ファースト・フレンズ3
ふわふわとした感触と、心地よい脱力感。
「……………ん、にゅ?」
覚醒した花中の意識が最初に感じ取ったのは、全身を包み込むそんな感覚だった。閉じていた瞼は自然と開き、無意識に身体を起こしたところ正面から強い光が襲い掛かってくる。あまりの眩しさに目を細めたが、じっと耐えて浴び続ける事数秒。ぼーっとしていた頭は冴えていき、その光が朝日であると理解した。
理性が戻った花中は普段より多めに垂れ下がっている前髪を掻き上げ、辺りを見渡す。
花柄のカーテン、使い慣れたふかふかな掛け布団とベッド、棚の上に並べられたたくさんのヌイグルミ、様々な分野の本が納められている本棚、ちょっと古びた勉強机……あまり広くない割に可愛らしい小物やらなんやらがいっぱいあるせいで、狭苦しさを覚える部屋だ。次いで自身を見てみれば、去年自分で買った、花柄のパジャマを着ている。
視覚情報から此処が自分の部屋である事、そして自分が今まで布団の中で眠っていた事は明らかだ。
だからこそ花中は首を傾げる。
「(えーっと……わたし、確か……)」
眉間に指を当てながら、花中は自分が寝てしまう前の事を思い出そうとする。
記憶が確かなら、自分は泥落山で遭難していた。そこで見知らぬ少女と出会い、初めての友達になって……その友達の口から、喋る魚が飛び出したのを目の当たりにした。
それに驚いた事が原因で自分は気絶した、ような気がする。
ここまでハッキリと覚えているからこそ腑に落ちない。
「(じゃあ、なんでわたし、自分の部屋に居るんだろう……)」
気絶していたのだから、自力で山を下りる事は出来ない。じゃあ『友達』が自分を此処まで運んでくれたのかと思うも、彼女に自宅の場所は教えていないし、そもそも彼女も下山ルートなんて知らないと言っていた。呼べなかった救助隊が助けにきてくれたとも思えず、仮に何かしらの奇跡が起きて救助されたのなら、目を覚ますのは自宅ではなく病院のベッドの上だろう。
パッと思い付く可能性は殆どが即座に否定出来、首を捻りながら考えても新たな可能性は閃かない。
最後まで残った可能性はたった一つだけ。
「夢オチ……まぁ、そうだよね。わたしなんかに友達が出来るなんてあり得ないよね。大体人の口からフナが出てくるってそれこそ夢じゃないとあり得な」
「独り言はそれなりに饒舌なのですね」
「きゃわわあぁあああああああ!?」
残った可能性を愚痴と共に吐き出していたところ、突如自分以外の声が聞こえてきたので花中は飛び跳ねるぐらい驚いた。浮いた身体はやがて落ち、顔面からベッドに着地。お尻を突き上げた無様な姿を晒すが、姿勢を直すのも忘れて花中は声が聞えた方――――自分の背後へと振り向く。
そこには長く伸びた金色の髪を靡かせ、
艶やかな大人のボディに帆風高校の夏の制服を纏い、
美術品の如く完成された顔に堂々とした笑みを浮かべながら、
「ああ申し訳ありませんまずはおはようございますでしょうか今日もいい天気ですねあの池で暮らしていた時は周りが崖と木に覆われているせいで朝日なんて見た事もなかったのですけどこうして見るとどうして中々太陽が昇っている最中の光景というだけなのにとても清々しい気分になりますね」
息継ぎをしているとはとても思えない早口で盛り上がる少女が、当然のようにベッドの傍に立っていた。
顔面着地のささやかな痛みから、今、自分が夢の中に居ない事を花中は確信している。しかし目の前に立つ少女は『今朝の夢』の人物なのだから、現実に居る訳がない。
『今朝の夢』が夢だとしたら矛盾が生じる。夢じゃなくても矛盾は残る。
だけど夢じゃなければ、友達が出来た事は本当になる。
「お、おは、おおは、おはよ、よ、ようざいます!」
だから花中は起き上がってすぐ、少女に一生懸命朝の挨拶をした。きっと、挨拶が返ってくると信じて。
「おはようございます」
「んぅ~~~~~……!」
期待に少女が応えてくれたので、花中は歓喜のあまり身体を小刻みに震わす。震える花中を前にして少女は驚いたような表情を一瞬浮かべた後、露骨な呆れ顔を見せた。
「挨拶しただけなのにそんな感極まった反応をしなくとも良いと思うのですが」
「だ、だって、昨日の事が、本当、だと、思うと、嬉しく、て」
「昨日の事……先程の夢オチ発言から推測するに私と出会えた事でしょうか?」
「はいっ! それに、誰かと挨拶なんて、もう一年以上、してないですし……」
「大袈裟な。人間というのは家族と一緒に暮らしているものなんですよね? でしたらその家族と挨拶をしているのではないですか?」
「あ、か、家族は、去年から、海外、暮らし、でし、て」
「海外?」
少女が抱いた疑問に、花中は少し俯きながら説明した。
花中の両親は共に学者である。
父は植物学者で母は昆虫学者。二人ともその道においてはそこそこ名が通っているらしく、研究や学会発表のため昔から家を空ける事が多かった。それでも一人娘である花中を気遣ってか、二人が同時に三日以上家を空ける事は殆どなかったし、どちらかが家に居ない時はもう一方の両親がたっぷりと構ってくれたものだ。友達は出来なくとも、花中の寂しさは親の愛情がいくらか癒してくれた。
……一年前のあの日までは。
中学三年生になって一月が経った頃、大の大人二人は未成年の娘に言った。
