二学期(10月)

第169話 お礼稽古1

「うおー……。できるかな、剣道」

 着替えを済ませ、道場に出ようと扉に手をかけると、背後から不穏な声が聞こえる。首だけねじると、腰を左右にひねる奇妙なストレッチをしている伊達と目が合った。


「いや、マジで。本当に引退後、身体動かしてないからな」

 苦笑交じりに言われる。心なしか、なんか伊達、ちょっと太ったかもしれん。

 そりゃそうか。引退したのは、五月。

 今は十月だ。その間、運動らしきものを何もせずに、今まで通り喰ってたら、そうなるか。


「まぁなぁ。課題研究とか、いろいろあったし」

 俺が肩を竦めると、がっくりと肩を落とした。どうしたのか、と目を瞬かせると、「まだおれの班、課研終わってないんだ」というから、驚いた。機械科、やばいな……。俺たちは先日、ようやく樟脳地獄から解放されている。


「ぼくはもう、終わったもんね」

 ちょっと小ばかにしたような声を上げるのは、ルキアだ。


 うわ。こいつは、確実に太ったな。

 道着の腹が、ぱつぱつじゃねぇか。

 思わずガン見したのは、俺だけではなく、伊達もだ。ちょっとぎょっとしたように、たれの腹帯の上に乗った腹の肉を見ている。


 だが、ルキアはそんな俺たちの視線など跳ね返し、さっさと扉を開けて、道場に踏み出した。


「こんにちはっす!」

 途端に、いくつもの声が聞こえてくる。


 見やると、一斉に俺たちに向かって頭を下げている剣道部員が見えた。今年は豊作だ、と井伊が言っていたが、本当に多い。


「……こいつら全部、相手すんのか……」

 伊達がちょっと頬をこわばらせる。

 俺も、地元の道場で稽古を再開していたとはいえ、ちょっと不安になってきた。


 今日は、お礼稽古の日だ。


 部活の引退自体は、もうとうに済ませていたのだが、就職の内定が決まり始めたこの時期、恒例行事として行われる。


 後輩たちが、「今までの感謝を兼ねて、先輩と最後の稽古をする」というやつだ。


 流れとしては、準備体操、切り返し、いつもの打ち込み練習、かかり稽古を済ませ、地稽古を行う。


 地稽古というのは、簡単に言うと、模擬試合だ。ただし、勝敗は関係ない。技が決まっても、時間内であれば、ずっと打ち合う。


 元立ちに三年生が立ち、後輩一人あたり、十分ほど稽古を行い、最後にアドバイスを告げて、次の後輩を迎え入れる。そしてまた、十分。


 つまり、三年生は、後輩全員と地稽古を行い、アドバイスをしていかなくてはいけない。


――― ……後輩の人数が多いと面倒くさいんだよな……。


 二年生の井伊ならともかく、一年生ともなると、ほとんど一緒に稽古もしていないし、向こうだってそんなに親近感もない。むしろ、「もうすぐ卒業するゴツイ三年生」ぐらいの認識だ。


 それをひとりひとり、さばいていくとなると、正直しんどい。

 時間もかかる。

 だから、お礼稽古は土日の休みに開催する習わしになっていた。平日の放課後錬では、部活終了時間に終わらないのだ。


「お前ら、覚悟しとけよ! しっかり稽古つけてやるからなっ」

 偉そうにルキアが一年生たちに大声を張る。馬鹿じゃないか、と思うが、こういうのだけ頑張るやつがいるんだ。


「あほじゃないのか、あいつは」

 俺の隣で伊達もあきれていたが、「うっさいなぁ、もう!」と石田の声が聞こえてきた。

 声の方を見やると、井伊と一緒に、パイプ椅子を壁際に並べている。


「ルキア、黙れっ」

 石田が怒鳴った。

 そうだ。今日は保護者も来るんだ。俺は目を瞬かせて、石田に近寄る。伊達も俺に続いた。


「手伝うよ」

 声をかけると、石田は相変わらずアイドルみたいな笑みを浮かべて「悪いな」とイスを差し出してくる。


「これ、全部並べたら終了。一年がお茶用意してて、手薄なんだ」


「すいません。先輩たちへのお礼稽古なのに手伝ってもらうなんて……」

 石田の隣に居た井伊は、しょぼんと俺たちを見上げる。今日は白道着を着ていた。


 多分、だが、今年入部希望者が多かったのは、井伊が白道着これを着て「入部してください」と部活動紹介で頭を下げたからだと思う。なんというか。非常に、儚げで、それでいて凜々しいのだ。どうして彼女の魅力を石田は気づかないのか。


