ファースト・フレンズ1

 雲一つない六月の青空で、太陽が眩しく輝いていた。

 降り注ぐ陽の光は辺りを眩く照らし、命に燦々と力を分け与える。葉だけになった桜は降り注ぐ陽を浴びて緑の煌めきを放ち、季節の移り変わりを物語っていた。大地を駆け巡る風は陽光で火照った肌を優しく触り、心地良い冷たさを残して去っていく。

 外は初夏の爽やかな陽気でいっぱい。

 そしてそんな陽気さに包まれるお昼休み真っただ中の帆風高校もまた、爽やかな雰囲気に満ちていた。

 帆風高校は今年開校九十年を迎える伝統ある学校で、校舎は新と旧の二つがある。どちらの校舎も殆ど木だけを使って建てられており、老朽化を理由に現在は新校舎だけが使われているが、その新校舎も今年で築三十年。長い月日を経ても漂う木々の優しい香りと、長い年月によって生まれた風情ある色合いが訪れた人々を持て成してくれる。その校舎の色に染まるかのように、帆風高校に通う生徒は皆爽やかで穏やかだと近隣住民からは評判。事実校内は何時もケンカ一つなく穏やかで、賑やかな話し声でいっぱいだ。

 ただ一点――――帆風高校の廊下を進む女子生徒、大桐おおぎり花中かなかの姿とその周りを除いて。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 花中の傍で女子生徒の悲鳴が響き渡る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 花中の傍で男子生徒が呪詛の如く謝罪を呟く。

「お、大桐! あ、いえ、なんでもないです」

 花中の傍で教師の情けない声が聞こえてくる。

 付近の生徒は右往左往し、教師は絶望で顔を歪ませる。人々は我先にと逃げ出し、前に居る者を突き飛ばし、倒れた者には振り返らない。正に地獄絵図の様相。花中は何もせず、廊下の窓際を淡々と歩いているだけなのに。

 しかし何故こんな事になっているのかと言えば、原因は花中にあった。

 白銀に輝く髪は前髪だけが長く伸ばされ、全てを拒絶するかのように顔を覆っている。しかし鋭く紅い眼光は前髪を突き抜け、肉食獣の如く獰猛さを外に放っていた。閉じた口元はへの字に曲がり「私は今とても怒っている」と言わんばかり。身体は小学生と見間違えてしまいそうなほど小さく、ちょっと突けば簡単に倒れそうなぐらい華奢なのに、纏う威圧感は誰よりも大きい。色素の薄い青白い肌や童顔ながら人形のように端正な顔立ちも、彼女から『人らしさ』を失わせている一因だろう。他の生徒と変わらないのは、夏服である白い半袖ブラウスと膝丈まである紺色のスカートぐらいなものか。襟元にある青の紐型リボンは花中が入学して間もない一年生であると物語っていたが、それを認識する余裕は誰にもない。

 睨まれたら悪魔でも逃げ出す、地獄の閻魔だって腰を抜かす……こんな評価が過言に聞こえないほど、大桐花中という少女の風貌は恐ろしかった。近付くだけで誰もが慄き、恐怖と畏怖の念を抱く。生徒のみならず教師まで逃げ出すとなれば、不良としては最高峰の箔が付いたと言っても良いだろう。

 だが、いくら『成果』を上げても花中の表情が愉悦に歪む事はない。やる事だって変わらない。敵意に満ちた眼光で周囲を舐め回すように見渡し、視界に入った者は誰彼構わずじっと見つめ続ける。自らが放つ眼光に怯え、彼等彼女らが逃げ出すまで延々と。

 やがて花中の周りから人の姿はなくなり、静寂が場を支配した。

「……………」

 静まり返った廊下で立ち止まると、花中は短くない時間目線を地面に向ける。その顔は相変わらず憤怒の形相。改めて前を見据えた後も、殆ど変わっていない。再び歩き出した後も変わらない。

