ファースト・フレンズ4

 昼休み。

 それは学校で最も長い休み時間であり、お弁当という楽しみがある時間帯。多くの生徒が幸せを満喫しているであろう反面、友達が居ない花中にとっては孤独を思い知らされる時。幼稚園年少組からの十二年間、昼休みに寂しさを感じなかった事は一度もなかった。

 しかしその記録更新はもう終わり。

「はわぁ~~~~~♪」

 今日の花中は、間抜けな声が抑えきれないほどの幸せにどっぷりと浸っているのだから。

「むぅ……」

 幸せ気分真っ只中にある花中の傍には、晴海が居た。晴海は膝の上に広げたお弁当箱を箸で突きながら、眉間に皺が寄った薄曇りの表情で俯いている。

 花中達が今居るのは、教室ではない。

 割れたまま窓ガラス、ボロボロに朽ちて黒ずんでいる木製の壁、地面に腐り落ちた屋根の一部、隙間から生えた雑草に浸食されてズタズタになっている土台……見るからに老朽化し、あからさまに放置されている三階建ての大きな木造建築物。その建物と並ぶような向きで倒れている古木 ― 恐らく桜の木 ― に、二人は腰掛けていた。雲一つない空から降り注ぐ六月の日差しはそこそこ強く、直に浴びると身体が火照ってしまうが、建物が影を作ってくれている。中々居心地の良い場所だ。

 此処は帆風高校旧校舎区画。もう十年以上使われておらず、故に普段誰も居ないので、誰かとばったり遭遇して怖がらせてしまう心配がない……花中のお気に入りの場所である。

 花中は此処で、晴海と一緒にお昼ご飯を食べていた。友達居ない歴十五年の花中にとって、初めての『友達と一緒のお昼ご飯』。幸せ過ぎて表情のみならず脳まで蕩けてしまい、間抜けな奇声を上げるばかり。両手で掴んでいるメロンパンは、欠片一つも減っていなかった。

 そんな花中に、晴海は曇ったままの表情で尋ねてくる。

「あの、大桐さん」

「ひわぁ~~~~~♪」

「大桐さんが言った事だから訊くのも野暮だと思うけど」

「ふわぁ~~~~~♪」

「……あたしの話、聞いてる?」

「ふへわぁ~~~~~♪」

「聞けっ!」

「ほげっ!?」

 で強烈なチョップを後頭部に食らい、幸せいっぱいだった花中の頭はようやく平常運航に。痛みやら動揺やらで目をギョッと見開き、辺りをキョロキョロする。

「はっ! い、一体何が!?」

「あたしがこれから大桐さんに質問しようとしていたのよ♪」

「え? あ、はぁ……そ、そう、で、でしたか?」

 なんだか記憶を操作されたような気がしつつ、花中は晴海の話に耳を傾ける。話を聞く体勢になった花中を見て晴海は満足げに頷き、一呼吸置いた後、表情を再度曇らせた。

 何を言われるのか。花中は悪い意味でドキドキしながら待つが、晴海は口をもごもごと動かすばかり。「何か言い辛い事かな? もしかして、やっぱりわたしとは友達になれないとか……」と思った花中はガチガチと歯を鳴らしてしまうほど怖くなってきたが、自分を戒め、口をぐっと閉じて待ち続ける。

 やがて晴海は、ちょっぴりバツが悪そうに話し始めた。

「あの、お詫びってこんなんで良かったの?」

「え?」

「だから、その、一緒にお昼を過ごすだけで……」

「ももももももももしか、もし、もし、わ、わた、わた!?」

 もしかしてわたしと一緒にお昼を過ごすなんて嫌でしたか!? と訊きたくとも怖くて訊けず、花中は震えながら文章になっていない声を絞り出す。そんな事をしていたら晴海は一瞬眉を顰めた、不愉快そうな顔色を浮かべたので花中は仰け反るほど慄いてしまった。

 すると晴海は顰め面をパッと笑顔に変え、小さな笑い声も漏らす。

「大桐さんが想像しているような事じゃないわよ。そんなに怖がらなくても平気」

「はわわわわわわわわ……ふぇ? そ、そ、そうです、か? なら、一体……」

「つまり、こんな事で償いになるのかって話」

「償い、ですか?」

 言いたい事が分からず訊き返すと、晴海は眉を顰めるだけでなく唇も尖らせ、今度こそ本気の不愉快さを露わにする。

「大桐さんが言ったのよ。教室で押し倒しちゃったお詫びは何が良いかって訊いたら、お昼を一緒に食べたいですって。これで良かったの? もっと他に、して欲しい事とかないの?」

「え、えっと……お、お昼を、と、と、友達、と、過ごすの、が、夢、と言うか、目標、でした、から……こ、これ以上、望んだ、ら、バチが、当たり、そ、そうで……」

 うわ、ハードル低っ。

 等と言う事もなく、晴海は「なら良かった」と呟いた後食事を再開。怒られなかったのでホッとした花中も、手に持つメロンパンに齧り付いてお昼を楽しむ事にした。

 しばし、二人は黙々と食物を噛み砕き、胃に送る作業を続ける。

 ……………かなり長い事作業を続け、そろそろ何か話題を振った方が良いのかな? と思った花中の顔が青ざめてきた頃だった。

「そー言えば大桐さんの今日のお昼ってパンなの? 普段はお弁当だった気がしたけど」

 晴海がとても自然な口ぶりで話題を振ってきてくれたのだ。自分にはとても出来ない芸当に目を見開くほどの驚きを、話し掛けてくれたので頬が撞きたてのお餅のようになってしまうぐらいの幸福を、そして今までの自分を見てくれていた事に感涙級の感謝を覚えながら、花中はすぐに答える。

「は、はひ! あ、いえ、その……普段、は、じ、自分で、作った、お弁当を……今日は、えーっと……少し、ね、寝坊、して……コンビニで、買って、きた、ので……」

「弁当自作って凄いわね。あたしなんて味噌汁すら上手に作れないのに。でも、なんでコンビニのパンなの? うちの学校の購買パンも美味しいって評判じゃない。しかも安いし」

「購買の、人、は……緊張して、上手く、話せなく、て……話せない、と、ぱ、パン……買えないから……こ、コンビニの、人は……話さなく、ても……買える、ので……」

「あー……そういう事」

 言葉では納得した様子だが、晴海の表情はちょっぴり淀んでいた。理由は分からないが、多分自分が失言をしたからだと花中はネガティブに判断。どうしたら良いのか分からず、何かしなきゃ何かしなきゃと念仏のように呟きながら考える。晴海の表情が強張っていたが、今の花中には見えていない。現状を打開するヒントがないか手当たり次第に記憶を手繰り寄せ、頭の中を駆け巡らせた。

 そこでふと思い出す――――今朝見かけた、学校に居る筈がない『彼女』の姿を。

 見たのは後ろ姿だけ。それも一瞬。見間違いかも知れないし、見間違いでなかったとしても、髪を金色に染めている人なんて世の中には幾らでも存在する。こんなのはなんの証拠にもならない、「そうだったら良いな」という願望だ。

 だが、もしも帆風高校に『金髪の女子生徒』が居なかったなら?

