第170話 お礼稽古2

◇◇◇◇


「ほんと、済まなかった……」

 靴を履いて武道館から出てきた今川に、俺は深々と頭を下げる。「私こそっ」。素っ頓狂な声が風に乗って過ぎていくから、そっと顔を上げると、眉をㇵの字に下げた今川が、制服の裾を握って立っている。


「姉貴が無理言ったんじゃねぇの?」

 なんだか泣き出しそうな顔の今川に、そっと尋ねると、俯いたまま話し出した。


「無理って言うか……。『こんな稽古があって、保護者さんもどうぞ、って言われてるから一緒に行こうよ』って誘われて……」

 もじもじと上着の裾をつまんでいる。そんなことしていると、皺になるぞ。


「にゃん、絶対嫌がるだろうな、って思ったんだけど……。剣道見てみたいし……」

 もごもごと語尾を濁しながら、今川は、上目遣いに俺を見る。


 目元も、切りそろえた髪からのぞく耳も真っ赤にしながら、今川は俺に言った。


「九月以降、全然会ってないから……。会いたいな、って」



 ……………くそ……………っ。



 俺は慌てて背を向けて、熱くなりそうな首元を意味もなくガシガシと掻いた。

 夢に見そうなほど、可愛い。


 落ち着け、俺。


 あいつは、ドッチボールの時、顔面にボール受けて、鼻血出しながらも、「ノーカン! ノーカン!」って訴えてた女だぞ! いや、小学生の記憶だけど!


