ファースト・フレンズ7

 凛とした佇まいで洞窟の入り口に立つ者は、間違いなくフィアだった。

 腕を組んで仁王立ちし、勝ち誇るような笑みを浮かべる姿に、渋々来たという様子はない。むしろ来たくて堪らなかったと、三日月のように曲がっている口元が今にも語り出しそうだ。金色の髪やドレスが風もないのにざわざわと動いているのは、人間が興奮のあまり身体を揺するのと同じく、テンションが上がっている証か。

 その態度が、花中をますます戸惑わせる。

 どうして自分なんかの、嫌いになった相手の下に来たのに――――そんなに嬉しそうなのか。

「さかなちゃん!? 一体どうして……」

「此処が分かったのかと訊きたいのですか? 私は魚ですよ? 匂いで生まれ故郷の川を判別出来る鮭並とは言いませんが鼻は良いんですよ花中さんの匂いを追うぐらい余裕で出来ますああそれとも吹き飛ばしてやったのに何故無事なのかと訊きたいのですか? あれは『身体』が弾ける前に一部の水で脱出艇を作り破裂した瞬間湯気に紛れて逃げ出したのです派手な弾け方だったので思った以上にあなたを欺けていたようですね」

 唖然とする花中の代わりに、しかし花中よりマシなだけでやはり動揺した素振りのミリオンが漏らした言葉に、フィアは捲し立てるような早さと嘲笑うかのような不遜さを以て答える。言い切る前に答えられたミリオンはそれ以上何も言わず、警戒心の表れか花中の片腕をぎゅっと掴んだ。

 フィアが此処に来られた理由と、無事である理由は分かった。けれども花中の疑問はまだ晴れない。嫌っている筈の自分の前に何故現れたのか、説明してもらっていない。

「フィアちゃん、そんな、なんで……」

「ああ花中さん参上するのが遅れて申し訳ありません! 準備に少々手間取ってしまいまして。ですがご安心を! 今すぐ助けますからね!」

 どうにかこうにか絞り出した疑問も、何故か舞い上がっているフィアには届かず。それどころか「助ける」と明言し、ますます花中を混乱させる。

 分からない。フィアが何故自分を助けるのか分からない。

「なんで、助けてくれるの……」

 その気持ちはそのまま口から零れ落ち、

「? 何故そんな事を訊くのです?」

 フィアは、心底不思議そうに首を傾げた。

「だ、だって、だって……」

「だって?」

「だって……」

 そこで言葉が止まってしまう。フィアは黙りこくる花中を澄み切った瞳でじっと見つめ、向けられる視線に耐えきれず花中は目を逸らす。

 この状況を考えると、フィアは自分の事をまだ友達だと思ってくれている、と期待して良さそうである。

 なら余計な事を口走らなければ、全て丸く収まるのではないか。疑問を呈さなければ友達でいられるのではないか……頭の中をぐるぐると、現状維持を望む言葉が駆け回る。

 自分が嫌になる。さっき後悔したばかりなのに、いざフィアを目の当りにしたらまた逃げようとしている。

 こんな自分に、フィアの友達なんて相応しくない。

「だって、フィアちゃんは……わたしが言った言葉で、怒りました、よね……?」

 花中は、自身への嫌悪で彩られた言葉を出してしまった。

 その言葉でフィアの笑顔が崩れる。眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる。

 それは、花中には『あの時』と同じ、嫌悪の顔に見えた。

「……ひょっとするとアレですかね。ミリオンを始末したと伝えた後花中さんが私に言ったやつですか? 命は大切に的な。それで私が怒ったと?」

「は、はい……」

「成程ね……はぁ……」

 フィアはいっそ清々しく思えるぐらい大きなため息を吐く。首を横に振り、肩を竦めて如何にも呆れたと言いたげ。

「花中さんって実は少しお馬鹿さんなのですか?」

 止めとばかりに、言い方こそ優しいが、割と分かりやすく罵倒してきた。

「えうっ!? そ、そんな、なんで……」

「あんな事で怒る訳がないでしょう。そりゃあ折角助けてあげたのにあんな態度取られたらショックは受けますけどそれだけです。むしろ怒らせたのではとこっちが心配していたのに自分が責められていると勘違いしていたなんて呆れ果ててお馬鹿さん以外に言葉がないじゃないですか」

「む、むぐ……」

「それに今になって思えば花中さんの言っていた事かなり滅茶苦茶でしたしねぇ。殺すなんて可哀想? こちらの命を狙ってきた相手に何甘い事言ってるんだかって感じです」

「むぐ、ぐぎ……」

「まさか話し合いで何でも解決出来ると本気で思っているのですか? 話し合いが大切という意見は否定しませんけど世の中には話の通じない奴ってのが居るんですよ。そういう例外を無視して理想を語るなんて夢なら目を閉じて見てほしいものです」

「む、ぐ、ぎ……?」

「まぁ花中さんは見た目や動作にファンシーな可愛さがありますからね。頭の中もファンシーだったとしても仕方ありませんか」

「ぎ、ぎ、ぎぃ……!?」

 大人しくフィアの罵声を受け続ける、つもりだった花中……その顎は意思とは無関係に力が籠り、歯が不愉快な音を鳴らしている。

 フィアの言い分は正論だ。襲い掛かってきたのはミリオンの方で、フィアは完全な被害者。反撃した結果相手を殺したとしてもそれは正当防衛、悪くとも過剰防衛でしかない。仮に過剰防衛だったとしても「コイツを殺さないと自分が危ない」とフィアが下した判断を、戦いに参加すらしていなかった花中に非難する資格なんてないだろう。

 間違っているのは、非情に徹しきれない自分の方。花中は本心からそう思っている。

 しかし。けれども。だけど。

 ――――ここまで言われなきゃなんないほど、自分の主張は間違っているのか?

