第138話 小学生向け『わくわく科学実験教室』7
私はそんな後ろ姿を眺めたあと、手にしていたペットボトルに視線を落とす。
――― これ、飲んだら戻ろう。30分経ちそうだし……。
自販機で買ったペットボトルだ。財布を持ち歩いてなかったから、にゃんが買ってくれたレモンティー。手渡してくれるとき、ふと指が当たって、なんとなく顔が赤くなったのを思い出した。
その前には
にゃんみたいに、体が火照ったり、恥ずかしくて目を伏せたりしたことなんてなかった。
そう思うと。
――― にゃんって、やっぱり、私には特別なのかも
気づいた途端、また、冬だというのに暑くて仕方がない。
いやいやいや。落ち着け、私。にゃんだよ。あの、にゃんだよ?
そう思うのに、耳に蘇るのは、一月の中旬に聞いたスマホ越しの声。
『付き合わないか? お前さえよければ』
低い、だけど優しい声。
ぼん、と今度こそ頭から湯気を立てて熱気が飛ぶ。うわ、視界が歪みそう。思わず額に手を当てて、俯いていたら、さくさくと芝生を踏む足音が聞こえてきた。
「……これ」
ベンチに座ったまま顔を上げると、にゃんが少し荒い息で私にビニール袋を差し出していた。
コンビニでもらうような、そんな味も素っ気も無い白いレジ袋。
「……え?」
躊躇いながら、私はペットボトルから手を離し、それを受け取る。そっと中身を伺った。
そこには。
一個ずつビニール包装されたチョコ色のマフィンが入っていた。
顔を近づけると、ふわりとバターの芳香が鼻先を掠めて驚く。
――― え、これ。手作り?
個包装されているマフィンは、あきらかに不揃いで、一見して『製品』ではないことが知れる。
「もうすぐバレンタインだから。ちょっとだけ」
くぐもったような声に、弾かれたように私は顔を上げる。
目の前には、白衣のポケットに両手を突っ込んで、顔を逸らしているにゃんがいた。
「え……!? これ、にゃんが作ったの!?」
驚いた拍子に、声がひっくり返る。にゃんは口をへの字に曲げた。
「うちの高校、一年の時、調理実習でいろいろ作るんだ。ほら、就職したらひとり暮らしのやつもいるから……。生姜焼きとか、ホワイトソース系のやつとか」
「ホワイトソース!?」
「あれ便利だぞ。グラタンにもなるし、シチューにもなるし、冷凍させてクリームコロッケとか」
いずれも、すべて買ってますけど……。作った事なんて無い……。いや、そもそもうちの高校、調理実習なんてしないな……。
「菓子なんかも作ったけど、一年前の話しだから……。ちょっと、不格好になった」
にゃんは、がりがりと頭を掻き、自信なさげに視線を落とす。
「サクは旨いって喰ってたけど……」
よかったらどうぞ、と言うにゃんの言葉を、私は、ぐらぐらしながら聞いた。
いや、もう二月だと言うことは知ってた。
バレンタインが近いよな、とも思ってた。
だけど、まだ時間があるから、余裕、と。
なんか、お姉ちゃんに手伝ってもらって。
ちょっと頑張ってみようかな、とは思って。
い た け ど !
実際には、何もしていなかったわけで!!
ノープラン、ノーアイデアだったの!!!
ってか、完全にお姉ちゃん頼りだった!!
お姉ちゃんが彼氏さんになんかするやつに
便乗するつもりでした、ええ、本音は!!
「……ご、ごめん……」
私は、無造作にビニール袋に入ったチョコマフィンを両手で抱えたまま、呻く。
「私、何も用意してない……」
涙が勢いよく、水平に噴き出しそうだ。これ、本当は私がしなきゃいけないやつ……。
「いや、俺は今日、今川に会えるって分かってたけど、今川はわかんなかっただろうし」
にゃんは戸惑ったように首を横に振る。
「それに、ほら。バレンタイン当日とか、絶対、今川の親御さん。警戒してるだろうから、会えないだろうし……」
言われて、ぎゃふん、と思わず呟く。
そうだよ……。
絶対、うちの親、目を光らせてるよ……。
お姉ちゃんとチョコとか作ってたら、「誰に渡すのっ」とか怒り出すよ……。
そしたら、結局、渡せないわけで……。
そりゃ、こんな風に、にゃんから渡されて私が家に持ち帰ったとしても、これが「にゃんからのプレゼント」だなんて、絶対親は思わないわけで……。
だって、普通、男子から手作りのお菓子、貰う? バレンタインに。
きっと、女子同士で交換し合った「友チョコ」だと思うよ、うちの親……。
「あのさ」
あわあわと、ビニール袋を抱えて口唇を震わせてたら、にゃんが私を見下ろす。
「ありがとう、って受け取ってくれるのが一番うれしいんだけど、俺」
そう言って困ったように笑うから、私は慌ててぶんぶんと首を縦に振る。「嬉しいっ」、「違う、これ、にゃんが言うやつっ」、「ありがとうっ」。「
「良かった」
そう言って、ゆるやかに笑うもんだから、私はまた、心の中でぎゃふん、と悲鳴を上げる。
にゃんのくせに……。
にゃんのくせに、なによっ、その笑い方っ!!
「じゃあ、俺。
にゃんが私に背を向けるから、「あ」と私は声をかける。
「ホワイトデー!」
慌てすぎて、単語だけが口から飛び出る。
案の定、にゃんは小さく首を傾げた。
なんとなく、大型犬が不思議そうに指示を待つような姿に見えて、それはそれで、胸にぐん、と来るモノがある。うう。なによ。結構可愛いじゃないの、その仕草。
「ほ、ホワイトデーは任せて」
なにがだ、と自分でツッコミをいれながらも、私はにゃんからもらったバレンタインプレゼントを、ぎゅっと握る。くしゃり、とビニール袋が微かな音をたてた。そんな小さな音なんて全く気にならないぐらい、心臓が爆音を立てている。ノープランなんだけど、ホワイトデーはがんばろう。うん。今のところ、ノープランだけど……。
にゃんは、そんな私をしばらく眺めていたけど、「おう」と穏やかに笑う。
「無理すんなよ」
そう言って、にゃんはきびすを返し、ブースの方に戻っていった。
「……お姉ちゃん……」
私はその背中を見送りながら、知らずに呟く。
「一緒に頑張ってね……」
もう、頼れるのはそこだった……。
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