ファースト・フレンズ2

 午後四時過ぎ。学生達が西日に照らされながら家路に着く時間帯にて。

 行く手を阻むかのように横たわる古木、鬱蒼と茂った葉で陽光を遮る無数の木々、草が疎らにしか生えぬほど薄暗い空間、湿った落ち葉がうっすらと積もり滑りやすくなっている地面、壁のようにそびえる崖、足を滑らせたら楽にあの世へと旅立てそうな絶壁、そこら中から聞こえる不気味な鳴き声――――

 今、花中が居るのはそんな場所だった。

「えっと、こっちかな……」

 所狭しに生える木々の間を潜り抜け、通学鞄片手に花中は前へ前へと進んでいく。木の洞から跳び出てきたカエルに腰を抜かすほど驚いたり、小枝と擦れてブラウスやスカートが汚れたり、手の甲を草で切って泣きそうになったりしたが、我慢して先に進み続ける。

 花中がこんな『自然豊か』な森の奥地を目指すのは、晴海に会いたいから。

 此処こそが、晴海が渡してきた紙に書かれていた集合場所……『泥落山』なのである。

 泥落山 ― 読み方は『でらやま』という ― は花中が住む地域にある、山脈地帯の通称だ。一番高いところでも標高は四百メートル程度。幾つもの尾根が並び、広大な面積を多種多様な常緑樹が埋め尽くしている。これと言って何か有用なもの……例えば鉄鉱石や石炭などの鉱脈、温泉や美しい花畑などの観光資源……はないと言われており、それどころか大昔に起きた地震の影響で地面の至る所が隆起・陥没し、崖が乱立する危険地帯となっている。辛うじて歩ける程度には緩やかな道も地下水の影響で常に湿り、非常に滑りやすい状態だ。当然、うっかり崖から落ちようものなら命はない。

 無価値で危険な山。

 故にこの泥落山を開発しようと思う者、興味本位で登ろうとする者は殆ど居らず、結果手付かずの自然が残っている。一応治水目的で造られたダムはあるらしいが、逆に言えばそれぐらいしか人の手が入っていない。原生の自然の中で、多種多様な生物が暮らしている……と、花中は小学校の頃学んだ覚えがある。あれから数年の月日は流れたが、恐らく今もこの山は生き物達の楽園だろう。

 晴海がこの山でバードウォッチングをしようと提案するのも頷ける。此処ならきっと、多種多様な鳥を観察出来るに違いない。

【ギャアアアアギャアアアアアアアアアアアアッ!】

 例え飛んでいるのが、怪鳥であったとしても。

「だ、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」

 聞えてきた雄叫びに慄いて蹲りつつ、自分を鼓舞しようと念仏のように呟く花中。しかし身体の震えは止まらない。何分生まれついての臆病者で、どれだけ奮い立たせようとしても心から恐怖は消えてくれない。

 それでも何とか気持ちを押し殺し……た気になったと自分に言い聞かせ、花中は足を前に出す。

 ――――しゅー……

「ぎゃぴぃ?!」

 出した途端、足下の倒木から蛇が顔を覗かせたので、跳び退くほど驚いた。そしてぬかるんだ場所で不用意に跳び退いて着地が上手くいく訳もなく、盛大に足を滑らせ……転倒。

「あだっ!?」

 運動音痴な花中は受け身も取れず、頭を打った。花中の悲鳴に驚いたのか、蛇はそそくさと退散。姿を消す。

 危機が去った花中は――――服が汚れる事も厭わず、ぐちゃぐちゃになっている地面の上で大の字になった。そのまま空を仰ぐが、木々に阻まれ青空は全く見えない。鬱蒼とした、気分の暗くなる緑色が視界を埋め尽くすだけ。

 だけど花中はしばし、じっと『空』を見つめる。

「……帰ろう、かな……」

 やがて気持ちが、言葉として零れ出てしまった。

 晴海がくれた紙には『山頂で待ち合わせ』とも書かれていたが、この山に登った経験がない花中には、山頂まであとどれぐらい時間が掛かるのかなど見当も付かない。幾つもある尾根の中で学校から一番近くのものに登ってみたが、此処で合っているかもよく分からない。少し前に携帯電話で時間を確認した時にはもう四時半……教室で晴海が言っていた待ち合わせ時刻はとうに回っていた。恐らく晴海はもう待っていないだろう。

 そもそも学校が終わったのが三時半過ぎ。泥落山は学校のすぐ近くにあるので歩みの遅い花中でも四時には麓に到着したが、いくら小さくとも三十分で山のてっぺんに行こうとするのは無謀だ。いや、不可能と断言出来る。大体恐怖の対象を遊びに誘う人間が何処にいると言うのか。

 即ち――――

「……時間、聞き間違えただけ、だよね……」

 過ぎった不安を別の可能性で否定しようとしたが、駄目だった。

 自分はやっぱり嫌われ者。

 自分にはやっぱり友達が出来ない。

 無駄な事をしたって傷付くだけだ。

 傷付くだけなのだから、孤独を埋めようとしないで引き籠もろう。

 そうすれば、痛い想いをしなくて済む――――

「嫌……もう嫌ぁぁぁ……!」

 花中の目から、涙が溢れ出る。

 物心が付いた頃から何度も何度も孤独から逃げようとし、傷付く度に孤独の中に籠ろうとし……やっぱり孤独が嫌で、傷付くのも顧みず友達を作ろうとした。

 けれどももう『限界』。

 諦められない。苦しいのに耐えられない。この苦しみを埋められないのなら、逃げられないのなら……いっそ、自分を『消して』しまいたい。

 一番手っ取り早く自分を『消す』には……

「……崖から、かな」

 『消えたい』と願った花中はゆっくりと上体を起こし、周りを見渡そうとした

「グ?」

「……ふぇ?」

 ところ、何時の間にか自分の真正面に立っていた動物と目が合った。

 ふんわりとした毛で全身を包み、抱き着けばその暖かさと柔らかさで一気に夢の世界へと旅立てそう。円らな瞳はキラキラと輝きとっても魅力的。四つん這いの姿勢なので正確な大きさは分からないが、立ち上がれば三メートルはありそうなぐらい大きい。気は優しくて力持ち、そんなキャラクターに相応しい見た目だ。

