第46話 化学実習室2

「か、火事……?」

 私がにゃんを見上げると、にゃんは首を横に振った。「わからん」。言ってから舌打ちする。


「化学実習室からだな。なにやってんだ、蒲生がもう……」

 私は腕を伸ばし、階段の手すりを掴んだ。ゆっくりと立ち上がると、にゃんは私の肩から手を離し、「じっとしてろ」と告げる。


「ちょっと、様子を見てくる」

「あ、危ないよ! 校舎から出よう!」


 私は額から血の気が引く思いでにゃんに言うのに、にゃんは耳をそばだてるばかりでこっちを向かない。


「煙も引いたし……。すぐ戻るから、ここでじっとしてろよ」

 言うなり、にゃんは大股で階段を駆け上がって行った。いやそりゃ、確かに煙は引いたけど……。そう思った時、また一度、どぉんっ、と大きな音がする。


――― なんかすごい爆発とか起こってたらどうするのよ……っ


 私は泣きそうになりながら手すりにしがみつき、上階を見つめる。


――― 戻って来てよ、にゃん


 そう思った時だ。


 にゅっと。

 背後から。

 腕が伸びてきた。


「ひ……っ」

 後ろから伸びてきた片腕は私の口を塞ぎ、もう片方の手は腰に回ってがっちり捕まえられた。


「しーっ」

 耳元でそう言われ、私はがくがく震えながら、首を少し捩じる。


 きらり、と。


 目に差し込んだのは、光を反射した眼鏡のガラス面だ。

 ついで、くすり、と笑う声も聞こえる。私を背後から抱きとめる腕は、にゃんと同じ白衣だ。


「静かにしてね」

 そう言われ、この声に聞き覚えがある、と思った。怖さで涙が滲む目を瞬かせ、首を捩じって顔をよく見る。


――― 受付の人だ……。


 正門のところで生徒会執行部と一緒に受付をしていた、白衣の上級生。


「島津先輩っ。はやく、早くっ」

 足音と共に、校舎のガラス扉が開く音がした。背後からまた別の声が聞こえて、ぎょっとする。


「織田が来ちゃいますよっ。撤収、撤収」

 走って来たような荒い息の声に、島津先輩と呼ばれた上級生は軽やかに笑った。


「そうだな。撤収だ、蒲生」

 言うなり、島津先輩は私を軽々と持ち上げた。

 途端に、片方のサンダルが脱げて階段を転がり落ちる。


「なんだ、軽いな。このまま運ぼう」

「ひー――――っ! にゃんっ! にゃ――――――んっ」

 絶叫すると、再び口を塞がれ、そして爆笑された。


「なになに。この子、猫娘?」

「……今川?」


 上階から訝しげなにゃんの声が聞こえ、私はほっとしてまた叫ぶ。「もが―――」。ただ、口を塞がれているから、発音が不明瞭だ。


「今川!?」 

 にゃんの驚いたような声と、リノリウムの床を靴が走る音が聞こえる。


「やばいやばい。逃げるぞ」

「織田、怒るだろうなぁ……」


 愉快そうに笑う島津先輩と、困惑しきった顔の蒲生という生徒に、私はあっさり連れて行かれた。

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