「(な、何考えてんだろうわたし……だって、フィアちゃんはわたしの事を守ろうとしてくれたんだよ……なのに間違っているとか思うなんて、そんなの……)」

 過ぎった言葉を否定したいのに、そのための理屈が自分の心に響いてこない。間違っているのはワガママを言った自分に決まっている。なのに何故胸中に渦巻くものは許しを請う心ではなく、淀んだような、暗いような……それでいて沸騰するように激しい気持ちなのか。

 分からない。分からないが花中は必死に心を『あるべき姿』にしようとし、

「何か言いたい事があるなら言ってみてくださいよーあっかんべー」

 右目の下まぶたを指で下げながら舌を出すフィアを見た瞬間、何かが切れる音を聞いた。

 そこでようやく理解する。

 胸に渦巻くこの想いは、怒りであると。

「な、な、ななななななななんですかその言い種はあああああああああああっ!?」

 理解した時にはもう抑えきれる状態でなく、花中は顔を真っ赤にしながら、噴火の如く勢いで叫びを上げていた。

「た、助けてくれた事は感謝します! でも、なんでさっきから、わ、わたしを馬鹿にするような事ばかり言うのですかっ! 確かに、フィアちゃんのお陰で、助かりましたよ! でも、でもわたしの気持ちは無視なんですか!? 無視なんでしょうねああもうっ!」

 普段殆ど動いてくれない口が忙しなく、暴れるように憤怒を吐き出す。頭の中が沸騰して真っ赤に染まり、自分の考えすらぼやけてくる。しかもこれだけ好き勝手しているのに怒りは発散されるどころか募るばかり。ミリオンに掴まれていない方の手を振り回しても、地団駄を踏んでも、全く治まらない。

「なんで勝手に決めちゃうのですか!? なんで殺しちゃうのですか! お話し出来るのに、なんで喧嘩するのっ!? 話し合おうって思わないの!?」

 叫んで、怒って、暴れて。

 フィアはそんな花中をじっと見つめ続けていた。ぶつけられた言葉を、全て受け止めるかのように。

「わたしは! 誰かが死んじゃうのは嫌で! みんなと仲良くなりたいのっ!」

 花中の怒りが収まったのは、一番言いたかった事をようやく言葉に出来てからだった。

「ふー……ふー……ふー……っ!」

「……それが花中さんの正直な気持ちなのですか?」

 肩で息をする花中に、フィアは穏やかに尋ねる。

 掛けられた言葉は花中に我を取り戻させ、愚行を自覚させた。赤かった顔は一気に青くなり、顎は振るえ、自由な手は勝手に口を押えてしまう。しかしいくら後悔してももう遅い。

 フィアは口を、見せつけるようにゆったりと歪める。

「それが聞きたかったですよ。花中さん」

 それでいて言葉は心から嬉しそうで、作った笑みはとても優しかった。

「……え……お、怒って……ない……の……?」

「怒っています。花中さんがこの程度の事で私に遠慮していたと知ってとても怒っています。ガッカリです」

「ひうっ!? え、遠慮していた、訳じゃ……」

「なら私を信じてくれていなかったのですか? こんな事で嫌う程度にしかあなたの事を想っていなかったと? だとしたらもっと怒りますよ」

「し、信じてない、訳、でも……っ!?」

 否定する自身の言葉で、花中はハッとなる。

 自分は、一瞬でも信じていた事があったのだろうか?

 初めて出会った時、友達になりたいというフィアの言葉を受け入れられなかった。学校でミリオンから助けてくれた後も、嫌われてしまったと思い込んでいた。今だって、喚き散らした自分に怒っていると疑っていなかった。

 花中は一度も『友情』を信じていない。

 フィアと自分の友情が簡単に壊れてしまう程度のものとしか、思っていなかった。

「あ……ああ……!? わ、わた、し……!」

 口が勝手に弁明の言葉を紡ごうとするも、意味ある形にはならない。いや、頭の中でさえ浮かんできた単語が上手くつながらない。

 友情を求めていながら、その力強さを信じない……これほどの侮辱が他にあるだろうか。花中には思い浮かばない。思い浮かばないほどに愚かしくて残酷な事を、自分はしていたのだと気付いた。謝りたくて口を動かしても、出てくるのは乾いた呼吸の音だけ。

 本当に酷い事をしたと思った時には、ごめんなさい、なんて言葉では言い表せない。

 だから花中は謝れなかった。悪い事をしたのに、許しを請えなかった。

「全く。今後気を付けてくださいねっ」

 なのにフィアは、頬を膨らませながら勝手に花中を許した。

 許された花中は目を丸くする。口も、ぽかんと開けてしまう。

 自分は、何か聞き間違いでもしているのだろうか?

