ファースト・フレンズ5

「……申し訳ありませんがもう一度言ってもらえませんかね? あなたの頭が可笑しいのか私が聞き間違いをしたのか確信を持ちたいので」

 静まり返った空気の中で、最初に言葉を発したのはフィアだった。早口なのは相変わらずだが、その口調に花中と話していた時のような明るさはなく、代わりに露骨な敵意と侮辱が散りばめられている。早い話が喧嘩腰だ。

 花中はそれを咎めない。人並みの度胸を持っていて、この場に喧嘩っ早い性質のようである友人が居なければ、自分も『同じ言葉』を言っていただろうから。

「ええ、構わないわ。えっとね、はなちゃんを私にちょーだいって言ったの」

 しかし真っ向から敵意をぶつけられたにも拘わらず、黒い少女は無感情な笑みを寸分も崩さない。声は弾ませているのに楽しさが伝わらないもののままで、先程と口にした文面を平然と返してくる。

 敵意と侮辱をまるで気にしていない、普通に言葉を交わした程度にしか感じていない仕草に人間らしさは欠片もない。これなら表情が鋭利な敵意で歪んでいても、今のフィアの方が余程愛らしいと花中には思えてならなかった。未知の存在に、花中は身体をぶるりと震わせる。

 対してフィアは「ふんっ」と鼻息を鳴らし、表情の不機嫌さを更に増していた。

「ああ聞き間違いではなかったようですね。あなたの頭がおかしい事に確信を持てました……人攫い宣言と受け取って良いのですよね?」

「ええ。返すつもりはないわ」

「じゃあ今から警察を呼びます。犯罪者って警察が怖いんですよね? さっさと逃げ帰ってくれませんか?」

「警察如きが怖くて人攫い宣言なんて出来ないわよー」

 少女はフィアの警告を気に留めた様子もなく、ゆったりとした歩みで花中に近付いてくる。あまりにもゆったりで、見せつけているかのような歩みは、臆病な花中を恐怖のどん底に突き落とすには十分な演出だった。

 『変質者』と呼ばれる人間が存在する事は、花中だって知っている。しかし実際に目の当たりにしたのはこれが初めて。しかも相手は自分に付き纏う……恐らくだが、ストーカーと呼ばれる人種。どう対応すれば良いのか分からず、逃げたいと思っても足が竦んでしまう。この場から動けない。

 結果花中は無意識に、手近にあったフィアの腕にしがみついてしまった。しがみつかれたフィアが自分の事をちらりと見たので迷惑だったかと思ったが、恐れ慄く身体は言う事を聞いてくれない。

 ごめんなさい。

 そう謝ろうと花中が口を震わせながら開けた、時だった。

 フィアが花中の掴んでいる腕を、花中ごと自身の背後へと回した。まるで自らを花中の盾にするかのように。

「ふぃ、フィアちゃ……」

「花中さんは私の後ろに隠れていてください」

 なんで、と訊く前にフィアに命じられ、花中は言われるがままフィアの背後に身を潜める。

 そしてフィアは、左手の人差し指を力強く少女の顔に向けた。さながらその姿は、子供が自分の手を使って拳銃ごっこをするかのよう。

 黒髪の少女も両手を上げ、如何にも銃を向けられた人のような振る舞いをする。ただし足は機械的に前へと動き続けたまま。近付くのを止めはしない。

「あらら、何それ? 指から殺人ビームでも出すつもり?」

「警告です。さっさと此処から消えない場合痛い目に遭ってもらいます。いやもしかしたら致命傷になるかも知れませんね。痛めつける目的で力を振るうのは初めてで加減がよく分からないので」

「いやん。怖ぁーい」

「ジョークではありません」

 フィアは再三に渡り「此処から消えろ」と少女に告げるが、少女はふざけた態度を見せるばかり。歩みは遅くも早くもならず、じりじり花中達との距離を詰めてくる。

 少女の反応自体は ― やたら癪に障る点に目を瞑れば ― 普通だと花中も思う。何しろフィアは少女に指先を向けているだけ。臆病な花中ですら、そのぐらいでは怯みもしない。実際に何かしらの『攻撃』を受けるまでは、誰だってフィアの警告を無視するだろう。

 フィアもそれは重々承知している筈だ。

「仕方ありませんね」

 だからこの「仕方ない」は威嚇の合図だと花中は思い――――花中の想像よりもずっと喧嘩っ早かったフィアは、少女の顔に向けたままの指先から水の塊を射出した。放たれた水は ― 恐らく速過ぎて ― 花中の目に映らなかったが、耳に届いた小さな破裂音から、拳銃の弾丸の如く初速で撃ち出された事を本能的に察する。

 不気味な少女にも音は聞こえていたのだろう。もしかすると撃ち出された水が見えていたのかも知れない。

「あらよっとー」

 余裕綽々な掛け声と共に、少女はフィアの攻撃を見事回避してみせた。

 、という動きで。

「……え……?」

「よっこいしょ。あ、よっこいしょって言っちゃった。やだやだ、歳は取りたくないわー」

 理解不能の一音を漏らす花中の目に、椅子から立ち上がるような気軽さで少女の姿が映る。しかし脳が、網膜からやってきた映像を拒む。自分が何を見たのか、全く分からない。

「……あの、フィアちゃん」

「今のはちょっとした見間違いです」

 花中が今の出来事を訊こうとしたところフィアは何時も以上の早口で話を遮り、直後指先からもう一度水の塊を発射した。

「ほいよっとー」

 少女はまたしても攻撃を躱す。しかも今度はという、先程以上に異様な『動き』によって。

 花中の頬を、汗が流れた。フィアの頬にも、汗らしきものが流れていた。

 見間違いではない。

 目の前の少女は、身体を自在に変形させる事が出来る。それどころか引き裂いても即座に再生する。再生する動物として有名なプラナリアだって元の姿に戻るには数日から数週間を要するというのに、目の前の少女は一瞬で回復してみせた。これなら漫画やゲームに出てくるモンスターの方がまだ脆いぐらいではないか。

 こんな生き物あり得ない……そう思う反面、花中の脳裏にある『答え』が過ぎる。

 『身体』が水であるが故に自在に変形し、水であるが故にいくらでも修復が効くであろう――――フィアにも同じ事が可能だ、と。

「ま、ま、まさ、か、あなた……!?」

「気が付いた? ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね」

 少女は右足を半歩後ろに、左手を自分のお腹の位置に添えると上品な動作で一礼。

「私の名はミリオン。さかなちゃんのお仲間、と思ってくれて良いわよ」

 続いて黒い少女……ミリオンは優雅に自己紹介。

「そうそう。そっちから攻撃してきたんだから、反撃されても文句は言えないわよねぇ?」

 最後ににっこりと、裂けんばかりに口元を歪めて微笑んだ。

 刹那、花中の背筋に冷たいものが走る。顎が勝手に震え、奥歯がガチガチと音を鳴らす。全身に鳥肌が立ち、今にも腰が抜けてしまいそうになる――――歪な微笑みを向けられただけなのに、花中の身体は一斉に恐怖を訴える。いや、訴えるなんて生易しいものではない。喚き、悲鳴を上げている。

 結局のところ一切の理屈抜きに、花中は最初から、本能で『アレ』を敵だと思っていた。さながら初対面であっても、獰猛な肉食獣が危険だと分かるように。今までは理性がそれを妨げていただけ。二つの認識が重なり、ようやく本来の……獅子を恐れるウサギのような感情が込み上がる。