これから三年間、ちょっと海外で研究してくるぜ! ― 注:原文ママ ―
直後大桐家夫妻は、指名手配された犯罪者の如く速さで出立。日頃から二人の忙しなさには慣れていた筈の花中ですらついていけず、気付いた時には二人とも家どころか日本から姿を消していた。
以降、偶にエアメールはくれども顔は見ていない。
「……という、事が、ありまして、うちの家族は、あと二年、家には、帰って、きません……」
「……色々大変ですね」
説明を終えた花中の頭を、少女が撫でてくる。幼少期以来、しかも親族以外に頭を撫でられるという経験に花中はとても驚き、驚きの顔は二秒と経たない内に蕩けてしまう。ふにゃぁー、と変な声も出てしまったが、脳も蕩けていたので気付かなかった。
お陰でついきっ先程抱いた疑問を忘れてしまったが、少女が頭から手を放すのと同時に思い出した。名残惜しいが続きのおねだりは我慢し、疑問の方を優先する。
「あ、あの。そう言えば、どうしてわたしの、家が、分かって……?」
「おっとその説明がまだでしたね」
自分で自分の頭を撫でながら花中が尋ねると、少女は掌を花中の方へと向ける。
なんだろうと思い花中が覗き込んだ――――刹那、一冊の手帳が少女の手を突き破って出てきた。よく分からないが大変だ、と思った花中は意識が遠退き、しかし彼方へと消えてしまう前に自分自身の頬を勢いよくビンタ。
何とか意識を現実に留めた花中は、目を見開く少女にぺこりと頭を下げてから改めて少女の手を見てみる。と、そこに傷跡や出血の跡はなかった。「目の錯覚だね!」と自分の記憶を全力で否定し、次に少女の掌にある手帳を細部まで観察。それが自分の生徒手帳だと気付いた。
「あ。わたしの、生徒手帳……」
「あなたが気絶している間に鞄の中から拝借しましてね。住所が書いてありましたので山を下り町で出会った人々に尋ねあなたの家を特定した次第です。目を回しているあなたの姿が同情を誘ったのか皆さん親切に教えてくれましたよ」
「そ、そうですかー……あれ? でも、昨日は確か、下山するための道は、知らないって」
「ええ知りませんよ。ですからとりあえず月を目印にして東に進んでみました。真っ直ぐ進めばそのうち山を下りられると思いましたので」
随分とアグレッシブな性格なんですね、あなた。
そう思った花中だったが、言葉にはしなかった。気絶した姿を他人に見られたなんて想像するだけでも恥ずかしく、出来れば早く話題を変えたかったので。
何はともあれ疑問の『一つ』は解決。花中は『もう一つ』の疑問を少女にぶつける。
少女が、本当に魚であるのかを。
「あの、もう一つ聞いても、良い、ですか? 今更な、質問です、けど……」
「質問の内容にもよりますね。スリーサイズは秘密ですよ? これでも乙女ですから」
「……えと、あの、あなたが本当に、ふ、フナなのか……し、信じてない、訳では、ないです、けど、でも、あの後、きじぇ、きじぇちゅしたし、それに、にわかにはひ、ひんじがひゃっ!」
「ふむ。確かに喋る魚なんて信じ難いかもしれませんね」
ならばもう一度お見せしましょう。
少女がそう言ったので、花中は噛んでしまった舌の痛みを堪えて少女の顔をじっと見つめる。推測だが、昨日のように少女の口からフナが出てくると思ったからだ。
展開が分かっている事に驚くつもりはない。いや、やっぱり驚くかもしれないが、気絶だけはしない。
決意と共に花中は歯を食い縛り、予想する瞬間を待ち続け――――
「そんな訳で改めましてこんにちは。フナです」
少女の『顔面を突き破り』ながらフナが現れるという、想像以上の大惨事を目の当たりにした花中の意識はやっぱり遠退いてしまった。自分のほっぺたをビンタする余裕もないぐらい急速に。
「寝るには早い時間ですよ」
「ふはっ! え? あ、はひ!」
代わりに少女が倒れそうになる身体を掴んでくれたので、花中はどうにか意識を手放さずに済んだ。
困惑しつつも花中はフナ、いや、少女の顔を見る。
最初花中は少女の顔を突き破ってフナが出てきたと思ったが、それは正確な見方ではなかった。と言うのも、フナが飛び出ている少女の顔は全く裂けておらず、波打つように揺らめいていたのだ。出血は一切なく、グロテスクな何かが飛び散ったりもしていない。
人の顔である事を考慮しなければ、魚が水面から顔を出しているかのよう……花中の目にはそう映った。
「さてこれで夢オチでない事が証明出来たかと思いますがどうでしょうか?」
ずぶずぶと少女の顔の中に戻りながら、フナ……或いは少女……いっそ簡潔にフナ少女と呼んでしまいたくなる彼女は、念を押すように尋ねてくる。
少女の顔面に魚が沈み込んでいく光景に、花中は不気味さを感じなかった訳ではない。
だけど昨日の出会いが現実だった嬉しさの方が、ずっと大きかった。
「……っ!」
自分の気持ちを言葉にする前に、花中は無我夢中で何度も頷いていた。するとフナ少女は「それは良かった」と言い、笑顔を向けてくれる。太陽のように暖かい笑顔につられ、花中も自然と笑ってしまう。
こんなに笑ったのは何時ぶりだろうか。
友達と一緒に居るのが、こんなにも楽しい事だとは思ってもみなかった。こんなにも幸せになれるものだとは予想もしていなかった。フナ少女が居なければ、きっと今でも自分は独りぼっちだっただろう。誰かと一緒に笑う事など出来なかっただろう。