 花中が日本人でなかったなら、或いは日本の動物について非常識なぐらい疎かったなら、その動物――――『クマ』の愛らしさに中てられて、無邪気に抱き着いていたかも知れない。

「って、クマぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぶっ!?」

 しかし日本人であり、日本の動物に人並以上に詳しい生物系理系少女である花中は、ばっちり恐怖に打ち震えた。本能的に逃げようとして身体が勝手に後退りしようとするが、座ったままの姿勢で素早く動けるものではない。挙句地面に着いた手がぬかるみに取られて滑り、間抜けにもすっ転ぶ。

 そして転んだ花中の眼前を、黒い何かが横切った。

 ハッキリとは見えなかったので何が横切ったのかは分からなかったが、『それ』は転んでいなければ丁度花中の顔面に接触したであろう軌道を描いていた。近くにはクマが居るので、クマが何かしたのだろう。

 花中が少しだけ頭を上げて見てみれば、クマの姿勢がちょっと変わっている。右前足が浮いていたのだ。その姿勢から推測するに、恐らく先程の黒い何かは、花中目掛けて振ったクマの右前足だったのだろう。

 名付けるならクマパンチ。チャーミングな名前の癖して、当たれば顔面の肉が削ぎ落されるであろうパワフルな一撃。

「ひぃゃああああああああああっ!?」

 攻撃されたとようやく理解した花中は立ち上がるや、全力で逃げ出した!

「グオオオオオオオオオオオッ!」

 しかし身体を突き飛ばすような咆哮の後、地鳴りのような足音が花中の背後から聞こえてきた。振り向かずとも、今がどんな状態なのかは想像に難くない。

「あ、ああああっ!?」

 悲鳴混じりの声を上げながら花中は逃げる。思えばクマに遭ってからした行動はどれもが悪手。クマと出遭ったら大きな声は出さず、刺激しないようゆっくりと後退りして離れるのが正しい対処法である。大声で叫んだ挙句全力疾走で背中を見せるなど、間違っているを通り越してクマに喧嘩を売っているようなものだ。

 尤も今更悔いても後の祭。大事なのは今、この危機から脱せられるかどうか。

 クマは最大時速六十キロで走る事が可能だと言われている。だが本気で襲う気はないのか、それとも悪路だからか。このクマの走りは遅く、花中は未だ追いつかれていない。それでも徐々に大きくなる背後の足音が、花中の遠くない未来を予言していた。

 逃げ切るのは不可能。ならば戦うしかないのか?

 否、石や木武器を拾うために足を止めたら、その瞬間射程圏内に捉えられて嬲り殺されてしまう。手に持っている通学鞄も、武具として扱うには強度も質量も足りない。そもそも貧弱な花中が何を持ったところで大して強くはなれず、挑んだところでクマからしたら獲物が自らすり寄ってきたのと変わらない。寿命を縮めるだけだ。

 逃げても殺される。戦おうとしても殺される。八方ふさがりで、どうにも出来ない。

 だけど死にたくない。

 いくら孤独が嫌でも、諦めるのが辛くても――――

「やっぱり、し、死ぬのは……もっと嫌ああああああああああああっ!」

 最早前が見えないぐらいがむしゃらに、駆ける!

 垂れ下がった木の枝が頬を引っ掻いても、手は頬へと伸ばさず振り続けた。

 行く手が倒木で塞がれていたが花中の目には映らず――――その手前で落ち葉に足を取られて転び、地面を滑った身体が倒木の下を潜り抜けた。

 生き残りたい意思と運……この二つだけで花中はクマから逃げ続ける。奇跡を幾度となく掴み、追跡を終わらせない。

 しかしいくら心を強く持とうと、いくら幸運に恵まれようと、肉体は何時までも好調ではいられない。元々少ない花中の体力はあっという間に枯渇し、痛みを訴える太ももの筋肉は動きが鈍くなっていく。いくら息をしても酸素が足りず、頭の中が白く塗り潰されていく。

「あ、ふにゃ!」

 ついには足がもつれ、前のめりに転んでしまった。地面がぬかるんでいたお陰で顔から着地してもあまり痛くなかったが、命を代価としている割には安過ぎる幸運だった。。

「(ああ……こんなところで死んじゃうなんて……)」

 達観した花中の耳に、ドシャ、ドシャ、と重量感のある足音が届く。無様に倒れる花中を見てもう逃げないと思ったのか、足音はゆっくりだった。

 このまま背中から鋭い爪で引き裂かれて、わたしの人生は終わりなんだ――――走馬灯は過ぎらず、花中の頭を支配するのはただただ暗い恐怖の念だけ。抗う術もなく、花中は両手で頭を抱え、やってくる痛みに怯えてぎゅっと目を瞑った。瞑り続けた。

 ……なのに、何時まで経っても花中は引き裂かれない。

「……………?」

 花中は恐る恐る顔を上げ、後ろを振り返る。

 視界に入ったのは、あと数歩で自分を射程圏内に収めるであろう位置に立ち止まっているクマの姿。追いつかれていたと改めて認識し、花中はまた顔を伏せて現実逃避を始める。念仏も唱え始めた……南無阿弥陀仏、の部分しか知らないが。

 その念仏を十五回ほど繰り返した辺りで、花中はもう一度疑念を抱く。

 何故、クマはあと数歩の距離を詰めてこない?