 そして肉食獣は、恐怖で震える草食動物を見逃してはくれない。

「んじゃ、私とケンカするつもりならこの手を受け止めてくださいな♪」

 花中の足が動き出すよりも早く、ミリオンは己が右腕を花中の方へと向ける。

 直後に起きた出来事を、花中は何一つ把握出来ていない。

 自分に向けられていたミリオンの腕がゴムのように伸びた事も。

 伸びてきた腕が猛烈な速さで自分に迫ってきた事も。

「――――ちっ!」

 フィアが自分を突き飛ばした事さえも。

 全てが一瞬の出来事故に、意識に上る暇さえなかった。

「ひ、うぐぁ!?」

 突き飛ばされた身体は地面に叩きつけるように倒れ、痛みで花中は呻きを上げる。しかし頭は未だ状況を理解しておらず、フィアを無意識に凝視するだけ。

 だから見てしまう。

 伸びてきたミリオンの手が、花中を突き飛ばしたフィアの右腕と接触し――――次の瞬間、触れられたフィアの腕が大量の『煙』を上げて宙に舞った光景を。

「っ!?」

「まずは邪魔者からお片付けぇっと!」

 驚愕の表情を浮かべるフィアに、ミリオンは人ではあり得ない速さで突進してくる。煙が立ち上っている腕の切断面を見ていたからか、フィアは躱す素振りすらなくミリオンの突進を食らってしまった。

 フィアは倒れこそしなかったが、受け止める事も出来ていない。ミリオンはそのまま押し込み、フィアは押し込まれ、二人は旧校舎へと直進。老朽化した壁は『動物』達の体当たりで呆気なく砕け散り、二人の姿は旧校舎の中に消えた。

「あ、あああああっ……!?」

 痛みで呻いていたほんの僅かな時間……友達が攻撃されるのを見ている事しか出来なかった花中は壊れた悲鳴を上げる。無我夢中で千切れたフィアの腕を拾おうとしたが、作り物の腕はただの水に戻っていて、地面に染み込み触る事さえ出来なくなっていた。

 もう花中に出来るのは、祈る事だけ。

 爆音や破裂音が鳴り響く旧校舎で、ミリオンと戦っているであろうフィアの無事を祈る事しか出来なかった……




 旧校舎に押し込まれてすぐ、フィアはミリオンの『猛攻』を受けた。

 フィアはミリオンに肩を掴まれ、向かい合う形で旧校舎の奥へと押されている。今のところ倒されずに済んでいるが、どうやらミリオンの方が力は上。ひたすら直進するミリオンをフィアは押し留める事が出来ず、行く手に立ち塞がる壁と激突。その壁さえも粉砕して隣の部屋まで押し出されるのを、何度も繰り返していた。

 当然壁とぶつかるのは押されているフィアの方だ。木製かつ老朽化が進んでいるとはいえ、建物の分厚い壁を突き破るほどの衝撃である。人間なら今頃四肢やら頭やらが千切れ、唯一残った胴体もスクランブルエッグのようになっているだろう。

 そんな猛攻であるが、フィアには痛くも痒くもなかった。

 何しろフィアの『身体』は水で形作った『容器』に過ぎず、いくら打撃を受けてもフィア本体とは無関係。しかも表面部分の密度を上げる事で圧倒的な強度を生み出し、人体破損程度の衝撃なら易々と無力化する。仮に衝撃に耐えきれず『身体』の一部が千切れても、瞬時に、いくらでも修復可能だ。

 故にフィアは自分が今置かれている状況に恐怖を抱かない。のんびりじっくり、十分旧校舎に押し込まれたタイミングを見計らい――――『身体』を構成する水分子同士の結合を、ほんの少しだけ緩めた。

 分子の結びつきが緩んだフィアの『身体』に、文字通り水の柔らかさが戻る。ただの水は決して掴めない。掴めない物は決して押せない。

「よっと」

 フィアはミリオンの力を受け流しながらその身を崩れ落とし、

「およよ?」

 ミリオンは崩れたフィアの真上を通り過ぎ、一人で次の壁に激突。

 豪快に壁を突き破って、ミリオンは部屋の向こう側へと姿を消した。その後も激しい破壊音が幾度となく聞こえたので、勢い余って何枚も壁を突き破っているらしい。

「自滅していると楽で良いんですけどねぇ」

 逃れたフィアはミリオンが激突した壁から距離を取りつつ、崩した『身体』を再構成。再び金髪碧眼美少女の姿 ― 先程吹き飛ばされた右腕もちゃんと再構成してある ― を作り上げ、辺りを見渡そうとした。

 その前に、べきっ、という音と共に立っていた床が抜けたが。落ちたフィアはずどんと重々しい音を鳴らし、床から上半身が生えているような間抜けな姿になってしまう。

「……まぁ校舎全体が木で出来ていますしワックスなんてとうに剥がれているでしょうからね多分腐っていたのでしょう触った感触から察するにこの床森林内の倒木並に湿っていますからうん決して私が重かった訳じゃないいえ重いですけどね大量かつ高密度の水で作った身体ですし」

 凄まじい早口で独りごちつつフィアは穴から慎重に上がり、軽く踏みしめて床が落ちないのを確かめてから改めて辺りを見渡す。

 フィアの周りにあるのは、しっちゃかめっちゃかに散らかっている何十もの机と椅子。恐らくフィアとミリオンが突入した際の衝撃で散らばったであろうそれらは、しかし見ていてあまりうっとおしさを感じない。理由としては、この一室が数十もの人間が入っても窮屈ではないと思えるほど広いからか。

 そしてミリオンが激突した事で、大穴が空いた深緑色の板……黒板がこの部屋には備え付けられている。旧校舎と呼ばれるまで、此処が一般教室として使われていた部屋なのは明らかだ。黒板にはチョークで書かれたたくさんの言葉があり、この教室への想いを何かしらの形で残したいと願った生徒が居た事を予感させる……ぽっかりと開いた穴の所為で、七割ぐらいの想いは消えたようだが。

「どっかぁ―――――――――んっ!」

 そして派手に壁を粉砕しながら戻ってきたミリオンに巻き込まれ、残った三割の想いも粉微塵になって消えた。

 現れたミリオンは全くの健在。身体どころか服も傷一つなく、今も元気だとアピールしたいのか両腕を忙しなく動かしていた。とはいえ『笑顔』から感情が読み取れないので、元気そうには見えないのだが。

 期待外れかつ予想通りの状態に、フィアの口からため息が出る。肺呼吸をしてなくとも、ため息っぽいものは出せるのだ。

「その様子だとダメージはないようですね」

「まぁね。これでも頑丈さにはそこそこ自信があるから」

「やれやれです。頑丈な奴を相手にするのは嫌ですねぇ面倒臭そうで」

「いやん、面倒臭いだなんてぇ。寂しい事言わないで」

 ミリオンは大袈裟に身体を仰け反らせ、如何にもショックを受けたと言わんばかりの仕草を見せる。それがあまりにも胡散臭く、フィアは眉を顰めた……水で出来た身体だが、気持ちに直結した反応が出てしまうのでフィアは感情を隠すのが苦手だ。そもそも魚、しかも群れを作らない種である彼女に社会性なんて備わっておらず、感情を隠すという行為が理解出来ない。

 なので今のフィアは心底うっとおしそうな顔をミリオンに向けているのだが、ミリオンは堪えた様子もなく、飄々と口を開いた。

「さて、それは兎も角。本題に移りましょうか」

「本題? 何か話さないといけない事とかありましたか? てっきりすぐにでもルール無用の戦いになると思っていましたが」

「さかなちゃんって丁寧な口調の割に好戦的なのねぇー……そういうの、嫌いじゃないわ」

「……どうして私が魚だとご存じなのですか? あなたに自己紹介をした覚えはないのですが」

「ああ、それはね。見ていたから――――昨日から、ずっと」

「昨日から?」

「ええ。本当は昨日のうちにはなちゃんと接触しようと思っていたんだけど、あなたが出てきちゃったから。あなたがどんな能力を持っているのか、私には分からない。知らないものはちゃんと調べてからじゃないと、怖いでしょう?」

「要するに昨日からストーカーをしていた訳ですか。気持ち悪い。しかし話を聞いているとあなたの目的は花中さんのようですが私とどんな話をしたいと言うのです?」

 フィアは刃物のように鋭くした眼差しで射抜きながら、ミリオンに刺々しい言葉を投げ掛ける。別に、相手の動揺を誘おうだなんて考えていない。感情の赴くまま、アイツがムカつくから攻撃しているだけ。相手がどう思うかなど、端から気にしていない。