 歩き始めた花中が向かったのは廊下の曲がり角の先、隣の棟へ移動するための渡り廊下。

 その渡り廊下に入ってすぐ、花中は足を止めた。

 花中が視線だけを動かして見つめたのは、渡り廊下の壁に寄り掛かっている女子生徒。渡り廊下に居た他の生徒は花中に気付くや慌てて逃げ出したのに、ただ一人、未だ花中の前から失せていない人物だ。

 女子生徒は髪を茶色に染めており、ブラウスのボタンを幾つか外し、鎖骨が見えるぐらい肌を大きく露出させている。遠目からでも化粧をしていると分かるほど顔が濃く、折角の愛らしい顔が好みの分かれるものとなっていた。恰好だけで判断すれば、所謂『不真面目』な生徒のようである。

 目立つ外見というのもあり、その女子生徒が自分のクラスメートである事は花中にもすぐ分かった。女子生徒は先程からずっとスマートフォン弄っており、それが原因で花中の存在に気付いていないのだろう。

 そんな女子生徒の姿を睨み付ける事、ほんの数秒。

 花中は止めていた歩みを再開し――――女子生徒目指してゆっくりと進み始めた。

「ん? ――――ひっ!?」

 気配を感じたのか。女子生徒はスマートフォンに落としていた視線を上げ、花中を見た瞬間小さな悲鳴を漏らす。その拍子に手からスマートフォンが零れ落ちるも、女子生徒は拾う素振りすら見せない。むしろ後退りを始め、スマートフォンから、花中から離れようとしている。

 それでも構わず花中が近付くと、

「ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぁいっ!?」

 悲鳴混じりに謝罪の言葉叫びながら、女子生徒は走ってはいけない廊下を全力にしか見えないスピードで疾走した。花中は女子生徒が逃げ出すとピタリと立ち止まり、遠ざかっていく背中を目だけで追って……姿が完全に見えなくなってから、改めて歩き始める。

 今度の『目的地』は、女子生徒が落としたままにしていったスマートフォン。

 持ち主に見捨てられ、哀愁漂わせる道具を花中はしばし残忍な眼で見下ろし……やがて、まるで自分の物であるかのように拾った。

「こえぇ……ああやって人から金品を奪ってるって噂だぜ」

「い、今のうちに逃げよう……」

「でも逃げたら、獲物を追う獣みたいに何処までも追い駆けるって噂も……」

 花中がスマートフォンを拾ったところを、遠巻きに見ていた数名の学生達が陰口を叩く。それらは花中の耳にも届いていたが、花中は否定する事も、威圧するように睨み付ける事もしない。肉食獣のような獰猛さと残忍さを同居させた表情も、一ミリたりとも動かさない。

 何故か。

「(はわわわわわわわわわわ!? ど、どどどどどうしよう!? お、落としていったスマートフォン、早く届けないと……で、でも、でも……ちゃんとお話出来る自信ないよぉぉぉぉぉぉぉぉ!?)」

 今の花中は脳内でどもるぐらいパニックになっていて、耳に届いた言葉を理解する余裕なんてないからだ。

 ……これが大桐花中という人間の本性。

 気質は根っからのネガティブ。白銀の髪と紅い瞳は西洋人である曾祖父からの遺伝であり、生まれついての色合い。染めてもいないしカラーコンタクトも入れていない。他人に暴力を振るった事なんて一度もないし、振るわれたら小学生にも勝てる自信がないぐらい身体は貧弱。趣味はお菓子作りで、パティシエになって自分のお店を持つ事が幼い頃からの夢。

 そして些末な事でパニックに陥る小心者にして、一人ぼっちが嫌いな寂しんぼ。

 花中がクラスメートの女子をじっと見つめていたのは、彼女と友達になりたかったからなのである。ならば何故憤怒の表情で近付いたのかと言えば――――そもそも、花中は怒ってなどいない。

