと向かうフィアが止まる訳なし。花中が止めようとする前にフィアは晴海もどきの傍へと駆け寄り、

「やぁやぁタチオカさんおはようございます」

 晴海である事を確認せず、ついでに名前を間違えたまま、その人物の肩を馴れ馴れしく叩いた。

「うぎゃああああああああああああああああああっ!?」

 そして突如響き渡る悲鳴に、フィアを除いたこの場に居た全員が驚きで飛び跳ねた。

 通行人達は一斉に悲鳴が聞こえた方をじっと見つめ、何人かは自身の胸に手を当てるなどして荒ぶる感情を抑えようとしていた。お陰で花中は視線集中の地獄から解放されたが、喜びが表に出てくるほど心に平静は残っていない。心臓は全力疾走した直後の如く激しく脈動。体温がガクッと下がったのが分かり、身体は小刻みに震えてしまう。鏡を見ずとも真っ青な自分の顔が目に浮かび、我ながら小心者だ、と自己嫌悪したくなるぐらい花中は驚いていた。絶叫を聞いてもぴくりともしていない、フィアの爪の垢を煎じて飲みたいぐらいである。

 ただ、この場で一番驚いているのはフィアに肩を叩かれただけで尻餅を撞いた……というよりも腰が抜けてしまったように見える女子生徒だろうが。

「すー、はー……すー、はー……………よ、よし……」

 深呼吸で一度身体を落ち着かせ、ゆっくりと意を決してから、花中は腰が抜けているであろう女子生徒にこそこそと近付いてみる。

 寄ってみればハッキリと分かる。

 フィアに肩を叩かれただけで腰を抜かし、先程まで陰鬱な雰囲気で歩いていた女子生徒は、フィアの予想通り立花晴海だった。

「いや、いやあああああああああああああああっ!?」

 ……殺人鬼を目の当たりにしたかのような悲鳴を上げ、錯乱したとしか思えない激しさで腕を振り回しているので、心が弱い花中は『その人』を晴海だと認めたくなかったが。

 いや、認めたくないのはむしろ、晴海の足を掴む奇妙な水の塊の方か。

「むぅ何故逃げようとするのですか?」

「いやああああああああああ!? 助け、ひいいいいいいいいっ!?」

「悲鳴は結構ですから。何故逃げようとするのかだけ答えてもらえませんか?」

「いやあああああああああああああああああああああ!」

「埒が明きませんねぇ」

 ものの見事にチグハグな会話を交わす一人と一匹。

 花中は覚えている。晴海が昨日、フィアをお化けだと誤解したままである事を。

 フィアは多分忘れている。自分がお化けだと誤解されたままである事を。

 以上の前提の下、花中はうんうん唸りながら数秒悩み、

「た、たぁーっ!」

「おぅ?」

 とりあえず、フィアに渾身の力で体当たりをかました。フィアの『身体』は花中の貧弱な体当たりでは全く動じなかったが、次いで花中は両手で精一杯押してみる。退け、とばかりに。

 しばし呆然といった様子でフィアは立ち尽くしていたが、不意に目に涙 ― ただの水だが ― を浮かべるとその場に蹲り、指で地面に『の』の字を書き始めた。どうやらいじけてしまったらしい。

 ちょっと邪魔だなぁと思いつつ、花中もしゃがみ、顔面蒼白な晴海に出来るだけゆっくりと話し掛ける。

「えっと、大丈夫、でしょうか?」

「お、おお、大桐、さん……あ、あの、おば、お化けが……お化けが!」

「えーっと……」

 思った通り、晴海はフィアをお化けと勘違いしているようだ。まずは誤解を解かないと話にならない。

 いじけるフィアを目の当たりにしても怯え続ける晴海に、花中は想像を掻き立てないよう注意しながらフィアの正体を説明する事にした。最初は震えながら花中の話を聞いていた晴海だったが、段々身体の震えが治まっていき、青かった顔には血色が戻ってくる。表情も引き攣ったものから、驚きと恥辱に彩られたものへと移り変わる。

