第83話 今年の年越し稽古1

「うおっ! 待って下さいよっ!」


 俺は慌てて手を伸ばすが、その子どもはあっさり床に放り出され、滑って俺の足下で止まった。


「おい、大丈夫か」

 しゃがみこんで子どもに声をかけるが、床に突っ伏したまま、泣いているらしい。道着越しに肩が震えているのは分かるが、泣き声までは聞こえない。というのも、道場内に充満する、いくつもの竹刀の音や、気勢、かけ声にあっさりと消されているからだ。


――― 名前、なんていうんだ?


 戸惑いながら俺はざっと、床に転がる子どもを見た。

 背中しか見えないが、垂れと胴はつけている。ただ、うつぶせのため、名前は確認できない。うちの教室の子どもでないことは確かだ。うちの教室の子達は、紺袴に紺の胴着。胴は赤胴で、紐も赤い。なにより、稽古中は絶対に面を外さない。


 足下のこの子は、道着も袴も白で、胴紐は紺だ。面は脱いで、汗でべたべたになった毛先が首元を覆っている。


「いい加減にしろっ」

 さて、どうしたもんか、とため息ついたら、荒々しい足音が近づき、ぬっと太い腕が突き出された。


「立たんかぁぁぁっ」

 止めるまもなく、その太い腕は子どもの胴紐を掴み、クレーンゲームのように引っ張りあげた。


「ああ、俊政としまささんっ。落ち着いて、落ち着いてっ」


 呆気にとられている俺の目の前で、ぶらん、と子どもは浮いている。背後から駆け寄ってきた石田が押しとどめるように両腕を突き出していた。


一哉かずやっ! そんな甘いことを言ってるから、こんなすぐ泣くへなちょこになるんだっ」


 俊政と呼ばれた男の怒りの矛先は、石田に向いたらしい。名前呼びされていると言うことは、石田もよく知る保護者なのだろう。


 俺が膝を突いて座っているから。

 クレーンゲームの景品さながら宙に浮いたその子の顔は、目の前だ。


 げふげふと、顔を涙と鼻水で汚して泣いているその子の顔を見て、ちょっと驚く。


 目が、青い。

 おまけに、肌も白い。日本人とは少し違う白さだ。

 ちらりと垂れネームを見ると、カタカナで『ロルテス』と書かれていて、道場名は石田と同じだった。


「さっさと地稽古に戻れっ」

 振り子のように揺すられたかと思うと、再びその子は投げられる。慌てて今度こそ手を伸ばしたが、間に合わずに床に放り出された。胴ががつん、と床を打ち付ける鈍い音に俺は顔をしかめ、周囲の保護者達もさすがに視線を向ける。


 だが。

 道場のそこかしこでは、似たような光景が繰り広げられていた。


「もう、帰るぅぅぅ」という子どもを文字通り突き放し、道場に押し込む母親。「足の指がもげる」と泣くこどもに、「もげてないっ」と叱りつける父親。


 年越し稽古の道場は、阿鼻叫喚図と化していた。


「ほら、こっちの先生の列に並ぼうね」

 ふとルキアの声が聞こえてそちらを向くと、必死になって小学低学年ぐらいの男子を整列させていた。意外に子どもには好かれるようで、腰にまとわりついている幼稚園児ぐらいの男子もいた。伊達はというと、その横で疲れ切ったように立ち尽くしている。


 壁際を見ると、武田先輩が、着衣の乱れた小学生女子の服装を手早く直している。その間も、道場内に視線を走らせ、近くの女の子に何か言っていた。慣れたもんだ。


『年越し稽古に参加しろよ』

 毛利先輩に命じられて参加したものの。


 稽古、というより、『子どもの世話』といった方が正しい。

 現に俺達は、防具すら着けていない。道着姿のままだ。 


 去年は完全に『お客様』として参加したから、こんな舞台裏は知らなかった。基本稽古、地稽古に普通に参加し、最後に試合稽古をして、毛利先輩に勝っただけだ。


 そういえば、なんとなく、保護者席がにぎやかだなぁ。稽古が嫌で子どもが泣いてるなぁ、とは思っていたが。


 怒り狂う保護者をなだめすかし、稽古したくない、と泣きじゃくる子どもの気持ちを立て直すのが、こんなに面倒くさいことだとは思わなかった。


「めそめそ泣いてないで、さっさと面を付けろっ」

 怒鳴りつける声に、俺はうんざりした気持ちで顔を俊政さんに向けた。俺の隣では、石田が苦笑いで「まぁまぁ」と言っている。


――― いるんだよなぁ、こんな保護者。


 俺はひっそりとため息ついて立ち上がった。

 剣道は『痛い』。それに、『寒い』し『暑い』。防具は重いし、道着は固い。


 一度、大生先生に「こんなに科学が発達したんだから、防具も軽量化できるんじゃないんですかね」と言ったら、「それじゃあ、稽古にならああああん」と叱られた。


 そんな、世界だ。

 泣けば、「泣くな」と言われ、笑えば「歯を見せるな」と叱られる。あんまり感情の起伏や表情を見せない競技だから誤解されるが、相当『痛い』し『怖い』競技だ。


 ただ、未経験者にはそれがわからない。

 防具をつけているから、『痛くない』と思うし、スポーツだから『怖くない』という。


 そんなことあるか、と俺は笑いたい。


 よく考えてみろ。

 棒を持って叩き合うのだ。


 区切られた空間に敵と一緒に放り込まれ、「相手を手に持った棒で殴れ」とけしかける競技だ。

 俺は床で踞って泣く子どもを見て、口をへの字に曲げる。


 向かない子には、とことん、向かない。

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