 ただ、話しかけようとするとどうしても緊張してしまう。

 緊張すると口元が強張ってしまい、目に力が入ってしまう。

 強張った口元と力が入った目は、他人から見ると怖い顔。

 纏っているのは緊張と不安からくる小動物オーラの筈なのに、顔が怖くなっているせいで威圧感だと勘違いされてしまう。

 つまり周囲の人々が花中に抱いている印象と飛び交う噂は、完全な誤解なのだ。尤も、恐怖を振りまいているのは事実。誤解を解かねば自分と友達になってくれる人は居ないだろうと、花中自身思っている。

 だが花中は『根っからの小心者』にして『ネガティブ思考』。

「(届けないと、届けないと! ……でもあの人、わたしの事を怖がって逃げたんだよね……お、追いかけたら、もっと怖がらせちゃうかも……はわわわわわわわわわわわ)」

 怖がられる=嫌われるの式が出来上がっている花中に「クラスメートを追い駆け、自分に悪意がないと分かってもらうまで話を聞いてもらう」なんてポジティブな発想は欠片もなかった。大体花中は極度のあがり症で、人と話をしようにも緊張で口はガッチリと閉じてしまい、思った事どころか思ってもいない事すら口走れない。説得、なんてものは花中には出来ない芸当だった。

 それでも拾ってしまったスマートフォンだけは何とか返したく、必死に考えを巡らせ……至った結論は、こっそりあの子の机の上に置いておけば良いんだ! という全力で後ろ向きなものだった。

 ともあれ解決策を閃き、ほっと一息――――したのも束の間、少しだけ冷静になった花中は気付いてしまう。

 近くに居た見知らぬ生徒達が、自分を見ている事に。

「(ひゃあああああああああああああああああああああ!? なんでぇ!? なんでみんなわたしを見てるのぉ!?)」

 自分の事で一杯一杯だった花中の脳は、散々届いていた彼等の陰口をバッチリ取り逃していた。花中には何故彼等が自分を見ているのか分からない。分からないと怖くなる。

 怖くなったので、花中は逃げ出した。

 ……足腰が震えて、徒歩と変わらぬスピードしか出せなかったが。心は蛇に睨まれたカエル並に怯えているのに、十数年間不安と恐怖と緊張で凝り固まった表情はピクリとも動かない。緊張のあまり身体は硬くなり、縮こまるどころか背筋がピンと伸びてしまう。

 傍から見ればその姿は、悠然と歩いている以外の何物でもない。

「(あわわわわわわわ……み、みんななんか話してる! 怒ってるのかな……わたし、なんか悪い事しちゃったのかな……ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!?)」

 弱気なのは頭の中だけ。

 脳内で謝罪の言葉を絶叫しながら、花中は教室に『全速力』で逃げ込むのだった。




 帆風高校一年A組教室。

「……………はぁ……………」

 窓際最後列に自分の席があるその教室に逃げ込んだ花中は、本人としてはとても大きく、実際にはネズミが鳴いたような小声のため息を吐いて机に突っ伏した。

 拾ったスマートフォンは持ち主の机に置いておいた。あの派手な見た目の女子生徒が教室に戻ってくれば、机の上にある『落し物』に気付く筈だ。彼女が教室に来てくれさえすれば、スマートフォンは彼女の手元に戻る事となる。

 だけど昼休みが終わるまでのあと十分ほどの間に、教室内の誰かが盗んでしまったら?

 もしもあの女子生徒が、何らかの事情で早退していたとしたら?

