第85話 今年の年越し稽古3

「あのなぁ、ロルテス」

 俺はぴったりと閉まったトイレの個室に声をかけた。


「剣道、何年目だ?」

「……二年目。小三のときから始めたから」

 ひぃぃっく、と語尾を揺るがせながらロルテスは答えた。


「俺は、幼稚園の時から始めたから……。十二年目ぐらいか? で。十二年剣道をやって来て思うことの一つなんだけどな」

 俺は洗面ボールの前で足踏みしながらロルテスに話しかけた。


「ずーっと勝ち続けたヤツも、ずーっと負け続けたヤツも見たことが無い。剣道を続けていたら、みんな、どこかで敗けるし、どこかで勝つ」

 個室からは、ずるる、と鼻をすする音が聞こえてきた。


「負けたくないなら、コートに立て。試合に出ろ。じゃなきゃ、絶対に勝てない」


 音を立ててトイレのガラス窓が揺れた。寒風がまた入って来て俺は首を竦める。


「お前の道場ではどうだか知らないが。俺の教室では、入門者はまず、『我慢すること』を教えられる」

 寒くて足踏みを繰り返しながら、俺は閉まったままの個室に話しかけた。


「最初は、なかなか防具をつけさせてもらえない。ずっと、足さばきと素振りばっかりだ。早く次のことをしたいな、と思っても『我慢』だ。


その『我慢』が出来たら、防具を与えてもらえる。そしたら、『大切にする』ことを学ぶ。道具や、防具や、道場を大切にする。


で。防具をつけて竹刀を持って、今度は試合に出たら、『相手を敬う事』を学ぶ。なにしろ、相手がいないと、試合もできないんだからな。自分の相手をしてくれてありがとう、とまず感謝だ。


そして、その後、団体戦のメンバーに選ばれたのなら、『仲間と協力して勝つ』ことを目指す。


個人戦と違って、団体戦はみんなで勝てばいいんだ。

みんなで負ける必要はない」

 個室の向こうから返事はない。ただ、俺の声に耳を傾けている気配はあった。


「団体戦と個人戦の戦い方は違う。団体戦では、『勝てるヤツ』は、数人でいいんだ。あとは、『負けないヤツ』がいればいい。ロルテスは、良いんだ」

 俺は個室に向かって話しかける。「お前が今から出るのは、団体戦だろ?」と。


「誰かが一本を取れば、他のメンバーはそれを守れ。取られるな。だけど、お前が一本を取られれば、誰かが取り返してくれる。仲間を信じろ」

 ぐしゅん、と個室の中で湿ったくしゃみの音がする。


「ロルテスがチームの皆にできることはなんだ。『ボクがいたら、みんなが負ける』って言いながら、試合に出ないことか? 逃げることか?」

 そう尋ねた。「お前が今、できることはなんだ」と。


 個室からは、何度か身じろぎしたようなスリッパの音が聞こえてくる。


 どうだろうな、と思った。


 向いてない子には、とことん向かない競技だ。

 逃げる、というならそれでいいと思う。あの敏政という人は怒り狂うかもしれないが、剣道をするのはロルテス本人だ。どんな競技でもそうだが、無理やりさせることほど無駄な事はない。


 俺は腕を組み、足踏みをしながら、ひたすら待つ。

 心の中でゆっくり数字を数えた。

 さて、ロルテスはどうするだろう。

 そんなことを考えながら。


◇◇◇◇


 副審の俺と石田が同時に赤旗を上げる。それを横目に見て、数秒後に主審の伊達が、赤旗を上げた。歯切れよく「面アリ」と告げる。

 ロルテスがいるCチームの大将が、面を取った。


「ぎゃあ!」

 途端に上がった潰されたような声に、驚いて顔を向ける。


 選手の待機場所だ。

 そこには。

 ガッツポーズをしたまま、次鋒と中堅に口を塞がれているロルテスがいた。


 石田が「ぷっ」と小さく吹き出し、伊達が睨み加減に、「騒がしいと反則にするよ」と注意を促す。ロルテスは蒼白になって「はい」と返事をし、あげていた腕を下した。


 コート内の選手が開始線に戻るのを確認し、伊達が告げた。


「勝負あり」

 選手二人が蹲踞をする。

 途端に、道場からは盛大な拍手が起こる。


 ロルテスがいるCチームが勝ったのだ。


 ロルテス自身の先鋒の勝負は、「勝ち」もしなければ「負け」もしなかった。


 つまり、「引き別け」。


 個人戦にはないが、団体戦には、「引分け」がある。

 強い選手は当然必要だが、団体戦では「負けない選手」が居ればいい。相手に対して一歩も引かず、堪えて引分けてくる選手も必要なのだ。


 そもそも。

 一緒に戦ってくれる剣士がいればいいのだ。


 団体戦全員の選手がコートに入り、横一列になるのを俺は見る。

 ロルテスが胸を張って、仲間たちと並んでいた。


 彼の瞳が一瞬俺を捉えた。目が合うと、満面の笑みを寄越してくれる。


 青い目の剣士は。

 どうやらまだしばらく、このコートで「勝ち」を狙いに行くらしい。

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