だけどもう、一人じゃない。これからは、このフナ少女と一緒に笑い合える。
何度も諦めかけた願い。それが本当に叶ったのだと実感した途端、感極まった花中の目には熱いものが込み上がり――――
「ところで支度をしなくても良いのですか?」
脈絡のないフナ少女の一言で、熱さは身体の奥に引っ込んでしまった。
「……………え? 何?」
「ですから支度です。とはいえ義務である期間は終わっていますから私はあなたの意志を尊重しますよ。たまーにサボって遊んでいる方が青春っぽいですし私個人としてはあなたと一緒に居られるのならなんでも良いですからね」
「……………あの、さっきから、何の、話を?」
全く理解が追いつかず、ついに花中は疑問を口にする。と、フィアは一瞬キョトンとした後、とても優しい笑みを浮かべてから教えてくれた。
「今日は平日ですから学校に行く日なのでは?」
学校。
それは花中がほぼ毎日通っている場所の名前だった。それは今日も行かなければならない場所の名前だった。
それを、花中は今の今まですっかり忘れていた。
「……………」
無言で周囲を見渡したところ、花中は床に落ちていた目覚まし時計を見付ける。普段はベッド近くの棚に置いてあるからあんなとこには無い筈なんだけどなぁー、と不思議に思うよう努めながらベッドから身を乗り出して拾ってみると、目覚まし時計はびしゃびしゃに濡れていた。
盤面を見れば、全ての針が止まっている。濡れた事が原因で壊れてしまったのだろう。時計の針が示しているのは六時丁度。時計はこの時間に壊れたのだと容易に推察出来る。
だから、今は確実に六時を過ぎている。
この時計がやかましい音で鳴り響いている時間である朝六時を、過ぎているのだ。
「……この時計を止めたのはあなたですか?」
自分でも驚くほど饒舌な口ぶりで花中が尋ねると、フナ少女はにっこりと微笑んで一言「ええ」と肯定する。悪い事をした、とは露ほども思っていない笑顔だった。
「なんだか随分朝早い時間に鳴っていましてね。五月蝿かったのとあなたの可愛らしい寝顔を見ていたかったので止めておきました。まぁ止めたと言っても濡らして壊しただけなのですけど。どうも機械には疎く正しい止め方を知らないものでして」
「……あの、止めたのは、今からどれぐらい前に?」
「んー……大体一時間ほど前ですかね」
「一時間……」
「ええ」
思わず呟いただけの言葉に、フナ少女は律儀にも返事をしてくれる。
その瞬間、花中の顔から血の気が失せた。
花中の家から学校までの道のりはさして長いものではなく、花中のゆったりとした歩みでも十五分ほどで校門をくぐれる。朝のホームルームが始まるのは八時四十五分で、花中の性格的にその三十分前には着けるよう出発したい。そこから求められる出発時刻のリミットは八時丁度。六時に起きれば二時間も猶予があり、のんびりゆっくり、余裕を持って支度出来る……のが普通だが、花中の場合そうもいかない。
花中は現在独り暮らしだ。故に朝食やお弁当作り、洗濯や家の戸締り等々も自分がしなければならない。身支度だけでなく家事もこなそうとすれば、二時間はむしろ少ないぐらいだ。一年間の独り暮らしで鍛えられた花中の『家事力』だからこそ二時間で済ませられる。
だから起きる時間が一時間ずれたら、どうあっても出発時刻も一時間ずれてしまう。
だから七時以降に起きようものなら、学校に到着するのは九時以降になってしまう。
繰り返すが、ホームルーム開始は八時四十五分。
即ち。
「ち、ちちち、遅刻しちゃうううぅぅぅぅぅ!?」
「ああやっぱり遅刻寸前ですか。でしたらもう行くのは諦めて休んでしまいましょうよ。そして今日は私とお話しながら過ごす楽しい一日にしようじゃありませんか」
「え? あ、それは良いかも……って、ダダダダメですよぉ!? が、学校はサボっちゃダメなんですぅ! 仮病ダメ絶対なのぉ!」
フナ少女の誘惑を振り払い、花中はベッドから飛び降りる。朝ご飯は何にすれば時間が掛からないか、お昼は通学路にあるコンビニで買うか、洗濯物は明日まとめて、だけど臭いが……絶対に遅刻するまいと、めまぐるしく考えを巡らせる。
尤も一時間もの遅れを前にして平常心でいられる筈もなく、フル回転させているつもりの頭脳も実際には空回りばかり。今もパジャマを脱ぐのと制服を着るのを同時進行でするという、テクニカルな着替えをしている自分に気付かないぐらい花中はあたふたしている。
もしも平静を保っていれば、花中は気付いただろう。
自分の背後でフナ少女が眉を顰め、口をへの字に曲げた……とてもつまらなそうな表情を浮かべていた事に。
「大変そうですね。なら火元の確認や戸締りは私がやっておきましょうか?」
そしてそのつまらなそうな表情が、花中にとって魅力的な提案をしている最中いたずら小僧のような笑みに変わっていた事に……………
「んじゃ、今日のホームルームはここまで。今日もほどほどに頑張れよー」
ぼさぼさの髪を掻きながらぞんざいな口振りでホームルームを締めくくる、中年と呼ぶには些か若さの残る男性教師。
彼がその言葉を発した途端、帆風高校一年B組の生徒達は一斉に動き始めた。今日最初の授業が始まるまであと五分。教室移動はないので、教科書と筆記具さえ出してしまえば仕度は終わり。残り少ない休み時間を謳歌しようと、各々の生徒達は自由に行動していた。