 ……これでは落し物をちゃんと届けたとは言えない。落し物を持ち主に返すという幼稚園児レベルのお使いすら出来ない自分に、果たして友達を作るなんて『偉業』が可能なのだろうか。

「(ああああ……やっぱり、わたしが友達を作るなんておこがましい事だったんだ……)」

 根暗な花中には、絶対に無理としか思えなかった。

 ――――半分。

 花中が高校に入学して早二月。友達になってほしいと声を掛け……ようとして逃げられた人は、先程の女子生徒を含めるとクラスメートの約半数に達してしまった。まだ声を掛けていないクラスメートは男子十九人と女子一人。しかし花中は ― 身体が大きい、肩幅が広くて力が強そう、声が低くて怒っているように聞こえる等々の理由から ― 男子が怖くて、話すどころか近付く事も儘ならない。

 そのため女子にしか近寄れず、その女子は現時点で殆ど全員が花中に怯えて逃げ出してしまった。まだ話し掛けていないクラスメートの女子は、今や一人しか残っていない。

 ならばその一人に全てを賭ける! ――――と考える事は、日頃から俯き気味な生き方をしている花中には土台無理な話。むしろ「これで駄目だったら後がない」と思って躊躇うだけ。

 それにチャレンジしなければ、『最後の一人』に逃げられる事はない。逃げられなければ傷付きもしない。

 傷付かないで済むのは、臆病者には魅力的だ。

「(もう……諦めようかな)」

 机に突っ伏したまま、花中は全身の力を抜く。

 彼是十年以上、花中は友達を作ろうと努力してきた。

 幼い頃から小心者で、緊張すると顔が怖くなってしまった。だから昔から友達を作ろうとしてもみんなに逃げられ、誤解を解く事も出来なかった。逃げられ、怯えられる度に、刃物で刺されたかのように胸が痛くなった。

 やがて痛みに耐えきれず、挑むのを止めてしまう。

 しかし時が経ち、痛みが癒えると、寂しさと羨ましさからまた友達を求めてしまう。

 花中はこれを十年以上繰り返した。前髪を伸ばして自分の目付きを隠そうとするなど、花中なりの努力もしてきた。だけど結果は、十年以上傷付いただけ。

 十年以上傷付き続けた心は、もう一度頑張ろうと決意するには脆くなり過ぎていた。

「……………」

 花中は目を瞑る。目を瞑っていれば段々眠たくなってくる。眠ってしまえば何も感じないでいられる。

 寂しいぐらいなら、何も感じないほうがずっと楽。

 花中の願いに副うように、意識は微睡みの中に消えていく――――

 そんな時だった。

「大桐さーん!」

 なんの前触れもなく、結構な大声で名前を呼ばれたのは。

「(ふひゃあゃああああああああああああああああっ!?)」

 ザ・小心者である花中はとても驚いた。物凄く驚いた。動揺のあまり口をガッチリと閉じてしまい声は出せなかったが、頭の中で悲鳴を上げるほど驚いた。

 その上精神的に衰弱している今の花中は、普段以上にネガティブ。

「(なななななな何!? なんでわたし呼ばれたのっ!? まままままさかわたしがあまりにも皆さんを怖がらせちゃったから、お、怒られる!? あわ、あわわ、あわわわわわわわあわあわわわわあわわあわあわあわわあわあわわわわわわわっ!?)」

 名前を呼ばれただけなのにすっかり怒られる気満々になった花中は、せめて姿勢ぐらいは正そうとガッチガチに強張っている身体を無理やり、客観的にはゆっくりと居眠り体勢から起こす。驚きで引き攣った顔はあたかも怒りに打ち震えているようだったが、内面はオオカミを目の当たりにしたウサギよりも右往左往している。

 怒られるのは怖い → 怖いから逃げよう!

