第174話 クリスマスイブ2

「よし」


 ひとつ、自分に気合を入れ、それから胸を張る。にゃんのことばっかり考えているわけにもいかない。私も、もうすぐしたら、センター試験なんだ。


 こつこつこつこつ、と。

 ローファーでアスファルトを蹴って歩いていると。


 スマホが、再び鳴った。

 てっきり、お母さんが言い忘れていることを伝えるための電話だと思った。


――― なんだろう。お米、炊いといて、とかかな。


 お母さんに頼まれることナンバーワンの内容を頭に浮かべ、私はスマホをポケットから引き出す。


「……え」

 思わず、足を止めた。


 表示には、「織田律」と出ている。

 にゃんだ……っ。


 私は慌ててパネルをタップする。いや、タップしようとして、焦りすぎてスマホを落とすところだった。あわあわと、ひとりでスマホをお手玉し、それから、なんとか、通話ボタンを押す。


「に、にゃん……?」

「……え。今川、だよな」

 はぁはぁ言いながら通話を取ったからか、ものすごく訝し気に問われた。


「う、うん……。なに、どうしたの」

 たった、これだけのことを言うだけなのに、心臓がバクバク暴れまわって、すごい苦しい。長距離を走ったわけでもないのに、呼吸が浅くしかできなくて、なんだか不審者の電話のようだ。


「お前が、どうしたんだ、って感じだけど……」

 案の定、そんなことを言われた。


「いや、ちょっと……。さ、寒いから走った……、だけ」

 適当な言い訳を口にすると、「あ。じゃあ、外か」と返事が来る。


「え? うん。そうだよ。学校帰り」

「駅?」


「ううん。もうすぐ、家に着く感じ」

「よかった」

 にゃんのほっとした声がスマホから聞こえる。まるで息遣いまで伝わって来たようで、私はくすぐったくなって首をすくめた。


「ちょっと、話があって……。俺、今お前ん家の前にいるんだけど。時間かかりそうか?」

 家の前、と言われて驚く。「ううん」。とりあえず、そう返す。


「あと、数分、かな」

「じゃあ、待ってる」


「わ、わわわわ、分かった。今、行く。すぐ、行く」

「……おい、走るなよ。落ち着いて来いよ」

 何度も念押しをされ、私も何度も「うん」と頷き、通話を切った。


 家に向かう。

 足は。

 小走りから、駆け足に。

 最後には全力疾走になっていた。


 チャート式や赤本を詰め込んだリュックが足に合わせて揺れ、ごつごつと腰骨を叩く。だけど私は、こぶしを握り締めて駆ける。呼気が口からあふれ出し、靄の中に突っ込みながら、身体を前に、前に進ませた。


「今川」

 角を曲がり、イングリッシュガーデン風のアーチ門が見えた時。

 にゃんの声が聞こえた。


 家の前に、人影が見える。ちょっとこちらに身体をねじらせる。門灯に照らされた横顔は、やっぱり、にゃんだ。


「にゃん」

 言うと同時に、私は再び足を振り出した。だすだす、とリュックが跳ねる。


「お前、別に急がなくても……」

 にゃんの前で足を止めると、ぜいぜいと喉が掠れた。


 にゃんがびっくりしたように私を見ている。学生服じゃなかった。黒色のダッフルコート姿だ。学校帰りに寄った、というわけじゃないのかもしれない。


「は……、話って、な……、なに」

 胸が焦れたように痛い。何度も何度も、呼吸を繰り返し、熱くなってネックウォーマーをずり下した。


「大丈夫かよ、おい」

 にゃんが訝しそうに私を見降ろした後、「えっと」と言葉を継いだ。


「今日、発表が出たんだ。警察官採用試験」

 私は、ごくりと息を呑む。ぼこん、と空気の塊が喉を通って胃に落ちた。


「どう、だった……」

 背筋をまっすぐに伸ばす。にゃんもぴん、と背中を伸ばしたまま、私を見つめ、そしてゆっくりと言う。


「受かった」


「うひゃあああああああ……」

 後半は声にならなかった。声にならなかった分、思わず行動に出た。

 気づけば、にゃんに飛びついていて。


「がふっ」

 私の頭というか、顔はにゃんの鳩尾に激突し、にゃんが呻くのを聞いたけど、私は、「うひゃああああ」と言い続けて、ぐしぐし、とにゃんのコートに顔をこすりつける。良かった。良かった。本当に、良かった。


「よ、喜んでくれてよかったよ……」

 げふげふと、何度か咳をした後、にゃんが苦笑交じりにそう言うのが聞こえた。

 私はにゃんに抱きつく、というか、しがみついたまま、顔を上げた。


「すっごい、ほっとした……。本当によかったよ」

 私はなんだか涙声になって言う。滲んだ視界の先で、にゃんは笑っていた。


「公務員落ちた時は、連絡が後回し、というか、忘れてて……。申し訳なかったから……。警察官、受かった時は、一番に言おうと思って」


「あ、ありがとう……」

 礼を告げながらも、眉根が寄る。


 ……む。今、聞き捨てならない言葉を聞いたぞ。公務員の時は、忘れてた、とな。


「次は、今川だな」

 うん、と頷きながらも、やっぱりこれは問いたださねば、と私は顔を上げる。逃がさぬように、ぎゅっと腕はにゃんに回したままだ。


「ねぇ、にゃん」

「俺、一足先に受かったから」

 だけど、私の言葉を遮り、にゃんはそんなことを言う。


 うん、まぁ、そうね、と言いながらも私は険しい顔でにゃんを睨み上げる。

 もぞり、とにゃんが私の腕の中で身じろぎしたけど、逃すものか、と更に私はきつくしがみつく。


「にゃん、あのね」

 さっき、私に連絡するのを忘れてた、って、あれはどういうことよ。


 そう言おうとした私の唇は。


 言葉を紡ぐ前に、にゃんの唇にふさがれた。


「………………は……………」


 時間にしたら。

 多分、たった数秒。


 だけど。

 思わず呼吸音が漏れる。ぱちり、とまばたきをしたら、想像以上に近いところに、にゃんの顔があった。


「幸運のおすそ分け。今川の大学入試がうまくいきますように」


 呼気と言葉が私の睫毛を揺らす。「は……」。やっぱり私は、うまく呼吸ができずに、変な声を漏らす。


「あとこれクリスマスプレゼント。っていうかチョコレート。高校の近くにチョコ専門店があるんだ。そこのクリスマス限定商品。また食え。そして太れ」


 力の抜けた私から離れ、にゃんは滅茶苦茶早口に、そして一息に言い切ると、私の手になんだかわからない紙袋を握らせ、「じゃあ」と、ダッシュで去って行った。


「……………え……………?」


 今、私は、何を、されたのだ。


 茫然と、にゃんが姿を消した方向を見ながらそんなことを思ったら。

 一気に、間近で見たにゃんの顔とか、唇の感触とか、耳元で聞いた声なんかがフラッシュバックしてきて、真冬だというのに、汗が噴き出した。


「こ、幸運のおすそわけ、って……っ」


 思わず、ネックウォーマーを引き上げ、顔全部を覆う。


 熱い。熱いけど、今、この顔を誰かに見られるわけにはいかないっ。

 悶えると、右手に握らされた紙袋がカサカサなる。その音が聞こえたらまた、さっきのが夢でも何でもないとわかって、更に体中が熱くなる。

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