 やがて涙が完全に止まると、晴海は元気よく立ち上がってくれた。ただし、顔色は平時を通り越して完熟リンゴのように真っ赤になっていたが。

「……勘違いで、大変なご迷惑をかけました……」

「い、いえ、そんな……」

 晴海に深々と頭を下げられてしまい、花中は居心地の悪さを感じる。晴海から逃げるように逸らした視線は未だ蹲ったままのフィアに向けられ、

「フィアちゃんが、悪いです、から」

「げふぅ!?」

 思った事を正直に言ったところ、フィアが呻き声を上げる。

 顔を上げたフィアの目は、ただの水が今にも溢れそうなぐらい湛えられていた。

「花中さんなんか言葉に棘がありませんか……?」

「そうかな? だとしたら多分、わたし、フィアちゃんには、遠慮しない、事にしたのが理由、かな……と、友達だから……ね♪」

「それは嬉しいのですけど忠告等に関してはオブラートに包んでいただけると……」

「……フィアちゃんはわたしと、本音で話したくない、の?」

「ぐふっ!?」

 花中が再び思った事をそのまま言うと、フィアは再び呻く。ただし今度は嬉しそうに。

 蹲っていたフィアが軽やかに立ち上がり、満面の笑みを浮かべながら花中に抱き着くまで、それから二秒と掛からなかった。

「話したいに決まっているじゃないですか! 何時でも本音言いまくりですよーっ!」

「ひゃあっ!? ま、待って! 心の、準備が」

「照れているのですか? 本当に花中さんは可愛いですねぇ。うりうりうりぃ!」

「ひゃわわわわわわわわわわ、わ、わ、わ……わぁ~~~♪」

 フィアが頬っぺた同士を擦り合わせてきて、覚悟を決めていなかった花中の心は喜びの荒波にあっさり飲まれてしまう。幸福感に酔いどれ、花中の表情筋はとろとろに溶けて力を失っていく。

 そんな自分の様子を晴海が半開きのまなこで見ている事など、幸せに溺れる花中には知る由もない。

「……とりあえず、アンタに害悪がない事はよく分かったわ」

「それはどうも。ああそう言えば一つお聞きしたい事があるのですが」

 ましてや頬ずりを止めるやフィアが自分の頭を掴み、晴海の方へと無理やり振り向かせ、

「今の花中さん凄く可愛いと思いませんか?」

 さらりととんでもない事を訊くなんて、花中には全く想像出来なかった。

 いや、確かに花中も訊こうとはしていた。しかし物事には順序があり、そして言い方というのがある。

 自分が可愛いなんてあり得ない。あり得ない事を訊くのだから、もう少し控え目な言い方をすべきではないか。

「うん。可愛いと思うわ」

 そう思う花中だったが、晴海はあっさりと肯定。伝えようと思っていた言葉は、喉の奥でぷすんと音を立てて燃え尽きてしまった。

「そうですよね! やはり花中さんの笑顔は殺人的な可愛さですよね! こんなに可愛いのですから変な虫が寄り付かないか心配でして!」

「心配な割に随分嬉しそうね……まぁ、確かにこの子笑うと可愛いわよね。でもあたし的には怯えた眼差しを向けられる方が好きかな。捨てられた子猫みたいな感じで」

「むむむ。確かにそちらも可愛い事に違いはありません。しかし私と花中さんは今や大親友なのでもうその眼差しは向けられないであろう事が惜しいですね」

「うわ。堂々と自慢してるわね、アンタ」

「こんな可愛い子を独り占めなんて、ズルいわよさかなちゃん。そこで提案なんだけど、今度の日曜日みんなで服買いに行かない? んで、はなちゃんに一番似合う服を選ぶのは誰だ! って感じの勝負しましょーよ。着せ替えっこって結構楽しいわよ?」