「……え……? い、今、なんて……」

「今後は気を付けてくださいと言いましたが?」

「こ、今度って……な、んで……わたし……ひ、酷い事をして……友達なのに、信じて、なくて……なのに、わたしを、許して……」

「大した理由なんてありません」

 軽々としたフィアの口調には、本当に大した気持ちが感じられない。心から、大した事のない理由を言おうとしている。

「私はあなたが大好きなのです。だったら許しを請うあなたを突き放すなんて真似が出来る訳ないでしょう?」

 フィアにとって『友達』を許す事は、きっと大した事ではないのだ。

「あ――――ああ……!」

 花中の目から、涙が落ちる。けれども表情は泣きっ面なんかじゃない。

 花開くような、満開の笑みだった。

「フィアちゃん……フィアちゃんっ!」

 花中の身体が、勝手にフィアの方へと向かおうとする……いや、最早身体だけではない。心が、意識が、全てフィアを求めて止まない。

 初めてだったからたくさん失敗した、自分が卑屈だったからたくさん間違えた。だが、それがなんだと言うのか。

 だってフィアは、自分の大切な『友達』なのだ。

 こんな事で初めての友達を、手放してなるものか!

「わたしも、フィアちゃんが好き……大好き! だからもっとケンカしよう! わたしももっと怒る! それで……たくさん仲直りしよう!」

 無我夢中で頷きながら、花中はフィアの方へと駆け寄ろうとする。抱き着こうとする。ようやく手にした『友達』の温もりを、その胸で感じ取りたかった。

 だが、もがけどもがけど、花中の身体は動けない。

 何故なら花中の腕は、未だミリオンに掴まれたままなのだから。

「……茶番はそこまでにしてくれない?」

 ぞくりと、聞くだけで背筋が凍るようなミリオンの声。芝居がかっていた明るさはすっかり消え失せ、突き刺さる冷たさが心に突き刺さる。先程までの爛々としていた花中の笑みも凍り、一気に恐怖が表に出てきた。

 唯一フィアだけが、ふてぶてしい態度を変えずにミリオンと向き合う。

「その割には私と花中さんの邪魔はしませんでしたねぇ。もしかして邪魔したくとも出来なかったとか?」

「……………」

「あら図星ですか? 図星なのですか?」

「……あまり図に乗らないでほしいわね。あなた、この状況が分かってないの?」

 ミリオンはそう言い放つと、花中の腕を引っ張る。細い四肢からは想像も出来ない怪力の前に花中の身体はふわりと浮き、なんの抵抗も出来ずに抱き寄せられてしまう。

 次いでミリオンは、自らの右手を花中の喉元に当てた。

 瞬時に、花中の脳裏にフィアとミリオンの戦いの景色が過ぎる。荒事を知らないか弱い手にしか見えない『それ』は、花中の首如き容易く切り落とせる凶器だ。無論、真正面から戦ったフィアがそれを忘れている筈がない。

 しかも性質の悪い事に、ミリオンは花中の生死に頓着しない筈。彼女の目的はあくまで花中の遺伝子。生きている時の方が上質な遺伝子をより多く抽出出来るだろうが、死んでしまったら無理というものでもあるまい。つまりこの脅しはハッタリではない可能性がある。フィアはミリオンの話を聞いていないので知らないだろうが……しかし今から教えられ、「一歩でも動いたらこの子の命はない」と脅されたなら、身動きを封じられてしまう。

 状況は最悪。というよりも殆ど詰み。

 ……だのにフィアは、相も変わらず自信満々に笑っていた。事情を知らないからこそ浮かべられる笑みは、知っている側から見れば哀れなほど滑稽……いや、いっそ腹立たしい。

「あなた本当に馬鹿なの? もし一歩でも近付いたらこの子の首を撥ね――――っ!?」

 あまりにも余裕たっぷりな態度に苛立ったのか、花中の予想通りの警告をミリオンがしようとし――――しかしその言葉は、息を飲む仕草によって途切れた。そして花中もまた息を飲み、顔を青くする。

 まるで警告など関係ないと言わんばかりにフィアは、今にも殴り掛かろうとする体勢でこちらに駆けてきたのだから!

「なっ!? ま、待ち――――ぐっ!」

 狼狽した様子で止めようとするミリオンだが、長々とした説明よりもフィアが肉薄してくる方がずっと早い。悔しそうに歯噛みするやミリオンは花中から手を離し、仰け反るようにその場から離れた。

 一体何が起き

 ――――ズヒュウウウウウウウウウウッ!

