第84話 今年の年越し稽古2
「
石田がそういったときだ。
今までぴくりとも動かなかったロルテスが、あり得ない敏捷さで立ち上がったかと思うと、いきなり走り出した。
呆気にとられた俺の耳に、俊政さんの、「あっ。逃げたっ」という声が聞こえてくる。
反射的に俺はロルテスの後を追い、くるりと首だけ石田に向けた。
「俺が追う。まかせろ」
「おう!」
石田はほっとしたように片手を上げて応じた後、もう片方の手で俊政さんの腕をがっちりと掴んでいた。どうやら、付いてくるのを阻止したらしい。
俺は一礼して道場を出、立ち話をしている保護者達の間を縫って廊下を走る。
咄嗟に玄関を見たが、針金の入った強化ガラスは開かれたように見えない。
首を巡らせて、さて、どこに行ったのやらと思っていると。
がたん、と扉が閉まる音がした。
どうやら。
トイレのようだ。
俺は男子トイレに向かい、扉を開く。
中をのぞくと、ぷん、とアンモニアの匂いが鼻についた。小窓が薄く開いている。寒風がびゅう、と吹き込んできた。
道場より冷え冷えとしたトイレの中には、小便器がふたつと、個室がふたつ。
そして。スリッパが三足。
ふたつ並ぶ個室を見ると、ひとつは扉が閉まっていた。
多分。
スリッパを履いて、そこに立てこもっているらしい。
「ロルテス?」
扉を細く開け、頭だけ突っ込んで、そっと名前を呼ぶ。返事はないが、「ひっ」と小さな声が聞こえてきた。
「敏政さんはいないよ。俺は石田と同じ高校の織田だ」
「……
ひぃっく、とみょうなしゃくり音が語尾をゆがませたが、それでも返事がきたことにほっとした。
「おう。そうだ」
応じながら、俺は便所の中に入る。流石に寒いな、と道着から剥き出しの腕を擦った。
「稽古が嫌なのか?」
尋ねてみると、答えは返ってこない。ただただ、えぐえぐと泣く声と、鼻をすする音が個室から響いてきた。
「剣道、嫌いか」
しばらく待ってから再度声をかけた。「嫌いじゃない」。涙混じりの声だが、はっきりとそう言う。俺は目を瞬かせた。なんだ。だったら、話しは早い。
「怖い先生でもいるのか。地稽古で泣かされたか?」
地稽古は、互角の立場で行うものと、指導者と生徒という立場で行うものの二種類がある。
今、道場で行われているのは、『指導者と生徒』の地稽古だ。
元立ちである指導者のところに生徒が行き、打突をする。基本、元立ちは「打たせて」くれるが、悪いところがあれば、「指導」が行われる。
きちんと言葉で指導ができればいいのだが、指導者によっては、無言で「なおしてほしいところ」を竹刀で叩いたり、転がしたりする。特に言わない。「気づけ」という感じなので、子どもにとっては大いに「怖い」し、「痛い」。「観て学ぶ」というのは、天才でもない限り、結構高度な事なのに、大人はどうもそれが判らないらしい。
おまけに、「一本」決めないと、この地稽古は終わらない。
一本決まった、と思うのも、指導者だ。
嫌ぁな指導者だと、いじめのように「ひたすら続ける」奴も出てくる。
「試合が嫌」
てっきり、そんな嫌な指導者がいるのかと思ったら、ロルテスはぼそり、とそんなことを言った。その後、盛大に鼻をすすっている。
「……試合、って。最後にする、団体試合か」
去年、俺が『大谷』と偽って出た試合稽古の事だろうか。
「ボク、Cチームの先鋒なんだ」
「いいじゃないか、先鋒」
そう答えてやると、また「ふぇ……」と盛大なしゃくり音が聞こえ、再び泣き出すから驚いた。レギュラーが取れてうれしい、と言う訳でもないらしい。Cチームが悔しい、ということだろうか。もっと上のクラスに行きたかった、みたいな。
「ボク、勝てないんだ。勝った事ない」
泣きながらロルテスは言い、「きっと今日も負ける」と泣いた。
「団体戦で、せっかく先鋒になったのに。ボクのせいでみんなも負ける」
何度か涙で声を詰まらせ、鼻をずるずる言わせ、しゃっくりで息まで止まらせながらそう言うロルテスは、やっぱり、「今日もきっと負ける」と最後に呟いた。
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