「……………???」

 再び顔を上げた花中は、今度は恐る恐るではなく後ろを振り返る。

 クマは先程振り向いた時と同じ場所に立っていた。正確にはやたら足踏みをしているので、身体はふらふらと動いている。だがそれだけ。花中との距離に変化はない。

 試しに花中はゆっくりと立ち上がってみたが、クマは鳴き声一つ上げなかった。

「(お、襲ってこない……のかな……?)」

 まじまじとクマの顔を見つめてみたところ、彼(?)から憤怒や興奮は感じられない。かと言って花中の形相に怯えている訳でも、獲物が怯えている様を楽しむようでもない。強いて言うなら困惑している様子で、捕食者らしい堂々とした風格はあまり感じられなかった。

 もしかすると、今なら逃げられるのでは?

 ふと、頭を過ぎる考え。確証なんてない。逃げようとした瞬間クマの様子が一変し、襲い掛かってくるかも知れない。刺激せずこのままじっとしていれば、クマは諦めて去っていくかも知れない。

 しかし花中は、逃げるなら今しかないと思った。立ち止まっていてはやがてクマに襲われると思った。確証などないが……本能的に、そう確信した。

 だから、クマよりも早く覚悟を決める。

「……………」

 呼吸を整え、鋭い眼光怯えた眼差しでクマを射抜きながら、花中はゆっくりと後ずさる。

 一歩目。クマは足踏みするだけで近付いてこない。

 二歩目。クマの足踏みが慌ただしくなる。が、やはり近付いてはこない。

 三歩目。草むらに足を突っ込んだ。クマは地団駄を踏むばかり。

 四歩目。花中の身体が大きく後ろに傾く。

「え?」

 何か変、と感じた次の瞬間、花中の視界には青空が広がっていた。今まで大木の葉に阻まれて見えなかった、雲一つない見事な青空だった。

 ここで何故自分の『背後』を見ようとしたのか、花中にも分からない。

 ただ、『後ろ』を振り向いた花中の目に入ったのは――――とてつもなく険しい斜面。

 花中は理解する。

 どうやら自分の逃げた先には、草木に隠れていたが崖があったのだ、と。聡明なクマはこの崖から落ちたくないから足を止めていたのだ、と。

 そしてマヌケな自分は見事に足を踏み外し、崖から落ちているのだ、と。

「ひゃあああああああああああああああああああ!?」

 理解したところで重力には抗えず、花中は崖から落ちてしまう!

「ぎゃんっ!? ぐぇ! ぴっ!?」

 平たい岩に顔面をぶつけ、段差になっている場所から落ちて背中を打ち、木の枝に靴が引っ掛かって脱げ、放してしまった鞄が彼方へと飛んでいって……転落事故にしては軽い、本人からすると酷い目に遭いながら花中は崖を落ちていく。その過程でついた加速は相当なもので、ようやく平らな地面に到達しても、花中の身体は止まらずに転がり続ける。

 花中が止まったのは、大量の『何か』で満ちている場所に落ちてからだった。

「ごぼっ!? がぼ、ごぼぼぼぼっ!?」

 突如訪れた息苦しさの中で、花中は本能的に自分が水中に居ると察する。察するが……水面まで上がれない。本来花中は泳げるのだが、いきなりの事に驚いて泳ぎ方を失念してしまった。挙句衣服が水を吸い、鉛のように重くなっている。まともに泳げずもがくばかりで、もがいて、もがいて、もがいてもがいてもがいてもがいて……だけど息苦しくなるばかり。

 まだ死にたくない。死にたくないが、伸ばした筈の手は段々と水面から離れていってしまって。

「(やだ、やだやだ、やだ、や、だ……)」

 いくら叫べど、開いた口から入るのは酸素ではなく水。やがて暗くなる視界と共に花中の意識も暗闇に溶けていき――――

 刹那、それは起きた。

 『何か』が、花中の背中を押したのである。

「ご、ぼはっ!? え、あ、ぷはっ!?」

 その力は凄まじく、一瞬にして花中の顔が水面から出るほど押し出す……いや、押し出すどころではない。

 花中の身体を水中から飛び出させ、宙へと放り出したのだから。

「ぇあぁ、あぁ!? あ、ぶべっ!?」

 空中で姿勢を直すなんて器用な真似は出来ず、放り出された花中は地面へと落下。ぼふん、と厚く積み重なった落ち葉に受け止めてもらえたお陰で衝撃は左程なかった。息も出来るようになり、ズキズキと全身に走っていた酸欠の痛みは一気に鎮まっていく。

 それでも動揺は未だ冷めやらぬ。死から逃れたという実感も湧かないうちに花中は顔を上げ、弄ばれた獣が如くおどおどと辺りを見渡す。

 どの方角を向いても真っ先に見えるのは崖。どうやら此処は周囲を崖に囲まれた、山にぽっかりと開いた穴のような場所らしかった。地面には落ち葉が隙間なく積もっており、草木は一本も生えていない。そしてそ中央に今し方花中が溺れ死にそうになった水溜まり……いや、池があった。池の大きさは、ざっと半径十メートル……