「へ、わひゃあ!?」

 などと思った直後、花中のすぐ真横を『突風』が過ぎる――――否、突風どころではない。まるで打撃。華奢な花中の身体は手で押されたかのように突き飛ばされる。フィアがそっと受け止めてくれなければ、怪我の一つでもしていただろう。あまりにも唐突な暴力に、花中もミリオンも平静を失う。

 例外はただ一人、暴力を振るった本人であるフィアだけだ。奪還した花中を抱き寄せながら、ガキ大将を彷彿とさせる快活な笑顔と大声で自らの勝利を誇った。

「ふっふっふーん予想通り避けましたねぇ。人質なんて取っても身動きが出来なくなる分不利になるというのにふっふっふー」

「ば……ば、馬鹿じゃないのあなた!? わ、私、今はなちゃんの首を……!」

「そんなのただのハッタリでしょ?」

「な、なっ、な……!」

 なんの迷いもなくハッタリ、つまり嘘だと断定されて、ミリオンは口をパクパクさせる。声は詰まり、動揺を隠せていない。それは花中もまた同じで、同意を示すように同じく口をパクつかせた。

 ミリオンが避けない展開は十分あり得た。避けなければ、暴風が生じるほどの衝撃波を花中は至近距離で受けた事になる。そうなれば恐らく、人間の中でもとびきり脆い花中はきっと死ぬ。ミリオンが避けたのは突然の、あまりにも粗暴なやり方に怯み、咄嗟に最大の利益……生きた花中から極上の遺伝子を得るという選択をしてしまったからだろう。

 まさかフィアちゃんはここまで読んで……そうであってほしいと花中は願うが、子供っぽく誇るフィアの姿には、失礼ながら深い知性は感じ取れない。大体フィアはミリオンの話をろくに聞いていないのだ。絶対に感情で、『その場のノリと直感』でやったに違いない。

 論理的思考と知識で組み立てた策を、感情と勢いだけで完膚なきまでにぶち壊す。

 助かった事に感謝は覚えるものの、論理派である花中には受け入れがたい結果だった。ミリオンも同意見なのか、その表情は苦虫を噛み潰したように歪んでいる。

 だが、不意にミリオンの顔は静まり返った。

「……………」

「さぁてこれからどうします? どうします?」

 煽るように訊くフィアだったが、ミリオンの表情は動かない。目からは焦りも怒りも消え、口元は眠るように閉じ、頬の僅かな張りすら感じられなくなる。あまりにも静かな表情にフィアの方も笑顔が消えてしまい、怪訝そうに眉を顰めた。

 空気が変わる。まるで丸ごと入れ替えたように、切り替わる。

 何かを企んでいるのか、何かを考えているのか。ミリオンの表情から心は読み取れない。初めて会った時に浮かべていた、仮面的な笑顔以上に感情が読み取れなかった。花中は息を飲み、もう離すまいとフィアにしがみつく。フィアも花中の身体をぎゅっと抱きしめる。

 やがてミリオンはフィアに冷め切った眼差しを向け、

「さかなちゃん。お願いだから、はなちゃんを私にください」

 頭を垂れた。礼節を弁えた、綺麗なお辞儀の形で。

「……どういうつもりですか?」

「私達は特定の人間の脳波から知識を得ている……簡単に言うと、私もさかなちゃんも、はなちゃんが死ぬと今持っている知性や能力が失われて、そこらの動物と変わらない存在に落ちぶれるの」

「ふーん。それで?」

「でも、はなちゃんのクローンを作れば全て解決する。クローンが居れば、私達に知識を与えてくれる脳波は途切れない。私の腕が未熟だからはなちゃんにはクローン作製の犠牲になってもらう必要があるけど、長い目で見れば」

「ああもう結構。言いたい事は分かりました」

 ミリオンを止めるように、フィアは片手を前に出す。フィアが浮かべている表情は言葉通り不快さだけ。

「改めて言いましょう。友達が殺される時点で糞食らえですよそんな話」

 告げた言葉にも、敵意しかなかった。

「……そう言うと思ったわ。交渉は決裂ね」

「ふん。余計な話なんかせず一言戦おうと言えば良いんですよ。私がケンカっ早い性格なのは今日の闘いで知っていたでしょう? 言っときますけど今回は油断なんてしませんから不意を突こうたって無駄ですからね」

 ミリオンは前髪を掻き上げて視界を確保し、フィアは花中を置いてミリオン目指し歩み出す。

 睨み合い、距離を詰めていくフィアとミリオン。射程圏内に捉えれば、きっとすぐにでも戦いが始まるのだろう。一触即発。些細なきっかけで、命を軽々と奪える攻撃が飛び交う『二匹』の間――――

「だだだ、だ、ダメええええええええええええええっ?!」

「え? ちょおっ!?」

 花中は半べそを掻きながら、そんな間に割って入った。突然の横やりに驚いたのかよろめいたフィアは両手をバタバタ振り回して体勢を立て直そうとし、ミリオンは数メートルほど後ろに跳躍。二匹の距離が開いて、開戦は一先ず先送りになる。

 なんだか自分が凄く強くなった気分に浸りつつ、花中はフィアとミリオンを交互に見ながら叫んだ。

「あ、あ、あの! と、とりあえず、この戦い待った! です!」

「花中さん?! 危ないですから私の後ろに……」

「危なくない! わたしが間を、と、取り持つから、戦いなんて、おき、おき、起きない! の!」

「そんな無茶な!?」

「無茶じゃない!」

 生まれて初めて怒りをぶちまけたあの瞬間を思い出しながら、花中はヤケクソに駄々を押し通そうとする。

 戦いなんてしてほしくない。甘い幻想だとしても、みんなが仲良く出来る可能性を捨てたくない。だからせめて、せめて一度だけで良いから自分にチャレンジさせてほしい。

 その想いを胸に、花中はフィアを止めた。勿論本当は自分の気持ちをちゃんと伝えたいのだが、『敵』であるミリオンを前にしてあーだこーだ言い争いをしている暇はない。まずはやりたい事をやろうとして、それで納得してくれなかったら改めて話す。