 ……晴海には友達が多い。友達が昨日まで一人も居なかった花中に比べれば、校内の生徒について詳しい筈。訊いてみる価値はあると思った。

「あ、あの、き、き、金髪、の、女の子って、うちの、学校、に、居ま、すか……?」

「随分唐突に話を変えたわねぇ」

「ひゅうっ!? す、すみません……わ、わた、わたし、喋るの、下手、で……」

「そんな謝らないでよ、気にしてないから。で、えーっと、金髪の女の子だっけ?」

「は、は、はい」

「うーん、金髪ねぇ」

 晴海は顎に手を当てて考え込む仕草を見せる。花中は晴海の邪魔をしないよう息も止めて静かにした。

 やがて晴海は両腕を広げ、如何にも降参と言いたげなポーズを取る。

「あたしの知る限りでは心当たりなし、としか言えないわね」

 そして、花中が期待していた答えを言ってくれた。

「うちの学校、服装も頭髪もそんなに厳しくないけど、校風からか髪染める奴って少ないからね。やっても精々茶髪。二年と三年は分かんないけど、少なくとも一年生には居ないわよ。居たら超目立つから間違いない」

「そう、ですか……そっか……そう、ですよね……すみ、ません……変な質問、して」

「ゆるさなーい」

「ふぇ!?」

「その金髪の女の子が何なのかを答えないとゆるさなーい」

 涙声になる花中に、晴海は意地の悪い笑みを見せた。からかわれただけと気付いた花中は安堵で肩を落とし、息を整えてから事情を説明する。

「……その、人は、友達、なんです」

「友達?」

「は、はい。昨日、で、出来まし、た……あの、その人、この学校の、生徒じゃ、な、ないのに……その……廊下を、あ、歩いていたのを、見た、気が、したので……」

「つまり、お友達が学校に来ているかも知れないと?」

 晴海の要約を、花中はこくこくと頷いて肯定。

 肯定された晴海はそっぽを向き、

「……なんか先越された感じがして悔しい」

「? あの、何か……」

「なんでもなーい」

 小声で何かを言っていたようだが、花中が尋ねても教えてはくれなかった。

「ま、でも本当に学校に来ているのなら、クラスメートの誰かが見てるかも知れないわね。金髪なんて目立つから記憶にも残るだろうし。もし情報が欲しいのなら、あたしの友達に訊いて回ろっか?」

「え、あ、そ、えっと」

 晴海の提案に花中は言葉を濁す。晴海が言うように『金髪の少女』という容姿はとても目立つので、記憶に残り易いだろう。訊いて回れば情報の一つ二つは手に入るかも知れない。

 しかしこのお言葉は、俗に言う社交辞令なのではないか? 社交辞令だったのに、是非お願いします! なんて言ったら……あまりの図々しさに嫌われてしまうのでは。

 頭を過ぎった可能性に花中は右往左往しながら悩み、悩み、悩み続けて、丁寧にお断りする分には嫌われないとの結論に至った。

「ちなみに遠慮したら絶交します」

「おおおおおおおおおお願いしますっ!」

 その思惑は読まれていたようで、脅迫された花中にお願いする以外の選択肢は残っていなかった。謀られた、と思っても後の祭。晴海はにっこりと微笑み「お願いされました」と言ってしまう。これにて契約成立、もう取り消せない。

「そんじゃあ、早速調べに行くとしますかね」

「え?」

 そんなに急がなくても……と伝えようとした花中だったが、晴海は空っぽのお弁当箱を片付けていた。どうやら、もうお弁当を食べ終えたらしい。

 それに比べて花中は、小さなメロンパンをまだ半分も食べていない。元々食べるのが遅い方とはいえ、色んな事に気を取られて食事が疎かになっていたようだ。

 ここで言うべき台詞は「急がなくても」ではなく、「待ってください」だろう。

「あ、ま、まっ、ま」

 とは言え、喋り慣れていない花中は咄嗟に言葉が出てこない。出てこないと焦りが生まれて、ますます呂律が回らなくなる。途中からはあまりにも喋れない自分への嫌悪で、涙が込み上がってきてしまった。

 なのに晴海はその場で待っていてくれた。じっと、花中を見つめた状態で。

「あ、あの、あの、あり、あ、いえ、ま」

 待ってくれたのでありがとうと言おうとし、しかしまだ待ってとも言ってないのでそれも変だと、花中はますます何を言えばいいのか分からなくなる。頭の中は既に真っ白。普段なら、自力ではリカバリ不可能な状態だ。

 だが、今回の花中は自力で平静を取り戻した。

 あまりにも動かない晴海を見て――――晴海は自分を待っているのではなく、その場で固まっているのだと気付いたために。

「……立花、さん?」

 名前を呼んでも晴海はうんともすんとも言わない。目の前で手を振ってみても瞳孔すら動かない。

 どうしたのかと訊きたかったが、固まってしまった人間に声を掛けても無駄なのは、パニックでしょっちゅう固まってしまう花中が一番よく知っている。何故固まったのか、その原因を探った方が手っ取り早い。花中は晴海の視線を追った。

 そして自分も固まる。

 晴海の視線が向けられている場所にあったのが、『金色の輝きを持つ人影』だったからだ。

 二人は仲良く沈黙、黄金の輝きを見つめる。

「……金髪の女の人が居たらさー、丁度あんな感じに見えるのかな?」

「……そう、ですね。丁度、あんな感じに、見え、そう、です」

 やがて二人は、金色の人影を見つめながら言葉を交わす。

 人影は、その顔が判別出来ないぐらい離れた位置に居る。それでも背中を覆うほどに長く伸びている金髪は、ハッキリと視認出来た。着ている服は遠目からでも分かるぐらいヒラヒラした……まるでお伽噺のお姫様が着ているドレスのようで、とても目立つ。

 その上地面から『何か』を拾う仕草は、目立つのを通り越して怪しさ全開だった。ましてや地面を触った手が顔へと運ばれる動き……何をしているのか、なんとなく分かる。分かるがために、その人物が普通でない事は容易に察せられた。