「お、良いわね」

「ふっ。花中さんの親友である私が一番魅力的な衣装を仕立てるに決まっています。ですが売られた喧嘩は買う主義です。乗りましょう」

 自分の頭上で、自分抜きに進む、自分を使った遊びの計画……フィア一人が盛り上がっているのなら、花中としてはそろそろツッコミの一つでも入れたい頃合いだ。

 しかし、どれだけ成長しても花中の根っこは小心者である。特別仲良しだからフィアには本音が言えるが、晴海にも出来るかと言えばそうではない。頬っぺたを膨らませながら両手を振り回すには、勇気と友情がまだまだ足りないのだ。

 『今』の花中に出来るのは、三人の話を黙って聞く事だけであり――――

「(……三人?)」

 花中の疑問センサーが何かを拾う。それとほぼ同時にフィアと晴海の会話も止まる。

 なんという事だ。フィアでも晴海でもない人物が一人、紛れ込んでいるではないか。

 尤もそれ自体は、花中的には大した問題ではない。マナー的には大問題ではあるが、楽しげな会話に混じりたい気持ちは花中にもよく分かるからだ。自己紹介も何もなく会話に入り込んだ人が居ても、花中にその人を非難するなんて真似は出来ない。

 問題なのは第三者の声に聴き覚えがあった事。

 弾んでいるのに単調で、メリハリがないから感情が分からず、気さくなのに癪に障る……花中の知る限り、こんな話し方をする人物は一人だけ。

 昨日、水素爆発に飲まれた――――

「ミリオンさん!」「ミリオン!?」「誰!?」

 花中が名前を口にするのと同時に、フィアと晴海も叫ぶ。

 そして三人同時に同じ場所、花中の丁度背中側へと振り向き――――間近に立つ黒髪の美少女、ミリオンの姿を見た。

 ミリオンは泣いているように見える笑顔を浮かべ、楽しそうに手を振っている。表情は別にしても、とても元気そうで……発せられた言葉も、ピンピンしていた。

「あれ? 今頃気付いたの? てっきり気付いた上でお話してるもんだと」

「何故貴様が此処に居るのですか!? 昨日爆発に飲まれて……!」

「え? 何? 爆発? って言うかお知り合い?」

 花中から離れミリオンと向き合ったフィアは荒らげた声で問い詰め、険悪な雰囲気に晴海は困惑した様子を見せる……そんな二人を前にして、ミリオンは不貞腐れたかのように頬を膨らませた。