 だからミリオンが眉一つ動かさなくともフィアにとってはどうでも良くて、

「ちょっと、和解に向けた話し合いをご提案しようと思って」

 いきなり人に襲い掛かってくる『悪者』らしくない台詞を聞けば、素直に驚いて目を見開いてしまうのだ。

「……和解?」

「そーそー。やっぱ平和に解決するに越した事はないでしょ? それに実を言えば、私の『目的』ってさかなちゃんにもメリットあるんだから」

「私にもですか?」

「うん。私がどうにかしたい問題は、さかなちゃんも何時か必ずぶつかる問題。いいえ、それだけじゃない。私達と同じく知性を持った生命全ての悩みであり、絶望となる難問なの」

「……………」

「でも、はなちゃんを使えばその難問の解決が見えてくる……ちょっとは興味を持ってくれた? 持ってくれたなら、話を聞いてくれると嬉しいわ」

 ミリオンはニコニコと胡散臭く微笑みながら、握手を求めるように手を伸ばしてきた。

 フィアは差し出されたその手をじっと見つめながら、考える。

 自分達と同じように人間並みの知能を持った生命達が抱える難問……と言われても、フィアにはピンとこない。まず自分が問題を抱えているという自覚がないし、知能を持った生命も人間とミリオン以外には会った事がない。見当も付かない問題の解決をちらつかされても、正直なんの興味も湧かなかった。

 しかしこの話し合いを蹴れば、待っているのは戦い。

 ミリオンの力はフィアの『身体』を吹き飛ばすほどの破壊力があった。それだけでなく裂けた身体をも修復する再生力、腐敗気味とはいえ木製の壁を突き破るほどの怪力、その怪力で起こった『事故』から平然と生還する防御力……化け物としか形容出来ない、優れた戦闘力を持っている。

 フィア自身としては、己とミリオンの間に埋めようがないほどの力の差があるとは思っていない。けれども若干『劣っている』のは、不本意だが認めざるを得ない。勝ち目がないとは言えないが、厳しい戦いにはなるだろう。そしてミリオンの攻撃力から考えて、敗北は死を意味する。

 だったら一先ず和解をして、語られた話にメリットを感じたら協力、気に入らなければ隙を見て後ろからブスリ……というのも、作戦としてはありかも知れない。人間ならいくら敵相手でも躊躇するような卑劣さだが、知性はあれども考え方は魚類のそれであるフィア。人間的な良心など端から持ち合わせておらず、実行する事に不快感などなかった。

 命懸けで戦うか、それとも一先ず和解して隙を窺うか。

 二つの選択を天秤に掛け――――答えを決めたフィアは堂々とミリオンに伝えた。

「残念ですがあなたと話し合うつもりは毛頭ありません」

 完全な、拒絶の言葉を。

 つまりは明確な、交戦の意思表示。

 フィアの言葉を聞いたミリオンはニコニコとした笑みは変えず、静かに、伸ばしていた手を下ろす。

「……てっきり、自分の不利を悟って、渋々でも話し合いに乗るものと思ってたわ」

「単純に私が襲われただけならやっていたでしょう」

「交渉の席に着く振りをしてブスリ、って展開も考えていたんだけど」

「それをやっても良かったんですけどね。でも今回はやりません。理由は主に二つ」

 フィアは見せつけるように指を二本立て、早速一本折る。

「理由その一は戦う前にあなたが言った事です」

「むむむむむ? 何か言ったかしら?」

「花中さんを連れ去ったら返す予定はないと言っていました。友人が帰ってこないなんて条件飲む訳がないでしょう?」

「ああ、そういや言っちゃったかも。うっかりー」

 目線をあからさまに逸らしながらポンッと手を叩くミリオン。

 フィアはそんなミリオンに眉を顰めた顔を向けつつ、二本目の指を折る。

「そして二つ目――――こっちが本命の理由です」

「本命?」

「ええ。こっちに比べればあなたの言動云々は些末なものです」

 フィアは折った指をそのまま握りしめ、首を傾げるミリオンを睨み付ける。

 脳裏に浮かぶ、旧校舎に押し込まれる前の光景。

 自分の『身体』にしがみつく花中の姿。

 あの時花中は目に涙を浮かべ、身体を小刻みに震わせていた。身体相応の大きさしかない、とても小さな手で必死にしがみついてきた。顔は真っ青で、死人のように血の気が失せていた。

 さっきまで困ったり拗ねたり笑ったりしてくれたのに。見ているこっちが幸せになるような愛らしい仕草を見せてくれていたのに。

 ――――それをぶち壊した奴が話し合いを求めている?

 ――――あの幸せを奪っておきながら仲良くしましょうだって?

 ――――冗談じゃない!

「私って自覚出来るぐらい感情的な性格でしてね……ムカつく奴の言い分はとりあえず反発しそのツラをぶん殴らずにはいられないんですよぉッ!」

 剥き出しの感情を叫び、フィアは『跳んだ』。

 ただの跳躍ではない。足を構成している部分の水を圧縮した後瞬間的に解放、その際生じた反動を利用して跳ぶ……言わばバネを使ったジャンプ。跳ぶまでに少し時間が掛かり、動き出した後はコントロールが利かない。愚直な突撃だ。

 しかし加速はある。

 瞬きほどの時間で、暴走する自動車さえ凌駕する速度へ達する加速は!

「――」

 ミリオンが呟くように口を動かしたが、自らの速さで生じた、周りにある椅子や机を吹き飛ばすほどの暴風のせいでフィアには何も聞こえない。聞こえたところで今更止まれない。ミリオン目指して爆走するだけ。

 フィアは避けられず、ミリオンは避けず。フィアは左半身を引っ掻けるようにミリオンと接触し――――粉々に吹き飛んだ。

 『フィアの左半身』だけが。

「……んっ!?」

 触覚を通じて知る『身体』の破損に、フィアは表情を驚愕で歪める。次いでミリオンとすれ違いざまに砕けた――――否、フィアの本体が潜んでいた右半身から分離した左半身が、爆散。ただの水へと戻り、辺りに散らばった。

 フィアは、水を操る力を持つ。

 ただしそれは魔法染みた万能の力ではなく、多少なりと制限が存在する。その最たるものが『操れる水は自分の身体と接触しているか、自分が操作している水と連結した状態にある』事。離れた場所にある水を遠隔操作する事は出来ないし、大気中の水蒸気も操れない。分離した左半身はフィアのコントロール外に出てしまい、圧縮状態が一瞬で解除。さながら爆発したかのように元の体積へと戻ってしまったのだ。

 無論分離した水でも触れれば再度コントロール下に収められるが、ミリオンがそんな暇を与えてくれるとは思えない。吹き飛ばされた水の回収は難しく、左半身を丸々失ったのは大きな損失だ。

 だが、フィアが最も意識を向ける問題点はそこではない。

 今の体当たりは生半可なものではない。圧倒的な速さと膨大な質量から生まれるエネルギーは……計算していた訳ではないが……高速道を走るトラックとの正面衝突すら足元に及ばない、圧倒的な打撃力を持っていた筈だ。壁をぶち抜くほどの衝撃を受けても平然としているミリオンでも、この一撃なら多少はダメージを与えられると踏んでいた。

 なのに結果は多少どころか完全な無傷。自慢の一撃が無効化された……それが驚いた理由『その一』。

 理由その二は、自身の『身体』が砕かれた事。

 フィアは自爆覚悟で体当たりをした訳ではない。『身体』表面の水密度を高め、ミリオンにこの旧校舎へ押し込まれた時よりも幾分防御力を上げていた。だから仮にこの激突が防がれたとしても、それは硬い物同士がぶつかったのと同じ結果……互いに、或いは一方が衝撃で突き飛ばされる筈なのだ。『身体』が砕けるという結果にはつながらない。