 こんな事では絶対に、自分達の友情は壊れないと信じる事にしたのだから。

「むぐ……むむむ……!」

 フィアは悔しそうに唸り、ちらちらと花中の顔を覗き込む。しかし何も言わずに項垂れると、片手をミリオンに向けた。

 きっとそれはGO、もしくはOKのサイン、の筈。

「あ、ありがとう!」

 花中は満面の笑みでフィアにお礼を言い、話す相手をフィアからミリオンに切り替える。

「あ、あの! 少し、話をしませんか?!」

「……この期に及んでお喋り? 生憎、もう遊ぶ気はないの。アンタの生死だってどうでもいい。多少形が残っていれば大丈夫だから二人とも殺して――――」

「あわわわわ!? あ、あの、あの、え、あ、あなたの作戦の、あ、穴についてです!」

 ミリオンがいきなり話を打ち切ろうとしたので、花中は慌てて本題を切り出す。

 刹那、ミリオンの瞼が僅かに動いたのを花中は見逃さなかった。

 それが動揺なのか、疑問なのか、呆気なのかは分からない。ただしこちらに関心を持った事は間違いなく、これを逃す訳にはいかなかった。話のイニシアチブは離すまいと、花中は小さな胸を張りながら出来るだけ威圧的に語る。

「あなたは、わたしのクローンを、作ると、い、言って、ましたよね!? そのために、わたしは、死なないといけない、とも……でも! 万が一失敗したら、ど、どうする、つもりなの、ですか!? 生きている、わたしの近くで、行動しながら、く、クローン作製の練習を、して、わたしが、死ななくて、済むか、死体でも、確実にクローンを作れる、ぐらい、腕を上達させた、方が良いのでは、ないでしょうかっ!? それをしない理由をお、聞かせくだ、ください!」

 慣れない口調で長々とした台詞を、人生一番の早口で捲し立てたる花中。元々話し下手なのも相まって、言い終えた時には肩で息をするぐらい疲れてしまう。

 ミリオンが口を開いたのは、花中の息が整ってから。

「……私には、好きな人が居たわ」

 始まったのは、想い人の話だった。

「え? 好きな人……って、昔、暮らしていたって、言ってた、学者さん……?」

「ええ。私とあの人はお互いに愛し合っていた。傍に居るだけで、毎日が幸せだった」

 思い返すミリオンの声は震えていた。表情も凍ったままだった。好きな人の事を思い出している筈なのに、全く幸せそうじゃない。

 フィアは眉を潜めていたが、花中には、なんとなくその理由が分かった。

 『あの人』に対するミリオンの言葉は、全て過去形だった。そして大好きな人の傍を離れて一人で行動し、知識と知能を維持するためにクローン作りを焦って実行しようとしている……思い返せばヒントは山ほどあるではないか。推理、なんて大層な思案に耽る必要もない。

 つまりミリオンの好きな人は、

「三年前、あの人が死んでしまうまでは」

 既に、この世にいないという事だ。

「死因は老衰。天寿を全うしたという意味では、幸せな死に方かも知れない。でも、私には死に方なんて関係ない。あの人の居ない世界なんてただの地獄。だから後を追いたかったのに、あの人に止められてしまった。笑って生きていてほしいって言われてしまった。だから私は笑い続けようとしたわ……上手く笑えないけど」

 ミリオンはにっこりと、花中達と初めて出会った時と同じ笑みを浮かべる。

 一見すれば無感情で気持ち悪いその笑みが、今の花中には、泣いているように見えた。

「それでも昔は、まだ今よりももう少しだけ笑えたわ。あの人との思い出に浸るだけで幸せになれたから。あの人との思い出だけを胸に生きるつもりだった。身体が朽ちるまで、思い出だけを糧に生きていこうとしたの」

 綴られる愛の言葉に、花中は何も言えなくなる。強く、痛々しいほどの恋心が伝わり、恋を知らぬ身である事もあって掛ける言葉が見付からない。

 いや、掛けるべきではない、とも思う。

 こんなにも悲しい話を止める権利なんて、きっと誰にもない。

「……それはあの人の最後の予言。脳波を発する人間が何らかの要因で居なくなった時、受信する存在の知識がどうなるのか……怖くて、私が確かめる事を拒んでしまって、あの人が居なくなってからは思い出さないようにしていた、仮説」

 花中が発している脳波を『源泉』だとすれば、知能は水が溜まって出来た『池』であり、知識はそこに生える植物に当たるだろう。源泉から噴き出た水が知識という『種』を運び、根付き、豊かな緑……知能を形作る。全ては源泉により支えられ、その緑の形は、個々の過ごし方でいくらでも変わる。

 その『源泉』が失われた時、何がどうなるのか。まず『池』はどれだけ手を尽くしても徐々に水位を減らしていき、やがて枯れるだろう。延命療法的な事は可能かも知れないが、根本的な解決はほぼ不可能だ。

 では、水を失えばそこに生えていた『植物』はどうなるのか?