「確かに吹っ飛んだわよ? 流石にあの規模の水素爆発にはちょっと耐えられなかった。でも、私は吹っ飛んだぐらいじゃ

「なんですって……」

「アンタ達が倒したのは私の一部に過ぎないって事よ。まぁ、比率的には生き残った方が一部って感じなんだけど」

「ぐっ……!」

 大した事ではないかのようにミリオンは語り、フィアの表情が悔しそうに歪む。水で出来た『身体』なのに、唇を噛みしめるという余裕のなさを露呈していた。

「それに、はなちゃんはこの展開、予想してたんじゃない?」

 しかしフィアの表情は、ミリオンが続けた一言で困惑に変わる。

「……花中さん?」

「……………」

 フィアに問われ、花中は目を逸らす事で肯定。

 尤も正直に言えば、花中はミリオンが生きている可能性を予想していたのではなく、『計画していた』のだが。

「……もし自分がミリオンさんなら、万一に備えて、いくつかの『個体』を、安全圏に避難させて、おくかなーって、思った、から……」

「確かに勝利を確信したからといって全戦力を一ヶ所に集めるのは無謀としか言えませんね。保険があると気付くべきでしたか」

「だから、一体でも生き残れば、ミリオンさんは、死んだ事に、ならないと、思って……ど……どっかーんって、しても……『死なない』、かなって……」

「……よもや花中さんはミリオンを最初から生かしたまま撃退するつもりだったのですか?」

「だ、だって……」

 やっぱり敵だから殺すっていうのはダメだと思うから、と花中が言う前に、フィアは大きなため息を吐く。

「良かったですね。花中さんがとびっきり優しいお陰で命拾いしましたよ?」

 すっかり敵意をなくした調子でフィアはミリオンを窘める。

「そうね。だからまたチャンスがある」

 だがミリオンの不穏な言葉で、場の空気が再び凍りついた。

 花中は背筋が冷たくなるのを感じる。フィアの身体も強張ったのが傍目からでも分かる。

「……まさか」

 ぽつりとフィアが漏らした途端、ミリオンの顔にぐにゃりと歪んだ笑みが浮かんだ。

「無数の『命』を持つ私に死のリスクは存在しない。喉元過ぎればなんとやらは、人間ではなく私のためにある言葉よ」

「み、ミリオンさん、何を、言って……」

 花中はミリオンが何を言いたいのか理解する。理解したが故に、懇願するように訊き返してしまう。

 もう戦いたくない。もう、ミリオンを苦しみから解放したい。

「私はまだ、はなちゃんを諦めていない」

 ミリオンはそんな花中の願いを裏切る。

 ―――― 一瞬だった。

 ミリオンは凄まじい速さで、花中目掛けて飛び込んできた。

 咄嗟に動くにはミリオンはあまりにも速く、それ以上に花中とミリオンの距離が近過ぎた。フィアは驚きに目を見開くだけ、晴海に至っては反応すらしていない。花中も目の前に何かが迫ってきた事を理解するので精一杯。

 三人が動き出すよりも早くミリオンはその手で花中を掴み、

「はーなちゃーんっ♪」

 無邪気な声を出して、花中に抱き着いた。

「ふぇ? え? えぅえぅえぅえぅ~!?」

「……………は?」

「……で? さっきの緊迫感は何だったの?」

 ミリオンに抱き着かれた花中は困惑のあまり四肢をばたつかせ、やっとこさ臨戦態勢を取ったフィアは呆気に取られ、蚊帳の外にいた晴海は呆れた様子でフィアに尋ねる。

「あー、はなちゃんの頬っぺたやーらかぁーい♪」

 そんな三人を無視して、ミリオンは花中に頬ずりを始めた。視覚と触覚から入ってくる頬ずり情報を前にし、花中の頭は真っ白になる――――主に嬉しくて。

「な、な、な、何をしひゃわわぁ~……」

「何って、抱き着いて、頬ずり?」

「そ、そうじゃにゃぁ~……じゃなくて! だ、だからなんで頬ずりゅぅ~」

「さかなちゃん、この子面白いわ。さかなちゃんを真似て頬ずりをしてみたら、やる度にマヌケな声を出すもの。結局のところ親密に接してくれるのなら誰でも良いのね」

「……花中さんが使い物にならないので私から尋ねます。その理解不能な行動はどういう意図でやっているのですか?」

 あからさまに下がったテンションで、フィアが花中に代わり尋ねる。

 その質問にミリオンは、花中に頬っぺたを擦り付けたままあっけらかんと答えた。

「はなちゃんが私に惚れたら、自主的に身体を捧げてくれるかなーっと思って」

 あっけらかんと答えられて、フィアはがっくりと肩を落とした。

「……いくらなんでもその思考回路はどうかと思います」

「だってぇ、昨日の爆発で『私』の殆どが吹っ飛ばされちゃったもん。そっちの手のうちは分かったし、爆発に対する防御策も考えたから、昨日みたいに『私』の塊を千体ほど用意して挑めば今度こそ勝てると思うけど、流石にそこまで私を増やすのはちょっと時間が掛かるのよねぇ。あーあ、さかなちゃんが水で身を守ってなかったら、直接体内に入り込んで内側から沸騰させる方法で片付けられるのに。ほら、私ウィルスだから湿気って苦手なのよ。数が集まれば全然平気だけど、そうなるとさかなちゃんに見えちゃうし」