 起き上がってからこの発想に至るまでの時間、凡そ瞬き一回分。花中は寸分の迷いもなく、あと五分で昼休み終了となる教室から逃げ出そうとした。

「やぁ♪」

 したが、恐怖で震える足はまるで動かなかったので、花中は自分の名を呼んだ者が正面に立つのを無抵抗に許してしまった。

 長く伸びた自分の前髪が邪魔をして、相手の姿がよく見えない……なんて事はない。十年近くこの目隠し状態で過ごしてきたのだ。例え前髪越しでも、花中には目の前に立つ人の顔ぐらいちゃんと見えている。

 花中の正面に現れたのは、一人の女子生徒だった。

 短めに切り揃えられているサラサラとした栗色の髪、緊張した様子もなく自然と伸びている背筋、愛らしい顔立ちと見事にマッチした屈託のない笑顔……花中とは真逆の、とても明るい印象を振りまいている。特に笑顔が素敵で、実際には当然光っていないにも拘らず、陰鬱人間である花中は思わず目を細めてしまうほど眩い。太陽を直視しているような気分になるほどだ。纏う制服は校則通りきっちり整えられていて、彼女の内面が如何に真面目かを窺い知る事が出来る。

 花中の記憶に間違いがなければ、彼女の名は立花たちばな晴海はるみ。花中のクラスメートで、男子とも女子とも打ち解けあえる素敵な人。そして「そんな人にも逃げられてしまったら」と思うと怖くて、花中が最後まで声を掛けられなかった女子だ。

 その晴海にこれから怒られると確信して花中は心底怯える。表情は憤怒の形相でも、心はクジラに追われる鰯が如く恐怖でいっぱい。許してくださいと目で訴えてみるが、晴海は後退りし、取り繕った笑顔の裏で恐怖と戦っているのを臭わせる。

「ちょ、ちょっと話したい事があるんだけど……良い、かな?」

 挙句勇敢にも話を切り出してくるものだから、花中の恐怖はピークに達した。

「(話? 話って……はわぁ!? これは俗に言う『お話ししよう』という名のお説教なんだ! やっぱり怒られるんだぁ!?)」

 考えが飛躍しているようで、しかし花中の中ではしっかりと地続き。何しろ晴海は恐怖と戦いながら花中に話し掛けているのだ。余程花中個人に言いたい事があるのか、或いは使命感に燃えているのか。どちらかでないと自分の前から逃げない事が説明出来ない。そして花中には『クラスメートを怖がらせた』という前科がある。どちらの可能性も十分あり得る。

 絶望感たっぷりの考えが過ぎった花中は酷く怯えた、傍から見れば凶悪な表情を前髪の内側で浮かべる。皆さんに迷惑を掛けてごめんなさい――――と叫ぼうにも、引き攣った口元はぴくりとも動いてくれない。

 花中はもう、ただただ表情で晴海のお怒りが来るのを待つばかり。

「えっと、お、大桐さんって、鳥は好き?」

 しかしその凝り固まった頬の筋肉は、意図が分からない晴海の質問によって僅かに緩んだ。

「……? ……ん……」

 なんでそんな事訊くんだろう? と疑問を抱きつつも、食べ物的にも生き物的にも鳥嫌いでない花中はぎこちなく首を縦に振って質問に答える。声も、閉じっぱなしの口からどうにか絞り出す。

 すると晴海は「そーかそーか」と言いながら大仰に、嬉しそうに頷く。理由は分からないが、好きと答えて『正解』だったらしい。安堵した花中が小さくため息を漏らす

「だったら大桐さん、あたしと一緒にバードウォッチしない?」

 のと重ねるように、晴海はさらりととんでもない言葉を告げた。

「……………」

「実はあたし野鳥の観察が趣味でね。今まで一人でやってたんだけど、最近仲間が欲しいなぁーって思うようになったのよ。で、大桐さんは部活に入ってないって聞いたから、時間あるかと思って……あ、だ、ダメなら良いのよ? ダメじゃなかったらって話だから」

「……………」

「待ち合わせ場所は口だと説明し辛いから、その、地図を書いておいたわ。興味があったら今日の四時半までにそこに来て……そんで、えーっと……ああ! もうすぐ授業始まるじゃん!」

 席に戻るね! と言うと晴海は小さく折り畳まれた紙を花中の机に置き、花中の返事を待たず速足で去っていく。今まで頑張っていたが、いよいよ恐怖に耐えられなくなったのかも知れない。