「はぁ……はぁ、はぁ……はぁっ……はぁ、はぁ、はぁ……あ、く……」

 ここまでが限界。

 息は出来ても体力の回復までは追いつかず、花中はその場に倒れ伏してしまった。もう指一本動かせないほど全身が重く、意識も再び、最早心地良さすら感じる勢いで遠退いていく。

 それでもせめて、せめて此処が本当に安全なのかだけは確かめようと花中はうつ伏せになっている身体を仰向けにして――――

 目の前に広がる青空に、心奪われた。

 本当にこの場所はぽっかりと開いた穴らしく、崖上に生える木々の葉が円形の縁を作っていた。円の内側を満たす青空は何処までも高く、見ているだけで身体が浮遊感に包まれる。その浮遊感は母親に抱っこしてもらった時のような、優しさと暖かさを感じさせてくれた。疲れ切った身体で感じるには極上過ぎる快感であり、今までの苦痛がこの快楽の代価ならばむしろ安く思えてくる有り様だ。

「(……後の事は、服が渇いてから考えようかな……)」

 疲れ切っていたからか、それとも心地良さのせいか。いよいよ遠退く意識を捕まえ続けるのが辛くなり、花中は目を瞑る。

 今は疲れた体を癒そう。滅茶苦茶に走り回った挙句崖から転がり落ちたから、帰り道なんてきっと分からなくなっている。けど、どうでもいい。その程度の事、大したピンチではない。

 人類の英知の結晶と言える、あの万能の通信端末が手元にある限り、助けなんて何時でも呼べるのだから。

「って、ああああああああああああああああああああああっ!?」

 そこまで自分に言い訳をして、花中は叫んだ――――転がり落ちた時よりも大きな声で。

 疲れ切った身体を気持ちの勢いだけで起こし、花中は慌ててスカートのポケットに手を突っ込む。無いなら良い。転がり落ちた拍子に放してしまった鞄の中とか、そこら辺とか、逃げ回った山道とか……兎に角、何処かに落ちている可能性が残るのだから。だから花中はポケットに突っ込んだ手が、何も触れない事を期待した。

 残念ながら、花中の手は『それ』を掴んでしまった。

「……………」

 濡れ鼠だから、では説明出来ない勢いで身体が冷めていくのを感じながら、花中はポケットの中身を取り出す。

 出てきたのは、自分と同じぐらいぐっしょりと濡れた携帯電話。今ではガラケーと呼ばれるようになってしまった、やや時代遅れの通信端末。

 その携帯電話を花中はおもむろに開いてみたが、画面はまっくろくろすけ。ボタンを押しても反応なし。電源を入れようとしても入らない。振っても叩いても、うんともすんとも言わない。

 当然である。花中の携帯電話には、防水加工なんて施されていないのだから。

「……………本格的にわたし、死んだかも」

 使えなくなった携帯電話を投げ捨て、花中は膝を抱えて蹲る。

 普通の家庭なら、深夜になっても子供が帰ってこなければ、何かあったと察して警察に通報してくれるだろう。しかし花中の場合両親は仕事で海外暮らしのため、娘が家に帰っていない事すら気付いてはくれない。友達もいないので、明日学校を休んでも不審に思ってくれる人は一人としていない。

 故に遭難となった場合、花中は自力で助けを呼ぶ必要があった……それが可能な最強にして唯一無二のツール・携帯電話が沈黙。これでは誰かに助けを求める事が出来ない。火を起こせば煙を見た誰かが或いは、と閃くも、付け方の知識はあっても技術がないので無理だと気付く。

 状況は最悪。抗う術は分からず。

 あまりにも絶望的な現状を前にして頭が真っ白になった花中は、休息を要求する身体に従いその場で横になった。所謂不貞寝。考えるのが嫌になり、思考を放棄しようとする。

 そしてそのまま静かに目を閉じ――――

「少しよろしいですか」

 花中の耳に、凛々しさを感じさせる少女の声が届いた。

「っ!?」

 花中は飛び起きて声が聞こえた方へと振り向く。疲れはもう感じていない。感じてなんていられない。人と話すのは緊張するが、しどろもどろしている場合ではない。

 だって人が居るという事は、その人に助けを求められるという事! 生きる希望を前にした花中の表情は自然と綻んでいた。

 しかしその笑みは、振り向いてすぐに唖然とした表情ものへと変わる。

 花中が振り返った先は、自分が落ちた『池』。

 そこに居たのは一人の、見知らぬ少女だった。けれども花中が唖然となったのは、初対面の少女が居たからではない。

 少女が、あまりにも美しかったからだ。

 その少女は足首近くまで伸ばした、熟した稲穂のように美しい金色の髪を持ち、碧い瞳を宝石のように煌めかせていた。芸術品の如く完成された端正な顔立ちは、卓越した美しさ故に人間味が感じられない。不遜さすら感じさせる自信満々な笑みを浮かべていなければ、彼女が生き物だとは思えなかっただろう。豊満な肉体はくすみ一つない艶やかな輝きを放ち、まるで彫刻のようだ。その超越的な美しさの前では、彼女が『水の上』に立っている事など些事に過ぎない。

 そしてそんな圧倒的美貌を少女は一切隠さず、産まれたままの姿で晒していた。剥き出しの美貌は花中の心を一気に侵食し、『人』と話す不安を消し去ってしまうほどだった。

「(綺麗……)」

 相手は裸なのだからこんなにまじまじと見てはいけない……理性では分かっていても、花中は少女から目を逸らす事が出来なかった。見惚れていたのか、それとも崇めていたのか……自分でも分からないまま、ただただ見つめ続けてしまう。