「……逃げた方が良さそうね。なんか、あの人怪しいし」

 晴海はぽつりと、囁くように提案。

 途端、金髪の人影が花中達の方を振り向いたかのように動いた。

 びっくりして意識が遠退きそうになる花中だったが、仰け反った際に地面を強く踏み締めてなんとか気絶を回避する。だがその事にホッとする間もなく、金色の人影が薄気味悪いほどの速さで近付いてくる様子が目に映った。

 あと少しであの人影の顔が分かる。顔が分かれば、人影が『誰』なのかハッキリする。

 花中は緩んだ気を引き締め、人影を凝視しようとした。

「ちょ、こっち来たし!? に、逃げるわよ!」

 残念ながらそれは、晴海に手を引かれた事で阻まれてしまったが。ちょっと待って、とお願いする暇もなく花中は一歩二歩とその場から動いてしまい、

「うひっ!?」

「ぁ、きゃんっ!?」

 晴海が蹴躓いたのにつられ、一緒に転んでしまった。とても痛かったが、花中の転び方は尻餅から背中を打っただけ。地面と激しくキスをした晴海の近くで「痛い」とは言えなかった。

 お尻を摩りつつ、花中は自力で立ち上がろうとする。

「おやおや大丈夫ですか?」

 そんな花中の前に、手が差し出された。なんだろう? と思い差し出された手をじっと見つめ……「この手に捕まって立ち上がれ」という意味だと理解。

「あ、あり、が、とう、ご、ござい、ます………」

 花中はありがたく手を掴んだ。掴んでから不思議に思った。

 晴海は転んでいる。

 ならば自分は、一体誰の手を掴んでいるのだろうか?

「っ!?」

 花中は自分でもびっくりするぐらい機敏な動きで、期待と嬉しさが入り混じった顔を上げた。

 次の瞬間、期待と嬉しさが入り混じった顔は、嬉しさ百パーセントの笑顔に変わる。

 足首近くまで伸びている、熟した稲穂のように美しい金色の髪。同性なのに見ていると心がときめいてしまう、凛々しい顔立ち。宝石のように煌めく、蒼い瞳……何処を見ても自分の知っている姿と合致する。衣服こそ昨日や今朝着ていた帆風高校の夏服ではなく、遠目で見た通りのお姫様チックなドレスだったが、間違いなく本人だと断言出来る。

 花中の前に居たのは、そう思える姿をした『人物』――――フナ少女だった。

「な、な、な………」

「お久しぶりです。怪我はありませんか?」

 なんで此処に、と言う前にフナ少女が安否を尋ねてきたので、花中は首を、ぎこちなくだが縦に何度も動かす。

 フナ少女は頷く花中に微笑むと、掴んだ手を引っ張って花中を立ち上がらせた。いや、引っ張るというよりもまるで拾い上げるような軽やかさ。あまりにも無抵抗に立ち上がる形になり、花中は少しよろめいてしまう。いくら花中が小学生並に小柄とはいえ、体重は四十キロほどある ― 尤も、それこそ正しく小学校高学年女児の平均体重程度なのだが ― 。そんな花中を軽々と立ち上がらせるとは、華奢で麗しい見た目に反しフナ少女は怪力の持ち主らしい。

「あらら服が汚れていますね」

 呆然となる花中だったが、自分を眺めながら零したフナ少女の独り言でハッとなる。慌てて袖を見れば、確かに土が付いていて汚れていた。先程転んだ拍子に付いたのか。白いブラウスという事もあり、汚れはかなり目立って見える。花中は袖を叩いて汚れを落とそうとした。

 ところが土は湿り気を帯びていたのか叩いても落ちず、むしろ引き延ばされるように面積を広げた。しまった、と思っても後の祭。しかも考えてみれば、先程転んだ拍子に背中とお尻を地面に強く打ち付けていたではないか。果たして今、自身の背面はどうなっている事やら。

 いや、汚れる事自体は問題じゃない。ただの土汚れなのだから、気合いを入れて洗濯すればなんとかなる。

 だが洗濯が出来るのは、家に帰ってからだ。今はまだお昼休みであり、午後の授業が残っている。まだ家には帰れない。ジャージに着替えるか、このままの格好で授業を受けるしかないだろう。どちらにせよ『普通』の格好ではない以上、絶対に目立つ。衆目を集めてしまう。

 ――――恥ずかしい。

「少し良いですか?」

 未来を想像して震える花中だったが、フナ少女に声を掛けられて顔を上げる。フナ少女は花中の答えを待たずに制服の袖を掴むや、そこにある土汚れに指を当てた……少なくとも花中にはそうとしか見えない行動に出た。フナ少女は汚れを擦る事も、何か特別な揉み方をする事もなく、ただ汚れた場所に指を当てているだけ。

 それでも花中を驚かせるには十分だった。

 どういう訳か、フナ少女の指から水が滲み出てきたのである。滲み出た水はかなりの量だったにも拘わらず、フナ少女の指から全く零れず、しかも防水加工が施されていない制服に染み込まない。

 何より奇妙なのは、その水が花中の制服から汚れを吸い取っていく事だ。フナ少女は袖の汚れを吸い終わると、今度は花中の背中に手を当てる。恐らく、やっている事は袖にしたのと同じく事。そこが終わると次はお尻を……これを繰り返しただけで、一分も経たずに花中の制服は綺麗になった。袖は勿論、背中やお尻を触っても土汚れ特有のザラザラした手触りがない。それどころかアイロンを掛けたばかりのような、パリッとした仕上がりになっている。