「ぐふぅぅぅぅぅぅ……」
ただし、花中は好き好んで唸り声を上げている訳ではないのだが。
「(何とか……何とか遅刻しないで済んだ! 朝食を焼き魚と味噌汁付きご飯じゃなくて一昨日の晩ご飯の残り物にして、お昼はコンビニで買って、走っちゃいけない廊下を全力疾走したから遅刻してない! 頑張ったよわたし!)」
今朝のドタバタを思い出し、花中はかつてないほど自分を褒め称える。
今日花中が教室に辿り着いたのはホームルームが始まった直後、厳密に言えばギリギリアウトな時間だった。担任教師が遅刻に寛容な ― と言うより、何事に対しても大雑把な ― 人物でなかったなら、そして時間短縮のためにした行為が一つでも欠けていたのなら、間違いなく遅刻となっていただろう。
特にフナ少女が戸締りをしてくれたのが幸いした。
遅刻寸前でドタバタしていた時、花中はフナ少女に「私が戸締りや火元の確認をしておきます」と提案された。提案自体は嬉しかったが、花中は頷くべきか迷った。どちらも自分の家の事であり、他人に任せるのは申し訳ないと思ったからだ。しかし生真面目で心配性な花中は、戸締りや火元の確認に時間を掛けてしまうタイプ。自分でしていたら朝のホームルームに間に合わない事は、花中自身が一番確信していた。
なので渋々ではあるが、花中はフナ少女に戸締り等々を任せた。お陰で出発する時間を大幅に短縮出来、遅刻せずに済んだのである。鍵は庭にあるプランターの下に隠してもらう手筈になっており、一日だけなら、空き巣に探り当てられる心配はないだろう。
「(大変だったけど、なんか、二人で出した結果って思うとちょっと嬉しいな……)」
「随分楽しそうね、大桐さん」
「ふぇ?」
どうやら嬉しさのあまり顔がにやけていた……のが分かる言い方で話し掛けられ、花中は身体を起こして声が聞えた方を見る。
目に入ったのは、自分の席の傍に立つクラスメート・立花晴海の姿。
それを理解した途端、花中は自分の身体から「心臓に穴が開いちゃったのかなぁ?」と思うぐらいの勢いで血の気が引くのを感じた。
「(ど、どどどどどどどどどどどどどどどどどどどぉーっ!?)」
どうしよう、の一言を心の中ですら言えないほど花中は取り乱す。遭難したり、友達が出来たり、その友達が魚だったり、遅刻寸前だったり……色々あってすっかり失念していたが、花中が波乱万丈な一日を送る事になった根本の理由は、晴海が野鳥観察をしないかと誘ったからだ。とはいえ花中は晴海を非難する気なんて更々ない。それどころかお陰で友達が出来たのだから感謝しているぐらいだ。
しかし晴海からすれば、誘ったにも拘らず花中は来てくれなかった事になる。行こうとはしたが、行けなかったのだから結果は同じだ。折角の好意を無下にされ、きっと怒っているに違いない。
「はわ、はわ、はわわわわ……!」
頭の中が真っ白になった花中は身動き一つ出来ず、責められるのを怯えながら待つだけで――――
「ご、ごめんなさいっ」
晴海に謝られてしまった。
謝られた、と花中の脳が理解するまでにかかった時間は約五秒。首を傾げる、という行動を無意識に起こしたのは、それから更に五秒経ってからだった。
「……………あれ?」
「あたしの描いた地図、分かり辛かったでしょ? 実は昨日お姉ちゃんに言われてねぇー……あたし、絵が滅茶苦茶下手だったようで。行きたくても行けなかったわよね」
「そ、れ、は、あの」
「やっぱり直接案内しないと駄目だったわね、うん。大失敗。それにロープウェーの場所、結構分かり辛いところにあるし」
「いえ、えと……ロープウェー?」
「うん。最近泥落山ってロープウェーが作られてね、すいすいーっと頂上まで行けるんだよ。所謂無駄な公共事業ってやつ。ま、あたしはよくあの山に行くから便利に使わせて……どったの?」
「いえ……なんでも……ないです」
ロープウェーに気付かなかったせいで、クマに嬲り殺されそうになったり転落死しそうになったり溺死しそうになったりしただけです――――とは言えず、花中は両手で顔を覆いながら静かに泣く。
「(……あれ……?)」
泣いて、いくらか気分が晴れてからハッとなる。
お話、出来ている。
フナ少女の時ほどではないが、普段よりずっと話せているではないか。
「よく考えたらいきなり泥落山は難度高過ぎたわよね……もっと安全で、鳥がたくさん観察出来て、尚且つ近場はないかしら……むむむむむむむ」
顔を覆う指の隙間から覗いてみると、晴海は一人唸っていた。
きっとこの後、晴海は自分を遊びに誘ってくれる。
普段なら緊張とパニックで頭が真っ白になってしまうのに、今日は晴海が何を言おうとしているのか簡単に予想出来た。そして晴海と友達になるために、自分から何かする必要もないと察する。誘われるがまま晴海と一緒に遊びに行って、お喋りをある程度楽しめば良いのだ。
――――あのフナ少女の時と、同じように。
「そうだ! あの雑木林なら」
「あ、あの!」
そこまで分かった上で、花中は晴海の話に割り込んだ。
何もしなくても晴海は仲良くしてくれるだろう。だがそれは、周りが優しくしてくれているだけ。自分からは何もしていない。声を掛けて、相手が逃げない事を期待するのと同じ……今までと、何も変わらない。
そんなのは嫌だ。
友達になってもらう自分ではなく、作れる自分になりたい!