 もっと言えば衝撃で砕けたのなら、断面が滑らかな訳がない。ましてや湯気など昇る筈もない。

「(まさか壊されたのではなく『切断』された? ですが奴に刃物のような部位は――――)」

 原因を探ろうと思考を巡らせる――――のも束の間、ぞわりとした悪寒が身体に走る。

 悪寒の理由は分からない。しかし獣としての本能が理性を凌駕し、身体の動きを支配。フィアはその場から即座に飛び退こうと動き、

 が、遅い。

「ぬ、ぐっ!?」

 足が動いた時にはもう、『身体』の胸元を何かが貫いた。視線を胸元へと向けてみれば、ナイフのように揃えられた手が、頑強な我が身に突き立てられているではないか。

 不味い。

 直感が過るも反応が間に合わず、胸に刺さったミリオンの手が横一閃に薙ぎ払われる。トラックとの正面衝突さえも無力化する筈のボディは容易く斬られ、ついでとばかりに右腕も切り落とされてしまった。胴体は半分ほど繋がったままだったので無事だったが、右腕は完全に両断された。切り落とされた腕はバシャリと音を立てて弾け、フィアのコントロール外に散らばってしまう。

 実時間にして一秒にも満たない刹那。その刹那で左半身と右腕、割合にして六割近い水を失う結果となる。しかし、それでもフィアの関心は切断された『身体』の断面の方に向いていた。

 やはり胸部や右腕の断面も異様に滑らかなもので、且つ湯気が生じている。超高速で腕を振るわれたのなら摩擦熱とかでこうなるかも知れないが、ミリオンの動きは見える程度にはだ。単純な物理的破壊力が原因ではない。

 だとすれば、『能力』。

 フィアも『水を操る』能力を持っている。自分以外の生物が能力を持つ筈がない、と考えるのは自惚れが過ぎるというものだ。そしてミリオンがフナ自分と異なる生物なら、能力もまた異なったものになっても不思議ではない。

「(相手の力が分からないまま挑むのは危険ですね。ここは一先ず離脱……っ!?)」

 分が悪いと感じたフィアは、半分以下になった『身体』の修復を後回しに。残った足の裏から水を噴射し、ロケットの要領でミリオンとの距離を瞬時に開けようとする……が、そこで最悪の事態に気付く。

 『身体』の重量が少な過ぎる。

 花中を求めてこの学校に来た時、フィアは凡そ三百リットルの水で『身体』を構成していた。このような戦いが起きるなど全く想定しておらず、散歩や悪戯に使う程度の、僅かな水量しか用意していなかったのだ。しかもミリオンの攻撃で『身体』の半分以上が吹き飛び、残った水はもう約百二十リットルしかない。対してミリオンを引き離す速度を出すのに必要な水量は、『直感』で判断するに凡そ百五十リットル。これでは離脱終了後生身でその場を跳ねる事になってしまう。

 どうにか水を補給しなければならない。しかしそうは言っても、吹き飛ばされた水はミリオンに阻まれて回収不能。ならば水道管を破壊して……と考えたが、此処は旧校舎。水道は既に止められているだろう。

 打つ手がない。このままでは負ける。

 そして敗北は、死を意味する。

「(不味い不味い不味い不味い不味い! どどどうすればえーっとえーっと……)」

 何とかしなければと慌てて頭を働かせるが、策なんてまどろっこしいものを考えるのは大の苦手。フィアの思考は何一つ生産的な発想に至らず、同じ言葉を繰り返すばかり。

 苦心した末フィアが至った結論は、

「こんのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 咆哮と共に切り落とされた右腕と左半身を再構築。背後に居るミリオンの方へと振り向いたフィアは、殺られる前に殺るべく全力で攻撃を始めた!

 両腕はミリオンの頭目指して振り下ろし、足元で作った十本の鋭利な水触手はミリオンに突撃させ、全身からは大量の水弾丸をミリオンに向けて撃ち出す。総重量百二十リットル中百十リットルを使った大盤振る舞いの猛攻。人間なら頭蓋骨諸共脳を砕かれ、あらゆる臓器が串刺しになり、全身がハチの巣になるだろう。

 だが。

 振り下ろした腕も、触手も、弾丸も……ミリオンに触れた途端、湯気となって消えた。戦いらしい物音すら立てずに。

「あ……」

「残念でした、と」

 一瞬で全ての攻撃を、あまりにも静かに潰されて思考停止するフィアの胸に、ミリオンは気怠そうに掌を当てた

 ――――ボウンッ!

 瞬間触れられた部分が『破裂』し、衝撃でフィアは吹き飛ばされる!

「がっ!? あぐぁ……!?」

 吹き飛ばされたフィアは教室の壁にめり込むほどの勢いで叩きつけられ、呻き声を上げてしまう。『身体』を構成している水が少なくなり過ぎて、衝撃を和らげる事が出来なかったのだ。今までどんな攻撃を受けても呻き一つ上げなかったのが災いし、これでは自分の『防御』が壊滅的状態だと打ち明けてしまったも同然である。

 弱った相手を見付けたら、フィアだったらここぞとばかりに総攻撃を仕掛ける。弱っている時に総攻撃を受けたらやられるに決まっている。そもそも今の水量では人の姿を形作るだけで精一杯、戦闘なんて論外だ。

 もう花中と一緒に逃げるしかない。

「おのれ……っ!?」

 慌てて力を込めるフィアだったが、自分の『身体』は期待に応えてくれず、壁に突き立てた腕はぐしゃりと潰れてしまった。人の姿を形作るだけで精一杯だと思っていたが、実際には形作るのも無茶だったらしい。

 惨めにもがきながら、自重すら支えられない『身体』でどうやって逃げるか模索する……そんなフィアには戦う事も逃げる事も出来ないと判断したのか、ミリオンはゆったりとした歩みで近付いてくる。それでも猶予は殆どない。なんとか出来ないかとフィアは必死に考えを巡らせ――――

 フィアがめり込んだ壁から脱出するよりも、ミリオンが腕一本分ほどの距離まで近付く方が早かった。

 ミリオンはフィアのすぐ傍で立ち止まる。フィアは立ち上がる事も儘ならないのでミリオンに見下ろされてしまう。

 それがなんとも不快。そして不可解。

「……止めを刺さないのですか?」

「刺すけど、慌てなくても良いかなーっと思って。あなたのその身体、水で出来ているのよね? で、もう水のストックは無い、と」

「ええその通りすっからかんですよ。あなたの不愉快な顔に水を掛けてやる事も儘なりません。それになんか妙に息苦しいですし……」

「水の密度が低くなって、溶け込める酸素の量が少なくなったからじゃない? 無理に人の姿を維持しなくても別に良いんじゃないかなぁー」

「これでも容姿にはこだわる方でしてね。魚の姿よりも人間こっちの方が気に入っているのです」

「ふーん。ま、お好きにどーぞ」

 貶すように言葉を投げ掛け、ミリオンはフィアの目の前でしゃがむ。見下ろされなくなったが、子供やペットのように扱われている気がしてフィアはますます不愉快な気分になる。尤も、なったからといってどうにも出来ない。

 苦々しく顔を歪ませるフィアを前にしてもミリオンは無感情な笑みを寸分も歪ませず、弾んでいるだけの声で話を続ける。

「だけど、ちょっと意外だったわね。さかなちゃんはもう少し知的な、搦め手とかが好きなタイプだと思ってた。ほら、漫画とかだと、水の能力を使うキャラってそういうの多くない?」

「漫画を読んだ事がないのでよく分かりませんが……私は正々堂々正面から挑むのが好きなんです。それに頭を使うのは苦手なんですよ。色々作戦を立ててみても先程のように全く思惑通りにいかない」

「作戦? 作戦って、なんかあったかしら?」

「なんかも何も身体の密度を高めた状態での体当たりやそれに失敗した後短期決戦に持ち込んだとかですよ」

「……そーいうのは一般的に、作戦じゃなくて突撃って呼ぶと思うわよ。もしくはヤケクソとか、考えなし」

 ミリオンは本気で呆れているように見える表情を浮かべた。初めて感情のある顔を見た気がしたが、興味よりも不快さが勝ったフィアは口をへの字に曲げる。

 よもやそれを気遣って、ではないだろうが、ミリオンの顔はすぐに元の無感情な笑顔に戻った。

「さてと、そろそろお喋りはお終いね」

 もう訊きたい事はなくなったらしい。ミリオンは話を打ち切り、ゆっくりと手をフィアの方へと伸ばしてきた。

 能力こそ強大ではあるが、フィア本体の身体能力は一般的な魚と同程度しか持ち合わせていない。超高密度の水を容易く切り裂き、爆発さえも起こす手なんかに触れられたら即死。万が一にも助かるなんて、どう楽観的に考えてもあり得ない。

 自身に終わりを告げる手を眺めながらフィアは目を閉じ、

「そうですね。あなたにはそろそろ消えてもらいましょう」

 ぽつりと、小さく開けた口からその言葉を漏らした。

 追い詰められている側としてはあまりにも不遜で場違いな言葉は、ミリオンの動きを一瞬止めるだけの『力』を持つ。

 その隙をフィアは見逃さない。

 動きを止めたミリオンの足元から―――― 一本の、天井に届くほど巨大な水柱を噴き上げさせた!