「……つまり戦力が回復するまで私には勝てそうになく回復を待っている間暇だから花中さんの懐柔をしようという事ですか?」

「んー、それもあるけど」

 濁す、というよりも勿体ぶるようにミリオンは言葉を途切れさせ、頬っぺたを花中から放す。そして花中の目をじっと見つめてきた。

 至近距離で見つめられるとかなり恥ずかしく、花中は狼狽を隠せない。身体がポカポカを通り越した熱さで満たされ、気持ち悪い汗も出てくる。

「ほんのちょっぴりだけど、はなちゃんが私の不安を和らげてくれたからね。焦らなくても良いかなって思うようになったのよー」

 しかも自分の願いが叶っていたと分かったのだ。恥ずかしさに嬉しさも加わって、身体がますます熱くなってしまう。

「私を倒せるんだもん。確かに交通事故とかじゃ死にそうにないわよね。それに、私も一緒に守ればより確実だし、体内に侵入して診断すれば病気の早期発見も出来る。『あの人』の健康も私が守っていたのよ♪ その甲斐あってあの人、九十九まで生きたし」

「あ、ぅ……あの、分かってくれて、ありがとうございます……で、でも、あまりくっつかれるのは、は、恥ずかしい……」

「という訳で今日から作戦を変更し、はなちゃん陥落を狙います! おりゃーっ! 頬っぺたすりすりぃ~♪」

「あ、あわわふわふわわわふふふにゃぁ~~~~~ん♪」

 堂々と宣言すると、ミリオンは心底楽しそうに……本当に楽しそうに笑いながら、再び花中と自分頬っぺたを擦り合わせる。

 恥ずかしい、が、それ以上に幸せ。

 あまりにも長時間幸せに使った結果、花中の筋肉は顔面どころか全身がふにゃふにゃになってしまった。立つだけの力も入らず、よろよろとミリオンに寄りかかってしまう。

 それが面白くなかったのだろうか。

「ええい花中さんから離れなさい!」

 顔を真っ赤にして、フィアもまた花中に抱き着いてきた。ただし頬ずりはせず――――抱き着いた花中の右腕を、強く引っ張る。

 ミリオンはそんなフィアに、子供をおちょくる母親のような顔を向けた。

「あらー? やきもち? やきもちなのかしらぁー?」

「やきもちで結構! ほら花中さんこんな奴ほっといて学校に行きましょうよ!」

「え……あ、そうだ! 学校、行かないと……」

「んもう、はなちゃんは真面目ねぇ。一日二日サボっても成績には影響ないって。つーか、さかなちゃんはなんで学校に行こうとしてんの? 勉強すんの?」

「休み時間を花中さんと共に過ごすためです! 学校に居れば休み時間になってすぐ花中さんの下へ駆けつける事が出来ますからね! それよりさっさと手を離しなさい!」

「え、あの、フィアちゃん、それ以上腕を引っ張らないだだだだだっ!? なんでミリオンさんも引っ張っ、痛い痛い痛い痛い痛いっ!?」

 フィアとミリオンがそれぞれ腕を自身の方へと引っ張るものだから、花中の身体が左右に引き伸ばされる。これが『普通』のお友達にやられているのなら、ヒーロー達に求愛される少女漫画のヒロインよろしく奪い合われる幸せに浸っていたかも知れない。

 が、フィアとミリオンは岩盤をも平然とぶち抜くパワーの持ち主。そんな二人に左右の腕を引っ張られたら、花中の脆弱な肉体は『裂けるチーズ』のCMに使えそうな展開を迎えてしまう。本気で笑えない。そして笑えない展開というのは、実際に起きるまで元凶達は想像すらしていない事が多いものである。

「ちょっとアンタ達! 大桐さんが痛がってるわよ!?」

 もしも晴海が二人を止めてくれなければ、一体どうなっていた事やら。

「あら、ごめんなさい」

「む……すみません花中さん。お怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫です……危うく脱臼程度じゃ、済まない、ところだったけど……」