一回、二回と深呼吸。気持ちを落ち着かせた花中は、割り込んだ事を責めず、首を傾げつつも優しく微笑んでくれる晴海に向けて花中は叫んだ。
「わ、わた、わたしと、とと、友達になってくらひゃびっ!?」
叫んだら緊張し過ぎて舌を噛んでしまった。花中は真っ赤になった顔を俯かせ、手足をモジモジ。
晴海が口を開いたのは、それから少々間を開けてからだった。
「……えーっと……どゆ事?」
「ず、ずっと、とも、友達が、欲しく、て……で、でも、中々、出来、出来、なくて……だから、あの」
「……ひょっとしてなんだけど……時々、うちのクラスメートに近付いていたのは……友達になってほしかったから……なのかしら?」
数秒前より明らかに声がトーンダウンしている晴海に訊かれ、その通りだったので花中は何度も何度も頷く。
「じゃあ、なんで人を睨むの?」
「目付きが、わ、悪い、のは……えと、緊張、すると、何時も、こうで……ごめんなさい……」
「人から金品を奪ってるって噂は?」
「そ、そんな悪い事、で、で、出来ません! してませんっ! 落し物は、その……ちゃんとは、出来な、かったけど……と、届けて、ます。机の、上とか、に」
「不良疑惑は?」
「えぅ? ふりょう?」
「髪は真っ白、目は真っ赤……染めたり、カラコンしてんじゃないの?」
「あ、こ、これ、は……あの……曾お爺ちゃん、からの、い、遺伝、で……地毛、です。目も、曾お爺ちゃん、譲り……えへへ」
何故か始まる質問攻め。思えばフナ少女は自身の事はたくさん話してくれたが、花中についてあまり訊いてはこなかった。こんなにもたくさん自分の事を訊かれたのは生まれて初めての経験で、花中は照れ笑いを浮かべてしまう。
「昨日あたしが野鳥の観察に誘う前から、あたしと友達になりたかったの?」
「なりたかった、ですっ!」
段々舞い上がってきた花中は新たな質問に元気よく答え――――晴海は顔に手を当て、項垂れた。
瞬間、花中の顔色は紅から青へ。
「(へうぇええぇえええええっ!? な、なんで!? もしかして怒ってる!? それとも呆れられてる!? わ、わたし、わたし何かしちゃったの!? あわわわわわわわわ調子に乗り過ぎたのかなどどどどどどどどーしようぅぅぅぅぅぅ!?)」
脳裏を瞬時に駆け巡る数多の不安。モジモジしていた手足は小刻みに震えだし、思考力はどんどん失われていく。辛うじて浮かんだ秘策も「土下座して謝ろう!」で……身体が硬直して動けない。
「ぷ、は、ははははははははははっ!」
尤も、花が咲くように明るく晴海に笑われて、不安なんて一蹴されてしまうのだが。
「……たち、ばな、さん……?」
「やれやれ、思いっきり遠回りしちゃったじゃない。まぁ、よくよく考えたら直球勝負の方があたし好みだしねぇ。普段頭を使わない人間が策を弄したところで、空回りするだけって事か」
「こ、好み? 策って……あの、何が」
「大桐さん」
「はひっ!?」
不意に名前を呼ばれ、花中は背筋をピンと伸ばしながら返事をする。すると晴海はどういう訳かくすりと笑い、笑われた花中はショックで涙目に。
「さっきのお願いに対する答えだけど、勿論OKよ」
そして晴海は、一瞬何の事か分からない『答え』を伝えてきた。
「……………あ、あああのあああの!? そ、それ、それって」
「友達になってくれってお願いしてきたじゃない。それにOK、つまり友達になるって事」
「はわわわわわわわわわわわわわわ」
嬉しさのあまり花中は椅子から立ち上がり右往左往。しかし晴海が頭に手を乗せてきたので、驚きのあまり急ブレーキが掛かった。
何だろう……と花中が思っていると、晴海の手は花中の髪をぐしゃぐしゃにする。いや、ぐしゃぐしゃにしているのではない。撫でているのだ。まるで大きな犬を相手するかの如く、豪快に。
「全く。人と話すのが嫌いな子かと思ったら、単に口下手なだけだったなんてね。怖がって損したわよ……打ち解けてほしくて面倒な企画をする羽目にもなったし」
「? 企画、ですか?」
「つーまーりっ! あたしは大桐さんがクラスの皆と打ち解けてほしいと考え、まずは自分が友達になろうと考えたのです! 野鳥観察は大桐さんを誘い出す口実ね!」
両手を広げながら、ネタ晴らしと言わんばかりに晴海が真意を明らかにする。
驚いた。そんな言葉では言い表せないぐらい、花中の心が乱れる。
顔が怖い事は知っていた。不良だとか強盗紛いの行為をしていたと誤解されていたのを今聞いた。そんな自分と友達になろうとするなんて、それも人間ではないフナ少女なら兎も角、クラスメートである晴海がそんな事を考えていたなんて――――あり得ない。
ややあって花中が口から絞り出せたのは、狼狽を隠しきれない疑問の言葉だった。