「はい終わりましたよ」

 フナ少女はにっこりと微笑みながら『洗濯』終了を告げるも、あまりにも奇妙な出来事に花中は困惑を隠せなかった。

「こ、これは一体……」

「水を使って服の汚れを吸い取っただけですが?」

「い、いえ、そうでは、なくて」

 花中が尋ねるとフナ少女は首を傾げ、しかし意図を察したのかすぐに誇らしげで自信満々な笑みを浮かべながら「おおっと」と声を上げる。

「そういえば言っていませんでしたね。実は私には水を自在に操る力があるのです」

 次いで説明をしてくれたが、花中には意味がよく分からなかった。

「水を操る、ですか……?」

「文字通りの意味です。こんな風に」

 そう言うとフナ少女は、手から水を噴出。水は重力を無視して、蛇のようにうねってみせた。

 なんとも非現実的な光景に、花中の目が点になる。

 その反応が期待通りだったのか、フナ少女は誇らしげに胸を張った。

「どうです? 凄いでしょう。ああ一応言っときますけど超能力や魔法ではありませんからね。そんな非科学的なものある訳ありませんから」

「はぁ……あれ? あの、もしかして、なんですけど……その……」

「なんですか?」

 続きが気になるのか、フナ少女が話の先を促してくる。促されたので話してみたいと思うものの、花中は口を噤んだまま、フナ少女の姿をじろじろと眺めるばかり。

 どう見ても、フナ少女の『姿』は人のそれだ。昨日今日と彼女の手を握ったが、感触も温度も人肌のそれと同じだった。花中の『推測』とは矛盾する特徴ばかりである。

 しかし普通ではない真実――――水を自在に操れるのなら、矛盾は理論上説明可能となる。

「もしかして、その、『身体』も、水なのです、か?」

 意を決し、花中は尋ねてみた。

 するとフナ少女は目と口を開き、とても驚いたような表情を

「……正解です。この姿は水で作っています。しかし何故分かったのです?」

「えっ、えーっと……あなたは、お魚ですから……魚ならエラ呼吸、ですから、周りに水がないと、生きていけない、筈、です。だから、あなたが居る、その『身体』が、水でないと、いけないのが、一つ。水を操れるの、なら、人型に、形作る事は可能、でしょうし」

「成程。ですがそれで説明出来るのは人の形までです。この肌色はどうご説明するつもりで?」

「それは虹と、構造色の原理、です」

 花中はフナ少女に自分の推察を伝えるべく、途切れ途切れながらも言葉を絞り出した。

 日光は一見真っ白な輝きに見えて、その実多様な『色』 ― 正確には波長の長さが違う光の ― の集まりである。それを示す最も分かりやすい例が虹だ。太陽光が大気中の水分に反射して様々な『色』に分かれた結果が、あの七色の輝きの正体なのである。

 そんな光の性質を利用した動物として有名なのが、モルフォチョウという昆虫である。モルフォチョウの翅は青色の光沢があるように見えるが、実際の色は無色透明。鱗粉にある特殊な構造によって青い光だけを反射するため、人の目には青く見えるのである。これは構造色と呼ばれ、他にもタマムシなどが同じ原理で模様を作っている。自然界では意外と有り触れた『技術』だ。

 もしもフナ少女が本当に水を自在に操れるのなら、『身体』の表面に特殊な構造を作り上げる事で、自由に色を生み出せるかも知れない。

「あと、人肌の感触は、水の密度を変えれば出来る、かなって……物は、密度を上げると、温度も上がります、から……えと、あの、その……」

 そのような話を、花中はフナ少女に頑張って伝えた。慣れない長話をして少し疲れたが、自分の想いを伝えるために言葉を選ぶのはやはり楽しい。

 これでフナ少女が微笑むなり頷くなりしてくれたら大満足だったが、フナ少女は頷くどころか呆けたような表情を浮かべるだけで、微動だすらしてくれなかった。何故沈黙しているのか、何故呆けているのかが分からず、きっと自分の話があまりにも頓珍漢だから呆れているんだと思った花中は顔を真っ赤にして俯く。

「おっと失礼。まさか本当に科学的に説明出来るとは思わず納得のあまり放心していました」

 慌てた素振りで告げられたフナ少女の言葉は、花中のそんな不安を一蹴してくれた。ただ、ホッとする間もなく別の疑問を湧き上がらせたが。

「……納得?」

「正直よく分からないんですよ。私化学とか物理とか生物とか……『さいえんす』な分野は苦手でして。この力を使えるようになったのも覚えている限り昨日からですし自分がどうやって水を操っているのかもチンプンカンプンでして」

「……あの、自分で、言った事なのに、こう言うのも、難ですけど……この原理で、好きな色を表現する、には、作りたい色に、応じて、水分子、一つ一つを、せ、正確に、並べる必要があると、思うのですけど……どうやって、そんな、精密な操作を?」

「その場のノリと直感ですけど」

 十八グラム当たり約六×十の二十三乗個 ― 数字にしたら約六〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇個 ― もの水分子をノリと直感で操作する……世界中の科学者が卒倒しそうな解答に、花中も卒倒しそうになる。

「それにしてもいやはやこれは驚きです。花中さんはとても聡明な方なのですね」

 尤も、遠退く意識はフナ少女のベタ褒めで引き戻された。そして褒められたのが気恥ずかしくて、それ以上に嬉しくて、花中は赤らんでいた顔を更に赤くし、茹蛸のようになる。

「え、う……そ、そんな……友達が、居なくて……暇な時はずっと、家に、あった本を、読んでいた、から、し、知ってる、だけで……褒められるほどの、事じゃ、ない、です」

「その褒められるほどじゃない事が私には出来ませんでした。優しい上に聡明でもあるあなたと友達になれて私は鼻高々ですよ」

「え、えへへ……♪」

 謙遜したい気持ちはあるが、褒められる事に慣れていない花中は嬉しさを抑えきれずついつい笑みが零れてしまう。そんな花中を見てフナ少女もくすくすと、小さく、楽しげに笑い返した。

 仲良く見つめ合い、笑い合い……花中の思考は、ふと別の事を考える。

 ―――― 一体このフナ少女は何者なのだろう。

 人間並の知能、水を操る能力、にも関わらず本体の姿形はフナそのもの……こんな非常識な生物が実在するなんて夢にも思わなかった。いや、正直なところ今でもフナ少女のような出鱈目な生き物が、自然に生まれるとは到底思えない。

 自然発生でないのなら、フナ少女は何者かが作り出した『人工生命体』という事になるのか。しかしそれもまた疑わしい……というより、あり得ない。

 何しろ相手は知的且つ不思議な力を持つ者だ。ペットにしようとすれば逆に自分がペットにされそうだし、労働力として使うにはあまりにも知的過ぎて権利を求めてくる事も考えられる。生物兵器扱いでもしようものなら反感を買ってクーデター……ざっと考えただけでデメリットのオンパレードだ。仮にこのデメリットをどうにか ― 或いは強引に ― 無視したとして、ならば何故フナ少女は怪しい研究施設ではなく近所の山の池に棲んでいたのかという話になってしまう。

 『あり得ない事を取り除けば、残ったものは、如何にありそうにない事でも事実に間違いない』

 これはとある小説に載っていた一文だ。例え世界中の科学者と花中が卒倒しようともフナ少女が水によって人の姿を作れるように、どれだけあり得そうにない事柄でも、他の全ての可能性が否定されたならそれこそが真実である。