「失礼。此処からだと流石に話し辛いですね」

 我を失う花中に少女は、花中が先程聞いた凛々しい声で早口に詫びを入れると、ゆったりとした動きで歩み出す。不思議な事に少女の足は水に沈まず、アメンボのように浮き続けていた。

 『人間』は水の上に立てない。だから花中は目の前で起きた光景を錯覚やトリックだと疑ったが、すぐに頭を横に振る。

 きっと自分は、神秘的な何かを目撃している。

 トリックや錯覚ではなく神秘を信じたくなった花中は、恐怖を感じる事なく少女を待ち続け――――やがて池から上がった少女は、花中の前に立った。眼前一杯に、両親以外では初めて見る他人の裸体が広がるが、羞恥や嫌悪などは微塵も感じない。相手は百七十センチ以上ありそうな長身だったが、見下ろされても威圧感なんてない。あるのは不思議な出来事と人知を超えた美しさに対する、純粋な興奮のみ。

 やがて少女は何かを語ろうとしてか、口元を僅かに緩める。花中は寝る前の絵本を楽しみにする幼子のように少女の言葉を待ち、

「ゴミのポイ捨ては勘弁してもらえませんか?」

 少女の、妙に現実的な言葉を聞いて、興奮は一気に冷めた。

「……え? あ、ご、ゴミ、ですか……?」

「惚けないでくださいよほらあそこにあるアレあなたが捨てたものでしょう?」

 よく分からず戸惑う花中に、少女は問答無用だと言わんばかりの早口で捲し立てるや、ある場所を指差す。少女の指先が示す方向を目で追えば……花中が投げ捨てた携帯電話があった。

 確かにゴミかそうじゃないかで言えば、アレはゴミである。感情に任せて投げ捨ててしまったが、少女が言うようにゴミのポイ捨てはいけない。特に機械類は重金属や特殊な薬品が使われているので、ちゃんとした施設で処理しなくてはならない。たった一個のゴミ、されど一個のゴミ。こういう事の積み重ねが重篤な環境汚染を招く。お怒りは尤もだ。

「あ、えと、す、す、すみ、ません………」

 花中は少女に頭を下げて謝り、携帯電話を拾うために立ち上がる。勢いよく投げたので携帯電話はそこそこ遠くまで飛んでいた。冷静になったからか疲れがどっと戻ってきたが、行きたくないとは言えない。

 花中は疲れ切った身体に鞭を打ち、長くはないが短くもない距離を駆け足移動。携帯電話を拾い、奇跡でも起きてないかなぁー……と期待して再度電源を入れようとする。結果は予想通りだった。

 使えなくなった物をしまうのも何だか間抜けだと思いつつ、花中は小さなため息と共に壊れた携帯電話をスカートのポケットに突っ込む。

「本当にゴミのポイ捨ては勘弁してほしいものですこの池は周囲が崖に囲まれているので人間が入ってくる事はないんですけど風に乗って結構飛んできましてこの池も底にはビニール袋とかペットボトルとかたくさん沈んでいるのですよまぁ流石に人間が落ちてくるとは思わなかったですけどねはははははは」

 そして花中が携帯電話を拾いに行き、ポケットにしまうまでの間、少女はベラベラと喋り続けていた。何処で息継ぎしているか分からないほどの早口だったが、言葉は耳にしっかり残る。水のように透き通った声だからか、脳の奥底まで染みこむように伝わってくるのだ。

 やがて、花中は気持ち悪さを覚え始める。症状は眩暈、耳鳴り、吐き気……乗り物酔いならぬ話酔い、だろうか?

「そもそも……ああ失礼」

 花中があまり丈夫でない身体をふらふらさせ始めた頃、ようやく少女は話を止めてくれた。大自然の空気を吸って、吐いて、不快感はすっと引いた。変わりに気遣いをさせてしまった事に対する申し訳なさが、花中の心に込み上がってきた。

「あ、その、いえ……あの、大丈夫、です……」

「やはり裸はいけませんね」

「……はい?」

「全裸では警戒されても仕方ないでしょう。面倒臭くて服をイメージしなかったのですがやはり身嗜みは大切な事ですよね」

 いえ、裸そのものは別に平気と言うか、むしろ見惚れていたぐらいなのですけど。

 そう思ったが、日常会話すら満足に出来ない花中にこの爆弾発言をする勇気など微塵もない。無言を貫く花中の態度をどう受け取ったのか、少女は考え込むようにしばし自身の顎を指で摩る。威風堂々とした佇まいで考える姿は絵になるが、しかし全裸。今更ながら、恥じる様子もないのは些か変質的である。

「思い付く服装がこれしかありませんのでこれにしましょう。丁度良い事にモデルが目の前にありますしね」

 花中が今更ながら不信感を抱き始めた頃、少女は考え事が終わった事を独り言で知らせてくる――――と同時に、少女に不思議な事が起きた。

 それは間近で見ていた花中にも理解出来なかった。

 何しろ少女の姿が蜃気楼の如く揺らめいた次の瞬間、裸だった少女が花中と同じ、帆風高校の夏服である半袖ブラウスと紺色のスカートを着込んでいたのだから。

「……え?」

「どうですかね? 完璧に模倣してみたつもりなのですが」

 ニコニコと自信満々に微笑む少女が尋ねてきても、花中には答える事が出来ない。完全に呆気に取られてしまう。

 この人は今、何をしたのか。この人は、一体何者なのだ。

 手品師? ただの変な人? よもやドッキリ?