 ……『源泉』と共に、枯れるしかないではないか。

「あの人が死んでから丁度三百日目の朝。最初はあの人の好物……『ナポリタン』という言葉の意味が、分からなくなった」

「……知識を……思い出を、忘れてしまったの、ですか……?」

「ええ。伝達脳波を発する人間が居なくなった時、受信した際の余韻が完全な形で保てるのは精々一年。一年を過ぎると、私達の知性は少しずつ失われていく……あの人の仮説よりも、少し早い始まりだったわ」

「……っ」

「その一年で綺麗さっぱり全てを忘れてしまえたなら、それはそれで構わなかったけどね。でも、余韻が完全に消えるのに掛かる時間は、あの人の予測では約五年。その間私は……ゆっくりと、あの人を忘れ続けないといけない。そんなの耐えられない。あの人の想い出を抱きながら、あの人の下に逝きたい。でも、あの人に笑って生きていてくれと頼まれたから死ぬ事も出来ない」

「だ、だったら!」

 淡々と語られる呪いの言葉に、花中は堪らず口を挿んだ。

 花中もフィアが自分のせいで死んだと思ったからこそ、自分の命を投げ捨てても良いと思ってしてしまった。もしもフィアを蘇らせる方法があるのなら、所謂邪法と呼ばれる手段であったとしても、きっと縋ってしまったに違いない。

 ミリオンからすれば、昨日の今日出会った相手への想いなんかと一緒にされたくないだろう。花中自身、ミリオンの気持ちを完全に理解出来たとは思わない。それでも、本質的な部分は分かったつもりだ。

 だから、花中は思う。

 もしもフィアが死んでしまった自分のために過ちを犯そうとしたら、嬉しさよりも悲しい気持ちになってしまう、と。

「そ、そんな事を、人の命を奪って、あなたの好きな人が、喜ぶ、と、思って……!」

「思ってる訳ないじゃない!」

 しかし伝えようとした想いは、ミリオンの叫びで遮られた。

「あの人が、優しかったあの人が、誰かが死ぬような結末を望んでる訳ないなんてアンタに言われなくても分かってるわよ! でも、でも、これしか……もう、これしかないの……耐えられないのよ……忘れてしまうなんて、『かも知れない』でも嫌なの!」

 堰を切ったように溢れ出るミリオンの叫び。怒号の如く大きな声は花中の身体に刺されたような痛みを感じさせ、無感情から一変した悪鬼の形相より放たれる悲哀の眼差しは胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。それでも花中は、ミリオンを怖いとは思えない。

 この人はさっきまでの自分と同じ――――『大切な人』を失う事が怖くて堪らない臆病者なのだと分かったのに、どうして怖いと思えるのか。

「もう、嫌なの。また忘れてしまうかも知れないなんて、考えるのも嫌なの……私は、早く安心したいの……あの人との思い出を忘れたくないだけなの……だから……!」

 悪鬼の形相は崩れ、ミリオンの顔は悲愴な面持ちに変わる。涙を零さずとも、花中には泣いているようにしか見えない。

 勿論、花中の命を奪うと言っている事に変わりはない。しかし拒絶を躊躇わせるほどの想いをぶつけられ、命を狙われているにも関わらず、花中は息を飲んでしまう。

 代わりに、フィアが首を横に振った。

「申し訳ありませんがお願いは聞けませんね」

「なんで!? あなただって自分の記憶が失われるのは嫌でしょ!? 何時か全てを忘れるなんて考えたくもないでしょ!?」

「確かに考えたいとは思いません」

「だったらなんで! なんでよ!?」

「うーん。あなたの事が嫌いなので逆らいたいとかそんな先の事を深く考えると頭が痛くなるとか細かな理由は色々ありますけど」

 フィアは面倒臭そうに頭を掻く。仕草に真剣みはなく、花中と違ってミリオンの悲痛な叫びも何処吹く風だ。

 ただし、

「好きな人を渡せと言われて素直に渡す訳がないってのが一番の理由ですね」

 この言葉だけは、真っ直ぐミリオンを睨みながら言い放った。

 ――――ミリオンの動きが、止まる。腕を下ろし、表情も消す。

「……そうね。私だってあの人を渡せと言われたら、そいつをゴミにしてやるわ」

「そういう事です。というかこれもう何度目のやり取りですか? いい加減無駄だと分かってほしいのですけど」

「生憎、諦めは悪い方なの……もう言葉を交わす意味はない。この時のために二年間も準備したのに、世界中を探し回ったのに、アンタなんかに邪魔されて堪るものか」

 ミリオンは全身から力を抜き、じっとフィアを見据える。フィアもミリオンを見据えながら両腕を広げ、獣染みた前傾姿勢を取る。対極的な体勢であるが、二人が臨戦状態なのは纏う雰囲気から明らか。

 気持ちも姿勢も整えていないのは、あとは花中だけだ。

「(だ、ダメ、だった……)」

 ショックのあまり、花中は身体をよろめかしてしまう。話を聞けば和解のヒントがあるかもと期待していたが、狂信的な愛の前では理論や倫理は何の意味もないと思い知らされる結果になってしまった。

 勿論『こんな事』で和解を諦めたくはない。しかし今はなんの作戦も思い浮かばない。

 花中に今出来るのは、邪魔にならないよう少しでもフィアから離れる事ぐらいで、

「時間が惜しいから、さっさと終わらせるわよ」

 一歩と後ずさる間もなく、ミリオンが跳んだ。

 ただ一回の跳躍で数メートルは開いていた筈のフィアとの距離は詰まり、瞬きほどの時間でミリオンは腕を振り上げる。その瞬間が花中に見えたのは最早奇跡……そう言っても差し支えないほどミリオンの行動は素早く、一切の躊躇いがない。

 花中には声を上げる事すら出来ず、触れただけで四肢を切断してきたミリオンの掌がフィアの頭部に触れ――――

「ふんぬぁっ!」

 フィアは頭でその手を押し返し、ミリオンの綺麗な顔面に頭突きを食らわせた!

