第291話 初耳

「オルタさん! タシェル! いまそっちに行きます!」


「ミノーラ! 危ない!」


 高く打ち上げられたオルタの姿を目の当たりにし、ミノーラは脇目もふらず、全力で駆け出そうとした。


 背後から掛けられたアイオーンの声や、タシェルが突然変貌してしまった事。


 そして、背中に迫る風圧を同時に認識した彼女は、混乱の最中で、対処が遅れてしまう。


 硬質な何かがミノーラの右側面を強く叩きつけ、衝撃のままに、吹き飛ばされる。


 ゴロゴロと転がってようやく止まることのできた彼女は、若干痛む左足を酷使して、立ち上がった。


 そうして、攻撃の主であろう男を睨みつける。


「邪魔をしないでください!」


「そいつは聞けねぇ話だぜ。何しろ、俺達は邪魔をするように言われてるんだからよぉ。……俺としても、面倒くせぇんだぜ?」


 赤く輝く衣服を纏ったレイガスはそう告げると、両腕のストレッチをしながらミノーラの方へと歩き始めた。


 すぐさま警戒態勢へと移行した彼女は、注意深くレイガスの動きを見ながらも、視界の端でタシェル達を確認する。


 オルタが再び横方向に飛ばされてしまったようだが、何とか受け身を取ることは出来たようで、今のところ無事らしい。


 上半身を起こしている彼の姿に安堵すると、目の前の敵に向けて集中することにした。


 ミノーラはレイガスに向かって食らいつくために、素早く走り出す。


 同時に、レイガスもまた、ミノーラへと拳を打ち付けるために、走り出した。


 当然ながら、二人の間の距離は瞬く間に縮んでゆき、気が付けば、真正面に硬く握りしめられた拳が迫って来る。


 大きな軌道修正をするわけにもいかないミノーラは、躊躇することなく、跳躍した。


 繰り出されたレイガスの拳が、ミノーラの顎と腹の下を掠めて行き、微かな風圧が、彼女の身体をわずかに持ち上げた。


 一撃目を躱し、すぐさま体を捩じったミノーラは、翻り、レイガスの懐に潜り込もうとする。


 当然ながら、ミノーラの狙いを理解しているレイガスも、空ぶった左腕の勢いを利用するように翻ると、右腕の薙ぎを放つ。


 まさに潜り込もうとするミノーラの軌道を、真横にぶった切るように薙いだレイガスの一撃。


 危うく直撃してしまうかと思われたミノーラだったが、咄嗟に尻尾を床に張り付けることで、何とか急停止することに成功した。


 鼻先をレイガスの右拳が掠めて行く。


 全身が総毛立つような恐怖に襲われ、すぐさま横っ飛びをすることでレイガスからの距離を取ったミノーラは、深い息を一つ吐いた。


「ちょこまかとウゼェなぁ……」


 攻撃が当たらなかったことに苛ついているのか、レイガスは頭をボリボリと掻き毟ると呟いた。


 そんな呟きに対して、ミノーラは軽く返答する。


「あなたは、いつまでもしつこいですね」


 軽く返答をしている割に、ミノーラは内心焦っていた。


 視界の端で、再びオルタが打ち上げられる様が見えたのだ。


 いつまでもレイガスの相手をしている場合ではない。


 すぐにでもオルタを助け、タシェルを正気に戻さなければならない。


 方法も良く分かっていないミノーラだったが、一つ確かなことがあった。


 今のタシェルには、何者かが干渉をしている。


 それは、ニオイを理解できるから分かる事。


 あるいは、感覚が鈍っていると言っていたアイオーンも、今のタシェルに何らかの違和感を覚えるのではないだろうか。


 そんなことを考えていたミノーラは、レイガスがチラッとタシェル達の方へと視線を外したことに気が付く。


 同時に、タシェルが振り上げていた右腕を勢いよく振り下ろした。


 そんな合図に合わせるように、シルフィが打ち上げられているオルタの傍に現れ、力を使おうとしている。


 不思議と、そのどれもがスローモーションのように見えたミノーラは、間髪入れずにタシェル達の方に向けて走り出す。


 様子に気が付いたレイガスが、すぐさま攻撃を仕掛けようとしてくるが、気にせずに足を動かす。


 ほんの一瞬でトップスピードに至った彼女を止めることは、レイガスにも出来ないだろう。


 後は、尻尾の力で何とかオルタを受け止め、シルフィやタシェルに話しかけよう。


 やるべきことを頭の中で整理しながら、必死に体を動かしていたミノーラは、おのずと周囲への注意が散漫になっていた。


 だからこそ、突如として盛り上がった足元の枝葉に気づくことが出来ず、盛大に足を引っかけてしまう。


「……!?」


 頭の理解が追い付かないミノーラは、転がる視界と広がる痛みの中で、タシェルやオルタの姿を探した。


 そうして、ようやく視界を取り戻した時、彼女は既に取り返しがつかない事を知り、言葉を失う。


 ニオイが急速に薄れて行くのだ。


 力なくうつ伏せに倒れてしまっているオルタと、胸を貫かれ、出血しているタシェル。


 まるで、あふれ出した命がどこかに吸い込まれていくかのように、二人のニオイが辺りに薄く広く、浸透してゆく。


 急いで立ち上がるために、四肢を動かそうと試みるが、自由に動くことが出来ない。


 何が起きているのか、と、顔を上げて自分の身体を見たミノーラは、途端、激痛を覚えた。


 寝そべっているミノーラの腹部を、槍のように尖った枝葉が貫いている。


 いつの間にそんな状態になったのか、分からない。


 ただ分かるのは、その傷を目で見るまで、彼女が痛みに気付くことは無かったという事だけだ。


「っっ…………!」


 痛みに悶えながら、大量の涙を流し始めたミノーラは、瞬く間に強くなってゆく虚無感と悲しみに溺れそうになった。


 そんな彼女を掬い上げたのは、柔らかな感触。


 どこか、懐かしさを覚えるような、手の感触。


 ミノーラの首辺りを撫でるその主を、咄嗟に見あげたミノーラは、思わず声を上げる。


「カリオスさん!?」


 言うと同時に、彼女は周囲の情景が変化したことに驚き、辺りを見渡した。


 白いのは、踏みしめている砂浜と浮かんでいる雲。


 青いのは、果てしなく深い海と覆いつくすような空。


 あの時と同じように、オルタやタシェルもその場にいる。


 先ほど見た腹の傷も消えてしまっており、益々混乱を抱き始めたミノーラに、カリオスが優しく語りかけてきた。


「ミノーラ、大丈夫か?」


「カリオスさん、これは一体? ……あれ? カリオスさん、喋れるんですか!?」


 ようやくカリオスが口輪をしていないことに気が付いたミノーラは、初めて聞いた彼の声に驚き、思わず声を漏らしてしまった。


 そんな様子のミノーラを見て、カリオスだけでなくオルタやタシェルも笑みを浮かべたのだった。

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