 対して花中はしばし微動だせず、残された紙にも視線を向けない。恐ろしい眼差しで虚空を眺めるだけ。

 やがてチャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げた。

「ぷはぁ!? はぁ、はぁっ!?」

 直後、花中は晴海が『バードウォッチング』の話を始めた頃からずっと止まっていた呼吸を、ようやく再開させた。突然呼吸を乱す様は不気味の一言に尽き、周りのクラスメート達が驚愕と恐怖の入り混じった表情を向けてきたが、そんな事を気にしている場合ではない。

 遊びのお誘い。

 晴海の言葉の意味が分かった瞬間、花中は動揺のあまり機能停止状態に陥ってしまった。長時間の酸欠により、危うく生命活動そのものが停止するところだった。今も完全復活とは言い難く、不足している酸素を急いで身体中に巡らせるためか心臓が力強く脈打ち、強過ぎて痛みを感じている。しかし花中は痛む胸に手を当てない。

 震える花中の両手が触れたのは、机の上に置かれている、晴海が残していった紙切れ。

 紙切れを掴むや花中はそれを――――天に掲げた。

「(こ、こんな、こんな奇跡があるなんてっ! わたしを遊びに誘ってくれる人がいるなんて! これは夢!? うん、夢でも良いやっ!)」

 生まれて初めて言われたお誘いの言葉に、花中はすっかり舞い上がってしまう。傍から見ればただの紙切れでも、花中には後光すら見えてくる。あまりにも神々しいので『お手紙教』でも興そうかと思ってしまうほどだ……思うだけで実行する積極性なんてないが。今やるのは中身の確認だけである。

 傷付けないよう慎重に。

 だけど逸る心を抑えきれず、花中は指型の皺を作りながら紙を広げて、

「……………何これ」

 無感動な声で独りごちた。

 紙には、文字と絵が描かれていた。文字は『タムラ精肉店』や『帆風高校』などの固有名詞が大半を占めており、例外は『ここ』という単語のみ。

 待ち合わせ場所はこの紙に書いてある、と晴海は言っていたので、書かれている固有名詞を目印にして『ここ』を目指せという事なのだろう。つまり、この紙は地図。文字は絵と被らないように書かれており、文字に関してはとても読みやすい。

 問題は絵の方だ。

 何しろその、『絵らしいもの』は、花中にはぐちゃぐちゃな線にしか見えないのだから。

「(えっと。絵心がない、という事なのかな?)」

 だとしてもこれは……と思いつつ、花中はじっくりと『絵』を眺める。正直なところ、幼稚園児だってこれよりマシな絵を描くと言わざるを得ないほど酷い。一見、地図として使う事は出来そうにない代物だ。

 しかしこの『地図』には目印として使える単語が幾つか書き込まれている。それらの情報から推察した結果、この地図が学校周辺を描いたものだと判明した。地元民である花中なら、例え詳しい道が描かれてなくとも読める可能性はある。

 何より、この程度の障害で友達を作るチャンスを逃す訳にはいかない!

「(ぬぅおおおおおお! やってやる! やってやるーっ! 立花さんと一緒に野鳥観察するためにぃぃぃぃぃっ!)」

 一言「一緒に行きたい」と晴海に伝えれば済む話なのだが、花中が持ち合わせている勇気では、そんな大それた考えは頭にも上らない。故に難解な暗号を意地でも解読するという、後ろ向きで全力疾走するような努力に励む。努力をしていたら何時の間にか教室に先生が来て、午後の授業が始まっていたが、努力し過ぎて気付かない。

 その集中力は最早狂気の域。

 周囲のクラスメートのみならず教師までもが慄く雰囲気を、初めて『本当』に発しながら花中は地図の解読を進めていき……ついに。

「……なんで、そこなの……?」

 花中はまたしても机に突っ伏した。

 手から零れ落ちた紙切れの左上部分に書かれている、『泥落山』の文字に気付いてしまったがために……………

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