「がっ! ごっ!?」

 頭突きをもろに貰ったミリオンは後頭部を岩で出来た地面にぶつけ、衝撃で身体をバウンドさせる。その様は車にでも撥ねられたかのように凄惨。人間なら死んでいない方がおかしい吹き飛び方だったが、ミリオンは跳ねた勢いでバク転し、軽々とフィアとの距離を開ける。

 スマートに体勢を立て直す辺り、どうやらダメージは皆無らしい。だがミリオンの目はしっかりと見開かれ、瞳が動揺を表すように揺らいでいた。

「な……何が……!?」

「あっはっはっはっ! 触れたのに私の身体が蒸発しなかったのがそんなにも予想外ですか? あまり嘗めないでもらいたいですね。あんだけやられたら多少は対策を考えますしそのためにもあなたの能力に見当ぐらいは付けています! 案外簡単に分かってしまい拍子抜けしましたけどねぇ!」

 心底馬鹿にした台詞を心底楽しそうに語るフィア。余程ミリオンを突き飛ばせたのが嬉しかったのか、上機嫌に種明かしを始めた。

「あなたの能力は『触れた物体の温度を上げる』事でしょう? 私のこの身体を触れただけで切断出来たのは接触面を加熱して蒸発させたから。そりゃ蒸発させられたら強度なんて関係ありませんよね。あなたに触られた場所で湯気が上がるのも納得です」

「……っ」

「無言は肯定と受け取りましょう。さてあなたの能力が分かれば対策は簡単。蒸発されてしまうと言うのなら沸点を上げてしまえば良い。今は普段の二十倍ぐらい……大体二千度程度まで上げているのですよ」

「あ、上げたぁ!? 嘘よ! そんな、どうやって!?」

 聞き逃せないとばかりに、ミリオンは声を荒らげて否定する。無理もない。フィアの味方である花中だって、思わず「そんなのあり得ない」と言いたくなったぐらいなのだから。

 物質の沸点を上げる方法は主に二つ。圧力を上げるか、溶剤を加える事だ。特に圧力を加える方法なら、理論上加えた分だけ沸点はどんどん上がっていく。

 しかしこれらの方法で現実的に上げられる沸点は精々数十度。仮に圧力を高める事で水の沸点を通常の二十倍……二千度にするには、数万気圧という地球中心部並の圧力が必要だ。特殊な能力を持っているとは言え、生物が単独で惑星並のパワーを生み出せるとは到底思えない。

 なら一体どんな裏技を使っているのか。

 ――――まさか、自分の命を削るような危険な真似をしているのでは。

「空気中に逃げようとする水分子を頑張って捕まえているのですよっ!」

 花中のそんな不安は、フィアの堂々とした物言いで彼方に吹き飛んでしまった。

 頑張ってどうにか出来るの?

 思わずそうツッコみたくなるが、花中は口を噤む。気体とは分子が液体よりも自由に動き回れる……単独行動を始めているような状態である。故に単独行動を始めようとする分子を無理やり一纏めにすれば、液体のままに出来る。その力が圧力であり、高圧力環境で沸点が高くなる理由なのだが……もし分子を集められるのなら、圧力を掛ける必要はない。無数の分子は一塊となり、どんな高温に曝されようと液体の状態を保ち続ける事になる筈だ。

 説明としてはそこまで破綻していない……と言えなくもないかも知れないような気がしなくもない。

「ぶ、あ、あっははははははははははははははははははは!」

 そう自分に言い聞かせるがやはり納得出来ず苦笑いを浮かべてしまう花中に対し、ミリオンは品のない声で大笑いした。

 真面目に語っていたであろうフィアは、唇を尖らせて不満を露わにする。

「……何がそんなにおかしいのですか?」

「笑わずにはいられないわよ! ああ、こんなに笑ったのは、あの人が死んでからは初めて……そうね、あの人が言っていたわ。有袋類が有胎盤類によって大部分が絶滅させられたように、かつて地上の支配者だった裸子植物が被子植物によって遥か北まで追いやられたように……世界を支配するほど繁栄したどんな生物も、新たに生まれた種によって駆逐されてきた。やがて君達は人類を滅ぼし、最終的に次の地球の支配者となるだろう。故に人間の物差しでは、君達の力は到底測りきれない。人間の知性に負けて絶滅寸前のオランウータンには、自分達を撃ち殺していく猟銃の仕組みすら満足に理解出来ないのだから……あの人の口癖だったのに、今の今まですっかり忘れていたわ! く、くく、くははははははははははははっ!」

 ミリオンは堪え切れないのかまだまだ笑い続ける。片手で抑えているので半分しか覗かせていない顔は愉悦に歪み、挑発や嘲笑ではなく、本心から笑っているのが分かる。

 更に言えば、

「良いわ。あなたが『新たな支配者』らしく人間の常識を超えるというのなら、こっちも人間の常識を超えてあげる」

 付け加えるように語られた言葉に、花中は虚勢を感じなかった。

 次の瞬間、ミリオンが片腕を伸ばして突進してくる!