「全く……」

 飄々と花中から離れるミリオンと慌てふためいて手を放すフィア、そして無事な花中を見て、晴海は悪態と共にため息を一つ漏らす。それから、吊り上った目でミリオンを睨み付けた。

「大体アンタなんなの? 大桐さんの友達?」

「勿論よ」

「さらりと嘘を吐くんじゃありません。昨日花中さんを殺そうとした癖に」

「ちょ、余計な事言わないでよさかなちゃん!? もうする気はないんだし!」

 ミリオンは慌てた様子でフィアに反論する。初対面である晴海にはあまり悪い印象を与えたくないのか、かなり必死に言い繕っているようだと花中は思う。

 だが残念。晴海の表情は、少なくとも花中が見た中では過去最高に……それこそフィアと初めて出会った時よりも不信に満ちたものになっていた。

「……もうって事は、一度は殺そうとしたって訳ね」

「え? あー……………てへぺろっ♪」

 ミリオンは目線を露骨に逸らしながら舌を出し、如何にも「こりゃうっかり♪」と言いたげな表情を作るが、場の空気は全く和まない。むしろ真冬の北極圏の如く冷たさに支配された。

 痛々しい。刺々しい。初夏なのに分厚い防寒着が欲しくなる。

 そんな雰囲気を纏う三人に囲まれる花中は、堪ったものではない。

「あああ、あの、あの、あの、あの」

「やっぱりアンタ達は信用出来ない。つー訳で、あたしが大桐さんを学校に連れて行くわ!」

 だからみんなを宥めたいのに、晴海が『宣戦布告』してしまった。

 晴海は花中の手をぎゅっと掴むと、連れ去らんばかりの勢いで引っ張る。

「ちょっとちょっと。何勝手に連れて行こうとしてんのよー」

 それを阻まんとばかりにミリオンは晴海の手の上から花中の手を握り、

「コイツに賛同するのは癪ですが全くその通りです!」

 ミリオンの手に重ねる形で、フィアも花中の手を掴む。

 そのまま三人は花中をじっと見つめてきた。

 恐らく、きっと、ほぼ間違いなく……誰と一緒に行きたいのか選べ、と三人は心の中で言っている。少なくとも花中の心にはそう聞こえる。

 三人もの『人』にじっと見つめられる。向けられている表情は口角を柔らかく上げた笑顔で、手はがっちりと握られている。

 これで三人の瞳が悪意と敵意でギラギラ輝いてなければ最高なのに、と花中は思った。

「さぁ私と一緒に手を繋いで学校へ行きましょう!」

「あたしと一緒に行くわよね?」

「私と一緒に学校サボっちゃいましょ?」

 フィアが、晴海が、ミリオンが。三人が口々に誘ってくる。誰もが自分と一緒に居ようと言ってくれる。

 正直に言えば、花中は喜んでいる。こんなにハッキリ好意を示してくれて、こんなにも自分を求めてくれて、独占欲までむき出しにしてくれて……嬉しくない訳がない。幸福で頭がおかしくなってしまいそうだ。

 だのに花中は三人に向けていた視線を、自らの足元に落とす。

 視線を落としたまま、自分にしか聞こえないぐらい小さく息を吐く。

 そして視線を三人へと戻した時、花中の目付きは鋭く、赤くなった頬は威嚇するフグのように膨らんでいた。

「……花中さん?」

「もしかして……」

「……怒ってるのかしら?」

 一人は不安そうに、一人は困惑気味に、一人は狼狽気味に訊いてきたので、花中は縦にゆっくりと首を振る。

 自分の想いが無視されている。無視されているからちゃんと聞いてほしい。

 それが花中の、今の気持ち。

「もぉーっ! みんな喧嘩しないで、仲良くしようよぉ――――っ!」

 悲鳴とも罵声とも歓喜とも取れる花中の叫びが、朝の町に木霊する。

 悲鳴に続いたのは、ちょっぴり申し訳なさそうで、だけどとっても明るい三色の笑い声だった。

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