 故に、フナ少女の正体は――――

「で、あたしは無視な訳?」

 そこまで進んだ花中の思考は、怒気を孕んだ声によって止められた。

 花中は油が切れた機械のように、フナ少女は何一つ不安のない動きで、声がした方を振り向く。

 そこに居たのは、自ら立ち上がったのであろう晴海。顔から転んだせいで、服の前面だけでなく顔もべっとりと土で汚れている晴海。

 晴海は笑顔だった。

 笑顔だったが、目は笑っていなかった。

「……そーいえば花中さんを連れ去ろうとした不埒者を転ばしていましたっけ。すっかり忘れていました」

 その上フナ少女が油をドバドバと注ぐものだから、花中は生きた心地がしなかった。

「わ、忘れていたですってぇぇぇ……?」

「おおおおおおおおおち、落ち着いてぇぇぇぇぇっ!?」

 ゆらゆらと殺意ある歩き方をする晴海を止めるべく、花中はフナ少女と晴海の間に割って入る。勢いだけで飛び出した花中に晴海をどうにか出来る自信なんてなかったが、幸い晴海は立ち止まってくれたので蹴散らされずに済んだ。

 未だ目に殺意を宿らせているが、それでも立ち止まってくれた晴海なら冷静に話を聞いてくれると信じ ― ないとやってられない ― 花中はフナ少女を弁護する。

「ご、ごめんなさい。あの、この人、その、悪気はないん、です。多分」

「……多分なの?」

「えぅ……す、すみません……でも、その……」

「花中さんの言うように悪気はありません。ただ正直に言ってしまうだけで」

 お願いです。今だけは余計な事を喋らないでください。

 そう思ったが、小心者である花中には情けなさ全開の眼差しをフナ少女に向ける事しか出来ない……眼差しに気付いたフナ少女が花中に見せたのは、何故か照れ笑いだったが。

 どこまでも緊張感のないフナ少女の姿に怒りよりも呆れた気持ちが上回ったのか、晴海は顔に手を当てながらため息を漏らした。怒りもいくらか霧散したらしく、開かれた口から出てくる口調も多少柔らかくなる。

「……まぁ、良いわ。大桐さん。この人と知り合い、なのよね?」

「あ、は、は、はい」

「どういう関係なの?」

「友達です!」

 晴海の質問に花中は自信をもって即答。フナ少女は嬉しそうに頭を掻き、晴海も瞼をパチクリした後敵意しかなかった目付きに僅かな暖かさを戻して「あ、そうなんだ」と納得した様子を見せる。

 一度は険悪に支配された場が、ほんのちょっぴりだが春のような優しさに包まれていく。浸るだけで心も身体もポカポカしてくる。

 これがみんなで仲良くしている時の雰囲気なんだ、と、初めて味わう多幸感に花中は全身を蕩けさせた。

「で、この人の名前は?」

 尚、晴海がフナ少女の名を尋ねるまでの短い春だった。

「……………名前?」

「うん、名前。大桐さんの友達なら、まぁ、あたしも知り合いにはなっときたいし」

 花中は思わず訊き返してしまったが、晴海がしたのは不思議でもなんでもない質問。むしろ訊き返された晴海の方が困惑している。

 しかし花中には答えられない。

 だって、

「そういえば、あなたの、お名前、まだ、聞いていませんでした」

「ずこーっ!?」

 知らないものは答えられない――――晴海に対してはそういうメッセージを込めて言ったところ、何があったのか晴海は独りでに転倒してしまった。が、すぐに起き上がり、晴海は狼狽しきった表情を浮かべながら声を荒らげる。

「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇ!? 名前すら知らないのに友達って一体どういう」

「確かに言っていませんがしかし私にはそもそも名前というものがありませんよ? 付けてくれるような方が居ませんでしたので」

「なんかさらりと凄い事言ったわよこの人!? 言ったわよね!?」

「あ、そう、ですよね。そっか。うーん、なら、どう、呼びましょうか?」

「なんで納得しちゃうのよ大桐さぁぁぁぁぁぁん!?」

「でしたら花中さんにお願いしましょうかね。私の名付け親になってくれませんか?」

「またしてもさらりと凄い事言ってるわよこの人ぉ!?」

「は、はい! が、が、が、が、頑張り、ます!」

「この子は快諾するしぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 フナ少女との会話に晴海が逐一ツッコミを入れてくるが、頼られて使命感に燃える花中には届かず。花中は早速フナ少女に相応しい名前を考える。

 記憶が確かなら、フナ少女は自分を『人間の女性』として扱ってくれと言っていた。なので女の子らしい可愛い名前が良いと一瞬思うが、容姿 ― 作り物だが ― が麗しさとカッコよさを両立させているフナ少女には凛々しい響きが似合いそうである。また西洋人風の見た目なので、洋風の方がしっくりくるだろう。

「ユナ……リューク、アリス……フィリア……」

 方向性を決めた花中は幾つかの名前を淡々と呟く。どの名前が一番良いか、口にして確かめていく。

 ――――どんな名前が良いかな。

 ――――どんな名前なら喜んでくれるかな。

 ――――お母さん達もこんな気持ちだったのかな。

 名前を付けるのが、こんなに楽しいとは思わなかった。こんなにも相手を想うものだとは知らなかった。心の中は慈しみで満ち、穏やかなのに幸せが溢れそうで大変。幸福に溺れそうになりながら、花中は考えを巡らせる。

「……フィア」

 やがて幾つか呟いた中で、この響きがとても気に入った。

 可愛らしくも凛々しく、それでいて彼女の生物名である『フナ』の余韻も残っている、と思う。今まで思い浮かんだどの名前よりも、彼女の雰囲気に合っていると感じられた。

 自分は、この名前が一番良い。

 彼女も、そう思ってくれたなら――――

「あ、あの、フィア、という名前は、どうでしょうか……えっと、フィアちゃんと、呼ぶ事に、なりそうです、けど」

 花中は赤くした顔を俯かせ、恐る恐るフナ少女に尋ねる。問われたフナ少女は腕を組み、しばしフィア、フィア……と反復。

「良い名前ですね。気に入りました」

 すんなりと、フナ少女はフィアという名前になった。

「よ、良かったです! あの、ふぃ、フィアちゃん!」

「んんー……心地良い響きですね。出来たらもう一度呼んでくれますか」

「フィアちゃん!」

「ふむ。名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいとは。もう一度お願いします」

「フィアちゃん!」

「もう一度」

「フィアちゃん!」

「もう一度」

「フィアちゃん!」

「はい花中さん」

「はわぁ~~~~~!? ふ、不意打ちは、卑怯、ですぅ~~~~~………」

「ふふ。それは申し訳ありません」

 花中はフィアと無意味に、だけど口にしたりされたりする度に幸せを噛みしめながら、互いの名を呼び合う。和気藹々と、花中はフィアとの世界を楽しみ――――

「「という訳でフィアになりました♪」」

「なりました♪ じゃないでしょうがぁっ!」

 二人同時に結果を伝えたところ、晴海はコンマ一秒の間もなくツッコミを入れてきた。

「えぇー……花中さんが折角付けくれたこの名前に何か不満でもあるのですか?」

「何かじゃないわよ!? 最初から最後までツッコミどころ満載だったわよ! 逆になんでアンタは理解不能と言いたげな態度なの!?」

「そ、そんな……あああ、や、やっぱり、わたしのセンスじゃ、す、素敵な名前なんて、無理、だったんですね……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「大桐さんなんか凄い勘違いしてるしっ!? だからあたしが言いたいのは」