「なっ――――?!」

 噴き上がった水柱はミリオンの顎を殴り、その身体を僅かながら宙に浮かせる。声からしてダメージにはなっていないようだが、今の一撃は所詮オマケ。

 フィアの目的は水柱でミリオンを囲う事。

 ミリオンが床に落ちたのと同時に、四本の水柱がミリオンを囲うように四方から噴き上がった!

「な、にが……!?」

 不意の一撃、そして突然の包囲網に驚いたのか、ミリオンは作り物のような表情を崩した。目を見開き、殴られた顎を摩りながら辺りを見回す。

 フィアとしてはその間抜けな姿を何時までも眺めていたかったが、包囲網から逃げられてしまっては元も子もない。すぐに四本の水柱を操作。螺旋を描かせながら水柱を束ねる事で、一ミリの隙間も許さずに埋めていき……完全密封の水の檻にミリオンを閉じ込めた。

「一体これだけの水を何処から……さかなちゃんにはもう水のストックがなかった筈なのに!」

「手品は種が分からない方が楽しめますよ?」

 檻を形成する水が『内側』から困惑した様子の声を拾ったので、フィアは丁寧に、それでいて意地悪く説明を拒否する。

 しかしながら拒否した理由は意地悪でなく、己がプライドのためなのだが。

「(壁に叩きつけられていなかったら普通にやられてましたね……それを言ってしまうとなんだか機転というより運で勝ったような感じがするので絶対に教えませんけど)」

 頭の中で本当の理由を呟きつつフィアは水を、『自分が叩きつけられた壁』から吸い上げた。

 これが偶然見つけた給水場。

 旧校舎は完全な木造建築物であり、老朽化が進んだ結果ニスなどの塗装は殆ど剥げてしまっている。そのせいか床板は雨水などの水気を大量に吸い、恐ろしく湿気っていた。その度合いたるや森林内の倒木並――――強く絞れば、水が滲み出るほどに。

 教室の壁に叩きつけられたフィアはその事を思い出し、『身体』に残っていた僅かな水を壁に浸透させた。浸透した水は材木に含まれている水気を吸収。吸収した水を用いて更に遠くまで浸透し、そこで新たな水を吸収……フィアは『自身が操作する水と連結している水』しか操れない反面、連結していれば何処までも、どれだけ大量でも操れる。

 伸ばした水は最終的に校舎を隅々まで浸食し、校舎全体が蓄えていた莫大な『湿気』を全て吸い上げたのだ。現在『身体』の水量は凡そ六トン。水を浸透させて補強しなければ、確実に足元の床をぶち抜いてしまうまでに回復出来た。

「さぁてどうしましょうかね」

 万全以上の状態に至ったフィアは悠々と壁から這い出し、ミリオンを閉じ込めた水の檻の前に立つ。

 檻の中は完全な密閉状態にある。フィアの『身体』を切断したミリオンの能力なら檻の破壊も可能だろうが、ミリオンの能力は使用後に何故か湯気が発生していた。逃げ道がない檻の中でその能力を使えば、あっという間に圧力鍋状態……高温高圧の水蒸気で蒸し焼きだ。檻の破壊は自殺行為も同然である。

 しかし他に脱出方法がない以上、ミリオンは檻の破壊を試みるだろう。フィアだって同じ状況なら己が傷付くのを覚悟で強硬手段に出ざるを得ない。折角捕まえたのに、ここで逃げられたら厄介だ。

 そうなる前に片付ける。

「ほいっと」

 フィアは軽く指を振るう。振っても意味はない。ただ、気分が乗る。

 気分が乗ったフィアに操られ、水の檻はミリオンを内に閉じ込めたまま一瞬でよりも小さく縮んだ。

 ――――ごき、ぐじゅ、ぐじゅっ、ぼきん、ぐじゅ、ご、ぐき、ぷちゅ

 縮む檻の中から聞こえる生々しく、悲劇的な音。それでもフィアは操るのを止めない。さながら指揮者のように指を振るい、更に小さく、雑巾を絞るように水の檻を捻じ曲げていく。

 フィアが操作を止めたのは、いくら縮めても、いくら捻じ曲げても、檻の中から音が聞えなくなってから。

「このぐらいで良いですかねぇ」

 のほほんと独りごちながらフィアは能力を解除。水の檻は重力に従い、大きな水音を立てて崩れ落ちる。

 崩壊した檻の中にミリオンの姿はなく、代わりに、床に広がる水の一部が黒く染まっていた。

「うんうん計算通りです。徹底的に潰したお陰でドロドロを通り越して液化してくれたようですね。はっはっはっ」

 満足いく結果にフィアは高笑い。

 高い防御力や変形自在な性質を鑑みるに、ミリオンの『身体』もフィア同様本体を守るための鎧に過ぎなかったのだろう。故にいくら『身体』を殴っても本体は始末出来そうにないが……こうして『身体』諸共すり潰してしまえば別。仮にそうではない、ミリオンが人間の姿をした超生物だったとしても、身体が液状化するまで潰されては生きていまい。

 ミリオンは確実に死んだ。確実に、殺せたのだ。

 ……結局ミリオンの正体も能力も目的も分からず仕舞いだったが、終わった事を蒸し返すのは面倒臭い。そもそも興味すらない。済んだ事は気にしないのがフィアのモットーで、今更ミリオンの事を調べる気にはならなかった。

 それよりも大事なのは花中だ。優しい花中の事。今頃自分の事を心配してくれているに違いない。それにミリオンにまた襲われるのではと不安に思っているだろう。あの愛らしい人が怯えていると思うと心が痛む。

 ――――そこで自分が颯爽と参上。ミリオンを倒したと報告。

 ――――花中は大喜び。好感度大幅上昇。

 ――――「フィアちゃんありがとう! 大好きっ!」と言いながら抱き着いてくる花中。

「くふふ♪」

 そんな妄想をしたフィアは、品のない笑みを浮かべた。

 思い立ったら行動せずにいられない。フィアは軽やかに身を翻し、浮足立った歩みで荒れ果てた教室を後にする。もうフィアの頭の中は花中尽くし。ミリオンとの激戦でボロボロになった旧校舎の事も、命を賭けて戦ったミリオンの事も、頭の片隅にすら上らない。

 故に気付かなかった。

 床一面に広がっていた黒い色が、ゆっくりと集まり始めていた事に――――




 フィアがミリオンの体当たりを受け、旧校舎の中に押し込まれてから、一体どれだけの時間が経っただろうか。

 旧校舎の壁には、二人の『体当たり』によって開けられた大穴がある。それについ先程まで校舎の中からは大きな、それでいて異質な音が何度も鳴り響いていた。旧校舎自体もギシギシメキメキと不協和音を奏で、今にも潰れてしまいそうだった。

 明らかに危険なそんな場所に、いくら大切な友人が連れ込まれたからといって、突入なんて真似が出来るだろうか?

