二学期(9月)
第167話 オープンハイスクール1
蒲生とふたり、白衣を着て工業化学科棟の入り口で立っている。
ふわりと棟の間を抜ける風には、金木犀の香りが乗った。秋だなぁ、と見上げる空は高く、うろこ雲が浮かんでいる。
「もうそろそろ、中学生たちが来る頃だね」
蒲生の声に視線を下すと、奴は白衣の袖をまくって、腕時計に視線を走らせていた。
「そうだな。〝返事〟が聞こえなくなったからな」
俺も返す。
今日は来年入学を希望する中学生たちに向けて開催された、オープンハイスクールの日だ。
受付を終えた中学生と保護者は体育館に集められ、まずは黒工の概要説明を受ける。
在校中に取れる資格や、就職率、進学率、それから特色を校長や各科長からざっと説明されるのだが……。
なにより、インパクトがあるのは、「返事の練習」だ。
「
今年も多分、教頭がそう言っているはずだ。俺の時もそうだった。そして、それ以前も、きっと同じだったろう。
「『あひる』とは、『あいさつ・人の話を聞く・ルールを守る』の、頭文字をとったものです。黒工生徒は、この標語を胸に刻み込み、三年間生活をします。社会に出ても、この『あひる』は、大変役に立ちます」
教頭は言うなり、中学生を全員立たせるのだ。
「まずは、黒工生になったつもりで、あいさつの練習をしましょう。こんにちは!」
教頭の後に続き、中学生が「こんにちは」と声をそろえるのだが……。
「声が小さい!」、「そんなもの機械音で消えるわっ!」、「黒工生徒になれんぞ!」
各科長と校長がここで吠える、吠える。かなりヤジを飛ばす。
怯える保護者もなんのその、教頭は、マイクを使わずに、演台で「こんにちは!」と怒鳴る。必死で「こんにちは!」と、大声を張る中学生たちに、「まだまだぁ!!」と煽る各科長。
……ということが、毎年、行われる。
なので、オープンハイスクールの手伝いに来ていると、体育館からは、いつ終わるとも知れない中学生たちの「こんにちはっ!」が聞こえてくる。
「ぼくの知り合い、オープンハイスクールに来て、あのあいさつにうんざりしてさ。進路変更しちゃったよ」
蒲生が笑っている。俺も肩を竦めた。
入学したら、鬼のように返事をさせられるし、一年の体育はすべて『集団行動』だ。ある意味、オープンハイスクールでふるいにかけるのは、良いことなのかもしれない。
「つい最近、自分が、あのオープンハイスクールに参加してた気がするのになぁ」
蒲生はぐん、と両腕を突き上げて伸びをする。「もうすぐ卒業だよ」と陽気に笑う。
「就職、決まったのか?」
その様子に、おもわず尋ねてしまった。蒲生は今日の天気のように晴れ晴れと笑った。
「ま、ね。昨日内々に学校に連絡が来た」
おめでとう、と俺が右手を上げると、やつはちょっとだけ背伸びをして、ぱちり、とハイタッチをする。ということは、第一希望の化学工場の分析部門に決まった、ということだろう。
「二次に回らなくてよかった。親もほっとしてる」
蒲生の言葉に、俺は大きくうなずく。
高校生の就職活動というのは、大学生とはだいぶん違う。
そのもっとも大きな違いは、『一人一社制』というやつだ。つまり、単願なのだ。一人の生徒が期間中に応募できるのは、たったの一社。
毎年7月1日に求人が解禁され、生徒たちはまず、第一希望を決める。
もちろん、定員というものがあるので、希望通りにはいかない。校内選抜がある。定員5名のところに6名来た場合、一年生から現在までの成績順に希望がかなっていく。
で、校内選抜に落ちた生徒は、第二希望に回るのだが、ここも、成績順だ。つまり、成績が悪い場合、どんどん校内選考を落ちていく。
また、企業によっては、科を特定してくる。当然だ。分析の技術者が欲しいのに、溶接科や機械科の生徒が行っても、企業としては苦笑いだ。
そうやって、勝ち得た第一希望の企業に、職場見学に伺う。
時期はだいたい、夏休みの間。企業に指定した日だ。
ここで企業側も生徒を選び始める。当然、黒工だけが就職試験を受けに来ているわけではないので、この見学での第一印象は大切だ。他校に負けぬように、好印象をかましてくる必要がある。
そして、9月16日から選考が順次開始されていく。
他校に負け、就職試験に落ちた生徒は、その後、二次に回るしかない。そうなると、教員側も必死だ。もともと、「今年はこれだけしか採用しません」と言っている企業に頭を下げ、「なんとかもうひとり……っ」と食い下がるのだから。
当然だが、教員側が勝ち取ってきた採用枠は、第一希望の時より条件が悪くなってくる。
なので、できるだけ、第一希望で採用されるように、学校も生徒も保護者も必死だ。
「他県から試験を受けに来てる生徒が多かったからさ。すっごいドキドキしたよ」
蒲生は大げさにため息をついてみせるが。
気持ちはわかる。
蒲生が受けた化学工場は、結構な大手企業だ。松脂を使った製品では、日本でトップシェアを誇っている。
だが、地元を大切にしてくれているし、黒工出身のOBも多い。なのに、他県の工業高校生が受験に来ている、ということは。
そいつらには、なんらかのコネがあり、自信がある、ということだ。
なにしろ、こいつらだって、ここで落ちれば後がない。条件の悪い二次に回るしかなくなるのだから。
地元であれば、黒工のブランドは強い。他の実業高校に負けないという自負があるが、他県からの応募者には、潜在的なポテンシャルを持つ奴が多い。
「ま、でも、ほら。ぼく、ものづくりコンテスト全国二位だから」
えっへんと胸を張る蒲生に、俺は笑った。全国大会前日の夜に、「眠れない」と泣き声で電話をしてきた奴には見えない。
「……あのさ。聞いていい?」
蒲生が首を傾げるようにして俺を見上げた。「なに」ときょとんと答える。
「織田はどうだったの、公務員試験。一次の結果、来たんじゃないの?」
ためらいがちに尋ねるから、俺はできるだけ、軽く聞こえるように答える。
「落ちた」
途端に蒲生の目がまんまるになるから、苦笑して頬を掻く。
「藤原先生にも、もう伝えてるんだけどな」
「……どうするの? 就職の二次に回る? それとも進学?」
その目は、興味本位ではなく、真剣に心配してくれていた。
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