「あなた少し落ち着いたらどうですか?」

「だぁぁぁぁぁぁれのせいで興奮してると思……………」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……?」

 怒号を発していた晴海が、不意に黙り込む。謝るために頭を下げていた花中は沈黙を不審に思い、ゆっくりと頭を上げ……晴海を二秒ほど見た後、フィアに視線を移した。

 指先から水鉄砲のように水を出し、晴海の顔をびしょ濡れにするフィアに。

「どうです? 少しは落ち着けましたか?」

「……あの……」

「? どうしました花中さん?」

 どうしましたじゃない。水を掛けたらますます険悪な雰囲気になっちゃうじゃない。

 そう伝えようとした花中であったが、晴海がフィアの胸倉に掴みかかる方が早かった。

「あ、アンタ一体何なのよっ!? あたしを怒らせて……!」

「私が何かですか? 私はですね――――」

 蒸気でも噴き上げるのではと思うぐらい顔を真っ赤にし、服を捻じ切らんばかりに握り締めながら、唾を飛ばすほど力強い声で詰め寄る晴海……ところがフィアは何一つ気にしていないらしく、それどころか誇らしげに、今更ながら自己紹介をしようとする。

 花中は慌ててフィアへと手を伸ばす。

 フィアが『アレ』をやるとは限らない。だがやらないとも限らない。やったらますます状況がこんがらがるに決まっている。二人に仲良くしてほしい花中は、フィアの自己紹介をなんとしても止める必要があると感じていた。

 感じていたが、それで止められたら苦労はせず。

「フナですよ」

 フィアが――――フナが少女の顔面を突き破って飛び出すのを、花中は止められなかった。人より反応が数テンポ遅い花中には無謀な挑戦だった。

 流石に花中は三度目。見た目麗しい少女の顔面を突き破って魚が飛び出しても、もう驚かない。意識は明瞭、頭脳は冷静。今なら「ああ、やっぱりその登場方法なんですね。ワンパターンですねこんちくしょう」と言ってやる事も出来ちゃいそうだ。

 けれども、初めて見る晴海は違うだろう。

 憤怒の形相のまま、血の気だけが引いている晴海はきっと違うだろう。

「た、たち」

 立花さん、と声を掛けようとした花中。

「お、お、おばけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 その声で僅かながら正気を取り戻したのか。フィアを何と勘違いしたのか、わざわざ訊かなくとも済む悲鳴と共に晴海は逃げ出してしまった。その逃げ足たるや人間とは思えない猛スピードで、旧校舎の向こう側に入って姿が見えなくなるのに三秒と掛からなかった。

 残されたのはどんくさい人間と、他称お化けの二人組み。

「……ひょっとして顔から魚が飛び出すのは人間からすると不気味な光景なのですか?」

「今更ぁ!?」

 居なくなった晴海に代わり、花中は生まれて初めてのツッコミをしたのだった。




「さて……お、お話があります」

 晴海の代わりにフィアが居座った旧校舎周りにて、先に話を切り出したのは花中だった。

「はい何でしょうか?」

 フィアは心底不思議そうに首を傾げる。どうやら『お話があります』と前置きされるような事に心当たりはないらしい。こんなにも堂々と不法侵入しているのに。ほんの数秒前に晴海をあんなにも怖がらせたというのに。

 真面目な話をするので表情を引き締めていた花中だったが、少し力が抜けてしまう。どうにもフィアは人間と比べてマイペースで、それこそ水を相手にしているように手応えが感じられない。本気になっても、疲れるだけのような気がしてくる。

 それでも訊かねばならない事があるので、花中は少し語気を強めてフィアに尋ねた。

「何じゃ、あ、ありませんっ。なんで学校に、あなたが、その、い、居るんですか。留守番か、山に、帰っているんじゃないかと、思っていたのに」

「花中さんに会いたくて来ちゃいました」

「ぽへっ!?」

 尋ねるとフィアはあっさりと白状した。おまけにやってきた理由が自分に会うため――――フレンドリー大好きな花中にとって、小躍りしたくなるほど嬉しい一言だ。

 頬っぺたに手を当て、脳内お花畑でフィアとワルツを踊ってしまう事数秒。

「……花中さーん」

 トリップする花中を現実に引き戻したのはフィア。名前を呼ばれてハッとなり、花中は羞恥色に染まった顔を隠すように下を向く。

「え、えと……すみません……その、嬉しくて……」

「許しません」

「へぅっ!?」

「冗談です」

「はぅっ!?」

 弄ばれた事にショックを受ける花中。対してフィアは楽しそうに、大人っぽい美顔を子供のように綻ばして笑う。

 弄られた側としては、フィアの態度は実に不愉快。花中はほっぺたをフグのように膨らませた。

「むぅぅぅ……ひ、酷いです……」

「すみません。花中さんの反応があまりにも面白いもので。ですが花中さんに会いたかったのは本当ですよ」

「で、でも、学校に来るなんて……関係者以外、立ち入り禁止、ですし……」

「それは人間に対する警告でしょう? 鳥も昆虫も自由に行き来しているではありませんか。魚である私を何故拒むのです?」

「でも、でも……」

「それとも花中さんは私に会いたくありませんでしたか?」

「う、う、ううううぅ……」

 その言い方はずるい……そんな気持ちを含ませた唸り声を出すと、フィアは照れたように微笑んだ。気持ちは伝わったらしいが、しかし喜ばせたかった訳ではない。ムスッと、花中はますます膨れ面になる。

「どうなんです? 嬉しくなかったのならもう来ませんが」

「……嬉しいです、けど……でも……そ、そうです! 学校に、来ていたの、なら、挨拶に、き、来たら良いじゃ、ないですかっ! ホームルームの時に、い、居ましたよね! あの、わたしの教室、の、近くに……挨拶なしでふらふら、なんて、酷いですっ」