「そんな……なん、なんで……わたしと……」
「クラスメートだから、じゃ駄目かな?」
「だ、ダメじゃない、ですけど……でも、わ、わたし、こんな……」
「……あたしね、小学校の時、家でのいざこざが原因でぐれていたの」
「え? ぐ、ぐれ……?」
唐突に語られる晴海の過去に、ついていけなかった花中は訊き返してしまう。晴海は小さく頷くと、何を考えているのか天井を見上げ……やがて自嘲したように深いため息を漏らし、飄々と、演じているかのような語り口で話し始めた。
「ぐれたと言ってもそこまで悪い事はしてないわよ? 親に反抗したり、夜遅くまで道草食ったり……誰も自分を分かってくれないって不貞腐れて、自分に関わろうとする人を全部拒絶しただけ」
「拒絶……」
「親はあたしに構ってる場合じゃなかったし、中学生だったお姉ちゃんに不良小学生の更正方法なんて分かる筈ない。そしてクラスメートはあたしを更生させる義務なんてない。結果、あたしは独りぼっちになった。それ自体は別に後悔してないっていうか、あの時は独りになりたかったから良いんだけど……」
「けど……な、何か、あったの、ですか?」
「……一人だけね、ぐれたあたしをずっと気に掛けてくれる、親友だった子が居たの」
『だった』を強調したような、花中にはそう聞える言い方で晴海は答える。その言い方に込められている意味はまだ分からない。だが……雰囲気の重さに、花中は思わず息を飲んでしまう。
「その子はさ、何時もあたしに話し掛けてきたの。一緒に帰ろうとか、一緒遊ぼうとか……あの時はうっとおしいって思っていたから、全部断っちゃったけど」
「も、勿体ない……」
「それ、大桐さんの本音?」
「え、あ、あわわわ!? ここ、これ、これは……」
「気にしないで。あたしもそう思うし」
晴海はくすくすと、明るく笑う。まるで本当に……おかしな事があったように。
「その子ね、ある日、今日のうちに話しておきたい事があるって言ったの。でもあたしはそれを拒んだ。アンタなんかと話す事はないって言って、逃げちゃってさ」
「えと、で、でも、ちょっと、感情的になった、だけです、よね? その、ちゃんと、話せば、きっと、その人も、理解して……」
「次の日、その子転校しちゃった」
「えっ……」
明るい結末を望んでいた花中の胸に、晴海の言葉がナイフの如く突き刺さる。どろりと、心から赤黒いものが溢れるような錯覚に、脳が、思考が揺さぶられた。
「多分あの日、連絡先とか教えようとしてくれてたんだろうけど、あたしは聞こうともしなかった。だから、あたしはあの子が何処に引っ越したのか知らない。家のいざこざがひと段落ついて、もうぐれなくて良くなって。だけどその時にはもう、親友だと思っていた子は居なくなっていた」
「そ、んな……そ、その子とは、今は……」
「今も会えていない。小学生の頃の同級生に聞けば連絡先ぐらい分かると思うけど……でも、もしかするとあたしの事なんて忘れてるかも、恨んでいるかもって思ったら怖くてさ。だから多分もう会えないし……『会いたくない』のが本音かも」
「そんなの、そんなのって……」
なんでそんな酷い事に。
その言葉を花中は言えない。言ってはいけないと、必死に喉の奥に閉じ込める。晴海の好意を無下にした――――知らず知らず過去の晴海と『同じ事』をした自分に、言う権利なんてないと思ったから。
「そんな経験があったからさ、どーも孤立しようとしている人は放っておけなくてね。大桐さんは人を避けているように見えたから、なんとか友達になろうって考えたのよ。ま、単なる自己満足だし、結局は勘違いだった訳だけどね」
言葉を失った花中を見てどう思ったのだろう。さも大した事ではない、つまらない話だと言わんばかりに、ケラケラと笑いながら晴海は話を終える。
花中はそんな晴海に、声を掛けられない。
臆病者だった自分を気遣ってくれて嬉しい。例え自己満足でも、例え勘違いでも、そのお陰で花中には友達が出来た。もしも晴海までもが避けていたら、今も花中は孤独だっただろう。
なのに花中は晴海の好意を受け止められず、あろう事か晴海の居ない場所でその好意を疑っていた。
卑屈で、情けなくて、自分勝手――――こんな自分に誰かの友達なんて相応しくない。
頭に過ぎったそんな想いを打ち払わんと、花中は頭を力強く横に振る。
自分は卑屈で情けなくて自分勝手で、誰かの友達に相応しくなかった。だから昨日まで友達が一人も居なかった。
だが今の自分には友達が居る。なら、今の自分は昨日までの自分とは違う。
「ごめんな、さい……ごめんなさい……!」
まずは心からの謝罪を。愚かな自分に別れを。
そして心からの感謝を伝え、晴海と本当の友達になる!