 出来なかった花中は、大穴の前で座り込んでいた。

 旧校舎から聞こえていた音は、恐らくフィアとミリオンの争いによって生じたもの。音の激しさや振動、フィアの腕が吹き飛ばされている事実を考えれば、二人の争いは一般的な『ケンカ』とは次元の異なる代物と化しているだろう。憶測だが、戦場のように激しい戦いが繰り広げられていてもおかしくない。

 一般人である花中に『戦争』を止める力などない。ましてや巻き添えを食らえば、怪我では済むまい。

 フィアの後を追い駆けないという選択は極めて常識的であり、尚且つ正しい。

 正しい選択をしたのに、花中は穴の前で顔を俯かせる。

「……わたし……何で……入れなかったのかな……」

 答えてくれる者は自分しかいない問いを、花中は声にして漏らした。

 花中がミリオンに襲われそうになった時、フィアは躊躇いなく助けてれた。ミリオンが只者でない事は分かっていたのに、庇えば自分の身に危険が迫るかも知れないのに、迷いなく救ってくれた。フィアにとって友達とは、それだけ大切な相手なのだろう。

 対して花中は今、迷っている。

 言い訳ばかりで何もせず、午後の授業をサボって穴の前で座り込んでいるだけ。

「う、うう、うぐ、ううう……!」

 その癖泣き出そうものならあまりにも情けなくて、あまりにも自分勝手で、きっとフィアに顔向け出来なくなる。だから花中は必死に涙を堪えようとするが、それでも止め処なく涙は込み上がり

「どうしました? お腹でも痛いのですか?」

 不意に、『上』から能天気な声を掛けられた。

 反射的に顔を上げた花中の視界に入ったのは、旧校舎に開いた大穴を跨ぐ大切な友達の姿。傷一つない、吹き飛ばされた筈の右手も治っている金髪碧眼の少女。

 今まで堪えていた涙は、ついに零れ落ちた。

「フィアちゃん……!」

「おっと本当にどうしたのです? 何故そんなボロボロと泣いて……はっ!? まさか先の戦いの余波で怪我をしたのですか!? あわわわわまずは消毒でしょうかいえそれよりも救急車そう救急車です何処かに公衆電話はええい通行人から携帯電話を奪い取ってでも」

「ち、違うの! あの、その……」

 自分の泣き顔一つで逞しく妄想を働かせるフィアを、花中は頑張って引き留める。フィアは困惑したまま「では一体?」と訊き返し……訊き返されるような気はしていたのに、花中は声が出せなくなった。

 何故泣いたのか、花中は答えられない。答えたら、自分が如何に情けなくて、卑怯なのかがフィアに知られてしまう。

 それが堪らなく、怖い。

「……フィアちゃんが、戻ってきて、くれたから……」

 だから花中は、『嘘』を吐いてしまった。

 するとフィアは目を見開き、太陽のように眩しい笑顔を浮かべた。

「なんとっ! 再会出来ただけで泣くほど喜んでくれるなんて! ああ花中さんにそこまで想われていたとは私はなんて幸せ者なんでしょう!」

「え、えと……」

「喜んでいただける事は多少想定していましたがまさかここまでとは。私も嬉しいです。この気持ちを言葉で表現するのは難しいのでそうですね歌で表現するのはどうでしょう」

「えと、あの、え? 歌?」

「さぁ歌います私の魂のソング! タイトルは『嗚呼愛しの花中さん ~あなたが泣くほど喜んでくれたから今日は友情記念日~』にしましょう。では参ります!」

 小躍りするほど気分を昂ぶらせ、フィアは右手からマイクを生やし ― 水を変形させて作った物だろうが ― 今にも歌おうとする。

 『嘘』で大喜びされただけでも罪悪感に押し潰されてそうなのに、タイトルからして赤面確実な歌を聴かされたら頭が沸騰して死ぬかも知れない。いや、間違いなく死ぬ。悶え死ぬ。

「そ、そ、そ、そ、そういえば、あの、ミリオンさん、は?」

 己が命を守るべく花中は話題を自分から、つい先程までフィアが争っていたであろう相手……ミリオンへ逸らそうとした。するとフィアは下がっていた目尻と眉を吊り上り、頬をフグのように膨らませて不満をアピールしてくる。余程歌いたかったのか、ミリオンの事など思い出したくもないのか……理由はともあれ、怒らせてしまったかと思い花中はびくりと肩を震わせた。

 しかし、やっぱり良いです、とは言わない。

 自分から切り出した手前言えないというのもあるが、ミリオンは旧校舎の中でフィアと激戦を繰り広げていた筈なのだ。フィアは見たところ無事だが、ミリオンも無事とは限らない。いや、むしろミリオンが無事でないからこそフィアが無事だと考える方が自然。

 ――――もしも怪我をしているのなら、動物病院とかに運ばないと……

 花中はミリオンの事も心配なのだ。歌から逸らすためとは言え、適当に振った話題という訳でもないのである。

 そして、膨らんだ頬から息を吐き出した後語られたフィアの言葉は、花中の心配を払拭するものだった。

「アイツなら始末しましたよ」

 ただし、そんな心配は無駄だ、という意味で。

「しま……え?」

「始末しました。徹底的にすり潰して」

 何かの冗談なのでは。

 何とかフィアの言葉を拒絶しようとする花中だが、フィアが笑顔で花中の拒絶を捻じ伏せてしまう。理解する前に言葉を頭の奥へと押し込まれ、花中の思考は一瞬でパンク寸前に。

 声が出ない。何も考えられず、どういう事なのかが分からない。

 頭のに浮かぶのは、『始末』という単語に対するネガティブなイメージばかりだった。

「な、なんでそんな、酷い、事を……?」

 気が付けば花中は、『恩人』であるフィアを問い詰めていた。問い詰められたフィアは目をパチクリさせながら首を傾げる。まるで子供のように、無邪気に。

「なんでって花中さんを攫おうとしていたからですよ。生かしておく理由がありません。まぁ花中さんは小動物的愛らしさがありますので悪戯程度なら仕方ないと思いますけど誘拐は流石にねぇ?」

「それ、は、あの、でも……で、でも、お話、出来れ、ば……」

「話し合う必要なんてありません。邪魔者は問答無用で潰してしまえば良いのです。人間だって害虫を見付けたら話し合いなんてせずにとりあえず潰すでしょう? 同じですよ同じ」

 ケラケラと笑いながら答えるフィアに、罪悪感も後悔も見えない。故に、花中は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 ミリオンは確かに人間ではない。フィアだって人間じゃない。ミリオンが癪に障る奴だったのも否定しないし、自分を攫おうとしたのだから悪者なのも間違いないと思う。人間的な倫理観を魚であるフィアも共有していると考えるのは、自分人間の考え方が最も正しいと信じて疑わない、傲慢とも言える。

 それでも花中には、言葉を交わした相手を易々と殺してしまう心理が理解出来ないし、間違っている事だと思う。いや、間違っていると伝えなければならない。例えそれが善意を踏み躙る行為だとしても、偽善だと言われても……命を粗末にしてはいけないと信じているから。ちゃんと伝えれば、きっと、少しは分かってもらえると思うから。

 友達だから、ちゃんと言わなければ。

「そ、そんなの、ダメですっ!」

 だから花中は勇気を振り絞り、伝えた。

「あの、助けてくれた、のは、ありがとう、ございます……で、でも! こんな方法で助けて、くれても、う、嬉しく、ないですっ! た、確かに、どうしようもない、時はあると、思い、ます、けど……最初から、諦めちゃ、ダメだと、思うんです。だって、命って、一つしか、ない、から……か、簡単に、奪っちゃ、いけない、と……思う……から……」

 声は尻すぼみに、視線は思いっきり泳がせてしまうものの、どうにか思った事を吐き出す。しかし自分の言いたい事が伝わったかは分からない。

 花中は恐る恐るフィアの顔を覗く。

 そして見てしまった。

 フィアの口は半開きになっていた。眉を顰めていた。瞳孔が、口元が、微かに震えていた。

 その表情は――――花中の目には、非難に見えた。

「あ、ち、が……あ、ああ、ああああああああ……っ!?」

 勝手に出てくる、悲鳴。

 フィアが怒っている。当然だ。口では友達だと言いながら大変な時に助けに行かず、それどころか恩義を踏み躙るような事を言ってしまったのだ。最早ワガママでは済まされない。愚行と呼ぶのもおこがましい、悪行だ。

 嗚呼、今になって思い出す。

 晴海が言っていた。善意を拒絶して、それで一番の親友を失ったと。友情がそれぐらいで壊れてしまうものだと。そもそも自分は話をするのが苦手で、ちゃんと話せば分かってくれるなど自惚れにもほどがある。昨日今日と上手くいったのは、偶々だったと何故気付けなかったのか。

 この結末は簡単に予想出来たのに。

 嫌われて当然だと知っていたのに。

 自分が馬鹿で身勝手で図に乗っていたから――――初めての友達に、嫌われてしまった。

「い、いやあああああああああああああああああああっ!」

 花中は、フィアから逃げ出した!