「おおっと見られていましたか。しかし見ていたのなら分かるのでは?」

「え?」

 分かるのでは? と言われて、全く分からない花中は目を点にする。どうして教室に居た花中に会いに来なかったのか、答えにつながる何かを今朝目の当たりにしているらしいが……記憶をいくら辿っても思い当たる節はなく、首を傾げずにはいられない。

「さっきの人間に今朝水を掛けたのは私なのですよ」

 すると、フィアは今朝の『事件』の真相をたった一言で教えてくれた。

 朝の教室で、晴海に水を掛けた犯人はフィアだったのだ。フィアは水を操る力を持っている。それに先程花中の目の前で、晴海の顔に水を引っ掛けてみせた。あの水をもっと沢山、大砲の弾丸のような塊で撃ち出せば、今朝の出来事を再現出来るかも知れない。また身体そのものが水なので、容器を持ち歩く必要もない。後片付けでもたつく事もなく、現場からそそくさと立ち去れる。

 成程、今朝の事件の犯人がフィアだとすれば頷け

「って、何してんですかぁーっ!?」

 ない。

 晴海がクラスメート達に当たり散らす事となった、今朝の事件の元凶相手に頷いてなどいられなかった。

 花中が反射的に咎めると、フィアは唇を尖らせる。不当だ、と言わんばかりに。

「だってあの人花中さんに不埒な事をしようとしていたんですよ? そりゃあ水の一発ぐらいぶつけてやりたくなりますよ。カッとなってやったのでちょっとやり過ぎてしまったのは否定しませんが」

「カッとなった、じゃ、あ、ありませんっ! ひ、人に水を掛けるのも駄目です、けど、あの水のせいで、立花さん、クラスの人に、当たって……」

「ですから不可抗力なのです。私だってあの後教室に入ろうと思いましたし花中さんとお話ししたかったですもん。でもあの時顔を出したら色々揉めそうな気がして……ぶっちゃけ面倒臭くなったので逃げちゃいました」

「逃げたって……悪い事を、したら、謝らんぐっ!?」

「まぁ落ち着いて」

 反省した様子のないフィアを窘めようとした花中だったが、不意に唇に指を乗せられてしまう。これでは上手く喋れない。手足をばたつかせて抗議の気持ちをアピールしたが、フィアは指を退けてくれそうにない。

 渋々花中は抵抗を止め、全身の力を抜く。それですぐにフィアの指は退かされた。批難の視線を送る花中に、フィアは悪戯を企む子供のような笑みで対面しながら話す。

「私としてもあの人と和解する事はやぶさかではありません。花中さんが謝れというのならそう致しましょう。そこで花中さんに一つお願いがあります」

「……お願い、ですか?」

「簡単に言いますとあの人との間を取り持ってほしいのです」

 晴海との間を取り持つ――――この一言で、花中にはフィアの『作戦』が読めた。

 根本的に、フィアと晴海は少し顔を合わせた程度の仲でしかない。晴海に至ってはあまり好感を持っていなかった様子で、しかも今はフィアをお化けだと勘違いしている状態。晴海から仲直りを持ち掛けてくるとは考え難く、無理やり対面させたところで晴海は恐怖のあまり逃げてしまうだろう。フィアにいくら謝罪の気持ちがあっても、これでは仲直りが出来ない。

 そこでフィアと晴海の共通の友達である花中が、二人の仲介をする。フィアはお化けではなく『非常識』な生き物でしかないと花中が説明すれば、晴海の恐怖も幾分和らぐ筈だ。その上でフィアが晴海に謝れば、きっと仲直り出来る。

 これ以上ないほど ― というより、これ以外にない ― 完璧な作戦に文句を付けられる訳がない。花中は当然フィアの提案を

「むむむむむむむむむむむむ無理無理無理無理無理ですぅぅぅぅぅ?!」

 責任の重さに耐えかねて、全力で拒否した。自力で友達を作るのすら失敗の連続だったのに、他者の仲を取り持つなんて出来っこない。誰かの名付け親になるという未経験より、幾度も失敗しているこの分野の方が花中にとっては明らかに難問なのだ。

 しかし、

「それでは頼みましたよ」

 フィアは綺麗な笑みと共に、遠慮なく『お願い』してきた。

 花中は思う。

 これはお願いという名の命令である、と。

「……はい……」

「では放課後にでも――――む?」

 作戦会議が終わるのとほぼ同時に、予鈴が聞えてきた。『お願い』されたプレッシャーに早くも負けて地面に膝をつき項垂れていた花中だったが、予鈴=午後の授業開始が近い事に気付いて復活。

 此処旧校舎から新校舎まではそこそこ距離がある。大体、徒歩五分ぐらいだろうか。急いで教室に戻らないと授業に間に合わないかも知れない。

「はわわわわっ!? い、急がないと、授業に遅れちゃう……!」

「急ぎ過ぎて転ばないように注意してくださいね」

「え? あ、はい。えと、気を付けます……」

「よろしい。さて私はどうしましょうかね。花中さんのお勉強を邪魔する訳にもいきませんしかと言って暇を潰そうにも山育ちである私はこの辺りについてよく知りませんからねぇ。でもぼうっとしているのは性に合いませんし……」

 慌てる花中の傍で、フィアは腕を組んで暇の潰し方を考え始める。『部外者』であるフィアと一緒に授業を受ける訳にはいかないので、授業中花中とフィアはしばし離れ離れ。それに独りごちていたように、今まで泥落山の池で暮らしていたのであろうフィアが、麓の町に建つ帆風高校周辺の事を知らないのは当然だ。お金も多分持っていないだろう。一人になると分かった途端、退屈しのぎを考えたくなる気持ちは花中にも分かる。

 だから決してフィアの話におかしな点はない。ない筈だ。

 なのに、何かが引っ掛かる。

「(……んー?)」

 後片付けをする手を止め、花中は首を傾げる。

 急がないと授業に遅れてしまうのは分かっている。それでも友達に対する『引っ掛かり』が、喉に刺さった小骨のように気になって仕方ない。もやもやした気持ちではとても片付けに集中出来ない。

 花中は止まっていた手を顎に当て、思考に耽る。

 自分が何を疑問に思ったかも分からないが、それなら何処で引っ掛かりを感じたのかを思い出せば良い。幸い記憶力には自信がある。フィアが直近語っていた言葉を頭に並べ、一つ一つ、正確に暗唱していく。