「別にいいよ」

 石田から受け取ったパイプイスを、俺は並べていく。伊達も井伊から受け取り、等間隔に設置していった。


「先輩たちはもう、就職、決まりましたか?」

 がちゃがちゃと音を立てながら、パイプイスの足を広げていたら、井伊が小首をかしげて尋ねる。


「おれは第一希望を通った」

 伊達が答える。おお、ということは、毎年新車販売台数一位のあの企業か。こいつ、成績もよかったもんなぁ。


「ルキアは、設計事務所に入社予定らしいぞ。CADを使うらしい」

 伊達が顎をしゃくって、一年生になんか説教を垂れているあいつを示す。そういえば、さっき、更衣室で自慢してたな。


「石田先輩は、おじいちゃんの家を継ぐんですか?」

 イスを並べ終えた井伊が、手をぱちぱち打ち鳴らし、錆を払う。


「その前に、修行に行け、って言われた。だから、四月から武田先輩の後輩になる」

 顔をしかめたが、何気に最大手だ。こいつ、頭はからっきしだが、溶接技術はうまかったもんなぁ。


「織田先輩は?」

 無邪気に尋ねられ、俺は乾いた笑い声を漏らす。


「俺は……、ちょっとまだ、結果待ち」

 事情を知っている石田と伊達は何も言わず、状況のわからない井伊は、そんなものなのか、と、にっこり笑って見せた。


「そうですか。先輩なら大丈夫ですよ」

 そうかな、と返したとき、一年生たちの「こんにちはっ!」連呼が道場に響き渡った。


 どうやら、保護者が来たらしい。


 一気に一年生たちが玄関に駆け寄り、一列に並んで頭を下げる。

 俺たちが入部したとき、そんなに人数がいなかったから、まるで別の部のようだ。


「どうぞ、イスにかけてご覧くださいっ!」

 坊主頭が場をしきり、保護者に声をかけていた。多分、ああいうやつが今後、部長になるんだろうなぁ、と眺めていると、試合会場でみかけた保護者たちがしゃべりながら入ってくる。


 参加するのは、三年生の保護者だけではない。全学年だ。

 見慣れない保護者の一団は、一年生の親たちだろう。物珍しそうに道場を眺めている人もいれば、堂々と一礼して入る人もいる。


 先頭を歩き、周囲に話しかけまくっているのは、ルキアのお母さんだ。その話に相槌を打っているのは、伊達のお母さんと石田のご両親。


「あれ。織田の母ちゃん、来ねぇの?」

 石田がきょとんと俺を見上げる。


「なんか、姉貴と来る、と言ってたけどな」

 パイプイスの関係で、各保護者二名ずつお願いします、とLINEで案内が出ていて、そのとき、『お姉ちゃんが行くから』と言っていたような……。


「……え、っと。保護者、さんですか……」


 さて、防具をチェックしようと足をむけたとき、玄関がざわついた。ちらりと視線を向けると、一年生が腰をかがめて、狼狽えている。なんだろうな、と伊達と並んで歩き出したときだ。


「保護者というか、家族なの。姉と、それから従姉妹」

 聞き覚えのある声に、俺は、ぐいん、と顔を玄関にねじる。


「あ、そうですか。じゃあ、はい。空いているパイプイスにおかけください」

 戸惑う一年生が身をかわし、「はい、どうも」と言いながら入ってきたのは。


 姉貴と。 

 まったく理由がわからないが、今川だ。


「あれ!? 今川さんだ!」

 井伊が華やいだ声を上げて玄関に駆けていく。


「従姉妹、呼んだの?」

 茫然と足を止めていたら、伊達がニヤニヤ笑って俺を見る。「いや」。まさか、と首を横に振ったのだが、「はいはい」と意味深に返事された。いや、ほんと、これなに。


「なんだよー。今川ちゃん、呼んだのかー」

 ばちり、と背中を叩かれて、俺は慌てて振り返る。石田が、伊達と同じくニヤニヤ笑っていた。いや、ほんと、違うんだって。知らないって。


 ってか……。


「あーねーきーぃぃぃぃぃぃ」


 奥歯を噛み締めると、怨嗟交じりの声が漏れる。あれだ。絶対、これ、姉貴だ。


 その証拠に、姉貴は堂々と道場にご入場あそばしたが、今川は迷子のハムスター並みにびくびくしている。


 一体、いつ、どこで、なんの接点があって、姉貴は今川とここにいるのだ。

 ってか、誘拐したんじゃないだろうな、今川をっ。


 なんで、あいつはすぐに、誰かに誘拐されるんだっ。


「はぁい、律!」

 俺が睨みつけている先で、姉貴は軽やかに手を振った。なにが、「はぁい」だ。外国人か、てめぇは。


 ただでさえ、「親じゃない」若さの人間が道場に入ってきて注目を集めているというのに、なれなれしく声をかけんな、と俺が無視をしていると、あいつめ。


「従姉妹を連れて来たわよ!」

 と大声で言いやがった。ぎょっと目を剥く俺とは違い、石田と伊達は爆笑している。理由がわからない一年坊主たちは「従姉妹かぁ」とひそひそ言うし……。


 最悪だ。もう、最悪すぎる。


 ため息ついて逸らした視線の先で、制服姿の今川と目が合った。途端に、姉貴の背後で手を合わせて拝まれる。ごめん。泣きそうな顔で口だけ動かしてそう言うから。


 多分、というか、絶対、姉貴に誘拐されたに違いない。

 俺こそ、すまん、と心の中で頭を下げた。


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