第166話 蒲生の報告3

◇◇◇◇


「え。倍率、そんなに高いの」


 目を真ん丸にして隣に座るにゃんを見る。

 にゃんはうなだれたまま、小さく頭を動かした。多分、うなずいたんだと思う。足元ばかりを見て、話を続ける。


「今年はまだ景気が良いから、公務員志望は少ないだろうと思ってたんだけどなぁ」

 にゃんは誰ともなくそう言っている。

 その声は気弱で、私より大きく広い肩はすっかり落ちていた。


 にゃんと二人、ならんで座っているのは、バス停留所のベンチだ。

 私たちの目の前を、帰宅を急ぐサラリーマンやスーツ姿の女性が通り過ぎて行く。


 この時刻、もうバスはない。

 北から南へと流れ行くのは、駅から出た人たちだ。


「受かるのは商業系高校か、普通科でも進学校のやつらだろうし……」

 ぼやり、と夜闇ににゃんの声が解けて消えた。


 つい最近、市職員の募集が始まり、にゃんは応募したのだそうだけど……。

 にゃんが通う塾の先生が言うには、想像以上に倍率が高かったらしい。高卒枠といっても、技術職でなければ、なかなかに工業系は厳しいそうだ。


「でも、受けてみないとわかんないよ。試験まであと一か月はあるんでしょう?」

 とりあえず、声をかけると、うめき声のような返事がにゃんの口から洩れる。わしわしと自分の頭を片手で掻きまわし、にゃんは言う。


「課題研究がまだ進んでねぇんだよな。同時並行でも結構厳しい。時間が全然たらねぇ」


「あ……。クスノキ」

 夏休みに言ってたやつだ。Lineでも、「今日も山行ってた」とか毎日のように送ってきてたような……。


「受けるだけ受けてみようとおもうけど……。ほぼ、絶望的だ。現実的に考えて、第二・第三を見据えないと」

 にゃんは頭を抱え、べたりと顔を伏せた。


「そっちの準備も必要ってこと? 間に合うの?」

 まったく顔を上げないにゃんに、そっと尋ねてみる。「大丈夫」。にゃんは膝に額をつけたまま答える。声がくぐもっていた。


「警察の方も自衛隊の方も願書はまだいける。警察道場に知り合いがいるから、ちょっと聞いてみて……」

 あとは何を言っているのか正直、よく聞き取れなかった。


――― ……大変、だったんだな……。


 うにゃうにゃ言いながら、突っ伏しているにゃんを見ていたら、さっきまで胸に渦巻いていたいろんなことが恥ずかしくなる。

 私は、自分のことばっかり考えてた……。


 確かににゃんは、Lineや電話で、「課題研究が大変」とか「公務員受験のために塾に通い始めた」とか言ってたけど……。


 あんまり深く、考えたことなかった。

 どこかで、にゃんなら大丈夫、という暢気で無責任な考えがあった。


 私なんかよりもしっかりしているし、いくつも先を見越して行動しているし。

 実際、何度も励まされたり、支えてもらったりした。


 だからかもしれない。

 私は自分の不安や愚痴なんかを、にゃんに対して吐き出していたけど。


 にゃんだって同級生で。

 就職試験がある受験生だ、ってことをすっかり忘れてた。


――― ごめんね、にゃん……。


 ためらったものの。

 にゃんに手を伸ばし、そのふわふわした黒髪に触れる。ベンチの側に設置された自販機の光を受け、つやつやに光っている髪をゆっくりと撫でた。


 にゃんは特に嫌がるでもなく、私の手を払いのけるでもなく。

 だから、なんとなく、ふよふよと、私は彼の頭を撫でる。


「……私に、できることある?」

 そっと尋ねると。

 伏せていたにゃんが、その姿勢のまま、ちらりと目だけこちらに向けた。


「もうちょっと、撫でて」

 言うなり、また、顔を隠すように伏せる。


 だけど。

 その耳が真っ赤で。

 見ているこちらも。

 だんだん、ほっぺたが火照ってくるし、額に汗が……。よく考えたら、なにやってんだか、私。

 いやでも。にゃん、嫌がってないしな……。「もうちょっと撫でて」って言ってるし。

 うだうだぐるぐる考えながらも、『元気になあれ』と、頭を撫でる。


「……ありがとう」

 むくり、と不意ににゃんが背を伸ばした。私は慌てて手を引っ込める。やり場に困って、結局制服のポケットに突っ込んだ。


「愚痴吐き終わり」

 にゃんは、きっぱりと言う。


 上目遣いに隣を見ると、目が合った。

 にこり、と。

 よどみのない笑みを向けられて、今度は心臓が跳ね上がった。

 くそっ! にゃんのくせに!!

