春休みー今川sideー
第92話 映画1
血の気が引く音というのを、私は具体的に聞いた気がした。
その音は随分と小さく、だけどバクバクと鳴り続ける心音よりも確実にはっきりと聞こえた。
「………にゃん」
顔を起こすと、右腕が妙に痺れている。原因はアレだ。自分の頭が長時間乗っていたから、痺れたんだ。呼びかける声が掠れている。口でも開けっぱなしになっていたんだろうか、私は。
「起きたか?」
目の前のにゃんは、テーブルに置いたスマホから顔を上げ、私を見た。ついでに、小さく噴き出す。「なんちゅう顔だ」。そんなことを言うから、真っ赤になって口元だの目元だのを撫でつける。
「………今、何時………っ」
にゃんが具体的に指摘したのは、「表情だけ」と分かってほっとしたら、今度はそれが気になった。真っ赤になっていた顔が今度は真っ青になっていく。
「十一時三分」
にゃんはスマホにもう一度視線を落とし、そう告げたのだけど、正直語尾は聞いてなかった。
「ごめんっ!!」
自分自身の謝罪の声が、にゃんの声をかき消したからだ。
がばりと立ち上がり、慌てふためいてポシェットに手を伸ばす。勢い余りすぎて、がたりとテーブルを揺らし、アイスティーのカップが揺れた。にゃんが慌てて手を伸ばして転倒を防いでくれたのを見て、また「ごめんっ!」と謝る。
「落ち着けよ。なにやってんだ」
呆れたようににゃんが言い、私はそれでもポシェットのショルダーストラップを握って地団太を踏む。
「映画っ! 映画っ! 映画っ!」
私は足踏みをしながら繰り返す。
今日は、にゃんと映画を観に来たのだ。
文化祭以降。
にゃんは、私が創部した『化学同好会』の手伝いに何度か来てくれた。
自分の部活動も忙しいのに、ちょっと規模が大きな実験をするときは、自分のクラスメイトまで呼んでやってきてくれて、もの凄く助かったのだ。
お陰で、興味本位で見学にやってきた生徒が数人、そのまま『入会』ということで定着し、今では、会員数十二名。活動実績は十五回、と来年ひょっとしたら『部』として申請できるんじゃないか、というところまで来ている。
そして、にゃんが同好会活動の細々としたことを手伝ってくれたり、相談にも乗ってくれたおかげで、勉強時間と言うのも確保が出来た。一年間の総合点数で確認すると、一個だけ、クラス順位が上がっていて、飛び上がるほど嬉しかった。
『部を作るなんて……』
そう言って顔をしかめていたお母さんも、この順位結果を見てからは、小言を言わなくなった。
それが嬉しくて。
にゃんにお礼がしたくて。
『ご飯おごるよ』とか、『なんかプレゼントしたいんだけど』と、LINEを送ってみても、『別にいい。それより、しっかり食え。そして寝ろ』しか返ってこない。
私としてはなんかこう、目に見える形でお礼がしたいの。
そう、相談したのは、石田君だ。
たまたま登校の電車が一緒になったとき、連絡先を交換しておいてよかった。
『どうすればいいと思う?』
ぶつぶつと愚痴を言いながら石田君に尋ねると、『映画誘ってみたら』と言われた。
『あいつ、結構映画観るんだよ。最近だとマーベル作品のあれ、観たがってたな』
石田君が口にしたのは、最近CMでよくやっている映画だ。
『今月の剣道部の休みは……』
石田君はついでにスケジュールも教えてくれて、私は慌てて書きとめる。
『誘ってやってよ。いっつもあいつ、ひとりで映画観てるから』
そう言って笑う石田君にお礼を言い、私は塾のスケジュールを前倒ししたり、課題を必死にこなしたりして、なんとか予備日をふくめて二日空けたのが、二週間前だ。
『春休み中に、映画観たいの』
電話口でにゃんに伝える。『行けよ、勝手に』。ぶっきらぼうな返事に、私は食い下がる。
『一緒に行こうよ。マーベルのアレ、観たいの。にゃんも好きでしょ?』
『……お前、興味あったか? だいたい、なんで俺が好きだって知ってるんだ』
疑り深い声に、私は焦る。やばい。石田君の存在がバレたらまずい。
『いや、男の子、あんなの好きじゃない。私だって、女の子を誘ったんだけど、興味ないって言われて……』
『ひとりで行けよ』
『ひとりで映画に行って、お姉ちゃんが痴漢に遭いかけたの。隣の席のおっさんが、いきなり触りだしたんだって。だから、お母さんが、一人で行っちゃだめだ、って』
さすがにこの言葉に、にゃんは黙った。ちなみに、この痴漢はその場で取り押さえ、係員に突き出されている。
『……じゃあ、いつがいいんだよ』
数十秒後ににゃんはそう言い、私は嬉々として候補日を伝えた。
そして当日。
この時間帯を作るために、必死で課題と塾の宿題をしたせいで、睡眠時間は3時間ほどだった。
朝ごはんを食べたら、絶対寝る。
そんな危機感があって、ご飯を食べずに家を飛び出したのがまずかった。
シネコンの入り口で待ち合わせし、チケットを買おうと列に並んでいたら、豪快にお腹が鳴ったのだ。思わず前の人が私をチラ見したほどなのだから、隣のにゃんに聞こえていないはずがない。
『……先、なんか喰うか』
にゃんに提案され、私は「うう」と呻く。消え入りたいとはこのことだ。首も顔も真っ赤になっている自覚はある。
『上映までまだ三〇分ほどあるし。フードコート行こうぜ』
にゃんは言うなり、さっさと列を抜ける。私は黙ってその後を追い、シネコンの入っている商業施設一階のフードコートに二人で移動した。
そして。
やっぱり、食べたのがまずかった……。
山盛りのフライドポテトとアイスティー。
美味しかった。
だが、まずかった……。
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