 そして再度引っ掛かりを覚えた。

 それは、フィアがこの辺りの事を――――

「ちょっと良いですかぁー?」

 引っ掛かっている部分に触ったと実感した瞬間、花中は、声に呼び掛けられた。

「ひゃっ!?」

 声に驚いて思考は中断。花中はおろおろしつつも声がした方へと振り返る。

 振り返った先に居たのは、見知らぬ一人の少女だった。

 地に引き摺るほど長く伸びた髪は輝きを持たず、墨で塗り潰したかのように真っ黒だった。対して顔は青白く、血の気を一切感じさせない。顔立ちはあどけなさが残る可愛らしいものだが、西洋風とも東洋風とも言い難い……国籍不明の代物。スタイルはフィアに負けず劣らず豊満で、非常に誘惑的。衣服は校内だというのに学校指定の制服ではなく、手首まで覆う袖と足首まで覆い隠しているスカート丈と愛らしいフリルで装飾している……黒一色で塗り潰された、喪服のようにしか見えないワンピースだ。

 そして浮かべているのは、一切感情が読み取れない笑顔。笑っているようにしか見えないのに、笑っているように思えない不気味な表情。

 まるで、死体のよう。

 それが花中の、突如現れた少女に対する正直な第一印象。ハッキリ言ってしまえば、花中は少女に対し生理的な恐怖と嫌悪を抱いてしまった。せめて失礼な態度は取らないように、と自分を戒めたいのに、胸に込み上がる嫌悪感が強烈過ぎる。生唾を飲み、悪寒で身体が震えるのを止められない。

「……花中さん。こいつとはお知合いですか?」

「う、ううん……初めて、会うと、思う」

「そうですか。何か御用でしょうか?」

 フィアも花中と同じような気持ちを抱いていたのか。花中の知人でない事を確かめたフィアは少女に問い掛けるが、その際の口調はあからさまに刺々しかった。

 緊迫する空気――――しかし来訪者だけは、飄々とした態度を崩さない。

「そうねぇ。用と言うか、お願いかしら?」

 少女は開かれた口から馴れ馴れしく、しかし全く抑揚のない声を出す。一言聞く度に花中の背筋にはぞわぞわとした悪寒が走り、得体の知れない恐怖心が刻まれていく。

 花中は半歩後ろに下がり、

「お願いですか? 初対面の我々に?」

 フィアは半歩前に出ると、ますます棘のある口調で訊き返した。

「そうなのよー。お願いと言ってもコンタクトを落としたから探してーとか、そーいうのじゃないのよ? もっとこう……重要性なんかどうでも良いわよね。個人的な用事には変わりないし」

 少女は勿体ぶっているのか、中々本題に入らない。フィアが露骨に不快感を露わにした表情を浮かべても態度を変えず、それどころか少女は花中達の目の前で唐突に、踊るようにくるくると回り始めた。

 意地悪されたら怒らずに怯えるタイプである花中も、少女の態度にはムッときた。フィアの傍に居て気持ちが大きくなっていたのかも知れない。

「よ、よう、用件が、あ、あるのなら、早く言ってくださいっ!」

 花中は、生まれて初めて人に文句を言ってしまった。「やってしまった!」と思う反面、心の中は初めて味わう爽快感に満たされる。鼻息もちょっと荒くなる。

「んー、ちょーっと焦らしただけなのに……でもまぁ、はなちゃんが言うなら仕方ない。話してあげましょ」

 花中に怒られた少女はガッカリしたように……感情が伝わらない笑みを浮かべたまま、項垂れた。少女が形式的でも反省したと取れる対応を見せたので、花中も少しは溜飲を下げる。

 けれども、すぐに血の気が引いた。

「……あなた、今なんて……」

「花中さん?」

 震える花中にフィアが名前を呼ぶ。先程までなら喜び勇んで返事をしただろう。だが今の花中は息飲んだだけ。返事をする余裕は、ない。

 ――――あの少女は、自分の事を『はなちゃん』と呼んだ。

 花中はあの少女の顔に見覚えなどなく、今この時を除いて言葉を交わした記憶もない。つまり初対面の相手であり、当然名乗った事もないが、それでも『かなか』や『かなちゃん』と呼ぶのなら良い。先程フィアが自分の名前を口に出していたので、そこから花中が『かなか』であると知る事は出来るからだ。

 しかし『かなか』という名前に『花』が使われているのは、一体どうやって知れば良い?

 自分の名前があまり一般的なものでない事は、花中も重々承知している。『かなか』という呼び名から『花中』という漢字を思い浮かべるのは容易ではない。いや、一回目では絶対に出てこないと断言しても良い。

 ならば目の前の少女は、なんらかの方法で花中の名前を調べたに違いない。

 職員室などに忍び込んで、莫大な量の資料から花中の情報を掘り当てたのか。

 或いは

 ……前者はまだしも、後者はあり得ない。どう考えてもおかしい。出来っこないし、それをやってしまう精神なんて狂人でもない限り持ち得ない。

 そう思うのに。

 ――――『アレ』はそれをやりかねないと、本能が訴えていた。

「んふふ。はなちゃんどーしたの? 顔が真っ青よー?」

「ひっ……!」

 少女が一歩足を前に出し、花中は一歩後退り。

 昨日も今日も、名前を呼ばれるのは嬉しい事だと思っていた。自分は名前を呼ばれるだけで頬っぺたが緩んでしまう体質なのだと信じきっていた。

 だけどこの少女に名前を呼ばれても怖いだけ。

 臆病だから、今まで色んな事に怖がってきた。だがこんな、得体の知れない者に狙われる怖さなんて知らない。身体はどんどん冷えていき、けれども寒さとは違う理由で震え、喉がカラカラに乾いていく。手足が言う事を聞いてくれず、逃げ出す事も儘ならない。

 フィアが悠然と自分の正面に立ち、勇敢にもあの不気味な少女との間に割って入ってくれなければ、花中は身動ぎ一つ出来なかっただろう。

「ふぃ、フィアちゃん……?」

「花中さんが怖がっています。さっさと要件を言って帰ってくれませんか?」

 フィアが拒絶の意思を示すと少女は大袈裟に肩を竦める。「ちょっとふざけただけじゃない」と言いたげなその仕草があまりにもわざとらしく、花中には却って気味悪く見えて仕方ない。

 花中がそんな想いを抱いているなど露知らずなのか、或いは知った上でなのか。少女は気味悪さを強調するように歪な笑みを浮かべる。

 そして彼女は、ようやく本題を告げた。

「じゃあ言わせてもらうわ。はなちゃんを、私にちょーだい♪」

 花中には、全く意味が分からない『お願い』を……

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