「ゆるさなーい」
という花中の思惑は、晴海の一言で無残に打ち砕かれてしまった。
「……ふぇ?」
「いらぬ心配させられたしー、昔を思い出してちょっと嫌な思いもしたしー」
「ふぇ? ふぇ、え、うぇ?」
「だから許しません。絶対に」
「ふ、ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
ショックのあまり花中は目に涙を浮かべる。涙が決壊寸前のダム並に溜まった花中の目に、晴海の悪意たっぷりな笑みは映らなかった。
「そ、そんなぁ……な、なら、どうすれば……」
「ほっぺたをむにむにさせなさい」
「む……え?」
「ほっぺたをむにむにさせなさい」
許しを請いたところ、いきなり提示された『むにむに』なる言葉に花中はきょとんとなる。どうやらほっぺたに何かをするつもりらしいが、何をするのかサッパリ分からない。
「む、むに? え、なに? なに? なんで?」
「理由などないっ! 強いていえばそこに柔らかそうなほっぺたがあるからさ!」
だから尋ねたのに晴海の回答は支離滅裂で、困惑する花中を無視するように彼女は両手を伸ばしてきた。
『むにむに』が何なのかは分からず仕舞いだが、晴海が「許さない」と言っていたので罰の一種なのだと花中は推測。もしかするととても痛い事なのかも知れないと思い始める。
友達になった人から加えられるバイオレンスを想像し、花中は身体を縮こまらせた。喉も震えて声が出せない。相変わらず目には涙が溜まったまま。
花中にはもう、痛くしないでと願う事しか出来ない。
自分より背の高い晴海を見上げ――――子猫の如く潤んだ瞳を、ぷるぷると身体を震わせながら向ける事しか、出来なかった。
「……可愛い」
「……え?」
「貴様それはあたしが小動物好きと知っての行いかあああああああああっ!?」
「え、ぅえ、うえええええええっ!?」
顔は紅く、目付きは鋭く、鼻息は荒くしながら、晴海は花中目掛けて猛獣の如く勢いで跳び掛かってきた。何が原因かは分からないが火に油を注いでしまったらしい。
最早諦めるしかない。だったら『むにむに』という行為さえ受ければ諸々のお怒りを許してもらえると考えよう。
ネガティブに覚悟を決めた花中は、ぎゅっと目を閉じ――――
ばしゃっ! と、ほっぺたを触ったのとは違う気がする音を聞いた。
「……?」
やがて、何時まで経っても自身の頬に異常が起きない事を不審に思い、花中は力強く閉じていた瞼を恐る恐る開ける。
開けた瞬間、全てに合点がいき、全てに疑問を覚えた。
真正面に立っている晴海が、どういう訳かずぶ濡れだったのである。
利発そうな髪型は水の重みで潰れ、まるで亡霊のよう。服もブラウスの袖からスカートの淵まで、至る所でぼたぼたと水を垂らしている。足元には大きな水たまりが出来ており、池にでも落ちたのかと訊きたくなる惨状。実際昨日の、池に落ちてすぐの花中と良い勝負の濡れ具合だ。身体がプルプルと震えているのは……濡れて冷えたから、ではないだろうが。
目を閉じていた時に聞いたのは、晴海が水を被った音だったらしい。いきなり水を被ったのなら、驚きのあまり『むにむに』するのを忘れても不思議ではない。日々驚いて思考停止に陥る花中にはよくある事だ。
問題は、一体何故晴海は水を被る事となったのか。
花中達が居るのは教室の中であり、大量の水なんて存在すらしない場所だ。何らかの『事故』で水を被ってしまうという事態は考え難い。ならば一体何が起きたのか? 不謹慎だとは思うものの、好奇心が掻き立てられるのを花中は否定しない。
それでも、被害者である晴海本人に説明を求める気にはならなかった。
露骨かつ高威力な地雷を踏む勇気など、花中にはないのだから。
「ふっざけんなああああああああああああああああああああああっ!」
耳がびりびりしそう。
自分以外の人もそう思ったに違いないと花中が確信するぐらい大きな声で、晴海は自身の背中側に居たクラスメート達に向けて叫んだ。次いで、一体誰が自分に水をぶっかけたんだと、憤怒の形相で問い詰める。
問い質す『方向』は正しい。花中の席は窓際最後列であり、晴海の正面に存在するのは身体をぷるぷると震わせていた花中と、花中の隣の席で傍観していた女子生徒ぐらいなもの。仮にこの惨状が事故ではなく『事件』であるならば、『犯人』は晴海の背中側以外に存在しない。
だが晴海の背後、問い詰められたクラスメート達の誰もが困惑した表情を見せるばかり。
誰かが自首する事も、犯人を告発する事もなかった。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!? なんでみんな黙ってるの!? 誰がやったかぐらい教えてくれても良いじゃない!」
「い、いや、そんな事言われても」
「私達にも、分からないと言うか……」
「そ、そうだよ! 俺達じゃない! だから少し冷静に」
「じゃあ何!? 天井に水道管が走ってて、偶々あたしの上で破裂したって事!? あり得ないでしょ! 天井に穴開いてないし水全然出てないし! って事はアンタ達の中の誰かがあたしに水を掛けたに決まってるでしょ!」
