フェイドアウト

mari

フェイドアウト

それは苦い鼠色の朝だった。朝というには未熟すぎる、短針が傾げる首の向き。

 空は薄く遠く、住宅街は夢の中に泳いでいる。


 男が黙って眉を顰めた。女は気にも留めず刃を男の頬に寄せる。

 男と女はがらんどうと言っても過言ではない、学校の教室のように広い部屋の窓際で髭を剃っていた。男は背もたれを重たい肩でかたぶけて座っている。二十代後半といった齢だろうか、整えた髪は艶やかな黒緑でわずかに目立つのは一本だけ生えている、耳元の白く細い毛。男のスーツには皺などなく、磨き上げられた革靴がわずかにフローリングに影を作っている。

 窓から漏れる灰色の薄明かりにぼう、と浮かび上がるシェービングクリームの歪な形が彼の顔の上で異質な存在感を見せている。


 女は声を上げることなく、口角を軽く外側に伸ばした。剃刀を滑らせる指の動きはぎこちなく、訝しげに空を見つめる男の髭をなぞる。男の瞳を覗く、女の表情は笑顔であるのに空虚である。スカーレットのシンプルなドレス。その腰にゆらりと髪が乱れる。女の冷たい片手が男の首筋を這えど、男は女を一瞥しただけでまた焦点をぼかした。


 あなたって本当に、つまらない人。

 口紅が揺れる。

 左右に髪を分けた女の睫毛は長いはずなのに手入れされることがなく、さまざまな方向を向いている。ねっとりと絡みつくような女声は淫靡で、シーツの上の密やかな嬌声に似ていた。

 黴くさい室内で、灯されることのない電球に舞い続ける埃を積む。

 男は肯定も否定もしない。


 あんまりだんまりだと、女も逃げるわよ。


「つまらなすぎて、あなたの肌ごと切ってしまいたい」


 刃先を男の唇に立てるような動作をして、不意に手を離したかと思えば女と男の顔の距離はなくなった。男の口元をひと舐めしてから「口にクリームが入っちゃったわ」ととぼけるように笑い、女は外を見つめる。


「女狐め」


 無感情な台詞を吐き出しながら、男も女に倣う。なんとなしに白んできた町は、霧がかった、化け物の巣窟のようにただただ静かだ。小さく聞こえてくるのは、遠く、道路を走る車の音。それもかすかに。


 窓の枠の中を烏が一羽横切っていった。モノクロオムな世界に差す色はなし。

 椅子の鈍い軋みに気を取り直したように女はまた男の顔に剃刀を当て始めた。男のシャツの裏に昨夜つけたばかりの赤い印を見つめながら。


 このまま切ってやりたい。赤くしてやりたい。

 その言葉にも男はやはり、無言のままである。


「奥さんが知ったら、どんな顔をするのかしらね」


 そういえば不仲だから私に会ってるんだったかしら。女は嫌味を垂らしながら男の肌の表面を削り、削る。


 朝が来るたびに磨耗していく精神に、痛めつけながらそぎ落としてゆく情欲。疑問符はいつしか潰えて、男と女の仲は始まり、終わりが見えない。世の正義に相反するこの関係の行き先はいずこ、と内心問うたとして答えなど見つかるはずはなく。


 男は口を噤んで始まったばかりの今日をいかに閉じるかを思考し、女は男を壊してしまいたい衝動に抑制をかける。

 剃刀はどちらか一方が夢心地から醒めるまで永遠に男の顔を這い続ける。いつ刃が肉を切るかもわからぬまま、男と女は自らの海に沈んでゆく。

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フェイドアウト mari @mitleiden

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