 にゃんのくせに、その笑顔は反則だっ!


「今川がいてくれてよかった」

「……それは、どうも……」

 私は、口ごもりながら応じる。真っ赤になったほっぺたがやけに気になる。


「つき合わせて悪かったな。家まで送る」

 にゃんは言うと、あっさりと立ち上がった。私はそんな彼を見上げ、ふるふると首を横に振った。


「いいよ。私の家に寄ってたら、にゃん、遠回りだし」

「こんな時間にひとりで帰す方が心配だ。お前、一回変な奴にからまれてコンビニに逃げ込んだだろ」

 ……ありましたね、そういうことが。

 私は「じゃあ」と申し出を受けることにした。


「おうちまで。よろしくお願いします」

 おう、とにゃんは返事をし、ゆっくりと歩き出す。


「……にゃん、って。優しいよね」

 私服だからかなぁ。半歩前を歩くにゃんは、大きくてがっしりして見える。うちの学校にも当然男子はたくさんいるけど、にゃんみたいにこう、堅そうじゃないから、ずいぶんと頼もしい。凛世くんなんて、私よりも女の子みたいだもんなぁ。


「別に俺は優しくない」

 不思議そうににゃんが振り返り、それから私を待つように止まった。


「優しいよ」

 どこかなじるような口調になってしまって、私はごまかすようにちょっと俯いて、にゃんの手を握る。


「さっき蒲生君に会ったんだけどさ。化学同好会の女の子の荷物持ってあげたり、実験手伝ってあげてるんでしょう?」

 にゃんの手をつかみ、引っ張るように、ずんずん歩く。


「なんか、下級生の女の子。にゃんに……。その……。感謝というか……」

 好意をもたれちゃってるじゃないのよ、もう、とはさすがに言えず、私は口早に言葉を継ぐ。


「蒲生君から、同じ化学同好会同士、合同で活動しよう、ってさっき言われたよ」

 まるで誤魔化すように、話を逸らす。


「下級生の女子? 合同で活動?」

 にゃんがオウム返しに問う。


「下級生を手伝っているのは、もたもたして、蒲生の手を止めるからだ」

 やけにあっさりとした返事が来て、「え」と私は首をねじる。


「うちの課題研究が全く進まねぇのに、あいつ、化学同好会の活動が始まったら、すぐそっち行くんだよ。もう、引退してるのに」

 にゃんは顔をしかめている。


「ほら、化学同好会も化学実習室で活動するだろう? 気になるのはわかるんだけどさ。あいつ、目を離したらすぐに同好会に行って後輩の指導してて……。いや、気持ちはわかるんだ。手際悪いからな、一年も二年も」

 うんざり。そんな表情でにゃんは続ける。


「だから、とにかく同好会の活動をスムーズにさせて、で、蒲生を課題研究に戻そうと思って、手伝ってやってるけど……」

 にゃんは眉根を寄せ、心底嫌そうな顔をした。


「なんだよ。合同で活動って。めちゃくちゃ面倒くせー」

 吐き捨てるように言った後、にゃんは大きく溜息をつく。


「また、俺の仕事が増えるじゃねぇか。やめろ、やめろ。そんなの。蒲生には俺から圧力かけておく」


「……にゃんが優しいから、下級生の子達を手伝ってるんじゃないの?」

 気づけば立ち止まり、手をつないだまま私は、ぽかんとにゃんを見上げる。にゃんは、目をぱちぱちと瞬かせたものの、すぐに人の悪い笑みを浮かべた。


「俺の優しさは有料だし、有限なの。誰にでも無条件で優しいわけじゃねぇし」

 そうして、つながれていない方の手で、私の頭をぽすぽすと撫でた。


「俺だって選んでんだよ」


 言い方はぞんざいだったし、撫で方だって雑だったんだけど。

 お前だけに優しいんだ、と。

 言外に伝えられたようで。


「……ふーん」

 私は知らずににやけそうになる頬を引き締める。


 なんだ。私、別にクロコウに乗り込む必要ないじゃん。


「まぁ、私はにゃんと違って博愛精神の持ち主だから、誰にでも優しいけどね」

 胸を張ってそういうと、「はいはい」といなされた。

 今度はにゃんが私の手を引っ張り、歩き出す。「だからね」。私はその背に呼びかける。


「ん?」

 振り返るにゃんに、私は伝えた。


「私でよければなんでも言ってね」

「……おう」

 ふいっ、と視線を外したものの、にゃんは、はっきりと返事をした。「そうだな。ありがとう」と。


「お互い、がんばろうね」

「おう」


 ぎゅっと手を握る。

 九月。

 もうすぐにゃんの就職試験が始まる。


 がんばれ、にゃん。

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