背後に居たクラスメート全員に詰め寄りながら、自分が冷静であると説明せんばかりに言葉を並び立てる晴海。しかし顔を真っ赤にし、状況証拠だけで犯人を捜そうとする様はお世辞にも冷静とは言い難い。怒鳴られ問い詰められなクラスメート達も一様に困惑している。
その失われた冷静さを補うかの如く、花中は教室に居る誰よりも冷静だった。
「(うーん。全身びしょ濡れになってもまだ水が滴ってる……バケツ一杯分はある、かな……)」
晴海が浴びたであろう水量に検討を付け、花中は改めてクラスメート達と教室を眺める。当然バケツ一杯分という相当な大きさの容器など、教室に居る誰もが持っていない。持っていたらこんな計算をせずとも犯人が分かる。激昂している晴海だって気付く、と信じたい。
他にも袖や足元が濡れている者が居ないかも探す。居たなら犯人の最有力候補であり、それなら怒り狂う晴海が気付かなくとも不自然ではない……が、花中には見付けられなかった。見落としているかも知れないが、そこを考慮したらきりがない。今は『居ない』という事にしておく。
最後に、今更ながら天井から水が漏れていない事も確認。先程晴海が叫んだように、この奇妙な出来事が事故ではなく『事件』である、との確信を抱く。
さて。事件だとすれば、花中が思い付いた可能性は二つ。
一つは晴海が至ったのと同じ、水を掛けたのがクラスメートの誰かという可能性。ごく自然な考えのようで、見る限り誰も『凶器』を持っていないのが致命的な問題だ。バケツサイズの物体を一体何処に隠せば良いのか。しかもクラスメートでひしめき合う教室で、誰一人『犯行』を目撃していない理由も分からない。
もう一つは――――犯人は教室の外、廊下から何らかの方法で水を掛けてきたという可能性だ。これなら教室に犯人が居なくても、犯行道具が残されていなくてもおかしくない。身を隠してこっそり『犯行』に及んだとすれば、目撃者が居ない事にも納得がいく。教室内の誰かが、と考えるよりは合理的に説明出来る事が多い。
……多いような、気はする。
「(それはないよね、常識的に考えて)」
花中は外から水を掛けられた可能性も排除した。
晴海の足元には水たまりがある。だが、晴海から伸びている水たまりはない。犯人がどのような方法で晴海に水を掛けたにしろ、発射地点と着弾地点を繋ぐように水滴が落ちるのは避けられない。放つ速度次第では改善可能だろうが、窓際である花中の席から教室の外へと通じるドアまで十メートル近い距離がある。そんな彼方までバケツ一杯分の水を、地面に落ちないぐらい勢い良く放つなど人の力では無理だろう。かと言って機械や仕掛けを用意するなんて、やった事に対してコストが大き過ぎる。
よって外から晴海をびしょ濡れにした可能性も、却下せざるを得ない。
なんという事だろう。教室の内にも外にも、犯人の存在出来る領域がないではないか。
「(一体何処に……)」
考えても考えても犯人の居場所にすら見当が付かず、行き詰まった思考はぐるぐると無駄な回転を始める。花中にこの謎を解く義務などないのだが、一度考えたら答えが出るまで悩んでしまうのが幼い頃からの悪癖。正しいかどうかは別にしても、納得の出来る『答え』が欲しい。
やがて花中はため息を一つ吐き、半開きになっている教室のドアから外……廊下へと視線を向けた。そこに後片付けでもたつく犯人が居れば教室外犯人説が正しい、居なければ教室内犯人説が正しい……そんな『占い』をするために。
無論教室の外にもたつく犯人なんておらず、廊下を歩く通行人が居ただけ。
――――しかし花中は、視界に入った通行人を凝視する。
見えたのは後ろ姿だったから顔は分からない。見えたのは一瞬だったから見間違いかも知れない。
それでも花中には今し方廊下を横切った、『金色の長髪を靡かせる女子生徒』を無視する事は出来なかった。花中は無意識に椅子から立ち上がり、
「大桐さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
「ふげっ!?」
教室の外へ行こうとした瞬間、アメフト選手が如く勢いでタックルをかましてきた晴海に阻まれた。阻まれて、小柄な花中は簡単に吹っ飛ばされた。ついでに、吹っ飛ばされた勢いのまま床に頭を打った。
「もう誰も信じられないっ! 目の前に居たあなたしか信じられないわっ!」
晴海のアタックはこれで終わらず、今度は泣きながら花中を抱きしめてくる。抱きしめられた花中の身体からはギチギチと不穏な音が鳴り、小柄な身体が面積的にますます小さくなっていく。
なのに花中は苦痛を訴えない。呻き声すら漏らさない。
「……なぁ。大桐の奴、気絶してないか?」
「うぇ?」
クラスメートが指摘した通り、頭を打った花中はその衝撃で気を失っていたのだから。
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