 抱いた疑問に対する答えを幾つも考えたが、どれも心が全く受け付けない。常識的な発想が信じられなくなる。そのぐらい少女の『早着替え』は衝撃的で、花中には理解し難いものだった。

「さて服も着た事ですし先の話の続きと参りましょう!」

 ……とりあえず、お喋りが好きな『ヒト』という認識で問題はなさそうだが。

「まぁゴミを捨てるのは百歩譲って良しとしましょう私達だって環境破壊なんて全く気にせず好き勝手やってる訳ですからしかし一体何処からゴミが来ているのでしょうねこのままじゃ池が埋まってしまいそうで困りますよただでさえ底の浅い池だと言うのにいえ私は自由に動けるようになりましたし他の連中の事などどうでも良いのですがやはり住処を荒らされるというのは嫌なものでして」

 普通の人が一文字発する間に五文字ぐらい話していそうな勢いで、少女は途切れる事無く話し続ける。止めない限り延々と続きそうだが、話下手である花中でも入り込めるような隙間なんてなく、強引に隙間を作る勇気もないので聞き続ける事しか出来ない。

 しかし、花中はそれを嫌とは思わない。慣れてきたのか今では話を聞いていても酔いを感じないし、何より……みんな怖がって近付きもしない自分に話し掛けてくれる事が、嬉しくて堪らなかった。

 花中は少女の話を聞き続けた。ずっとずっと聞き続け、頷いたり相槌を打ったりした。花中が言ったのは精々「はい」とか「はぁ」とか「そう、ですか」の三言ぐらいだったが、それでも花中には楽しかった。

 少女もまた楽しかったのだろうか。一つの話が終われば、終わったと花中が理解するよりも早く次の話が始まり、その話も終われば間髪入れずに別の話が始まる。語られる話は何時までも何時までも……青かった空が茜色に染まるまで続いて、

「そういえばあなたはなんでこの池に来たのですか? 見たところ釣り人でも登山家でもないようですが」

 不意に少女は、花中がすっかり忘れていた事を尋ねてきた。

 幸せに浸っていた花中の思考はここでようやく切り替わる。空が茜色になっている事にも今気付く。

 ついでに、このままじゃ野宿確定、とも。

「……………あ、ああああああああっ!? そ、そうです! あの、あの、その、えっと」

「慌てなくとも私は逃げませんよ。落ち着いてください」

「ぅ……は、はい……」

 宥められてしまい、恥ずかしさで沈黙。それから自分の事情を説明すべく、花中は言い方を考える。

 考えて、考えて……段々と血の気が引いてきた。

 ――――順序立てて説明すれば良いのだろうか。

 ――――それとも手短に、用件だけ伝えた方が良いのだろうか。

 ――――何て言おう。分からない。

 ――――早くしなきゃ。分からない。

 ――――困らせちゃう。分からない。

 ――――呆れられちゃう。分からない。

 ――――嫌われちゃう――――

「ぁ、あ……ぁ、の……」

 頭の中をぐるぐると回る『感情』に、言葉が塗り潰されていく。声が出せなくなっていく。表情もきっと何時もみたいに怖くなっていて、相手を不快にしていると思ったら逃げたくて堪らなくなる。

 普段なら、身体が硬直して結局は動けないながらも、逃げようとしていただろう。

 けれども今は、「逃げたい」とは思っても「逃げよう」とまでは至らない。

 目の前に居る少女が何も言わず、ウキウキとした笑顔で自分の言葉を待ってくれているのに、どうして逃げられよう。

「……なんで……」

「はい?」

「な、んで、あなたは……わたしの、は、話を……待ってくれるの、ですか……? わたし、こんなに、目付き、悪いのに……」

 花中の口から出てきたのは疑問の言葉。質問に答えていないどころか、これでは無視して自分の話を始めたのと変わらない。嫌われたくないのに、嫌われるような事をしている自分にほとほと呆れ返る。

 それでも訊かずにはいられない。

 何故この人は自分の、誰もが逃げ出す目を見ても逃げないのか――――花中には想像すら出来なかった。だからきっととんでもない、余程の理由がある筈。それを知らずにはいられない。

 そう信じていたのに。

「そんなのこちらが尋ねたからに決まってるでしょう?」

「……え?」

 少女の答えはあまりにも普通で、花中は呆けてしまった。

「質問したのは私なのですから答えがくるまで待つのは当然だと思うのですが。それにあなたお喋りが得意ではなさそうですからね時間が掛かるのは想定済みですよ」

 早口言葉のように語られ、花中は理解が追い付かない。目付きが悪くて誰もが、誰とでも友達になれるクラスメートすら震え上がらせてしまう自分を怖がらない理由も全く分からない。

 一つだけ分かったのは――――彼女は自分の本質を分かってくれた事。今まで親以外の誰にも分かってもらえなかった、『上手くお喋り出来ない自分』を理解してくれた事。

 それが堪らなく嬉しくて、花中は自分の目が潤むのを感じた。

「あ、あり、がとう、ご、ざいます……わたしの、は、話を、き、聞いて、くれて……」

「いやいや。まだなんにも聞いてませんから。ゆっくり考えて良いのでちゃんとお聞かせください」

「はいっ……!」

 花中は元気よく、そして、力強く返事をする。

 時間を掛けても良い。それが分かった途端心が軽くなり、感情で塗り潰されていた頭の中にたくさんの『言葉』が浮上してくる。それは正に情報の濁流。普段なら飲み込まれていたに違いない。

 だが、今の花中は飲み込まれない。

 ――――この人にわたしの事を伝えたい。わたしをもっと知ってほしい。

 そう思うとどの言葉を使えば良いのか分かり、口から出てくるのを抑えられないのだから。

「わ、わたし、クラスメートの、人に、さ、誘われ、て、山登りを、していて……だけど、途中で、く、クマに、襲われて……逃げて、足を滑らせて……この場所まで、落ちてきた、ので、す……それで、わた、し、この山の事、あまり、し、知らなく、て、迷って、帰れ、なくて……だから、下山するための、道を、おし、教えて、くださいっ……!」