「……自販機、こっちなんだ」

 げほん、がほん、と空咳を繰り返し、早口でそう告げる。右手に握りこんだのは姉貴から渡された硬貨だ。


『あの……。織田先輩。お姉さんなんですが……』

 準備体操、切り返し、打ち込み稽古に、かかり稽古が終わったところで、一旦休憩となった。


 十月初旬とはいえ、まだ道場内の空気はぬるい。おまけに、これだけの人数で稽古をし、見学者もそこそこいると、熱はあっという間に回った。


 熱中症対策も兼ねて、水分補給を、と、面を取ってお茶を飲んでいたら。

 お盆を手にした一年坊主が駆け寄ってきたのだ。


『織田先輩、ご指名で……』

『は?』

 思わず、壁際を見る。


 保護者達は、一年坊主が配った紙コップを手に、おもいおもいに話をしていた。

 姉貴は、というと、こちらは何も持たず、子どものように足をぷらぷらさせている。その隣では、今川が、目線を泳がせて困っていた。


『律』

 目が合うと、姉貴が俺を手招く。なんだ、あいつは。


『悪かったな。ありがとう』

 俺は一年坊主に声をかけ、それから足音も荒く姉貴に近寄る。


『んだよ。帰れよ』

 不機嫌に吐き捨てたのに、姉貴は、しれーっとした顔で、俺に握った拳を突き出した。


『なに』

『私、紅茶しか飲めない』

 にっこり笑って手を開く。慌てて俺は姉貴の手からこぼれ出た硬貨を両手で受け止めた。


『さっきの一年生の子が、緑茶を持って来てくれたんだけど。ごめんね。あんた、ちょっと校内の自販機で紅茶、買ってきて。流花ちゃんと』


『はぁ!?』

 なんでこの女はこんなに我がままなんだ。義兄さんは、こいつのどこに惚れたんだ。サクはなんであんなにいい子なんだっ。


 いろんな罵詈雑言が胸を渦巻いたが、『か、買ってきます』。ぴょこん、とバネ仕掛けのように今川が立ち上がる。


『ね、ね。買いに行こうっ。紅茶をっ』

 促されて、俺は姉貴を睨みつけたまま、道場を出たのだが……。


「ところで、なんで姉貴と知り合ってんの?」

 俺は隣に並ぶ今川に尋ねた。ようやく、首や顔の熱が引いて、ほっとする。


「ん?」

 小首をかしげて俺を見上げた今川は、「ああ」と声を上げた。


「ホワイトデーの時に、にゃんの家に行ったでしょう? あの時、今後もなにかあるかもしれないから、連絡先交換しようって言われて」


「誰にでも教えるから、こんなところに誘拐されるんだっ」

 思わず語気荒く言うが、今川はきょとんと眼を丸くした後、笑いだした。


「でも、おかげでにゃんにこうやって会えたし」


 ……なんか、一気に肩の力が抜けそうだ。

 俺は溜息をつき、袴に防具をつけた姿のまま、校内を歩く。自販機は、食堂の入り口にふたつ、あるのだ。


 通り過ぎる他部の下級生達が、今川を見て足を止め、「ちわっす!」と挨拶をする。そのたびに、今川は律儀に「こんにちは」と頭を下げていた。なんか、その姿に妙に感動する。だいたいは、半笑いしたり、あからさまに警戒したりするんだが。


 今川の礼儀正しい態度に、ちょっと嬉しかったり、誇らしかったりした。


「ねぇ、にゃん」

 半歩後ろをちょこちょこ着いてくる今川が、呼びかける。

 ……ただ、正直、あんまり校内で、その名前を呼んで欲しくない。


「なに」

 ぶっきらぼうに返すと、「あのさ」と横に並んで顔をのぞき込んできた。

 思わず、背を逸らす。部活中だから、あんまり寄って欲しくない。籠手が臭い上に、汗臭いから。だけど、今川は鼻がきかないのか、更にくっついてくる。


 そこで、ようやく彼女の異変に気づいた。


「お前、痩せたんじゃね?」

 臭いのことも忘れて顔を近づける。なんか、顎がえらくシャープになった気がした。


「……ちょっと、ほら。模試が続いて……」

 今度は今川が顔を背ける。もごもごと、「判定は良かったのよ?」、「多分、大丈夫だと思うんだけど、いろいろ不安で……」と続ける。要するに、進路に不安があるらしい。


「余計なこと考えずに、飯食って寝ろ」

 気づけば、学年主任と同じことを言っていて、自分でぞっとした。大分黒工に毒されている……。


「私のことより」

 今川は、ぐい、と顎をあげ、強引に話題を変えた。


「公務員試験、どうなったの? 大丈夫?」


 心配そうに尋ねられて、俺は思わず「あれ」と声を漏らす。言ってなかったけ。なんか、いろんな奴にこうやって尋ねられて報告してたから、すっかり今川にも伝えた気になっていた。あれ。伝えてなかったっけ……。


「市役所の公務員試験は、一次で落ちたんだ。その後、警察官を受けて、一次が受かって……。ついこの前、二次を受けて、今、結果待ち」


「え!? そうなの!?」


 今川が立ち止まり、目をぱんぱんに見開いた。

 その顔を見ると、すごい罪悪感……。いや、悪気があったわけでは無くて……。

 単に、忘れていた、というか……。


「……その。この前会った時、市役所がやばそうだ、ってなって、警察官と自衛官も検討するって、言った……、よな」


 思わず、言い訳する口調で俺は言う。「う、うん」。なんだか曖昧に頷いて、その後今川は真っ赤になった。多分、あの日のことを思い出したからだろう、と思ったら、俺は俺で地面にひっくり返って、「うわああああああああああ」と叫び出したい。なんであの時、俺、あんなこと言ったんだ……。


「で、その後、警察道場に行って、いろいろ話を聞いて……。それで、併願で、警察官にも応募したんだ」

 えらく早口で俺はまくし立てる。


 そう。民間企業は「一人一社制」だが、公務員については何も問われない。

 市役所、警察、消防、自衛隊など、複数応募が受け付けられる。


「それで、二次まで進んだんだ!」

 今川が嬉しそうに声を上げるから、ほっとした。何故、そんなことを言わなかったんだ、と詰られたらどうしようかと思った。

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