「花中さんっ!?」

 後ろから自分を呼ぶフィアの声が聞こえてくる。だから花中は足を止めない。止める訳にはいかない。止めたらきっと、次の瞬間には絶交されてしまう。

 逃げても逃げなくとも結果は変わらない。けれども花中は逃げる事を選んだ。少しでも、一瞬でも長く、友達が失われる痛みから逃げようとした。周りに植えられている桜の大木の影に身を隠したり、建物と建物の間に入り込んだり……素直で真っ直ぐなフィアだからだろうか、自分が捻くれて卑屈で卑怯だからだろうか。花中の思う通りにフィアは誘導され、翻弄されてくれる。

 しかしいくら翻弄しても花中には体力がない。走れば走るほど身体が重くなり、太ももが痛くなり、頭の中が白くなっていく。白くなった頭では足を動かすだけで一杯一杯、足元なんか意識に上らない。

「きゃっ!?」

 やがて雑草に隠れて見えなかった何かに蹴躓き、花中は思いっきり転んでしまった。翻弄したと言っても旧校舎の周りを駆け回っただけで、フィアを引き離した訳ではない。立ち上がらねばすぐ追いつかれる。

 なのに身体は痛みで中々言う事を聞いてくれず。立ち上がろうとしていた腕からは力が抜け、顔は力なく項垂れてしまい、

「あらあら大丈夫? ほら、この手に捕まって」

 正面から掛けられた声で、一瞬酷く怯えた。

 最初はフィアに追いつかれたと思った花中だったが、よくよく考えてみると、掛けられた声色はフィアのものとは全然違っていた。それに前から声を掛けられている。自分を追い駆けていたフィアが声を掛けたのなら、後ろからの筈だ。

 花中は少しだけ顔を上げてみる、と、手が差し出されていた。なんとなくフィアの手とは、雰囲気が違う。手首まで覆う袖を見る限り、フィアが着ていた派手で煌びやかなドレスではなく、黒い服を着ているらしい。

 どうやら転んだ花中を見付け、気遣ってくれた人のようだ。服装から判断するに生徒ではなく教員、もしくは用務員さんか。

「あ、ありがとう、ございます……」

 ホッとした花中は手を掴み、立ち上がるのを手伝ってもらう。手伝ってくれた人は花中より ― 花中はかなり小柄なので大抵の人はそうなのだが ― 背が高く、見上げないと顔が分からない。ただ、地面に引き摺るほど髪が長く、着ている服……黒いワンピースの胸部分は膨らんでいて、声も女性的だったので女なのは間違いない。

 男の人が苦手な花中にとって女性というだけでも朗報。ちゃんと目を見てお礼を伝えようと、助けてくれた人の顔を見上げた。

「……え?」

 見上げた瞬間、花中の思考が止まる。

 確かに女の人だった。それどころか見覚えのある女の人。言葉を交わした時間は高々数分だが、しっかりと覚えている。

 あどけなくて、にっこりと微笑んでいて、なのに感情が感じられない――――友達だった少女を危険な目に遭わせたであろう女の顔など、忘れられる訳がない。

「み、ミリオン、さん……!?」

「あら、覚えていてくれたの? うっれしー♪」

 女――――ミリオンが、花中の前に立っていた。死にかけている様子もなく、へらへらと笑いながら。

 生きていた事は嬉しい。それは本心だが、全く腑に落ちない。

 フィアはミリオンを「すり潰して始末した」と言っていた。すり潰されたのなら、ミリオンがこうして目の前に現れる事はあり得ない。仮にフィアの発言がジョークだったとしても、フィアとミリオンが戦っていた事実は変わらない。途中で和解したのなら二人揃って旧校舎から出てきただろうから、フィアはミリオンに勝った……相応の怪我を負わせた筈だ。不利を悟って逃げていたとしても、争いが終わって五分も経たないうちにまた顔を出すとは考え辛い。

 分からない。あらゆる可能性を考えても、元気なミリオンがこの瞬間、此処に現れる理由が説明出来ない。

「ひ、ひぅ……!?」

 困惑は恐怖へと変貌し、花中は思わず一歩後退り。

 ミリオンが、合わせて一歩前に進んでくる。

 逃げられない。

 ミリオンに対する恐怖が今の一瞬で増大する。足はガクガクと震え出し、急に動いてくれなくなる。泣き喚こうにも息が乱れ、過呼吸になっただけ。

 ――――もう、駄目……

「花中さんっ!」

 絶望で薄れていく花中の意識を現実に引き留めたのは、悲鳴交じりに自分を呼ぶ声。

 びくりと肩を震わせつつ花中が振り向けば、十メートルほど先に、今し方追いついたのであろうフィアの姿があった。

「ふぃ、フィア、ちゃん……」

「花中さん早くこっちに!」

「あ、え、えと……」

 フィアに呼ばれ、戸惑ってしまった花中は何となくミリオンの顔色を窺う。するとミリオンは「いってらっしゃい」と言わんばかりに片手をフィアの方に向けた。

 お言葉に甘えて、と言うのも妙だが、花中は最初おどおど、やがて早歩きでフィアの下へと向かう。

 特に何事もなく花中が傍まで行くと、フィアは花中の肩を両手で力強く掴んだ。

「大丈夫ですか!? アイツに何かされませんでしたか!?」

「は、はい。あの、まだ、何も……」

「本当ですか!? 私に気を遣って痛いのを我慢とかしていませんよね!?」

 目に涙らしきものを浮かべながら、フィアが問い詰めてくる。正直に言えば『肩』が痛いのを我慢しているのだが、花中はこくこくと何度も頷いておく。それを見て安心したのか、フィアの表情は一気に弛んだ。

 ただし弛んだ表情を見せるのは花中にだけ。ミリオンに視線を向けた瞬間フィアの顔が悪鬼の如く形相になったのを、間近に居た花中は目の当たりにする。

「花中さん。一先ずアイツをぶっ飛ばしたいと思います。その後話したい事がありますので少し待っていてください」

「は、話……」

「なぁに一度はぶっ潰した相手です。すぐに終わらせてみせますよ」

 自信満々に断言するフィアだが、花中は眩暈にも似た気持ち悪さを覚える。

 話なんて『一つ』しかないのだ。

「では行ってきます」

「あ……ぅ……」

 一通り話を終えたフィアは悠然と歩み出し、花中は怯えた眼差しでフィアを送り出す。フィアの歩みに迷いはなく、ミリオンとの距離をあっという間に詰めていき

「ふんっ!」

 腕が届く距離に収めた瞬間、掛け声と――――その掛け声が消えてしまうぐらい大きな爆音を鳴らした!