 一瞬だけ心を過ぎる「本当にこの言い方で大丈夫なのか?」という不安は、成程と呟きながら頷く少女を見て吹き飛ぶ。

 自分の事を知ってもらうのが、こんなに嬉しいとは知らなかった。

 話を聞いてもらうのが、こんなにもワクワクするとは思ってもみなかった。

 親戚以外の相手で初めてする『楽しい会話』に、鼓動の高鳴りが止まらない。少女が何を言うのか、どんな顔をするのか、想像するだけで胸が躍ってしまう。

 そして。

「それは私にも分かりませんねぇ」

 少女の答えと共に、『楽しい』気持ちは消え去った。それはもうあっさりと。

「……………え?」

「生憎私は生まれ故郷から出た事がない身でしてこの山の道についてはなーんも知らない訳です。当然山の外に出るためのルートなど全く分かりません。はっはっはっ」

「そ、そんなぁ……」

 帰れるものだとばかり思っていた花中はへろへろと座り込み、それでもまだ失望し足りなくてがっくりと項垂れる。

 まさかこんなにも自信に満ち溢れている少女が、自分と同じく遭難者だとは思いもよらなかった。お家に帰してくれるなんて約束は交わしていないが、気分は死の間際にブルータスを見付けちゃった時のカエサル。気力がどんどんと失われ、もうこの少女を無視して不貞寝してしまおうか、とも思い始める。

 しかし落ち込む花中の肩を正面から優しく、励ますように叩く者が居た。とは言え此処に花中以外の『ヒト』は一人しか居ない。

 花中は顔を上げて自分の肩を叩いた者――――金髪碧眼の美少女を見上げる。少女はにっこりと微笑み、相変わらず早口なものの今までよりは幾分穏やかに話し掛けてきた。

「まぁそうガッカリしないで」

「これが、ガッカリせずに、いられますか……」

「ですからガッカリしないでと言っているのです。帰り道の案内は出来ませんが一緒に探すぐらいはしてあげますよ。ただし条件付きですけどね」

「条件、ですか……?」

「ええ」

 花中が訊き返すと、少女は何か企んでいそうな悪い笑みを浮かべながら肯定する。確かに出来れば一緒に帰り道を探して欲しいが、しかし提示される条件が自分に出来る事なのか……と不安にもなる。

 花中は上目遣いに、少し怯えながら少女の言葉を待つ。少女はそんな花中の前で一旦胸を張ると、堂々とした仕草を交えながら口を開き、

「私と友達になってくれませんか?」

 告げてきた条件は、突きつけているのは自分の方ではないか? と花中が錯覚するような内容だった。

 しばし思考停止。フリーズ。シャットダウン。

 後に再起動するや、花中はのろのろもたもたと右往左往してしまう。

「あ、あの、あの!?」

「なんでしょうか?」

「い、今、あの! わ、わたたたわたしと、と、ととと、とも、友達、友達になってと、い、言いましたか!? 言いましたよね!? 言ったのはわたしではないですよね!?」

「言いましたねぇ。言ったのは私であってあなたではないですねぇ」

「何でですか!?」

 自分は表情が怖くて、根暗で、面白い話の一つも出来ない。こんな自分と一緒に居てもつまらないだけではないか。

「友達になるのに理由が必要なのですか?」

 そんな『常識』を花中が言葉で吐き出すよりも早く、少女は心底不思議そうに尋ね返してきた。あっけらかんとした言葉だったが、胸に受けた衝撃はまるで殴られたかのよう。花中は一歩、二歩と後ずさる。

「り、理由って、だって……だっ、て……」

「一緒に居て楽しい人と友達になりたいのは自然な事だと思うのですが……違うのですか?」

「ち、違いません、けど……で、でも、でも、わたしなんかと、一緒に、居ても、楽しくない……」

「いえ楽しかったですよ? 私の話をちゃんと聞いてくれましたし」

「わたし、顔が怖い、し」

「サギや鵜に比べればそうでもないと思いますけど」

「せ、性格、暗いし」

「この池に暮らす一般的なフナに比べれば結構明るいように見えますが」

 どれだけ理由を、不安を伝えても、少女は即座に否定する。意味はいまいち分からないが、しかし真っ直ぐ過ぎる言葉に、その場凌ぎやお世辞らしさはない。花中が今まで怯えていたモノの全てが、淀みなく切り捨てられていく。切り捨てられる度に、花中の心から重しが消えていく。

「お、面白い話なんて、出来ない、し」

「面白い話が聞きたいから友達になってほしい訳ではありません。と言うかあなた私と会ってから面白い話なんてしましたっけ?」

 やがて最後の不安が切り捨てられて、花中は言葉を失った。

「? どうしました?」

 何も言わなくなった花中を心配してか、少女は花中の顔前で手を振る。花中も目の前で手を振られているのは分かるのだが、身動き一つ取れない。声も出せない。

 出来たのは、ややあって大粒の涙を零す事だけだった。

「え? ええぇえええええええっ!? 何故泣くのですかまさか私の顔が泣くほど怖かったのですかそんな美少女を形作ったのですからあり得ないというかあまりにも今更過ぎるでも他人の評価なんて分かりませんし反応の早い遅いは人によって違うでしょうしこの人結構鈍そうですしああどうして泣くのですか理由を教えてください私に出来る事でしたら善処しますしいえ理由も知らないのにこういう事を迂闊に言うのもあわわわわわわ」