「不意を突けば防御を破れると思いましたか!」

 再び襲い掛かってくるミリオンの手に、フィアは握りしめた拳を向かわせる。そのまま行けば二人の手は正面衝突。負けた方が『身体』の一部を砕かれる。

 花中の脳裏に過ぎった結末は――――

「避けて!」

「っ!?」

 無意識に出た花中の叫びが届いたのか、フィアは身体を大きく右に傾けた。その拍子に拳の軌道がずれ、ミリオンの拳とは掠るだけで済む。

 結果、フィアの拳の表面が僅かに

「なん……くっ!」

「え、ひゃぁっ!?」

 その『意味』を察したのか、フィアは自動車でも出せそうにない加速と速度で後退。花中は後退してきたフィアに捕まり、腰と背中を手で支えられた……お姫様だっこの形で一緒にミリオンから離れる。

 ミリオンは花中達を追って来ず、面倒そうに舌打ち。

 しかしすぐに勝ち誇ったように笑うと、その場で指を一本立て――――告げた。

「一つ、教えてあげる。私の能力で上げられる温度の上限は、約七千五百度。その意味が分かるかしら?」

「なんっ……!?」

「……!」

 フィアの声は途中で途絶え、花中に至っては一言漏らす事さえ出来なかった。

 七千五百度。この数字はフィアが操る水をも気化させる高温……それだけでは済まされない意味を持つ。

 例えば鉛は一気圧環境では約千七百五十度、鉄や金でも二千八百度程度で沸騰し、気体と化す。現在最も沸点が高い物質と言われている炭化タングステンでさえ、約六千度が限界。それ以上高温になれば気体となってしまう。

 即ち、地球上に存在する物質ではミリオンを止められないのだ。いや、太陽表面が六千度でプラズマ化している事を踏まえれば、この宇宙にあるあらゆる物質で壁を作っても、ミリオンは決して止められない。彼女が触れた瞬間この世の全ての物質は、気体ですらなくなってしまうのだ。

 ましてや水程度では……

「ふぃ、フィアちゃん。あの、ふ、沸点上昇って、もしかしなくても……」

「……二十倍が限界です。いえ測った訳ではないので正確な沸点は分かりませんけど何時もの二十倍ぐらい『元気』な水分子が捕まえられる限界なんですよ。それ以上になると」

「……うん……分かった……」

 小声で一応確かめてみるが、対抗なんて夢のまた夢だった。

 触れた瞬間蒸発してしまう以上、フィアの水はミリオンに対する武器にも防具にもなりえない。つまり丸裸で挑むようなものである。ハッキリ言って自殺行為以下の、愚行でしかない。それに出来れば、やっぱり二人には命懸けの戦いなんてしてほしくない。

 故に、花中が取る策は一つ。

「と、とりあえず、ここは逃げよう……逃げながら、何か作戦を考えて……」

 花中はミリオンに聞こえないよう、自分を抱きかかえてくれているフィアにこっそりと耳打ちした。

「絶対に逃がさない」

 しかし何故かミリオンには筒抜け。

 聞かれているとは思わず、花中は反射的にミリオンを見遣る。ただ、視線はすぐにミリオンの傍……何時の間にか現れた、喪服に使えそうなほど黒いワンピースを着たもう一人の『ミリオン』へと移った。

 花中は思い出す。ミリオンが『三体』は居た事を。

 花中は思い出す。三体のミリオンも、まるで瞬間移動してきたかのように現れた事を。

 花中は思い知らされる。

 重要な目的のためとはいえ、迂闊に総力を結集するようなマヌケはそう居まい。

 しかし怒り狂い、焦りで我を忘れているのなら話は別だ、と。

「逃がさないわ」

 この大空洞に来るために花中が、そしてフィアも通った穴から、三体目のミリオンが現れる。

「絶対に逃がさない」

 天井から舞い降りるように四体目のミリオンも現れる。

「逃がさない」

「逃がさない」

「逃がさない」

 この場にたくさん開いている、一体何処に繋がっているかも分からない穴から五、六、七体目のミリオンが現れ――――もう、花中は数えるのを止めた。

 花中が数えるのを止めてもミリオンは止まらない。唐突に姿を現すミリオン、巣から溢れる蟻の如く穴という穴から出てくるミリオン、雨のように天井から降ってくるミリオン……『湧く』という表現しか使えない勢いで、ミリオンは数を増やしていく。

 時間にすれば三十秒も経っていない。

 その三十秒に満たない間で、野球場にも匹敵するこの場はミリオンで埋め尽くされてしまった。あまりにも多過ぎて大雑把な数すら把握出来ないが、何百、或いは千を超えていたとしても納得してしまうほどの大群。

 そして花中とフィアが位置するのは、何百以上ものミリオン達の中心。

「「「「「逃がさない。細胞一つだって、絶対に」」」」」

 隙間一つない包囲網から、花中達の逃走劇は始まる事となった――――

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