第89話 初詣4

 何気ないその一言に、ぐふ、と心で呻き、私は両手でペットボトルを持つ。もう、今更顔を隠しても無意味だな、と濡れハンカチを頭に載せたまま、「切ったというか」と口を尖らせた。


「切りすぎた」

「そうか?」


「そうよ。短すぎでしょ、これ。前髪なんか特に」

「伸びすぎて鬱陶しいよりいいだろ」


「これは短すぎなのっ」

 思わず首を横にねじると、にゃんと視線が合ってぎょっとする。


 まっすぐに。

 にゃんがまっすぐに私を見ているから、ペットボトルから伝わる熱だけではなく、首まで真っ赤になる。


「サクもそんな長さだぞ」

 ふい、っと視線を逸らし、にゃんが紅茶をまた飲む。にゃんが見てないことにほっとした途端、なんともいえない、イラッと感が喉元にせり上がってきた。


「サクちゃん、って姪ちゃんでしょ?」

 知らず知らず、言葉にとげも含まれた。あれだ。花火を作ってあげる、って約束しているお姉さんのお子さん。


「何歳よ、その子」

「三歳」


「ほらぁ」

 とうとう私はにゃんを睨んだ。


「そんな小さな子と同じだ、ってさ。おかしいでしょ。明らかに変でしょ。高校生でこんな髪型してる子いる?」


 髪の毛が短くなったのは、にゃんのせいでもなんでもないのに、口からはけんか腰の愚痴しか出てこない。「あり得ないし」とか、「絶対変だって」とか言い続けて、だんだん俯いた。


 また、腹が立つことに。

 俯いても、下りてくる前髪がない。


 やるせなさというか、どうしようもない腹ただしさに涙まで湧いて出そうだった矢先。


「おい」

 にゃんに呼びかけられ、むっとしたまま「なによ」と言い返す。ごとん、と重い音がしたから、なんだろうと顔を向けると、にゃんがペットボトルをベンチの座面に置いたところだった。


――― 飲まないの?


 まだ、半分以上残っている。

 ぐちぐち言う私に呆れて、「もう帰る」とか言い出すのだろうか。


 自分の言動を思い返し。

 後悔と反省がない交ぜになって、慌てて顔を上げた瞬間。


 にゃんの両手でがっちり私の両頬を掴まれた。

 ぎゅっと。


 大きな両手が耳の辺りから顎にかけてしっかりと覆うから、俯くことも顔をよじって逃げることも出来ない。


 頬に触れる、とかではなく。

 このまま、額にヘッドバットでも喰らいそうな感じてつかみ取られ、私は咄嗟に「ひぃ」と声を上げた。


 ぐい、と。

 そのまま顔を近づけてこられるから、さらに「ひっ」と息を飲み、背を反らす。途端に、頭から濡れハンカチが落ちたけれど、拾う余裕もない。


 近い、近い、近い、近いっ。

 にゃんっ! あんた、顔が近いっ!


「別に」

 次第に顔だけではなく、首や腕や。もう全身真っ赤になっていそうな私に向かい、にゃんは首を傾げた。


「変じゃない」

 にゃんは大きく首を縦に振り、もう一度「変じゃない」と真面目な表情で言う。


「はぁ!?」

 思わず音程のはずれた声が口から飛び出し、反射的に握りしめた拳をにゃんの顔に叩きつける。


「手を離せっ」

 頭から湯気を出しながら右拳を振り切ったのに、寸前の所でにゃんは私から手を離して避けた。くそっ。


「き、気安くさわんないでよっ」

 心臓をバクバクさせながら私は怒鳴り、落ちたハンカチを拾う振りして、真っ赤になった顔を隠す。


「だって、お前が顔を隠すからだろ。よく見ようと思って」

 呆れたようなにゃんの声に、こっちも呆れた。


「馬鹿じゃないの、あんた」

 ハンカチについた砂を乱暴に払い落としながら、吐き捨てるように言う。そんな私に向かってにゃんが暢気な声をかけてきた。


「別に、悪くないと思うぞ、それ」

「それって、どれよ。だいたい、にゃんになにがわかんのよ」


 まだそんなこと言うか、と私が睨み上げると、にゃんは困ったように口の端を下げてこちらを見ている。


 その様子に。

 再び、罪悪感がわく。

 なんてったって、これはもう。私の八つ当たり意外のナニモノでもないのだから。


――― どうしよう


 私はにゃんのハンカチを握りしめ、にゃんに買ってもらったペットボトルを膝に載せたまま、思うままに憤りをぶつけ続けたにゃんを上目づかいに見た。


 謝った方が良いのかな。いや、いいよね。


「別に、良いと思うけどな、

 言うなり、にゃんは長い指先で私の前髪をぴん、と弾いた。私は何度かまばたきをし、それからそっとにゃんを見た。


「じゃあ」

 私がそう言うと、にゃんが少し首を傾げる。


「この髪型で、今年も宜しくお願いいたします」

 新年早々随分と世話になってしまった相手に、私は改めて頭を下げた。


「こちらこそ」

 にゃんが吹き出してそう応じるのを、頭を下げたまま聞く。


「あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いします」

 続いて、にゃんは丁寧に私にそう言った。


 視線だけ上げると、にゃんは私に向かって深々と頭を下げている。

 なんとなくお互いそうやって頭を下げ続け、もういいかな、とちらりと視線だけ上げると、同じような表情をしたにゃんと目が合った。


 同時に吹き出して笑いながら。

 ちょっとだけ、神様に訂正のお願いをする。


 前髪、これでいいです。

 今年はこんなかんじでやっていきたいと思いますので。

 どうか、温かく見守って下さい、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る