第54話 部活棟8

「ああ」

 にゃんは声を上げた。「どっかの女子がそんなこと言ってたな」。それを聞いて、蒲生がもう君は顔をしかめた。


「そんなの当然じゃないか、って僕、言ったんだよ。笑って」

「そうだっけ」

 にゃんはまたうろ覚えだ。


「その女子は真っ赤になって俯いちゃって……」

 島津先輩はくすり、と笑う。「気の毒に」と。


 でも、言われてみれば、と私も思う。

 硫酸って、劇物よね。あの、触ったら溶けたり火傷したりする液体だ。金属だって溶かす。


 人間や鉄は溶けるのに。

 確かに。

 どうして、その硫酸を入れたビーカーは溶けないんだろう。


「どうして?」

 私はにゃんを見上げて尋ねる。


「硫酸は濃度によっては人が触ると危険だけど、金属を溶かすから、『なんでも溶かす』イメージがあるんだよな」

 にゃんは口をへの字に曲げる。


「金属のイオン化ってわかるか」

「イオン化?」

 私は顔をしかめる。


「原子がプラスまたはマイナスの電気を帯びたものがイオンでしょ? イオン化?」

 そうそう、とにゃんは頷く。


「そのうち、プラスの電気をおびたものを陽イオン。マイナスの電気をおびたものを陰イオンというんだけど。金属原子は、陽イオンになりやすい。これを金属のイオン化傾向といって、種類によって違うんだ。傾向の大きいものから順に並べたものが、金属のイオン化列なんだけど」

 にゃんは腕を組む。


「イオン化傾向が大きい、ということはいろんなものに結合しやすい。逆に、イオンか傾向が小さいと、単体として取り出しやすい」

 ふんふん、と私は聞いているが、蒲生君は周知のことなのでつまらなそうだ。逆に島津先輩は、興味深そうに、にゃんを見ている。


「例えば、金属のマグネシウム(Mg)は、イオン化傾向が大きい。それを、硫酸(H2SO4)の中に入れたとする」

 うんうん、と頷きながら私は頭の中でイメージした。硫酸の中に、ぼちゃん、とマグネシウムを入れる感じ。


「マグネシウム(Mg)は、イオン化傾向が大きいから、硫酸(H2SO4)と反応して結合しようとする。硫酸のH2は常温では気体となり、Mgは、SO4と結合する。これが結果、「溶ける」という状態だ」

 にゃんはそう言い、私の顔を見て更に続ける。


「ガラスの主成分は二酸化ケイ素なんだが、これは、結合が「共有結合」で、かたい。ダイヤモンドと一緒だ。硬いんだ。なかなか結合がとけない。だから、マグネシウムのようにガラスが硫酸の中で「溶ける」ということは、なりにくい」

 にゃんの言葉に、「なるほど」と呟く。にゃんは、私の表情を確かめ、締めた。


「硫酸はアルミニウムや、一部の金属を溶かす。それは酸によって金属がイオン化したからだ。だけど、ガラスの主成分は二酸化ケイ素のため、溶けにくい。よって、硫酸の保存には、ガラスが使われる」


「じゃあ、ガラスはいろんな薬品に強いの?」

「まさか。当然、ガラスが反応する薬品もある。フッ化水素酸というものは、ガラスを溶かしやすい。だから、硫酸が何でも溶かす、というんじゃないんだ。反応する物と、反応しにくい物がある、ってだけだ」


「なるほどねぇ」

 私が感心したときだ。


「それだよ」

 島津先輩は苦々しげに、にゃんに言う。私とにゃんはきょとんと島津先輩を見返した。


「君、同じ説明をその女子生徒にしたんだ。蒲生はねぇ……」

 島津先輩は小さくため息をつき、後輩を見やった。


「賢いし、良い子なんだが、自分のわかっていることを他人に伝えることが非常にへたくそなんだ」

「鋭意勉強中です」

 しょぼんとしたまま、蒲生君が答えた。


「君なら即戦力なんだよ、織田。どうだ。化学同好会に入らないか?」

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