「い、づっ!?」

 音は空気の波となって十メートルも離れていた花中に届き、鈍器で殴られたような痛みが全身を駆け巡る。旧校舎の周りに植えられている桜が一斉に葉と幹を鳴らし、旧校舎から軋むような低音が奏でられ、鳥は悲鳴染みた鳴き声を上げて逃げていった。

 そしてフィアの拳が、何時の間にかミリオンの頬の部分に当てられている。

 動きこそ花中には見えなかったが、フィアがミリオンの顔面に殴り掛かったのだ。遠く離れた桜や校舎にまで衝撃波が届くほどの威力……フィアの拳に、近代兵器クラスの破壊力が宿っているのは明らかだ。食らわせた相手が人間なら、ケネディ大統領暗殺事件よりも凄惨な ― 或いは何も残らず、一見して穏やかな ― 光景が広がるに違いない。

 いくら敵対している相手とはいえ、そんな攻撃を初手でお見舞いするなんて正気の沙汰じゃない。

 それはフィアが命を奪う事に抵抗を感じていない光景であり、自分とフィアの考え方に決定的な溝がある瞬間であり……花中が偽善だと罵られる覚悟で伝えた言葉が、伝わっていない証明だった。

「乙女の顔面にいきなりパンチとはやってくれるわねぇ……打撃はちょっと苦手なの。お返し、期待しててね?」

 攻撃を食らったミリオンはピンピンしていたが、花中の心は全く晴れない。むしろ元気なミリオンを見たフィアが殴り掛かった拳をドリルのように変形させ、ミリオンの顔面を抉ろうとしたので心の暗雲はますます濃くなる。ミリオンが反撃とばかりにフィアの肩に触れ、肩ごとフィアの腕を吹き飛ばした時など、雲の上に辛うじて残っていた陽まで沈んでしまう想いだった。

 二人とも、普通に命を奪い合っている。

 二人ともそうするのが、敵を殺すのが正しいと思っている。この場で話し合いをしようと考えているのは自分だけ。話し合えば仲良く出来ると思っているのは、きっと自分だけ。

 だったら、間違っているのは自分。

 間違っている事を主張して友達を怒らせたのは、自分。

「……」

 花中はゆっくりと後退り。足取りは弱々しくも震えてはいない。元々遠かったフィア達との距離はますます開き――――どん、と、背中に何かがぶつかった。

 木にでもぶつかってしまったのだろう……そう思うものの花中は反射的に後ろへと振り返り、

「え?」

 今まで胸を渦巻いていた暗い気持ちが、全て消し飛んだ。

 だって、それは今までで一番あり得ない光景だったから。

 だって、それはついさっき体験した事だったから。

 だって、それは今まで目の前に居たから。

 今もフィアとミリオンが命懸けの戦いをしているのに、頭から抜け落ちてしまうほどのショックが花中の思考回路に走る。身体に襲い掛かる衝撃など意識にも上らない。頭の中を満たすのは言葉でも感情でもなく、疑問の解消という知的な欲求だけ。

 一体何故自分の背後に『ミリオン』が居るのか、その答えばかりを求めていた。

「え? え、だって……え?」

 自分の誘拐を企てている者が間近に居るのに、花中は自分でも気付かないうちに半笑いになりながら、さっきまで見ていた場所へと視線を戻す。そこにはフィアとミリオンが居て、今も腕や頭が飛び交う争いを繰り広げている。激闘の余波も現在進行形で花中の身体に伝わっている。二人は確かに、どう理論を組み立てても否定出来ないほどに、あそこに存在している。

 なのに後ろを振り向けばミリオンが居る。

 これは夢? もしくは幻覚?

 いいえどちらも違います――――そう言いたげに、背後に居るミリオンは花中の肩を叩く。ポンポンと、優しくて確かな衝撃が肩から伝わる。確かに、そこに『人』が立っている。

 だったらそっくりさん?

 それも違う。目の前で『人』の四肢が吹き飛ぶ激戦が繰り広げられているのに、無感情な笑みを浮かべていられるただの人間そっくりさんなんている訳がない。

 分からない。花中には何も分からない。

 強いて分かる点を上げるなら、背後に居るミリオンの手が何故自分の腕を掴むのかだけだった。

「ひ、ぃ、いやあああああああああああああああああっ!?」

 叫ぶ。攫われると悟り、あらんばかりの声で花中は叫ぶ。

「花中さんっ!?」

 その叫びは戦いを続けていたフィアにも届いたようで、自分を見ながら言っているであろう悲痛な声を花中は聞く。

 ――――助けて。

 図々しくも、自分が傷付けてしまった相手に花中は助けを求めようとしてしまう。言葉は飲み込めても顔はフィアに向けてしまい、青ざめた面を見せてしまう。こんなのは、助けを求めているのと変わらない。

 しかし花中に自分の行動を悔やむ暇はなく、その目を驚愕で見開いた。

 自分の方へと駆け出しているフィア。

 そのフィアの背後に、ミリオンが二人居た。

「うし、後ろ……っ!?」

 危機を知らせたかったが花中のか細い声は届かず、フィアは花中だけを見つめて駆け続け――――その両腕を、背後からやってきた二人のミリオンに掴まれてしまった。掴まれたフィアは反射的な動きで振り返り、花中と同じ顔になる。

「なっ!? ミリオン!? 何が……!」

「「残念だけど教えませーん。だってさかなちゃんも、私をごりごり押し潰した水の出所を教えてくれなかったじゃない。おあいこよ、お・あ・い・こ」」

 フィアを掴む二人のミリオンが同時に口を開く。声色、大きさ、音程、タイミング……聞こえてくる声は何もかも一緒で、音源の違いによる僅かな『ずれ』がなければ、一人だけが喋っているようにしか聞こえなかっただろう。逆に、ずれているからこそ二人で喋っているのだと分かる。

 つまりあのミリオンはどちらも幻覚ではない、確固たる存在。それも瓜二つの偽者ではなく、どちらも本物。ミリオンが二人居るとしか思えない。いや、今自分の腕を掴む者を含めれば三人だ。

 一体何をどうすればこんな事が可能なのか。

「「で、これがぶっ潰してくれたお返しねっ!」」

 花中がそれを考える間もなく、フィアを捕まえていた二人のミリオンは突如フィアに抱き着いた。唐突な行動に反応出来なかったのか、一瞬ではあるがフィアは身動ぎ一つしない。

 その一瞬で全て終わり。

「ぬぐぅ!? これはがっぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 突然の絶叫。

 地鳴りのように響く、重低音の叫び。か弱い少女が恐怖で上げる悲鳴ではなく、ニンゲンが苦痛にもがき苦しむ声。何かされているのは仮初めの身体なのに、ただの水なのに、フィアが苦痛を訴えている。

 やがてフィアの身体や服にコブのような膨らみがいくつも出来、

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああがっ」

 フィアの声が途絶えた刹那、熱を帯びた白い煙と衝撃が辺りに吹き荒れた。

「ふわっ!?」

 突如襲い掛かる白い煙……湯気の熱さに耐えかね、花中は反射的に目を閉じてしまう。湯気は猛風の如く花中の身体を押し、空からは雨粒のような何かが降り注いで全身をくまなく叩く。心はパニック寸前。湯気の熱さを感じられなくなってすぐ、全てを理解しようとする衝動のまま目を開けた。

 続いて口も、ガチガチと震わせながら少しだけ開ける。

 フィアが居なくなっている。

 絶叫が途絶えた瞬間コブだらけになった身体をさせ、蒸気と水滴を周囲にばら撒いたフィアだけが、その場から消えていた。

「フィアちゃんっ!? 何処、何処に……!?」

「あーっと、ダメよ逃げちゃ……逃げようとした訳じゃないだろうけど」

 自分が捕まっている事も忘れて現場に駆け寄ろうとする花中だったが、ミリオンが腕を掴んだままなのでその場から動けない。無我夢中で腕を振り回そうとしても、ミリオンの手はぴくりとも動かない。

 それどころか、花中の身体はずるずると引き摺られてしまう。

「さて、それじゃあ場所を移動しましょうか。アレって時間が掛かるだけじゃなくて、無防備になるわ邪魔が入ると確実に失敗するわで大変なのよ。だから一般人も野生動物もやってこない、安心安全な場所に行きましょうねー♪」

「やだっ!? やだやだやだ、フィアちゃんを、助け、助け……!」

 どれだけ拒んでも、花中を引っ張るミリオンの力は弱まらない。それどころか突如ねっとりとしたものが纏わりつく感覚に襲われ、身体の自由が利かなくなる。視界も段々と黒い物に覆われ、何も見えなくなっていく。

「やだ、フィアちゃん……フィアちゃ、ん、ぐぅ!?」

 最後は口に詰め物をされたみたいに声が出なくなり。

 完全に視界が失われるまで、花中はフィアが居た場所を見続ける事しか出来なかった。

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