「ち、違うの。あの、違うの」

 凄まじい早口と勢いで狼狽する少女を制止し、花中は零れてくる涙を拭き取ろうとする。しかし、どんどんどんどん、身体中の水分がなくなってしまいそうな勢いで出てくる涙は拭いきれない。

 嬉しいのに。

 自分の不安が取るに足らないものだったと分かって嬉しいのに、何故か涙が止まらない。

「大丈夫……大丈夫……」

 それは自分に言い聞かせる言葉なのか、今にも泣きそうな顔をしている少女に向けて言った言葉なのか。花中にもよく分からない。だが、次に言おうとしている言葉は少女に向けたもの。それは泣きながら言ったら絶対に可笑しい言葉。

 だから花中は一生懸命笑おうとしたが、そんな必要はなかった。

「わたしも、あなたと友達になりたい、です……!」

 人は本当に嬉しいと、勝手に笑ってしまうのだから。

「ほ……本当に私と友達になってくれるのですか? 泣くほど嫌だった訳ではなく?」

「はい。どちらかと言うと……多分、泣くほど嬉しい、の方、かと」

「そそそうですか! まぁそうでしょうね! 私のような美少女と友達になれるのですからそりゃあ泣くほど嬉しいですよね! はい!」

 あからさまな少女の強がりに、花中はうっかり先程とは異なる笑みを浮かべてしまう。すると少女は紅くした頬を膨らませ、それでも花中が笑みを浮かべているとついにはそっぽを向いてしまった。

 その仕草を見ても、花中は不安をあまり感じなかった。

「じゃあ、あの、今から友達、ですね」

「そうですねっ! その……これからよろしくお願いします!」

「はいっ!」

 少女はそっぽを向いたまま手を花中の方へと伸ばし、花中はその手を両手で握りしめる。手から伝わる少女の体温はとても温かく、花中の身体だけでなく心も温めてくれる。

 許されるなら何時までもこの手を握りしめていたい。初めての友達であるこの少女の手を――――

 そこでふと、花中は重大な事に気付いた。

 この少女、この少女、この少女……さっきからそう呼んでばかり。

 まだ、友の名前すら知らないではないか! それどころか自分の名前を伝えてもいない!

「名前……」

「名前? ……ああそういえばまだ聞いていませんし言ってもいませんでしたね」

「え、えと、じゃあ、わた、わたしから、自己紹介、しても、あの、良い、ですか?」

「勿論。どうぞ」

「はいっ……え、えっと、わ、わたしは大桐、花中、と、い、言います。あの、植物の方の、花って字に、えと……な、中身の中で、花中……です」

 声を詰まらせつつも花中が自己紹介を終えると、少女は「かなか、かなか」と何度か呟く。

「では花中さんとお呼びしますね」

 そして微笑みながら、名前を呼んでくれた。嬉しさで花中は何度も頷いてしまい、頬が緩むのを止められない。

 今度は、自分が少女の名前を聞く番だ。

 花中は意気込み、身体が少し前倒しになる。少女の声を一言一句聞き逃さないよう集中……していたら、「顔が怖くなっていますよ」と窘められてしまった。

 少し恥ずかしい。けれども笑顔が戻る。

「では私の紹介と参りましょう」

 少女はそんな花中にとびっきりの笑顔を向け、ワルツを踊るかのようにくるりと一回転。美しくも愛らしい舞いに花中は思わず見惚れてしまう。

「私はフナですよ」

 続いて少女は大凡自己紹介とは言えない台詞を吐き――――聞いた花中は、うっとりとした表情のまま固まった。

 少女はふざけているのか? その答えはNO。少女はとても真面目に自己紹介をしてくれた。

 何しろ一匹の魚が、少女の口からずるりと出てきたのだから。

 胸鰭部分まで出てきたその魚の『全長』は、推定三十センチ程度。全体的な色彩は光沢のある銀色で、丸々太った姿は健康的な印象を受ける。それ以外の部分については専門的知識がないのであまり詳しい事は分からないが、素人判断で答えるなら、その魚は確かに『フナ』のように見えた。

「そういえば伝える機会がなかったので誤解があったかもしれません。実は私人間じゃないのですよ。まぁ性別は雌ですから普通に女性として扱ってもらえると嬉しいですね」

 ただし、凛々しい少女の声でベラベラと喋るのだが。

 この光景がマジックや幻覚の類でないのなら、『声の持ち主』であるフナの方こそが少女の本体、なのだろうか。ならば目の前の少女は、少女自身が言ったように人間ではない。尤も、ではそれで何か問題なのかと問われたなら、少なくとも花中は問題ないと答える。友達が人間か動物かなど些末な話。花中は、彼女が人間だから友達になれて嬉しいと思った訳ではないのだ。

 ただ、とても驚いたのは事実。だって魚が喋ったのだ。少女の顔からフナが飛び出したのだ。誰だって仰天する。

 そして、花中が根っからの『小心者』。

 常人でも仰天する事態に、ノミの心臓の持ち主である花中の驚きが『仰天』で済む筈もない。驚きはパニックに陥る水準をあっさり飛び越え、脳で処理しきれないレベルへと到達。

 このままでは ― 割とくだらない理由で ― 心が壊れてしまう……限界を予感した花中の心は己を守るため、ついに外部の情報を遮断する。

 即ち。

「むきゅう」

「……あら?」

 吃驚し過ぎた花中は、あっさりと意識を手放してしまうのだった。













 口からフナが飛び出たままの少女の背後で、崖に映る木々の影が一斉にぞわりと蠢いた事に気付かぬまま――――

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